![私の好きな万葉集の歌 私の好きな万葉集の歌](https://cdn.snsimg.carview.co.jp/minkara/blog/000/042/919/792/42919792/p1m.jpg?ct=06c8e4e0aa78)
万葉集講座の時間です。いよいよ最終回です。私の好きな万葉集の歌を紹介したいと思います。新元号「令和」が発表された時、一躍有名になったのが考案者の中西進さんです。もちろん前々から有名だった人です。万葉集の研究では第一人者ですからね。たしか中西先生の本があったはずだと探すと「万葉の秀歌 上下」(講談社現代新書)がありました。それに基づいて紹介したいと思います。要は中西先生のパクリです。紹介するのは短歌だけにします。長歌は私には難しすぎます。
天皇の歌
籠こもよ み籠こ持ち 堀串ふくしもよ み堀串ぶくし持ち この岡に 菜摘ます児 家聞かな 名告のらさね そらみつ 大和の国は おしなべて 我われこそ居をれ しきなべて 我われこそ座ませ 我われこそば 告のらめ 家をも名をも
短歌だけと書いたのに長歌を紹介します。それというのも万葉集の冒頭の歌だからです。雄略天皇の御製歌と言われています。これは我(男)が児(女)に名前を聞いているという内容です。「お嬢ちゃん、お名前は?」ということですね。簡単に言うとナンパです。名前を答えると言うことは承諾すると同じことなんですよ。参考までに中西先生はそんな不真面目な言い方はしていません。
春すぎて夏来るらし白栲の衣乾したる天の香具山
持統天皇の有名な歌です。ちょうど今の季節を詠んだ歌ですね。語句の説明をしなくても内容はわかりますよね。百人一首にも収録されているのですが、ちょっと違います。
春すぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山
こちらの方を憶えているという人の方が多いかもしれませんね。
万葉人のラブロマンス
あかねさす紫草野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る 額田王
紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻故に我恋ひめやも 大海人皇子
万葉集講座の初回で紹介した歌です。天智天皇が蒲生野という所で狩猟をなさった時に作られました。この2人の関係がすごいんです。額田王(ぬかたのおうきみ)さんと大海人皇子(おおあまのおうじ)は元は夫婦です。この時は額田王は天智天皇の奥さんです。大海人皇子は天智天皇の弟で皇太子でした。
歌意・・・茜色のあの紫草の野を行ったり来たりしているとあなたが私に袖を振っている。とても嬉しいわ。でもそんなに大胆な行動をしていると誰かに見られてしまうわ。ほら、野の番人に見つかってしまうわよ。
歌意・・・紫草のように美しいあなたのことを憎らしいなら、人妻のあなたをどうして恋い慕いましょうか。恋しくて恋しくてたまらないのです。
これは大変です。ラブロマンスと書きましたがどうみても不倫です。しかも天皇と皇太子との三角関係です。芸能人の不倫とはわけが違います。これはただごとではすみません。実際に天智天皇の死後、大海人皇子と天智天皇の息子である大友皇子が皇位継承を巡って争っています。壬申の乱ですね。これが原因でしょうか。現在では酒席での戯れ言であろうと考えられています。天智天皇もこの歌を聞いて笑っていたのかもしれません。このように男女の間で詠まれた歌を問答歌と言います。和歌が詠めないと恋愛もできなかったのですね。
それにしても額田王という女性はすごいですね。美人で聡明だったのでしょうね。教科書にも載る代表作が次の歌です。
熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな
歌意・・・熟田津に船乗りしようと月を待っていると、潮の流れもちょうどよくなった。さぁ、今こそ漕ぎ出そう!
この歌は背景がわからないと真の意味はわかりません。この頃、中国、朝鮮半島、日本の情勢は大変な時期でした。詳しく知りたい人は「白村江の戦い」を調べてみてください。
この歌は日本から朝鮮半島に出兵する時に作られた歌なんです。熟田津とは道後温泉あたりのようです。そこから朝鮮半島に最も隣接した九州の筑紫に向かおうとしていました。ですからこの船は軍船です。大船団で向かおうとしていたのでしょうね。軍船、大船団と聞くとすごい船をイメージしてしまいますが、船は小さく航海技術も発達していませんでした。ちょっとした風や波で沈没する恐れがあったのです。安全に船を出せる頃合いを今か今かと待っていたのです。そうすると絶好の状況になりました。軍勢は船を出す準備をして、出発の合図を今か今かと待ちます。そこに登場したのが額田王です。全員が固唾を呑んで注目します。しーんと静まりかえった中、彼女の朗々とした歌声が響き渡ります。「今は漕ぎ出でな」と歌え終わると全員が「おー!」と叫んで出航させたのでした。
万葉集のスーパースター
額田王もスーパースターの一人ですが、紀貫之が仮名序で「歌の聖」と賞賛したのが柿本人麻呂と山部赤人でした。大伴家持も二人の名前から和歌の世界を「山柿の門」と称揚しています。
東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ 人麻呂
近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのに古思ほゆ 人麻呂
天飛ぶや 軽の道は 吾妹子が 里にしあれば ねもころに 見まく欲しけど 止まず行かば 人目を多み まねく行かば 人知りぬべみ さね葛 後も逢はむと 大船の 思ひ頼みて 玉かぎる 磐垣淵の こもりのみ 恋ひつつあるに 渡る日の 暮れぬるがごと 照る月の 雲隠るごと 沖つ藻の 靡きし妹は もみち葉の 過ぎて去にきと 玉梓の 使の言へば 梓弓 音に聞きて 言はむすべ 為むすべ知らに 音のみを 聞きてあり得ねば 吾が恋ふる 千重の一重も 慰もる 心もありやと 吾妹子が 止まず出で見し 軽の市に 吾が立ち聞けば 玉だすき 畝傍の山に 鳴く鳥の 声も聞えず 玉桙の 道行く人も 一人だに 似てし行かねば すべをなみ 妹が名喚びて 袖そ振りつる
