
「三木屋」さんは志賀直哉ゆかりの宿として知られています。志賀直哉は明治から昭和にかけて活躍した文豪です。白樺派を代表する小説家で「小説の神様」と称されています。文学青年のはしくれだった私も「或る朝」「網走まで」「大津順吉」「清兵衛と瓢箪」「范の犯罪」「赤西蠣太」「和解」「小僧の神様」「暗夜行路」といった小説は読んでいます。私が一番印象に残っているのは「剃刀」という小説です。これを読んでから床屋で剃刀を当てられるのが怖くなりました。

「城の崎にて」は、1917年(大正6年)に同人誌『白樺』に発表されました。志賀直哉は1913年(大正2年)に山手線の電車に後ろから跳ねられ重傷を負いました。病院に入院して一命を取り留めましたが、後養生にと城崎温泉を訪れました。約3週間逗留したのが「三木屋」さんでした。
志賀直哉のお気に入りの部屋があるというので、朝食後、大女将にお願いして見せてもらいました。志賀直哉の大きな写真の前にある「26号室」です。

八畳の和室です。当時のままだそうです。

志賀直哉が実際に利用した文机です。これで「城の崎にて」や「暗夜行路」を執筆したのかと思うと感慨深いものがあります。

大女将が古い写真を見ながらいろいろ説明してくれました。
志賀直哉が初めて「三木屋」さんに来た時のことです。城崎駅についた志賀直哉は車夫に一番いい宿はどこかと尋ねると「ゆとうや旅館」に連れて行かれたそうです。ところが宿の中に浸水があって断念しました。次の宿に連れて行ってもらったのですが気に入らなかったようです。そして次に紹介されたのが「三木屋」さんでした。
その次の説明にはちょっと驚きました。
当館は大正14年の北但大震災によって一度倒壊してしまいました。昭和2年の再建以降もお一人で、ご友人、ご家族でいらっしゃってくれました。
「『城の崎にて』が執筆されたのはこの部屋ではないのですね。」
「そうなんですよ。あの昔の建物なんです。あの門の屋根の上で死んでいた蜂を見ていたんですね。」
第一に、部屋の窓から見える屋根の上を飛び回っていた蜂。
ある朝、一匹の蜂が屋根の上でひっくり返って死んでいた。

当時のご主人宛ての直筆ハガキがありました。娘さんと一緒に三木屋さんに来た時に麦わら細工をプレゼントされたことへの御礼のハガキだそうです。「前略 結構なものを頂きました。娘大喜び」とあります。
志賀先生がせっかくお礼状をくださったのに父ったらゴミ箱に捨ててしまったんです。それを母が見つけたのでこうして残っているのですよ。

縁側から庭園を眺めていると、それはいかにも静かでした。小説「暗夜行路」に描かれたままの姿だそうです。
私も歳をとりました。最近は『生きていることと死んでしまっていることと、それは両極ではなかった』ように感じることがあります。

志賀直哉さん、太宰治の信奉者だった僕は貴方の良い読者ではありませんでした。次にこの部屋に来るまでには「暗夜行路」を読み直してみます。
Posted at 2024/09/24 12:00:02 | |
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