
1980(昭和55)年4月の晴れた日、私は最初の赴任校へと向かいました。45年も前なので桜が咲いていたかは憶えていません。希望と期待に胸を膨らませていました。でも一番の喜びはこれからは給料がもらえるということでした。初任給をもらった時のことは今でも憶えています。

栃木県立足利西高等学校です。建物はまだこうして残っていますが、学校としてはもう存在していません。
1972年(昭和47年)4月1日に 栃木県立足利女子高等学校から分離して栃木県立足利西高等学校として独立しました。全国でも珍しい昼間二部制定時制課程の女子高校でした。

足利市は繊維産業が盛んで、昭和40年~50年頃は若い働き手を必要としていました。私が勤務していた時も東北や北海道出身の生徒がたくさんいました。娘たちは会社の寮に入って生活していました。
学校は、ある週は朝8時半に登校して12時半に下校します。午後は会社の戻って仕事です。翌週は朝から仕事をして午後3時15分に登校します。学校で四時間授業を受けて6時15分に下校します。登校手段は会社のバスです。登校時間には学校の前にバスが何台も並んだものでした。

しかし、社会情勢の変化により繊維産業も勢いがなくなりました。カネボウ・東レといった有名企業の子会社も撤退するようになってしまい、生徒数が年々減少していきました。また一方で、人口増によって新しい高校の必要性が言われてきました。そこで西高に全日制課程普通科を設置することになったのです。

古い校舎は教室も少なく施設も十分ではありません。少人数と言っても定時制の生徒もいます。そこで新校舎を建てることになりました。建設用地は校庭です。進捗状況を旧校舎から見ていました。
1985年(昭和60年)に普通教室棟が完成したので全日制課程普通科3クラスの一期生が入学しました。私もその時に定時制から異動して担任を持つことになりました。定時制には5年間いたことになります。その後も定時制は存続しましたが、1993年(平成5年)3月で廃止となりました。

工事は生徒が入学した後も続きます。かつて教職員住宅があった辺りにプールができました。

校庭も整備されました。

新体育館もできました。

管理棟・生徒昇降口もでき教室棟と繋がりました。最初の2~3年は慌ただしい毎日でしたが、刺激的な日々でもありした。悪戦苦闘しましたが、無事に最初の卒業生を送り出すことができました。私は1996年に別の学校に転勤しました。足利西高等学校には定時制・全日制併せると15年間いましたが、忘れられない学校となりました。

正門を入ったところに記念碑が二つあります。2009年(平成21年)3月で全日制課程も閉校となりました。閉校式には参加させてもらいました。

今でも時々西高前の道を通ることがあります。門は施錠されていて勝手には入れないのですが、時々車が止まっていることがあります。校庭やテニスコートは申請すれば利用できるようです。映画やドラマ、CMなどのロケとして利用されている時には多くの人がいることもあります。

閉校になってから16年が経ちました。その後もいろいろと変化がありました。足利工業大学は平成30年4月に足利大学へ名称が変更されました。よく利用していた食堂「
リスボン」は2017年に閉店してしまいました。その次の年くらいに風の便りでマスターが亡くなったと聞きました。
一番最初に担任を持った生徒は、考えてみるともう還暦を超えています。私も歳をとったはずです。みんな、幸せに暮らしていますか?
フォトアルバム:西高(2025年4月5日)
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2025/04/06 15:07:47