また長歌を出してしまいました。申し訳ありません。人麻呂は短歌はもちろん長歌の名人でもありました。これは妻の死をなげき、悲しみ、悼んで作られた長歌です。人麻呂の慟哭が聞こえてくるようです。人の死を悼んで作られた歌を挽歌と言います。長歌のあとにさらに2つの短歌があります。長歌の要約や補足をするもので反歌と言います。
秋山の黄葉を茂み惑ひぬる妹を求めむ山道知らずも
歌意・・・秋山のもみじが茂っているので、迷い込んだ妻をさがそうにも山道が分からない。私はどうすればいいのだ…。
もちみ葉の散り行くなへに玉梓の使ひを見れば逢ひし日思ほゆ
歌意・・・ちょうど紅葉が散る頃に知らせの使いを見て思う。あなたと逢っていた日々が懐かしくてたまらない。
ぬばたまの夜の更けゆけば久木生ふる清き川原に千鳥しば鳴く 赤人
み吉野の象山の際の木末にはここだも騒く鳥の声かも 赤人
山部赤人は自然を見事に詠んだ短歌が印象的です。一番有名なのは百人一首にも収録されているこの歌ですね。
田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける 赤人
富士を詠んだ歌で人気があります。でも「あれ?」と思った人もいるのではないでしょうか。新古今和歌集や百人一首では次のようになっています。
田子の浦にうち出でてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ
私の好きな万葉集の歌
他にもたくさんの歌人がいます。なにせ4500首以上もの歌がありますからね。
銀も金も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも 憶良
憶良らは今は罷らむ子泣くらむ其も彼の母も吾を待つらむそ 憶良
山上憶良さんの家族思いの和歌が好きです。高校で習った時に、万葉の時代にもこんな人がいるのだなと思ったものでした。
石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも 志貴皇子
志貴皇子のこの歌はすぐに暗唱しました。春のイメージがストレートに伝わってきますよね。最後の「なりにけるかも」がいかにも万葉集の歌らしいですね。
万葉集には作者がわからない歌もたくさんあります。作者不詳、詠み人知らずの歌ですね。その中に東歌と呼ばれる歌があります。奈良の都から見て東国の歌ということです。栃木県も入ります。
下つ毛野三毳の山のこ楢のすまぐはし子ろは誰が笥か持たむ
歌意・・・下野の三毳の山に生い立つ小楢の木の若葉のよう美しいあの娘さんは、いったい誰の食事のお世話をするのだろう。
栃木県佐野市の三毳山の美しい女性を詠んだ歌ですね。佐野近辺は昔から美人が多かったのでしょうかね。
東歌と同じように庶民が詠んだであろうものに防人歌があります。主に東国から九州の警備に行ったのが防人です。
信濃路は今の墾り道刈りばねに足踏ましなむ沓履け我が背
歌意・・・信濃への道は最近出来たばかりの新しい道です。木の切り株で足を踏み抜かないように気をつけて下さいね。そうそう、私が精魂込めて作ったこの丈夫な靴を履いていってね。
「背」と女性が恋人や夫などの親しい男性を呼ぶ言葉です。逆は妹(いも)です。奥さんが九州へと向かう夫を心配して詠んだ歌です。この旦那さんは帰ってこられたのでしょうか…。
大伴親子
この万葉集講座が始まったのは足利学校で新元号「令和」の典拠となった序文を見たのがきっかけでした。その序文に戻りましょう。
その序文は「
足利学校に入学しました」で紹介していますが、あれは誰が書いたのでしょうか。異説はあるようですが、中西先生は大伴旅人だとしています。私もそう思います。あの序文に書かれていることを簡潔にまとめます。
あの序文は正式には『万葉集 巻第五』に収録されている「梅花歌卅二首并序」と言います。大伴旅人は太宰府の屋敷に配下の官人などを招いて観梅の宴を開催しました。山上憶良もいました。古文の世界で花といえば桜を指しますが、万葉の時代は梅だったのです。みんな集まって梅を見ながら和歌を詠んだのですね。そこで生まれたのが32首もの和歌だったのです。興奮した旅人はさらに6首もの和歌を詠みました。その旅人の梅の歌の1つがこれです。
わが園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも
歌意・・・我が家の庭に梅の花が散る。空から雪が流れてくることよ。
いよいよ最後です。途中でも紹介した大伴家持さんです。万葉集の編纂に大きく関わったとされている歌人です。大伴旅人の息子です。
うらうらに照れる春日にひばりあがり心悲しもひとりし思へば 家持
上の句はなんとも明るい春をイメージさせますが、下の句では一転して孤独感が伝わってきます。彼の中にあったは春愁は何だったのでしょうか。
新しき年の始の初春の今日降る雪のいや重け吉事 家持
歌意・・・新たな年の最初の初春の今日、降り積もる雪のように、ますます重なれよ吉き事よ。
天平宝字3年(759年)の正月に作られた歌です。そして万葉集の最後の歌でもあります。誰しもがお正月には今年も良い年でありますようにと願います。この歌はお願い、願望以上のものが感じられます。中西先生は吉事への命令と述べています。
万葉集講座は以上で終了です。最後までおつきあいくださった皆さん、お疲れ様でした。以上述べてきた中には間違いも多くあるかもしれません。笑って許してくださると幸いです。
足利学校に入学しました
漢文とは何か
漢字・万葉仮名・仮名
仮名の誕生
日本語には3つの文字があります
日本語はどうなる?
万葉集