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2023年04月18日 イイね!

アヤメが咲きました♪

アヤメが咲きました♪ 皆さん、こんにちは。足利は曇っています。予報では午後は雨が降りそうですので散歩は午前中にすませました。
 トップ画像は家の前に咲いたアヤメです。その周りには可憐なヒナギクも咲いていています。綺麗ですね。
 ところがマァはカキツバタが咲いたと言っています。おかしいなぁと思いながらも言い合っても詮のないことですので黙っていました。
 久しぶりに杜若(かきつばた)という言葉を聞いたのでちょっとお勉強の時間にしたいと思います。
 平安時代に「伊勢物語」という作品があります。その9段は「東下り」と呼ばれています。とても好きな段なのですが、そこに杜若が登場するのです。

  唐衣きつつなれにしつましあれば 
    はるばるきぬる旅をしぞ思ふ

 この和歌なのですが、どこに杜若があるのかわかりますか?
Posted at 2023/04/18 12:00:10 | コメント(2) | トラックバック(0) | 勉強 | 暮らし/家族
2019年06月04日 イイね!

私の好きな万葉集の歌

私の好きな万葉集の歌 万葉集講座の時間です。いよいよ最終回です。私の好きな万葉集の歌を紹介したいと思います。新元号「令和」が発表された時、一躍有名になったのが考案者の中西進さんです。もちろん前々から有名だった人です。万葉集の研究では第一人者ですからね。たしか中西先生の本があったはずだと探すと「万葉の秀歌 上下」(講談社現代新書)がありました。それに基づいて紹介したいと思います。要は中西先生のパクリです。紹介するのは短歌だけにします。長歌は私には難しすぎます。

 天皇の歌

 籠こもよ み籠こ持ち 堀串ふくしもよ み堀串ぶくし持ち この岡に 菜摘ます児 家聞かな 名告のらさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我われこそ居をれ しきなべて 我われこそ座ませ 我われこそば 告のらめ 家をも名をも

 短歌だけと書いたのに長歌を紹介します。それというのも万葉集の冒頭の歌だからです。雄略天皇の御製歌と言われています。これは我(男)が児(女)に名前を聞いているという内容です。「お嬢ちゃん、お名前は?」ということですね。簡単に言うとナンパです。名前を答えると言うことは承諾すると同じことなんですよ。参考までに中西先生はそんな不真面目な言い方はしていません。
 
 春すぎて夏来るらし白栲の衣乾したる天の香具山

 持統天皇の有名な歌です。ちょうど今の季節を詠んだ歌ですね。語句の説明をしなくても内容はわかりますよね。百人一首にも収録されているのですが、ちょっと違います。

 春すぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山

 こちらの方を憶えているという人の方が多いかもしれませんね。

 万葉人のラブロマンス

 あかねさす紫草野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る 額田王
 紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻故に我恋ひめやも 大海人皇子
 
 万葉集講座の初回で紹介した歌です。天智天皇が蒲生野という所で狩猟をなさった時に作られました。この2人の関係がすごいんです。額田王(ぬかたのおうきみ)さんと大海人皇子(おおあまのおうじ)は元は夫婦です。この時は額田王は天智天皇の奥さんです。大海人皇子は天智天皇の弟で皇太子でした。

歌意・・・茜色のあの紫草の野を行ったり来たりしているとあなたが私に袖を振っている。とても嬉しいわ。でもそんなに大胆な行動をしていると誰かに見られてしまうわ。ほら、野の番人に見つかってしまうわよ。
歌意・・・紫草のように美しいあなたのことを憎らしいなら、人妻のあなたをどうして恋い慕いましょうか。恋しくて恋しくてたまらないのです。

 これは大変です。ラブロマンスと書きましたがどうみても不倫です。しかも天皇と皇太子との三角関係です。芸能人の不倫とはわけが違います。これはただごとではすみません。実際に天智天皇の死後、大海人皇子と天智天皇の息子である大友皇子が皇位継承を巡って争っています。壬申の乱ですね。これが原因でしょうか。現在では酒席での戯れ言であろうと考えられています。天智天皇もこの歌を聞いて笑っていたのかもしれません。このように男女の間で詠まれた歌を問答歌と言います。和歌が詠めないと恋愛もできなかったのですね。
 それにしても額田王という女性はすごいですね。美人で聡明だったのでしょうね。教科書にも載る代表作が次の歌です。

 熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな

歌意・・・熟田津に船乗りしようと月を待っていると、潮の流れもちょうどよくなった。さぁ、今こそ漕ぎ出そう!

