
ブルーバードの設計統括として有名な 太田 昇 が目論んだ、ブルーバード マークⅡ 計画は、日産とプリンスの合併の政治的な配慮によって破たんしてしまった事は以前のブログにも述べたが、ライヴァルである コロナ マークⅡ の歴史を見れば分かる様に、遅かれ早かれ、独立した車種にはなっていただろうと推測される。
ブルーバードより、より高級で、大柄な、オーナードライヴァーをターゲットにしたコンセプトは、まさに時流を的確に読んでおり、日本のモータリゼーションの発展に大きく寄与した事は間違いなかった。
ただ、当初は セダン のみで展開する予定で、クウペなどのツゥードア車のリリースは考えられていなかったフシがあった。
ここで、また歴史は、あの人の存在によって、ローレルの歴史さえも変えてしまった事は、余り知られていなかった事実だ。あの人とは、日産自動車九代目社長 川又 克二 だ。
彼は、日本興業銀行出身の銀行家であったが、どうも行内での派閥闘争や、その強引とも言える性格が災いして波乱の人生を歩んでいた、その最たるものは広島支店長への配属であった。支店長と言えば栄転と言われそうだが、戦後の原子爆弾によって壊滅的な経済の疲弊状態であった広島への配属は、行内での主流から外れた体の良い左遷に近いモノであった。
しかし、荒廃した広島を見て彼は、逆に闘志をみなぎらせ、広島支店を大きく飛躍させた。通常であったなら、その功績で・・・となるのだが、今度は、労働争議で揺れ動く日産への出向・・とまた難題を課せられてのだが、その後の彼と日産の功罪については、長くなるので省略するが、彼が日産に来たことによって、また、日産が大きく羽ばたくことになった事は間違いのない事実だろう。
さて、その川又の存在は、日産のクルマ造りに於いても、大きく影響を及ぼしている。
「ブルーバード」、「フェアレデー(後にフェアレディ)」、「セドリック」などのネーミングは、全て彼が命名したモノだ。
初代セドリック後期型のカタログより。女性のファッションに時代を感じる。
何よりも、社内で恐れられていたのが、彼のつぶやきだった。
有名なのはブルーバード510の歴史を決定的にした、
「いすゞに四輪独立懸架ができて、ウチではできんのか!?
情けない・・・」
という一言であった。
挑発 その一言で名車は生まれた510誕生秘話
⇒https://minkara.carview.co.jp/userid/124785/blog/1645822/
その一言が無ければ、ブルーバード510のリヤサスは、板バネのままで、もしかしたら歴史に残る名車とはならなかったかもしれない。。
そして、ローレルに於いても、実は大きなキーワードを残す事になったのだ。
ある時、 日産の鶴見に来た 川又は、造形の課長 四本 と、大田に
「君たちは、いつまでもセダンばかりやっているのか?」
とつぶやいた。
それは、この頃米国で流行り始めた 「ツゥードア・ハードトップ」 をオーナーカーと自認するクルマであるならやってみろ!というつぶやきだったのだ。
そこから、紆余曲折があったが、登場したのが
「ローレル 2ドアー ハードップ」 であった。
実は、ハードトップそのものは、1965年にライヴァル 「コロナ ハードップ」 に越されていたが、
無上 屋根無しコロナの秘密を知っている方居ますか?
⇒https://minkara.carview.co.jp/userid/124785/blog/18311088/
商品開発力では、やはりトヨタの先見性はライヴァルとは言え、恐ろしいくらいだ。
ローレルの方が、豊かなボディサイズと、滑らかなボディサイズによって、はるかにスタイリッシュで美しかった。
赤いローレルのハードップは、本当に憧れのクルマだった。
さらに1968年に、ブルーバード・クウペで採用した 「流れるテールランプ」 も採用して
ブルーバードの連続した造形に対して、三連ランプを独立させたデザインだ。
特別感を演出した。
C10スカイラインの明確にノッチのついたデサインとも違い、流れる様なリヤスタイルは実に流麗だ。
大田 昇 の秘策は、脆くも崩れてしまったが、オーナーカーという新たなジャンルを創生した 「ローレル」 の歴史は、日本車の歴史に燦然と輝くひとつのページを作ったと言ってもはばからないだろう。
ただ、それを正しく、移り気なマーケットに単純に仰合するだけでなく、進化させることが出来なかった日産の姿そのモノであったとも言えるだろう。
Posted at 2013/03/24 11:32:54 | |
トラックバック(0) |
クルマ | クルマ