
屋根裏部屋から懐かしい画像が出てきた。
まぁ、まったく見た通りの1957年の、まだ 「東京モーターショー」 ではなく 「全日本自動車ショウ」 と言って、今では考えられないが、日比谷公園 、そう屋外でやって居た頃の画像だ。
それでも確か10日間(11日間かもしれない・・・) で 50万人 くらいの入場者があって、如何にクルマが人々にとって憧れのモノだったかが分かるモノだ。
画像のクルマは、日産がノックダウン生産していた オースチン・A50・ケンブリッジ のデラックス の方だ。
5月の初旬頃にやっていたとはいえ、今でいうコンパニオンの女性には屋外での仕事で実に大変だったと思うのだが、その装いはエレガントでクルマの性格に合わせた雰囲気が実にいい感じなように思える。
こうしてみても、クルマというモノがカジュアルと言うより、高級なもので、それこそ「いつかは・・・」だったのではないかと感じるものだ。
それから翌々年から、場所も 晴海 の 「東京国際見本市会場」 になり、ようやく屋内開催となり、1964年頃からは 「東京モーターショー」 と名称も変わると、一気に人気も急上昇してきて、60万人台から60年代後半には 100万人を超える人が来場するようになった。
クルマの主流も、もはや憧れというより、如何に現実的に所有するかと言う感じになって、大衆車というジャンルのクルマがたくさん生まれてきて、さらに趣味性の高いスポーツカーも続々と生まれてきたのも、この年代だろう。
1967年の日産の「サニー」のブース。
60年代になると、コンパニオンも露出こそ少ないが、如何にクルマに華を添えるかと言う役割になってきて、キレイどころがクルマに寄り添うようになってきた。
そして1970年代に入ると、一気に日本経済も上昇の一途をたどり、ある意味で今の日本の姿形の基本形ができた年代だったと僕は思っている。例えば、1970年には大阪で万博が開催され、マクドナルド や セブンイレヴン が日本に登場して、そうそう忘れられないのが トミカ も70年代に登場したモノだ。
まぁ途中でオイルショックなんていうモノがあったが、振り返ってみれば、それが省燃費などの技術向上につながり、そこからクルマの進化の足も速くなったと思うのだ。
ロングヘアーが流行って、ファッションもいかにもというモノより自然なモノが流行った。
1980年代に入ると、二度のオイルショックから日本経済は完全に立ち上がり、怒涛の経済発展を迎えることになる。バブルに踊ったのもこの時代で、アイドルでいえば松田聖子や小泉今日子、中森明菜など、まさに王道を行くアイドルが続々とデヴューしたのもこの時代だ。
笑っていいともとか、オレたちひょうきん族なんていう、フジTVが仕掛けた「軽チャー」なんていうのがブームになって、それからディズニーランドが開園したのもこの時代で、モーターショーに目を向けると、
ロン毛に太い眉毛・・・どっかで見たぞっていう感じで、カチッとしたデザインのコスチュームも時代を感じる。
DCブランドなんて言う高い服が売れていた事もあって、コンパニオンの制服もカチッとしたデザインのモノから、もちろん、ボディコン調のモノなどなどがクルマに華を添えていた。
1990年代は、バブルが弾けて、世の中が落ち着くというより、バブルで経済も人も疲弊して、なかなか先が見えない時代になっていった。
クルマの世界でいえば、ハイブリット車が登場して、最初の頃は、こんなモン売れるか!と思っていたのだが、それが地道にメーカーも改良を進めて行き、いつの間にか世の中の主流になっていった事も記憶に新しい。
コンパニオンも、バブル期の派手さは無いけど、
エラク底が高いヒールが時代ですねぇ・・・・
フレンチカジュアル調で、よく見ると靴が厚底だったりして、それも90年代を感じる雰囲気だったように思う。
なにより90年代に入ると入場者数が減っていって 150万人台になった事も印象的で、モータショーも浮世離れしたコンセプトカーよりも、一応、未来志向の安全とか省エネをテーマにしたモノが増えて、さらに言えば・・・・クルマよりコンパニオンが注目されるようになったのも90年代だったと思う。
こうして過去のモーターショーの資料を読んでゆくと、なんだか、クルマの生々流転や、そこに寄り添うコンパニオンの姿やファッションから、時代を感じて、ついつい時間が過ぎるのも忘れて見入ってしまい、特に50年代の、場所も時間も不自由だったけど、クルマも、コンパニオンと言うよりモデルの女性の笑顔が、なんだか生き生きとしていて、また、クルマと人が輝く時代が来るのかなぁと、懐かしい写真や資料を見ながら感じた次第なのだ。
Posted at 2016/01/07 03:28:28 | |
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