 この歌は背景がわからないと真の意味はわかりません。この頃、中国、朝鮮半島、日本の情勢は大変な時期でした。詳しく知りたい人は「白村江の戦い」を調べてみてください。
 この歌は日本から朝鮮半島に出兵する時に作られた歌なんです。熟田津とは道後温泉あたりのようです。そこから朝鮮半島に最も隣接した九州の筑紫に向かおうとしていました。ですからこの船は軍船です。大船団で向かおうとしていたのでしょうね。軍船、大船団と聞くとすごい船をイメージしてしまいますが、船は小さく航海技術も発達していませんでした。ちょっとした風や波で沈没する恐れがあったのです。安全に船を出せる頃合いを今か今かと待っていたのです。そうすると絶好の状況になりました。軍勢は船を出す準備をして、出発の合図を今か今かと待ちます。そこに登場したのが額田王です。全員が固唾を呑んで注目します。しーんと静まりかえった中、彼女の朗々とした歌声が響き渡ります。「今は漕ぎ出でな」と歌え終わると全員が「おー!」と叫んで出航させたのでした。

 万葉集のスーパースター

 額田王もスーパースターの一人ですが、紀貫之が仮名序で「歌の聖」と賞賛したのが柿本人麻呂と山部赤人でした。大伴家持も二人の名前から和歌の世界を「山柿の門」と称揚しています。 

 東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ 人麻呂
 近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのに古思ほゆ 人麻呂

天飛ぶや 軽の道は 吾妹子が 里にしあれば ねもころに 見まく欲しけど 止まず行かば 人目を多み まねく行かば 人知りぬべみ さね葛 後も逢はむと 大船の 思ひ頼みて 玉かぎる 磐垣淵の こもりのみ 恋ひつつあるに 渡る日の 暮れぬるがごと 照る月の 雲隠るごと 沖つ藻の 靡きし妹は もみち葉の 過ぎて去にきと 玉梓の 使の言へば 梓弓 音に聞きて 言はむすべ 為むすべ知らに 音のみを 聞きてあり得ねば 吾が恋ふる 千重の一重も 慰もる 心もありやと 吾妹子が 止まず出で見し 軽の市に 吾が立ち聞けば 玉だすき 畝傍の山に 鳴く鳥の 声も聞えず 玉桙の 道行く人も 一人だに 似てし行かねば すべをなみ 妹が名喚びて 袖そ振りつる

 また長歌を出してしまいました。申し訳ありません。人麻呂は短歌はもちろん長歌の名人でもありました。これは妻の死をなげき、悲しみ、悼んで作られた長歌です。人麻呂の慟哭が聞こえてくるようです。人の死を悼んで作られた歌を挽歌と言います。長歌のあとにさらに2つの短歌があります。長歌の要約や補足をするもので反歌と言います。

 秋山の黄葉を茂み惑ひぬる妹を求めむ山道知らずも

歌意・・・秋山のもみじが茂っているので、迷い込んだ妻をさがそうにも山道が分からない。私はどうすればいいのだ…。

 もちみ葉の散り行くなへに玉梓の使ひを見れば逢ひし日思ほゆ

歌意・・・ちょうど紅葉が散る頃に知らせの使いを見て思う。あなたと逢っていた日々が懐かしくてたまらない。

 ぬばたまの夜の更けゆけば久木生ふる清き川原に千鳥しば鳴く 赤人
 み吉野の象山の際の木末にはここだも騒く鳥の声かも 赤人

 山部赤人は自然を見事に詠んだ短歌が印象的です。一番有名なのは百人一首にも収録されているこの歌ですね。

 田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける 赤人

 富士を詠んだ歌で人気があります。でも「あれ?」と思った人もいるのではないでしょうか。新古今和歌集や百人一首では次のようになっています。

 田子の浦にうち出でてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ

 私の好きな万葉集の歌

 他にもたくさんの歌人がいます。なにせ4500首以上もの歌がありますからね。

 銀も金も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも 憶良
 憶良らは今は罷らむ子泣くらむ其も彼の母も吾を待つらむそ 憶良

