2012年09月15日
・最近ワインに凝っているのだが、多くの人が昨今の栽培技術・醸造技術か向上した反面、すべてのワインが画一的になってきてテロワールが表現されなくなっていると言う趣旨の批評というか感想を述べているのが面白いと思った。同じ事は世界中のあらゆる製造業で言われ出して久しいが、それが農産物加工品でもあらわになってきたという事だろうか。バイクや車なんかも同じ事が80年代後半から言われていたので、学ぶべき物が多いのではないかと思うし、再び個性について考える必要が出てきた。
・この問題の本質にズバリ切り込むなら、「個性というのは欠陥なのか?」という問題に尽きる。あるいは「絶対性能(評価)と主観感覚(評価)」と言い換えても同じだ。例えば車であれば、動力性能はカタログスペックからある程度分かるし、特定のサーキットを走らせてみての結果から上下関係を導く事は難しくない。NAのFFとターボの4WDを比較する事は本来はナンセンスだとしても、とりあえずタイムなどで同じ土俵に上げさせる事も出来る。もちろん乗っているドライバーが感じる物は違うだろうけど、それでも以前のように極端な個性、つまりFFであればアクセルオフで巻き込むとか4WDは踏んだら曲がらないとかは技術的に解決されつつある。
・農産物加工品であるワインにしても、過去には天候や土地の違いを極端に反映していたので、ビンテージや製造場所・畑が大きなものを言った。しかし、醸造技術や味の作り込みの方向性の固定化というかわかりやすさ、栽培技術の向上で、過去のヒエラルキーやビンテージ観は崩壊しつつある。特にこれらの画一化技術は低・中間レベルでの恩恵が大きく、逆にアッパーハイクラスではあまりそうでもないように感じる。昔からの高級ワイナリーであれば、結局その突き詰めたレベルで作った場合に到達する所はそれほど変わらない。例えるなら、サーキットレベルでも量産車がどんなに頑張ってもF1とかCカーとかは遥かに速いし、それらが使っている技術はコスト面を抜かすと図抜けて新しいというかハイテクって訳ではない(例えばアクティブ空力とか4WD技術とかね)。一方、大衆的な部分で言えば昔の大衆車でサーキット走ろうなんて考えなかったろうけど、今はボトムラインのエントリーカーでもワンメイクレースが出来る。
・そのコアになる物は評価基準の簡易化・数値化であり、車で言えばタイムだろうし、ワインで言えば数値評価の導入である。汎用化技術も大事だが、それを導き出す最初の一歩は数値化である。昔は数値と言うともっと原始的なエンジン出力とか糖度とかだった訳だが、それだとイマイチ分からなかったので、今はもう少し消費者側に寄った部分の数値が取られている。が、当たり前だけれど、そのテストベンチによって評価が異なるのがこれまでの消費財の選定基準であった。筑波が好きな人も居れば鈴鹿が好きな人も居ればジムカーナが好きな人もいる。ブルゴーニュピノとシャブリとカルフォルニアのジンファンデルは全部違う訳だ。そこらへんが理解されずに数字が一人歩きしていないか?という懸念が一つ。これは同時に消費者に情報が行き届くようになり、それがセールスに大きな影響を及ぼすようになった事でもある。
・そんな中逆に欠点を推す商売も出てくるようになった。例えばマイナービンテージにワイナリーの苦労を見てワインが農産物である事を見直すようなストーリーだったりするのだが、いじわるな見方をすれば画一化技術で工業製品化しつつある大きなワイナリーに対して既存の高級ワイナリーが取り得る戦略がそんな所だったという事である。バイクの世界でも60年代以降、英国のメーカーはことごとく敗れて行ったが、彼らはテイスト重視で、分かりやすい高性能低価格の日本車におおかたの消費者からそっぽを向かれてしまった。真面目にやってなかったとしか思えない部分もあるけれど・・・つまりテイストとか雰囲気というのは余程の高級レンジでもいずれ陳腐化する訳で、それは欠点の裏返しでしかないと断罪されてしまったのだ。私はその路線に乗る事は慎重であるべきだろうと思うが、一方で数値化された大手の好みというのに消費者が慣らされて感性を鈍らせてしまったモノが勝っているって見方もある。それに乗る技術というのが画一化に向いている事も問題だ。
・だから画一化に反対する技術もまた必要だし、それらの取捨選択とかも必要。そして消費者に分かりづらいかも知れないそれらの個性を、単なる欠点ではないというアピールもまた必要だろう。でも、それには、大本として作る側の強烈な好み、内的な絶対基準が必要だ。消費者を衆愚化しておいてマーケットリサーチしたって、そこから新しい物は絶対出て来ない。むしろ自分達の商品をもっと簡素化・平明化した方がうける。実際日本のドラフトビールってそれを突き進めた結果、個性とかそういうのどうでもいい商品になっている(別にレベルが低いという訳じゃないが)。
・バイクも最近のモデルは皆高性能で人間置いてけぼりっぽいけど、もちろんライダーの技量以上の事をバイクがやってくれるようにはなっている。その方向はどんどん無個性というかメーカー特色が無くなる方向に向いているようだ。今、マジでバイク見てメーカーが分からなくなっている。過去はスズキとカワサキは少なくとも自分達が作りたい物を明確に持っていたように思うのだが。
・もう一つ数値化に近く感じるのは、最近のメッセージの短文化、キャッチー化である。テレビであればリモコンの普及がチャンネルのザッピングを産み出し、そうさせたと言うのだけれど、ともかく手短に分かりやすいメッセージが好まれるようになった。まあ、分かりやすいという事は長文だろうが短文だろうが重要なのだけれど、手短に分かりやすいという事はどんどん原色や人工調味料や刺激的レスポンス方向に行くという事である。その最たる物がツイッターなのだが、あれ見ていると自分の好みをただポンポン出していくだけに感じる(そうじゃないのもあるけど)。ツイッターやフェイスブックはネットを通じて人類を愚民化するための壮大な策略ではないかとさえ思ったりする。多様文化・地域文化に対するマクドナルドやコカコーラと一緒だ。その対局は恐らく動画で、こっちもbeliving is seeingじゃないが、百聞は一見にしかずで簡単にダマされてしまう事もあるけれど、非言語的表現や声のトーンなどとても多彩な情報キャリアーが同時に提供される事で、かなり広い情報が得られる。それをどの程度引き出せるかは視聴者によるだろうが、馬鹿にも分かるわかりやすさというのに頼るよりは誠実だろう。
・話題は卑近になるが(もともと日常の話しだが)、そういう観点から言うと日本でワインを作って提供する事の意味、とくにドイツ系白の甘口ってのは、なかなか難しものかも知れない。もちろん栽培技術とか楽じゃないだろうけど、製品にした時の良さというのが、長期熟成とかエレガントなバランスを狙う赤と違って、キャッチーで平明すぎる甘口白というのは、その先の訴える物に乏しいという欠点がある。いや、ドイツでも有名な畑のは、ミネラルとか酸味とか決して赤に負けないだけの深さがあるとは思うし、その間口が広い事はいいのだけれど、積極的にそういう方向を探っているかと言うと、やっぱり純度を高める方向に特化しているのは否めない。あるいはフランケンとか飲むとちがうのかなー。 ボックスボテイルが流通上不利なのか、ほんとフランケンはここらへんで売られてないからナー。飲んで見たい所だ。
Posted at 2012/09/15 09:43:02 | |
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