
「白州灯台」物語…
以前「白洲灯台」を取り上げたことがあります。この灯台にまつわる歴史がとても興味深いからです。今回はふたたび「白州灯台」を深堀りしてみようと思います。
時代を遡り、幕末・明治維新の頃、小倉沖の響灘は筑前・肥前方面から瀬戸内海へ往来する航路であり、日本海からやってくる船が通行する海の幹線でした。年間に2万隻もの船が航行していたといいます。しかしながら、この周辺は暗礁が多く急潮のため、船乗りからは海の難所と恐れられていました。特に、藍島の西南1kmのところにある白洲と呼ばれる大暗礁(長さ140m・横100m)での海難事故は後を絶たなかったと言われています(参考資料 北九州HP及び岩松助左衛門翁顕彰会パンフレット等々)。
最近入手した望遠レンズのお陰で、白洲灯台がより大きく見えるようになりました(450㎜相当)。
そこで、豊前国企救郡長浜浦(現在の北九州市小倉北区長浜町)で生まれた「岩松助左衛門」は白州周辺の絶えない海難を防止するため、募金活動と私財を投げ打って白州への灯台建設に奔走し、基礎部を造ったものの白州灯台の完成を見る前に死去(1872年 享年68歳)します。その後白州灯台は明治政府に引き継がれその翌年完成しました。
「岩松助左衛門」は、私利私欲や名声のためになったことではなく、ただただ「人のため、世のため」に成し遂げた姿に感動します… まさに郷土を愛する人の歴史がここにあります。
白洲灯台は今でも航行安全の光を灯しており、「岩松助左衛門」の偉業が伝わってきます。「白州灯台を見ていると、歴史が見えてくる…」とは、こういうことをいいのでしょう…。
現在、白洲灯台は若松海上保安部が管理しており、岩松助左衛門の功績を後世の市民に伝えるため、小倉城内に岩松助左衛門が設計した白州灯台を模した塔が建てられています(白州灯台岩松翁記念塔)。そっと、そこを訪れてみました。
小倉城内の「西ノ口門跡」にあります。「松本清張記念館」を右手に見て登ったところにあります。
旧第十二旅団本部正門があった場所の奥にひっそりと建っています。
当時としては、灯台設置の技術も今と比べると格段と劣っていたにも拘らず、このような立派な灯台を建立したと思うと… 「岩松助左衛門」の情熱溢れる姿が見えてくるようです。歴史に触れられたことに、改めて身が引き締まる思いがします。
尚、小倉城や松本清張記念館に足を運ばれる機会がありましたら、是非とも「白州灯台岩松翁記念塔」にお立ち寄り頂き、「白洲灯台」の歴史を感じて頂ければと思います。
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ひとりごと…
「安倍晋三元総理大臣が凶弾に倒れる」という衝撃の事件が起きました。悲劇という言葉しか見当たりません。ここに謹んでお悔やみを申し上げます。
幕末から昭和の歴史を学んでいる身としては、この事件報道に接するやいなや瞬時に下記のことが過りました…
現職の総理大臣在任中、凶弾に倒れた方は五人いらっしゃいます…
伊藤博文(ハルピン駅で射殺)、原敬(東京駅で刺殺)、高橋是清(⟨2.26⟩陸軍青年将校が起こしたクーデターの最中に射殺)、浜口雄幸(東京駅で銃撃され、一命はとりとめたもののその後死亡)、犬養毅(⟨5.15⟩青年将校が起こしたクーデターの最中に銃撃され、その日のうちに死亡)(敬称略)
筆者はその五人の方々に高い関心を持って書物を紐解き、時には人物所縁の地を訪れるなどしてその偉業を研究してまいりました。その中で、浜口雄幸と原敬は、偶然ながら東京駅で凶行に遭っています。その爪痕が東京駅に残されています。
1917年4月18日撮影 凶行があったすぐ近くにあるプレート
1921年原敬首相が現在の東京駅丸の内南口の改札付近で刺される、1930年には同じく東京駅の現在でいう中央通路付近で濱口雄幸首相が銃撃される。乗降客が日々行き交う東京駅には、こうした激動の歴史がひっそりと刻まれています。
尚、このことは以前に当サイトで取り上げていますが、このような悲劇が繰り返されないことを願い、ふたたび取り上げました。
written by Seikou-Udoku
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