 山上憶良さんの家族思いの和歌が好きです。高校で習った時に、万葉の時代にもこんな人がいるのだなと思ったものでした。

 石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも 志貴皇子

 志貴皇子のこの歌はすぐに暗唱しました。春のイメージがストレートに伝わってきますよね。最後の「なりにけるかも」がいかにも万葉集の歌らしいですね。
 万葉集には作者がわからない歌もたくさんあります。作者不詳、詠み人知らずの歌ですね。その中に東歌と呼ばれる歌があります。奈良の都から見て東国の歌ということです。栃木県も入ります。

 下つ毛野三毳の山のこ楢のすまぐはし子ろは誰が笥か持たむ

歌意・・・下野の三毳の山に生い立つ小楢の木の若葉のよう美しいあの娘さんは、いったい誰の食事のお世話をするのだろう。

 栃木県佐野市の三毳山の美しい女性を詠んだ歌ですね。佐野近辺は昔から美人が多かったのでしょうかね。
 東歌と同じように庶民が詠んだであろうものに防人歌があります。主に東国から九州の警備に行ったのが防人です。

 信濃路は今の墾り道刈りばねに足踏ましなむ沓履け我が背

歌意・・・信濃への道は最近出来たばかりの新しい道です。木の切り株で足を踏み抜かないように気をつけて下さいね。そうそう、私が精魂込めて作ったこの丈夫な靴を履いていってね。

 「背」と女性が恋人や夫などの親しい男性を呼ぶ言葉です。逆は妹(いも)です。奥さんが九州へと向かう夫を心配して詠んだ歌です。この旦那さんは帰ってこられたのでしょうか…。

 大伴親子

 この万葉集講座が始まったのは足利学校で新元号「令和」の典拠となった序文を見たのがきっかけでした。その序文に戻りましょう。
  その序文は「足利学校に入学しました」で紹介していますが、あれは誰が書いたのでしょうか。異説はあるようですが、中西先生は大伴旅人だとしています。私もそう思います。あの序文に書かれていることを簡潔にまとめます。
 あの序文は正式には『万葉集 巻第五』に収録されている「梅花歌卅二首并序」と言います。大伴旅人は太宰府の屋敷に配下の官人などを招いて観梅の宴を開催しました。山上憶良もいました。古文の世界で花といえば桜を指しますが、万葉の時代は梅だったのです。みんな集まって梅を見ながら和歌を詠んだのですね。そこで生まれたのが32首もの和歌だったのです。興奮した旅人はさらに6首もの和歌を詠みました。その旅人の梅の歌の1つがこれです。

 わが園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも

歌意・・・我が家の庭に梅の花が散る。空から雪が流れてくることよ。

 いよいよ最後です。途中でも紹介した大伴家持さんです。万葉集の編纂に大きく関わったとされている歌人です。大伴旅人の息子です。

 うらうらに照れる春日にひばりあがり心悲しもひとりし思へば 家持

 上の句はなんとも明るい春をイメージさせますが、下の句では一転して孤独感が伝わってきます。彼の中にあったは春愁は何だったのでしょうか。

 新しき年の始の初春の今日降る雪のいや重け吉事 家持

歌意・・・新たな年の最初の初春の今日、降り積もる雪のように、ますます重なれよ吉き事よ。

 天平宝字3年(759年)の正月に作られた歌です。そして万葉集の最後の歌でもあります。誰しもがお正月には今年も良い年でありますようにと願います。この歌はお願い、願望以上のものが感じられます。中西先生は吉事への命令と述べています。

 万葉集講座は以上で終了です。最後までおつきあいくださった皆さん、お疲れ様でした。以上述べてきた中には間違いも多くあるかもしれません。笑って許してくださると幸いです。

足利学校に入学しました
漢文とは何か
漢字・万葉仮名・仮名
仮名の誕生
日本語には3つの文字があります
日本語はどうなる?
万葉集
Posted at 2019/06/04 08:20:31 | コメント(1) | トラックバック(0) | 勉強 | ビジネス/学習
2019年06月02日 イイね!

