
1969年10月。それまでのオープンツゥーシータの硬派なスポーツカーとして実績を残していた「DATSUN フェアレディ」が、流麗なクウペスタイルで「フェアレディZ」としてリリースされた。
特に北米ではライヴァルに比べて遥かに安価な価格設定もアリ、そして、エンヂンも質実剛健なシンプルな L型 を搭載した事によって、安くて維持費もかからない、なのに快適で高性能とくれば、あっと言う間に人気を博して品薄状態にまでなった。
そんな賞賛の嵐で迎え入れられた、初代S30Zだが、実際に市場に出回ると、開発陣の想像していなかったトラブルや、多くの声が寄せられるようになった。
そんな声に押されて日産は、S30Zの改良にまい進した。
まずは、ゆっくりとした速度で走行すると、排気ガスが車内に逆流するという声に対して、リヤハッチに2カ所設けられていた「エアアウトレット」が、リヤクオーターパネルに移動させられ、それまで、貼り付けの「Z」のエンブレムが、「アウトレット」機能を持つ構造に変更となった。
1971年3月のマイナーで、ハッチのエアダクトがリヤクオーターパネルのZエンブレムに移動。
さらに、一部であるが、走行時にリヤのサスペンションから異音がする、レースやラリーでのリヤアクスルの摺動部の摩耗問題から、リヤデフが35mm後ろにすらされた。
1971年10月には、走行時の異音対策と、耐久性向上のためリヤデフが後ろに移動。
これは、元々、手元にある部品を流用して安く作ろうという事で、5速M/T はPGC10 スカイラインGT-R のミッションのレヴァー位置とクラッチハウジングを変更、4速M/Tは、GC10 スカイライン2000GT のモノを同様に変更して搭載して、さらに、プロペラシャフトは、5速M/T は フェアレディSR311、4速M/T はSP311 を流用変更した結果と、北米の安全基準で追突時の燃料タンクへのリヤデフの干渉防止のため、リヤデフがリヤのタイアより 35mm ずれたものだった。
当初は、リヤ独立懸架なので、常にドライヴシャフトは揺動しているのでずれても問題ないだろうと思われたのだが、35mm ずれた事によって常に、リヤドライヴシャフトのジョイントに負荷がかかった事が表面化したものだった。
これらの改良が、1971年の3月と10月に行われ、この10月には待望の オーヴァー2L の 240Z シリーズが登場して、僕はここまでが 「初期型」 と考えている。
そして、この 240Z シリーズ の登場で、初期型の雄であった Z432 が短い生涯を閉じた。
初期型のイメージリーダー、まさに文字通りのTOPグレードを務めた Z432 が生産中止に。
スカイラインGT-R で活躍した S20 を搭載した Z432 だが、1970年1月の「鈴鹿300キロ」で 北野 元 がドライヴする Z432 がデヴューして以来、活躍を続けたが、残念ながら レーシングZ432 には大きな問題が立ちはだかっていた。
スカイラインGT-R では大きな問題にらなかった、エンヂンの振動によるミッションの焼き付きが多発してリタイヤする率も高かった。
第1回 レース・ド・ニッポン 6時間レース 優勝した 北野元・長谷見昌弘 の Z432
とくに悲惨だったのが、1970年の 鈴鹿1000キロ であった。
R380 と同等までチューンされたワークス Z432 が、恐ろしいペースでレースを牽引したが、件のミッションの焼き付きが起きてしまい「全滅」してしまった。
それからレースシーンでも、徐々に 240Z へと移行してゆくのであった。
ちなみに Z432 の生涯生産台数だが公式発表では、
1969年 41台
1970年 299台
1971年 57台
1972年 21台
1973年 2台 の 420台。
これが謎なんだが、年式不明で PS30 用 S20エンヂンが 1台 北米に輸出された記録がある。
Posted at 2020/10/17 12:50:23 | |
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