あれから13年の当日であった昨日、まぁ朝で仕事を終えて、また夜から出勤という、そう余裕もない一日だが…
それでも世の休み明けで落ち着いてて、居残りなく終業できたので、ちっと13年前の現場を巡ってみようと。
退勤経路から入り込んだ所にある、小名浜サンマリーナは元々ヨットハーバー。
まぁ当初は、SNSバエ~なんてのもない時代(^^;)、そうアタシ自身は入り込む事は少なかったが、市外に転勤中の震災前には釣りにハマった上司の呼びかけで、帰省ついでに
釣りをした事が。
改めて確認すると、あの日の4ヶ月前だったんだなぁ…
ここで犠牲者が出たとは聞いてないが、もちろんヨットハーバーは壊滅。
そして当市は北のごく一部が原発事故の屋内退避地域に引っ掛かかり、制限地域として市名が公表された事から、「いわきには放射能があるから」と
支援にも来てもらえなかった地域。
当時アタシは転勤先の市外で地震に遭い、職種的には通常以上の激務に見舞われ、とても地元に戻れずに家族の心配が絶えなかったが、海上自衛隊の輸送艦に搭載されてるホバークラフトが、ここに支援物資を届けてくれたのをニュースで見て少し安心した記憶があり、ここにはそんな意味での思い入れがある。
数年前に再開放され、その後にヨットハーバーも復活。
今は
楽しいイベントなども開催されてるが、改めて元に戻ったんだなぁと…
んま、わざわざココに立ち寄ったのは震災以外に、みん友メタルさんが被災地慰霊の行脚をされてて、前夜から対岸ホテルに宿泊されてると見かけたのも、あってのこと(笑)
…まだ、いらっしゃいました( ̄∇ ̄)
まぁ、これから遠くまで行かれる貴重なお時間を割けないし、もちろん限られた時間なのはコチラも同様なので、画面のみでご挨拶して(^^;)、退散。
…画面は、気づいていただけなかったようだが(爆)
以降は、いつもの退勤路に戻るが、その見慣れた経路も当時は軒並み被害を受けてた。
港湾道路には無数の貨物コンテナや、船なんかも打ち上げられ…
↓
(2011年4月撮影)
水族館は9割の生物が犠牲になったと言ってたかな。
奥の物産センターも大きな被害に。
いずれそれらも復活し、そして数年前に完成した向かいのショッキングモールは、当市全体においても復興の象徴のひとつか。
↓
(2011年9月撮影)
そういや、その先のマリリンタワーふもとの海岸も、上記の転勤先からの釣りツアーの、
第一回目で初めて訪れたんだった。
あまり覚えてないけど、津波以降の長い閉鎖からの再開では、光景は変わってるハズ。
タワーをかすめて海岸線を進み…
毎日のように通ってるけど、こんな意識をしてたからか、この辺に昔そういや不思議なコンビニがあったのを、差し掛かった瞬間に思い出した。
見た事はないけど
西田敏行の映画で、そのコンビニでもロケをしたと聞いてたので、この機に調べてみたらロケと公開の間に震災を挟んでたらしい。
震災後は残った骨組みと屋根の下で、漁業関係らしき方が何か作業してたような記憶もあるが、どうだったっけかな?
