
新宿厚生年金会館は数多くのフォークのコンサートが行われた場所として記憶しています。拓郎もやったことがあるし陽水の『陽水ライヴ もどり道』が収録されたのもここでした。しかし正式名は東京厚生年金会館だということは知りませんでした。行ったこともありません。
1968(昭和43)年11月2日に新宿厚生年金会館で第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト全国決勝大会が開催されました。優勝は赤い鳥で第2位がオフコースでした。小田さんは練習している赤い鳥を聴いて「勝てないなぁ」と思ったそうです。
「群衆の中で」(作詞:山上路夫 作曲:ベティ・ディーン)は、1970(昭和45)年に発売されたオフコース(当時はジ・オフ・コース)のデビュー曲です。それほど話題にもならず売れませんでした。私が初めてこの曲を聴いたのは10年後、いや20年後くらいでした。
優勝した赤い鳥は、ほぼ同じ時期に「人生/赤い花白い花」でメジャでビューしていますが、1971(昭和46)年に発売された「
竹田の子守唄/
翼をください」が大ヒットしました。私もこのレコードは買っています。「
忘れていた朝/言葉にならない言葉」「
河/旅」「赤い屋根の家/どこに帰ろう」などをヒットさせて人気グループとなりました。その後1974年に解散して、紙ふうせんとハイ・ファイ・セットとなったのでした。
前述の決勝大会の時にはメンバーは3人でしたが、1972年に小田和正と鈴木康博の2人となっていました。翌年にファーストアルバム『オフ・コース1 ⁄ 僕の贈りもの』をリリースします。私がオフコースを意識し始めたアルバムです。しかし一般的にはまだまだ無名です。オフコースの名前が世間に広まるのは1975(昭和50)年の「眠れぬ夜」のヒットからでした。
この本で初めて知ったのですがハイ・ファイ・セットを結成するときに潤子さんは小田さんを誘ったのだそうです。もちろん潤子さんはフラレたのですが、2人はお互いをリスペクトしていたのですね。潤子さんは小田和正を小田君と呼びます。天下の小田和正を君付けで呼べる人はそういないはずです。ちなみに潤子さんの方が2歳年下です。
潤子さんはもちろん康さんもリスペクトしています。細坪基佳(ふきのとう元メンバー)を含めた3人でSong for Memoriesというユニットを組んでいました。
潤子さんが無期限休養に入ってから8年が経ちました…。
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流行歌研究会 | 音楽/映画/テレビ
Posted at
2022/04/12 14:41:00