万葉集

万葉集 万葉集講座の時間です。万葉集の講座なのに前回は日本語論のようなことになってしまいました。万葉集に戻りたいと思います。
 万葉集とは何でしょうか。教科書等に書かれている一般的な説明はこうです。成立は奈良時代末期で現存する最古の和歌集です。当時はまだ仮名はなくすべて漢字で書かれています。とくに漢字の音を借りたものを万葉仮名と言います。これが後の仮名の誕生となっていきます。万葉集には当時の支配階級である天皇や貴族から庶民まで幅広い人々の歌が収められています。誰が作ったかははっきりしませんが大伴家持という人が最終的には関わっていたようです。

 万葉集の意味

 万葉集という作品名について考えてみましょう。「集」は簡単ですね。和歌を集めたものという意味です。問題は「万葉」です。これはどういう意味でしょう。ここまでの講座を学んできた人にはもう答えはわかりますよね。わからない人は「日本語には3つの文字」の講座をもう一度勉強しましょう。紀貫之先生が教えてくれます。
 そうです、仮名序の冒頭にありますね。「万の言の葉」まさしく万葉です。多くの言葉で作られた和歌が集められたものという意味です。学問的には異論もあるようですが、私はこれが正しいと思っています。

 和歌と短歌

 皆さんは和歌と短歌の違いがわかるでしょうか。ほとんど同じに考えている人いるのではないでしょうか。もちろん違います。和歌の「和」とは何でしょうか。短歌の「短」とはなんでしょうか。これがわかれば別物だと言うことが理解できます。
 現代で「和」が一番分かりやすいのは和食の「和」ですね。「和」とは「日本の」という意味です。和食の対義語は洋食ですね。それでは和歌の対義語は何でしょうか。知っているようで知らない人もいるのではないでしょうか。答えは漢詩です。日本の歌に対して中国の詩と言うことですね。
 それでは短歌の対義語は何でしょうか。「短」の反対語は「長」だから長歌だと考えるのが普通ですよね。その通りです。短歌の対義語は長歌なのです。長歌を知っていますか?
 短歌は日本古来からの伝統的な歌体です。万葉集から現代にいたるまで日本人に好まれています。新聞の短歌欄は今でも人気ですよね。ですから現在では和歌イコール短歌と考えるのも当然です。ところが和歌と短歌は厳密には違います。

 短歌とは何か

 短歌が五・七・五・七・七というのは誰でも知っていますね。でも万葉集にはそれ以外の形式の歌もあったのです。ここでは万葉集を代表する歌人、柿本人麻呂の和歌を紹介します。

石見の海 角の浦廻を 浦なしと 人こそ見らめ 潟なしと 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟はなくとも 鯨魚取り 海辺を指して 和田津の 荒礒の上に か青なる 玉藻沖つ藻 朝羽振る 風こそ寄せめ 夕羽振る 波こそ来寄れ 波のむた か寄りかく寄り 玉藻なす 寄り寝し妹を 露霜の 置きてし来れば この道の 八十隈ごとに 万たび  かへり見すれど いや遠に 里は離りぬ いや高に 山も越え来ぬ 夏草の 思ひ萎へて 偲ふらむ 妹が門見む 靡けこの山

 これが長歌です。五七が繰り返され、最後が七で終わります。和歌と言うより文章ですね。次はどうでしょう。

 新室を踏み静む子が手玉鳴らすも玉のごと照らせる公を内にと申せ

 見ただけでは短歌に見えますね。でもよくよくみると五七七五七七となっていますね。短歌ではないのです。旋頭歌(せどうか)と言います。
 万葉集には一首だけですがこんな和歌もあります。ちなみにこれは人麻呂さんのものではありません。

