どもっ!今日は町内会行事の盆祭りの支度をしてきた緋色のヴォルペルティンガーなんですが・・いかがお過ごしでしょうか?テントの設営とかやってきましたが、暑い・・と言うわけでもなく公園自体が日陰だったので助かりました。日陰がなかったら恐らく溶けていた事でしょうw 今から父方の実家の墓参りをすませて、母方の墓参りに行くのが今日のプランですが何か?
さて・・本日8月15日は「終戦」の日です。個人的にH島は8月6日の原爆投下の日が・・恐らく終戦を語る上で最も重要な日であるのは否めないですが、今日は原爆以前に、日本の敗北を決定付けたこの戦闘に付いて調べました。それは・・
「硫黄島(いおうとう)の戦い」
・・・思えば、第2次世界大戦末期にして、日本軍が米国への空爆の拠点にした場所であり、「米軍の日本への本土決戦」を決断させる言わば前哨戦となりました(その次が沖縄)が、日本にとってはとても凄惨な戦いであった事には変わりはないですね。この硫黄島と沖縄決戦、そして・・広島・長崎への原爆投下全てが終戦に向って動いたと言う事実は忘れてはいけません。今日はその中で、硫黄島に付いてwikiで調べてみました。
「硫黄島の戦い(いおうとうのたたかい/いおうじまのたたかい, Battle of Iwo Jima, 1945年2月19日 - 1945年3月26日)は、大東亜戦争(太平洋戦争)末期に小笠原諸島の硫黄島において日本軍とアメリカ軍との間に生じた戦闘である。
レイテ攻略で、ほぼ日本海軍の戦闘能力はなくなり、台湾攻略の戦略的な価値が下がった上に、米陸軍も日本本土への戦略爆撃の効果から硫黄島攻略の意義を唱え、「硫黄島攻略後に沖縄上陸」という基本戦略が秋の日本本土上陸への前提としてアメリカ軍全体の方針となった。
これを受けて、1945年2月19日にアメリカ海兵隊の硫黄島強襲が、艦載機と艦艇の砲撃の支援のもと開始された。3月17日、激しい戦闘の後にアメリカ軍が島を制圧し、日本軍守備隊陣地の多くが壊滅した。3月21日に大本営は17日に玉砕したと発表。その後も、生き残りの日本兵からの散発的に抵抗は続き、3月26日、栗林忠道中将(戦闘終結直前に大将へ進級)以下300名余りが最後の攻撃で壊滅し、これにより組織的戦闘は終結した。
日本軍に増援や救援の計画は当初よりなく、2万933名の守備兵力のうち2万129名までが戦死した。これは損耗率にして96%にのぼる。一方、アメリカ軍は戦死6821名・戦傷2万1865名の計2万8686名の損害を受けた。太平洋戦争後期の上陸戦でのアメリカ軍攻略部隊の損害(戦死・戦傷者数等[2]の合計)実数が、日本軍を上回った稀有な戦いであった。
21日、予備兵力の第3海兵師団が上陸する。同日、千葉県香取基地から出撃した「彗星」急降下爆撃機12機、「天山」艦上攻撃機8機、直掩の零戦12機の計32機からなる神風特別攻撃隊第二御盾隊による攻撃が行われた。この特攻は日本本土から初めて出撃したもので、八丈島基地で燃料を補給したのちに硫黄島近海のアメリカ艦隊に突入し、護衛空母「ビスマーク・シー」撃沈、正規空母「サラトガ」大破炎上などの戦果を挙げた。混乱したアメリカ艦隊は「われ、カミカゼの攻撃を受けつつあり。救援頼む。」と発信。その電波は、日本軍の守備隊にも傍受された。その後も、日本軍は陸攻部隊や陸軍の「飛龍」による上陸部隊および艦船への夜間爆撃を数回実施した。この光景は、日本軍硫黄島守備隊にも目撃されている。米軍の被害について(米軍翌22日発表)「2月21日1800現在、硫黄島での損害推定は戦死644、負傷4108、行方不明560」と公表されると、ワシントンの一部新聞が硫黄島での毒ガス攻撃を呼びかけるほど、米国には衝撃的だった。
22日、元山方面を攻撃していた第4海兵師団は損害の大きさに第3海兵師団と交代する。摺鉢山の山麓では死闘が続いていた。アメリカ軍は火炎放射器で坑道を焼き尽くし、火炎の届かない坑道に対しては黄燐発煙弾を投げ込んで煙で出入口の位置を確かめ、ブルドーザーで入口を塞いで削岩機で上部に穴を開けガソリンを流し込んで放火するなどして攻撃した。日本軍ではこうした方法を「馬乗り攻撃」と呼んだ。
23日午前10時15分、第5海兵師団は遂に摺鉢山頂上へ到達し星条旗を掲揚した。午後12時15分に改めて5フィート×8フィートと先の旗の2倍となる星条旗を掲げることになり、AP通信の写真家ジョー・ローゼンタールがその瞬間を捉えた写真とあわせ写真3枚を撮影した。この写真は同年ピューリッツァー賞(写真部門)を受賞している(『硫黄島の星条旗』、"Raising the Flag on Iwo Jima")。アメリカ海兵隊は創立以来常にその存在意義が問われ続けていたのだが、硫黄島の戦いは水陸両用作戦のプロとしての存在を広く世界へ向けて示したのだった。フォレスタル海軍長官は海岸でこの光景を目撃し、傍らにいたスミス中将へ語った。「これで海兵隊も500年は安泰だな。」[7]しかし、4日後サンフランシスコでは、タラワ、サイパン、硫黄島での損害の大きさに、マッカーサーの指揮した戦闘では、このような損害は一度も出ていないと、海軍批判の社説が掲載された。
