
第二回日本グランプリが終わって、スカイライン2000GTが欲しい!という声に後押しされてホモロゲ用に作った「100台」はあっと言う間に無くなってしまった。
スカイライン2000GTが無くなった後も、欲しいという声は静まるどころか、クルマが無いばかりに逆にますます高くなってしまった。
しかし、スカイライン2000GTは、あくまでレースのために急遽作られた手作りのクルマ。作るにしても手間隙はかかるし、それまでの日本のクルマの売れ方を見れば、そんな快適性も無い、維持するにも大変なクルマが俄か売れるとは誰一人想像できなかったのだ。
しかし当時のプリンスの役員であった「村田 滋」は、唯一、スカイライン2000GTが商売になると確信していた一人であった。
そんな村田も役員会に、スカイライン2000GTを販売を強く働きかけるが、なかなか量産までには漕ぎ着けなかった。
それから約半年が過ぎ、村田の熱意が社内を動かし、「そこまで言うなら月産300~500台という少量でやってみよう」となったのだった。
量産が決まってしまえば販売側も、もちは餅屋で数多く量産できないことを逆手に取った広告で市場の購買欲をくすぐる作戦に出た。
1965年2月によいよ「S54-Ⅱ」として売り出された。
この時も、1500CCのボディにロングノーズという文法はそのままだったので、1500に比べてノーズ部分意外は寸法的に変化は無かった。
エンヂンは、それまでのホモロゲ用の2000GTが、純正がツゥバレル・シングルカブレーターであったのが、いきなり「ウェバー三連」を標準としたために、市販車レヴェルでも馬力は125Pを誇り、セッティングを少しイジルだけで
「190.6PS」 まで馬力を上げる事ができるようになった。
あくまでホモロゲ用だった「S54-Ⅰ」とは違って、キャブだけでなく、メーターは丸型二連装になり、ディスクブレーク、ノンスリップデファレンシャルも標準となった。
売り出してみると予想以上の反響があって、プリンスの手持の「ウェバーキャブ」300個が足りない事態になってしまった!!
そこで「ウェバーキャブ」の追加輸入に合わせて、9月にはカブレータを3連装から単装にした
「2000GT-A」 を追加し、それまでの、カブレータ3連装の2000GTは
「2000GT-B」 として、さらにGTのエンブレムも、「2000GT-B」は「レッド」に、「2000GT-A」はブルーに色分けして差別化を図った。
しかし・・・歴史の悪戯はこの時機密裏に進んでおり、翌66年プリンスは販売不振と、国策である自動車メーカーの集約化という大義名分で「日産」に吸収合併されてしまった。
スカイラインも「プリンス・スカイライン2000GT-A・B」から
「ニッサン・プリンス・スカイライン」 となってしまったのだ。
それでもスカイラインの進化は留まる事を知らず、合併した66年には、内外装のリファインと「2000GT-B」に付いては、さらなる幅広タイアが履けるようにリヤフェンダーのプレスラインの見直しが行われ、それまで1500CCと同じ幅だった「1495mm」から「1510mm」へと幅が広くなった。
このマイナーチェンジで型式は「S54B-Ⅲ」へと変わったのだ。
それから68年の「ハコスカ」こと「C10」が出るまで、S50型スカイラインは日産の中で、成長し、販売の一助となっていたのだった。。。
敗北から「閃き」、そして「激変」の時代を駆け抜けたS50型スカイライン。
C10以降のスカイラインの移り変わりは、皆さんの良く知るところである。
V35に始まったスカイラインの是非論。
そこには、残念ながらGTがどの様に生まれて、どう育ったか?という論理が残念ながら欠如しているように思えてならない。
最近の日産の歴史を軽んじる企業風潮にも大いに問題があるのだろうが、我々ユーザーももっとクルマを文化的な遺産として捉える心構えも必要ではないだろうか?
それを考えさせてくれる事のできるクルマ・・・それがスカイラインだと僕は思うからだ。。
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Posted at 2007/04/08 17:29:14 | |
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