 弥彦神の麓に今日らもか鹿の伏すらむ皮衣着て角つきながら

 ちょっとわかりづらいのですが、文字を数えながら読むと五・七・五・七・七・七となっています。これを仏足石歌体(ぶっそくせきかたい)と言います。
 これで和歌と短歌の違いがわかりましたよね。和歌は日本の歌という意味ですが、短歌はその中の一部だったのです。長歌、旋頭歌、仏足石歌は平安時代になるとほとんど作られなくなり、短歌だけが詠まれるようになりました。そこでいつしか和歌イコール短歌と考えられるようになってしまったのです。

 歌とは何か

 和歌と短歌の違いはわかりましたね。では「歌」の意味はわかりますか?これは難しく考える必要はありません。歌は歌です。私は歌を聴くのも歌うのも大好きです。人間誰しも歌が好きなんだと思います。昔の人も悲しい時や楽しい時に歌を歌ったはずです。最初は「ああ…」とかの短い言葉だったのかもしれません。そのうちにその感情を多くの人に伝えたいと思うようになりました。だんだんと言葉が長くなり、リズムやメロディを付けるようになりました。言葉も音楽に合わせやすくするてめに五七調となりました。それは即興で作られその場で歌われたわけですが、その中でも多くの人を感動させた歌を残したいと思うようになりました。ところが日本には文字がありませんでした。ですから好きな歌は憶えたんでしょうね。今で言う暗唱ですね。みんなで声を合わせて歌っていたのかもしれません。今では万葉人がどんなリズムや旋律で歌っていたのかは残念ながらわかっていません。
 今まで勉強してきたように、漢字という文字が輸入され万葉仮名が発明されると書き残すことが可能になりました。人気の和歌を書き記したもの、それが万葉集だったのです。さらにひらがなが普及することによって和歌を記録することはより簡単になりました。我々は現在万葉集や古今集の和歌を文字として読みます。しかし、和歌は歌なのです。そう思って鑑賞したいものですね。
 次回は万葉集講座の最後となります。私の好きな和歌の紹介となります。
Posted at 2019/06/03 08:38:49 | コメント(5) | トラックバック(0) | 勉強 | ビジネス/学習
2019年06月01日 イイね!

日本語はどうなる?

日本語はどうなる? 万葉集講座の時間です。前回のブログでは紀 貫之という天才を登場させました。あらためて紹介しますと平安時代前期から中期にかけての貴族です。歌人として有名で三十六歌仙の一人です。古今和歌集の選者の一人で仮名序を書いています。仮名序は日本最初に歌論と言われています。また、土佐日記の作者でもあります。
 これが一般的な説明ですがちょっとわかりづらいですよね。わかりやすく言い換えましょう。貴族とは政治を司る階級です。現在では政治家ということになります。土佐日記は貫之さんが土佐(高知県)の国司(知事)の任期を終えて都(京都)に帰る時の様子が書かれています。歌人とは和歌を詠む人です。和歌とは文学です。さらに歌ですから歌人とは歌手です。撰者とは天皇から任命された国家的事業である歌集を作る人です。ですから貫之さんは政治家としては国政で文部科学大臣を務め、地方政治では高知県知事であった人です。またベストセラー作家であり、実力・人気ともに抜群の歌手でもあったのです。イケメンかどうかはわかりませんが女性からも人気のあった人なんです。
 そんな貫之さんが書いたのが土佐日記です。その時はもう60代半ばでした。かなり高齢ですね。貫之さんはなぜ女性のふりをしたのでしょう。女文字を使う自分を隠そうとしていたのでしょうか。私はそんなことはないと思っています。ばれることはわかっていてわざと女性のふりをしたのだと思います。