(撮影は別日)
やはり被害甚大で光景も変わった永崎海岸周辺から、メイン通りを逸れた漁港方面の通りは、正直ロドり下衆どもと細かい道が楽しいと実感するまでは、そうわざわざ入り込んだ事はなかったが(^^;)、漁港を囲むようにそびえる巨大な防潮堤も、あれ以降の景色。
そして最近、全く別の理由で調べ物をしてた過程で、この漁港近くの毎日のように通る道沿いに石碑があるのを知り、先日存在は現認したばかりだが、この日に初めて停車しジックリ目にしたのも、不思議な巡り合わせ。
さらに進んで豊間海岸の道沿い。
この道は近年まで通っておらず、向こう側が元からのメイン通りだが、その道沿いのコンビニは…
周囲の住宅地も壊滅し、市内で犠牲になった方も最も多い地域だったかな。
このコンビニも骨組みだけになり、当市の津波被害の代表例のひとつでもあった。
コンビニから流されたATMも壊され、中の現金が盗まれたのもニュースになってたが、それでも地域の方のためにと移動販売車を持ち込み営業されてた。
(2011年9月撮影)
余談だが帰宅後に点けてたラジオで流れてた、坂本龍一氏の娘が司会の番組に出てたゲストの人、この辺りで震災復興のイベントをされてきたようで、まさにこのコンビニ店長とも共に復興に携わってきた話をされてた。
その先は、しょっちゅう灯台を望む、こんな光景を撮っては載せてるが…
上記の通り、この海岸路も津波で破壊されたあとから作られた、個人的には復興を感じる道。
もちろん左の土手は津波に備えて盛られたもので、防災スピーカーも随所に。
そして灯台をかすめる道路も、この新道は昨年の開通だったかな。
さらに進むと、アタシは栃木人と
昨年初訪問した、震災の記念館が。
この日は多くの方が訪れるはず。
そのすぐ先、しょっちゅうロドり下衆どもも集う海水欲情の駐車場でも、小休止ついでに鎮魂。
ここまで、すんなり海岸道路を通ってきたが上記の通り、先のコンビニあたりからココまでの通りは、津波被害からの復興で開通したもの。
それまでは通り掛かるような感じじゃなく、細かく入り組んだ昔ながらの住宅路を、わざわざ行こうと思わなければ辿り着かない場所だった。
(2011年9月撮影)
引き続きの帰路で、昔からの海岸路に繋がるが…
そこも津波で崩落した部分もあり、やっと半年後の帰省では砂利道で通れるようになっていた。
(2011年4月撮影)
(2011年9月撮影)
河口近くの川沿いにある温泉施設前も、あの当時は道が崩落して通行止めに。
↓
(2011年9月撮影)
この辺は多分、川の遡上が被害を大きくしたのだろうか。
そんな河口の立派な水門も、震災後の光景。
そうして、「いつもの退勤路」を通って帰宅したが…
普段は意識をしないが改めて思うと、まさに当市の津波被害を辿る経路だったのだな。
ここまで書いてきたが上述の通り、あの時アタシは内陸の市外に転勤しており、津波を受けた直後の模様は写真でしか見ていない。
それでも、それ以前の光景は見覚えがあるので、やはり変わりようは実感し…
そして今、市内最大のショッピングモールやら、すんなり気持ちよく通過する海岸路など、復興の名のもとに発展を感じる光景に。
あえて書くが被害や悲しみと別の視点で、あれからの経緯に目を向けると、もし震災が起きず従来の姿が残ったままだったら、こうした発展をしていただろうか。
今の光景を見るにつけ…建物や地域に限らず、例えば自分の生き様においても、従来から大きく変わろうって時に、それまで培ってきた事を引きずりながらでは、そう容易ではないのかな、とも。
もしも現状打破などを考える時が来れば、これまでの長い人生での蓄積にしがみつかず、全て捨て去る覚悟も必要なのかな、なんて事もおぼろげに考える事もある光景の変化。
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そして、この時期は早咲きの河津桜の見ごろも重なるが、夕方から出勤ながら翌日は天気が良くなさそうだったので、早めに家を出て周ってみる。
途上の海岸も津波が押し寄せ、集落が壊滅した地域。
この道も狭いつづら折りから整備され、向こうに見える火力発電も、やはり津波で損害を受けて復旧に尽力された話も、よく聞く。
↓
(2011年9月撮影)
この河津桜も発電所の敷地で、震災復興の一環で整備されたとか。
あんな未曾有があっても変わらず花が咲き、変わらぬ日常があるって事も、思ってくる光景。
そんな仕事の合間に思いを馳せた、この日だが…
当然これまで毎年この日を迎え、これまでも何度も当日に被災地域も通ったが、ちっと今年はまた違う感覚があり、こうして余裕もないのに時間を掛けたのも…
やっぱ年始から大きな災害があったからか、あるいはアタシが地震に遭った転勤先から、数日前に地元に戻って10年になったのを思い出したのも、新たに思うところがあったのかもね。
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その他の写真】
【参考】震災後の、いわき帰省記録
https://minkara.carview.co.jp/userid/16012/blog/21965066/
https://minkara.carview.co.jp/userid/16012/blog/22038327/
https://minkara.carview.co.jp/userid/16012/blog/23885348/