その後、日本軍が反撃し星条旗を引きずり下ろして日章旗を掲げたが、米軍が奪回して再び星条旗を掲げ直すという争奪戦が2度に渡って繰り広げられた。最後に翻った日章旗は血染めだったという。
組織的な戦闘が終わり島の大部分がアメリカ軍に制圧された後、わずかな水源や食糧を求めて生き残った負傷した日本兵が島の海軍航空隊の壕などに集結した。
NHKスペシャル「硫黄島玉砕戦~生還者61年目の証言~」(2006)において生還者たちは、「お腹が空いて、仕方がなかった。それでね、(死んだ仲間がいる施設の)炭を食べた。今でも涙が出て来る」「(隠れ家に)たどり着いても、追い出されて、敵のいる所を歩いて行けと言われた。どうせ死んじゃうだろうと」などと証言した。
その後も生き残った日本兵が地下陣地に潜伏しており、アメリカ軍は投降を促した。生き残った日本兵の一部はこれに応じて投降した。だが、投降を拒否する日本兵もおり、アメリカ軍は掃討作戦を決行し投降しなかった日本兵が潜伏していると思われる壕の入り口を埋め、潰していった。
最後の生存者として、終戦から4年後の1949年1月2日に潜伏していた元日本兵2名がアメリカ軍に投降した。彼らは千葉県出身の一等兵曹(38)と、岩手県出身の二等兵曹(25)の2名で、戦闘後も島内の洞穴などに隠れて4年間にわたり硫黄島に暮らしてきたものであった。彼らによると終戦から1年半が過ぎた頃に島内に駐在している米兵が捨てたとおぼしき雑誌を拾ったところその雑誌に上野の不忍池で米兵と日本人女性が一緒にボートをこいでいるグラビア写真があるのを見つけた事により日本が戦争に敗れた事に気付くと共に激しくショックを受けたと言う。この元日本兵2名は1月22日に羽田空港に帰国した。
岩手県出身の二等兵曹が「硫黄島に日記を忘れてきた、本を出版する為にどうしても日記を取りに戻りたい」と米軍に申し出て同年5月7日に再び米軍機に乗って硫黄島へと戻った。ところがいくら探しても日記が見つからず、摺鉢山の火口から400mほど離れた場所から「万歳」と叫びながら飛び降り自殺をしてしまった。この二等兵曹は日本に帰国したあと周辺の者に「生きて返ってきて申し訳ない」とか「硫黄島へ日記を取りに行って見つからなかったら日本へは戻らない」などと漏らしていた事から硫黄島へ戻る前から自殺の覚悟を決めていた節があり、戦友の死んだ地で自分も死のうとしたのではないかと推察された。
2月23日に星条旗を摺鉢山に掲げた6名の海兵隊員のうち、生きて故国の地を踏むことが出来たのは3名のみであった。
1985年2月19日、硫黄島において、日本とアメリカ双方の退役軍人ら400名による合同慰霊祭が行われた。かつて敵として戦った双方の参加者たちは互いに歩み寄り、抱き合って涙を流したという。この日建立された慰霊碑には日本語と英語で次の文章が綴られている。「我々同志は死生を越えて、勇気と名誉とを以て戦った事を銘記すると共に、硫黄島での我々の犠牲を常に心に留め、且つ決して之れを繰り返す事のないように祈る次第である。」なお、片方の当事者チェスター・W・ニミッツ海軍大将は「硫黄島上で戦った人の間で、類稀な勇気は共通の美徳だった。」とこの戦いを著書の中で総括している。」
・・・YoutubeなんかでこのNHKスペシャルはあると思いますが、(生き残った方の証言は)それはもう凄惨なものだったと証言されています。まぁそのエピソードをあまり話すとちょっとお昼どきなのであれですが・・今が「かりそめの平和」と・・私はそう思っているんですが、とてもこの時代に生きた方々、硫黄島で戦死された方は動員されたなかの96%と考えると、65年の歳月を経てもなお、日本兵そして、アメリカ兵のどちらも・・畏敬の念と言うものがありますね。
ちなみに、洞の中で生き埋めにされ焼かれた遺骨は、まだ全体の半分以下であり、現在の滑走路をはがして遺骨採集に当たろうと言う動きもあるとか・・・民間人の出入りは禁じられていますが、旧島民などへの開放とか、色々と問題はあるようですね。
この戦闘は終戦の約5ヶ月前に行われたものですが、日本・米国双方においてもこの戦闘がいかに今後の平和を模索する鍵となったかと言うのは想像出来ると言うものですね。硫黄島はネットでも色々議論がありますので、今一度、確認をしてみてはどうですか?
Posted at 2010/08/15 11:12:14 | |
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2010年8月 | 日記