 紀貫之の宣言

 土佐日記の冒頭は貫之さんの宣言文だと思います。何を宣言したのでしょうか。私は二つのことを宣言したのだと考えます。
 一つ目は「皆さん、ひらがなを日本の文字にしましょう!」ということです。貫之さんは当代随一の知識人です。彼にとっては中国語(漢文)の習得などお茶の子さいさいだったでしょう。しかし私が彼を天才というのはそんなことではありません。貫之さんはひらがなが持つ力をだれよりも見抜いていたのです。そんなひろがなを日本の文字にしようと考えたのです。彼の見通しが正しかったのは言うまでもありませんね。
 二つ目は「女性の皆さん、ひらがなを使って自分の思いをどんどん表現しましょう!」ということです。文字のなかった時代にも人は自分の感情を表現していました。文字にはできませんから口に出してです。それが歌です。自分の思いをやっと万葉仮名で書き記すことができました。さらにやさしいひらがなを手に入れることによって誰でもが書くことができるようになったのです。先ほどひらがながもつ力と言いましたが、ひらがなは自己の心情や思いを表現するのにとても適した文字だということなのです。
 貫之というスターの宣言文を読んだ女性たちは熱狂しました。私たちの使うひらがなが認められたのだ。自分の思いをどんどん表現しよう。藤原道綱母、清少納言、和泉式部、紫式部、赤染衛門、 菅原孝標女といった才女たちが次々に登場してくるのでした。

 平安時代の女性

 ひらがなの誕生によって日本人は自分の思いを簡単に書き記すことができるようになりました。しかし、ここまでの話は宮中や貴族の家だけのことです。庶民とは無縁のことです。でもひらがなが日本人の識字率を高めたのは間違いありません。識字率についてはここでは深く触れません。
 清少納言の「枕草子」や紫式部の「源氏物語」が平安初期に書かれたことは驚きです。もっともっと世界に誇って良いことだと思います。ところで、紫式部の意味はわかりますか?「え?名前でしょう?」と言われそうですね。半分正解です。半分とはどういう意味でしょう。藤原道綱母と菅原孝標女ならどうですか?名前とは言えませんね。藤原道綱さんのお母さん、菅原孝標さんのお嬢さんですからね。実は平安時代の女性の名前は、どんな有名な人でもわからないのです。わかるのは皇女やかなり高い身分の貴族の娘さんくらいです。
 紫式部とは女房名です。女房とは今使う意味ではなく宮中や貴族の家に仕える女性のことです。式部とはもともとは役職名ですが、上房に付けるようにもなりました。和泉式部なんて女性もいますね。上の「紫」は『源氏物語』に登場する「紫の上」から付けられたと言われています。「あの紫の上が登場する物語を書いた式部さん」ということです。男尊女卑の時代だったのですね。女房たちでもそうなのですから庶民の女性はどうだったのでしょう…。

 漢字は難しい

 紀貫之さんの奮闘によりひらがなは日本語の文字として定着していきます。逆の見方をするとこの時期は漢字にとって危機でした。漢字なんかいらないと思う人もいたでしょう。現代まで漢字消滅の危機が何回かありました。明治維新や敗戦の時などです。漢字廃止論です。とにかく漢字は難しいですからね。漢字文化圏で会った朝鮮半島やベトナムでは漢字は廃止されています。でも日本では令和の時代まで廃止されずに残っています。もちろん学校現場では全ての漢字を学習するわけではありません。2136字の常用漢字を学習します。漢字制限ですね。ちなみに漢字検定1級で出題されるのは約6000字です。頭が痛くなってきたのでこんなのをご覧下さい。

 行きつけの居酒屋で今でもあるメニュー札です。昔はこういうのがよくありました。逆に読みづらいのもありましたね(笑)
 私が社会人になった頃には和文タイプというのがありました。適切な活字を拾うのに苦労しました。欧米の映画などでは女性のタイピストが軽やかにタイプライターを打っていましたよね。どうしてこんな苦労しなくちゃならないんだと思ったものでした。漢字社会とアルファベット社会の違いですね。
 現在ではパソコンの発達によって事情がかなり違ってきました。先人の苦労でどんな漢字でも印字できるようになりましたね。若い頃は外字作成などで苦労しましたが、今はそれもありません。良い時代になりました。
 ワープロが普及し始めた頃こんな例文が話題になりました。

