実際には市販される事に無く、こうして記念庫に眠る事になってしまった日産車たちの反対側に、まさに対照的に市販されたが、あまりに高価過ぎて60台しか世の中に出なかった美しいイタルデザイン・クウペが置かれていた。
その名は「スカイライン・スポーツ」。
撮影:小柳写真事務所 小柳 琢磨(ueno tokyo japan)
昭和35年・・・・
横浜港から2台のプリンス・グロリアのシャーシが、極秘で伊太利亜トリノへと輸出された。
そしてその年の12月のトリノ・モータショゥで、イタルデザインの2台の日本車がスポットライトを浴びる事となったのだ。
「これが日本車なのか!??」 そんな驚きと異端の目で注目を浴びたクルマこそが、我らが「スカイライン・スポーツ」だった。
ボディタイプは、5シーターのクウペと、4シーターのコンバーチブルのツゥータイプ。
デザインは当時は、まだ一匹狼的で孤高なカロッチェリアとして名を馳せていた「ジョバンニ・ミケロッティ」で、幅が狭く細長い日本車のシャーシを「ミケロッティ・マジック」で美しいプロポーションに仕立て上げていた。
その一例が
「チャイニーズアイ」と呼ばれた吊りあがったヘッドランプの処理だ!
ヘッドランプを吊り上げる事によって、視覚的に左右の広がりを演出し、さらに上下方向への躍動感を具現化し、幅の狭さとエンヂンの高さによる腰高感を払拭させているのだ。
価格はクウペ185万円、コンバーチブルが195万円と当時としては考えられないプライスタッグが付けられた。
この値段が如何に庶民からかけ離れていたかと言うと・・・当時の大学卒の初任給が約30,000円、東京都内の理髪料金が¥400・・・・・という時代である。。。今で言えば!??
まぁボディパネルは、全て職人による手叩きによるハンドメイド、シートももちろん手縫いの本皮張り・・とコストなんていう言葉は「スカイライン・スポーツ」には微塵も無かった。
ボディサイドには、ミケロッティ・デザイン・スタヂオのある伊太利亜の「アレマーノ」の「a」と、ミケロッティの名前を融合させたバッヂがさり気なく飾られていた。
撮影:小柳写真事務所 小柳 琢磨(ueno tokyo japan)
これを期に国産車にイタルデザインを採用する流行が生まれ、
ミケロッティでは「日野コンテッサ」
ピニンファリアでは「ブルーバード410」、「セドリック130」
ベルトーネでは「初代ルーチェ」
そしてギアでは「フローリアン」に、永遠の国産車と言われた「117クウペ」が次々と登場した。
撮影:小柳写真事務所 小柳 琢磨(ueno tokyo japan)
私も遠巻きだが、今まで2回ほど「スカイライン・スポーツ」を拝んできたが、今回は時間もゆっくりとあったので、地面に顔を付け、ボディ、スレスレまで顔を近づけて眺めてきた。
今回はクウペを見たわけだが、本当に希少なのはコンバーチブルで。。。
造られた60台のうちプリンスの資料には12~13台(~というのがなんとも・・・閑話休題)、また一説には18台という説もあるが、とにかくコンバーチブルを見たら、拝むべし!という風評も満更ではないのだ。
まさに希少、貴重・・・という言葉以上に、文化的な価値としても非常に高いのがこの「スカイライン・スポーツ」なのだ。
そんな幻的なクルマから後ろ髪を惹かれつつ、次には懐かしいクルマたちの元へと足を運んだのであった。
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Posted at
2007/04/10 14:39:29