  きしゃのきしゃがきしゃできしゃする

 ワープロ会社では日常の会話を一発で正しい漢字に変換できるように考えました。研究者はどうすればいろいろな文章を一括変換できるかと考えました。その代表的な文がこれです。あなたは一発変換できましたか?答えはあとにしますが、この中に漢字が生き残っている理由が含まれているのです。
 「きしゃのきしゃがきしゃできしゃする」はひらがなだけの文です。どうです?読みやすいですか?ひらがなだけでは読みづらいですよね。意味もわかりづらいですよね。これは同音異義語の問題です。日本には同音異義語が多いのです。
先ほどの答えは「貴社の記者が汽車で帰社する」です。見た瞬間に意味がわかりますよね。それは漢字が表意文字だからです。漢字には欠点もありますが長所もあるのです。ですから現在まで使われているのですね。
 話は少しそれますが、あなたはキーボードの入力方法はなんですか?私はローマ字入力です。最近はかな入力の人は見かけなくなりました。そういえば私たちは小学校でローマ字を勉強しましたが、今でもそうなのかな?
 来年度から小学校で英語が必修になるそうです。英語を公用語とする日本企業も増えています。日本語はどうなっちゃうのでしょうか。日本語が亡びるとは思いたくありませんが…。
 万葉集講座と言いながら内容が全然別の方向に行ってしまいました。次回は万葉集に戻します。この講座もあと2回で終わる予定です。
 さて、ビールを呑みに出かけましょうかね。肴は肉豆腐にしましょう(笑)
Posted at 2019/06/01 17:00:06 | コメント(3) | トラックバック(0) | 勉強 | ビジネス/学習
2019年05月31日 イイね!

日本語には3つの文字があります

日本語には3つの文字があります 万葉集講座の時間です。令和の典拠である万葉集について述べてきました。前回までで、どうして万葉集の和歌ではなく序文が出典になったかという所まで行きました。さらには仮名の誕生までのべてきましたので、もう終わりにしても良いのですが、一部の人から好評をいただいていますのでもう少し続けたいと思います。
 日本人は仮名を発明したことによって、現在私たちも使用している漢字仮名交じり文というものを作り出しました。仮名についてもう少し考えたいことがありますので一緒に考えていきましょう。

 片仮名と平仮名
 
 どうして平仮名と片仮名の2つの仮名が生まれたのでしょうか。新しい文字は1つでも良いはずです。それについて考察していきましょう。
 私たちの現在での仮名の使い方を見ていきましょう。考えるまでもなく平仮名が圧倒的に多く使われていますよね。では片仮名はどのような時に使うでしょうか。日常では外来語を書く時ですよね。パソコン、マウス、ブログなどです。国名もそうですね。アメリカ、フランス、イギリスなどです。また英単語そのものを指す時にも使用しますね。レイン、オープン、ラブなどです。でもこれだけではちょっと説明が付きませんね。
 皆さんは六法全書を読むことがあるでしょうか。かつては私の本棚にありましたが今はありません。法律の条文がどのように書かれて知っていますか?私が高校の時に見た時には漢字とカタカナで書かれていました。文章も文語体でとてもわかりにくいものでした。法律の多くの条文は明治時代に作られたのですが、それがずっとそのまま残っていたのです。

「別段ノ規定アル場合ヲ除クノ外公示催告手続及ビ仲裁手続ニ関シテハ其性質ニ反セザル限リ民事訴訟ニ関スル法令ノ規定ヲ準用ス」

 どうです?読めますか?理解できますか?こういうものをわかりやすいものに変えていこうとなったのは、なんと平成になってからでした。

 紀貫之の登場

 時代が平成まで来てしまいましたが、また昔に戻ります。でも万葉の時代(奈良時代)ではなく、平安時代です。平安時代に1人の天才が登場します。紀貫之という歌人です。百人一首には次の歌が選ばれています。

  人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける

 貫之は『古今和歌集』の撰者の一人です。醍醐天皇の勅命によって作られた勅撰和歌集です。撰者は紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑の4人ですが、貫之が中心であったようです。古今集には102首の和歌が入っています。これは歌人の中でトップの数です。
  撰者・・・和歌を選び集めて歌集を編集する人。
  勅命・・・その国の最高位の人の命令。日本では多くは天皇の命令。
 古今集には真名序と仮名序という2つの序文があります。ここまで勉強してきた皆さんはもうわかりますよね。真名序とは漢文で書かれた序文です。紀淑望が書いたと言われています。そして平仮名を使って書かれた仮名序を書いたのが紀貫之でした。

  やまとうたは、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。

 冒頭文はこんな風に始まります。その後に続く文章では和歌について論じています。初めての歌論と評価されています。
 古今集には真名序と仮名序があったということは注目に値することです。このへんにカタカナとひらがなの生まれた意味が隠されていそうです。

 『土佐日記』の冒頭

 紀貫之は『土佐日記』の作者でもあります。その冒頭はあまりにも有名です。知らない人はいないはずです。

  男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。

 ここは高校の古文の授業で一番力が入る所でした。ここがきちんと理解できれば高校での古文の勉強もそれほど苦痛でなく受けられるようになります。ここの理解度が低いと古文の時間が辛くなってしまいます。文法的にも文学史的も重要な要素が詰まっていますので、この一行で2時間くらいかけてじっくりと学習させたい箇所です。詳しくやると眠くなってしまいそうなのでポイントを絞りたいと思います。

(現代語訳) 
 男の人が書くと聞いている日記というものを女の私も書いてみようと思って書くのだ。

 知っている人は「ああ、あれか!」と思うでしょうが、知らない人、忘れちゃった人には現代語を読んでもわかりづらい文章です。「女の私も書いてみよう」ということは作者は女ですよね。でも紀貫之はもちろん男です。ニューハーフでもありません。これは何を言っているのでしょうか。女のふりをしているのです。現在でも男がネット上で女のふりをしていることがありますよね。知りませんでしたが「ネカマ」というそうです。高校の先生はそんな言葉は使いません。「男性である貫之は女性に仮託して土佐日記を書いた」なんて説明します。
 さて、貫之さんはどうして女性のふりなんてしたんでしょうか?

 カタカナとひらがな

 ここでもう一度2つの仮名について考えます。奈良時代から平時代の日本社会は天皇を中心とする貴族社会です。貴族が政治や文化の担い手でした。もう一つの知識階級として僧侶がいました。仏教は当時の最先端の科学、哲学だったのです。その人たちが新しい文字である漢字を習得しようとしたのは当然のことでした。現在でもお経は漢字ばかりですよね。でも貴族も僧侶という知識人たちも漢字には苦労しました。勉強する上でのメモ書きも必要となりました。その時に使われたのがカタカナだったのです。カタカナは漢文に深く結びついているのです。
 貴族たちは政治を行っていく上で漢文を利用しました。同じように漢文とカタカナを利用して毎日の出来事を書き記したりしました。漢文、すなわち漢字とは権威の象徴だったのです。漢字と密接な関係にあったカタカナも同様に考えられていました。そして、その権威を持っていた貴族や僧侶は男性です。漢字は真名というのはすでに勉強しましたが、男文字、男手とも言ったのです。
 それに対してひらがなは主に女性たちが使いました。ですからひらがなのことは女手ともいうのです。女性たちがひらがなを使用したのは取り扱いがやさしいからというのが理由でしょうが、漢字とひらがなを比較すると他の理由も見えてきます。漢字は直線が多く使われていたり角張っていて、ごつごつした印象です。ひらがなは曲線が多く、丸みが感じられ優しい印象です。女性たちはそんなひらがなを好んで利用したのだと思います。
 話があっちこっちに行ってしまい、まとまらない文章になってしまいました。飲酒の時間ですのでこの辺で終わりにしたいと思います。次回はとりとめのないこの文章を紀貫之さんにまとめてもらいたいと思っています。
Posted at 2019/05/31 18:48:35 | コメント(2) | トラックバック(0) | 勉強 | ビジネス/学習

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何シテル?   07/26 19:03
 温泉に浸かり、懐かしい歌を口ずさむおやじです。  

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