今日7月12日は90年前に東京でラジオの本放送が始まった日で、『ラジオ本放送の日』です。
3月22日の放送記念日とごっちゃになりそうですが、放送記念日は試験放送で、今日は本放送が始まった日です。
自分が今の仕事を始めたきっかけはラジオ放送と深い関係があり、まず小学校4年生の時に家にあったトランジスタラジオを聞いて流れて来る音楽に興味を持って、音楽を聴く様になって、ただラジオを聞くだけでは面白くないので、組み立てラジオを買ってもらって自分で作る喜びを知りました。
小学5年生の時にはラジカセを買ってもらって録音して繰り返して聞くという事を知って、それと同時にラジカセに付いていたFMワイヤレス機能を使って友達と電波を飛ばして遊んでいました。
そのワイヤレス遊びをしている時に自分達のワイヤレス電波以外の電波を受信して、何も話していなくいてずっと音楽ばかりを流している周波数があって、その電波の元がどこなのか友達と歩き続けたら、どこまで行ってもその電波は途切れる事がありませんでした。
当時は民放FMというものはまだ無くて、NHKがクラシック音楽や能や朗読などを流していて、歌謡曲などはほとんど流れていなかったので、ラジカセのFM機能はほぼ使っていなくて、FMのワイヤレス遊び以外小学生に用はありませんでした。
それが一日中歌謡曲や洋楽が流れていて、「不思議な電波だ!」と思って、「どこかで電子工学に詳しい大学生が強いワイヤレス電波でも出しているだろうか?」と、毎日その電波を聞いていました。
するとある日、「JODU・FM、こちらはFM福岡の試験電波です。」とアナウンスが流れました。
当時は山口県の美祢市という田舎に住んでいたので、周りにノイズ源が少なく、遠くのFM福岡の電波も弱いながらもラジカセのロッドアンテナで十分に聞く事が出来ました。
その音はこれまでのAM放送とはクオリティーが違い、クオリティーは高くてもクラシックと能と朗読のNHK・FMよりは聴きたい音楽が流れて、そして本放送が始まってからは、「リクエストのお便りは福岡市中央区渡辺通り2丁目電気ビル・・」というアナウンスを聞いて、「渡辺通りってどんな所? 電気ビルってどんなビル?」と山口県の小学生には未知の世界でした。
小学校6年生の時には自分が通っていた小学校は廃校になり、4つの小学校が統合した新しい学校に移る事になり、その学校にアマチュア無線をしている先生がいて、「何だか遠くの知らない人と話せるなんて凄い!」と思い、初級のアマチュア無線の免許を取る事にしました。
それが運が悪い事に、自分が受けた試験は現在の四者択一の答えが4つあるうちから正解を選ぶ方式ではなく、空欄に答えを記入する筆記式の試験で、当時は必死に勉強して空欄に答えを書いて合格する事が出来ました。
次の年には四者択一に変わって合格者が一気に増えて、初級のアマチュア無線の試験は簡単になりましたが、あの時の試験が筆記式だったからこそ電子回路の基本を頭の中に叩き込む事が出来て、それが今のサウンドピュアディオの基本になっていると言っても過言ではないでしょう。
それから中学・高校とアマチュア無線に明け暮れて、学生の小遣いやアルバイトのお金で少しでも遠くに電波を飛ばす事に意識が集中していて、少ないパワーで遠くに電波を飛ばすためにはインピーダンスの整合性を上げてアンテナから効率良く放射させるという技術を身につけて、コイルとコンデンサを合わせたLC回路を作るためにせっせとコイルを巻いていて、それをハンダ付けで繋いで、そんな学生時代に母親が「この子はコイルを巻いて、ハンダ付けをして、こんな事ばかりして勉強をしなくて、将来どうするつもりかね。」と言っていましたが、58歳になった今もコイルを巻いてハンダ付けを行っています。
まるで熱病にでもかかった様なアマチュア無線熱は車を運転する様になってからはカーオーディオという車の中で自由に音楽が聴けるという趣味に変わって来て、通信から音楽を聴く方向に変わって来ました。
ただ音楽を聴いているだけでは物足らず、良い音楽を探し出して伝えるという事がしたくて、昭和60年代に山口県に民放FMのFM山口が開局してから1年間ほど音楽番組を自分が作って、自分が喋るというラジオDJ的な事をしていました。
しかし番組を続けるための安定的なスポンサーが見つからず、1年を持って番組は終了してしまいました。
当時住んでいた宇部市からFM山口のスタジオには車で1時間ちょっとで、行きの車内ではカーオーディオでC番組で流す予定のCDやレコードからカセットテープに録音をした音源を聴いていて、スタジオに着いてモニタースピーカーで今日かける曲をCDとレコードで聴いたら、それは先ほどまで車で聴いていた音楽と全く別物で、それだけならまだしも、プレイヤー頭出し用に小型の10センチのフルレンジスピーカーが付いている音とも違い、カーオーディオ の製品に付けてあるクセにうんざりしていました。
それからラジオDJの夢はキッパリと諦めて、車の中で正確に音楽を再生するという事に専念する様になりました。
それでもどこかでラジオ放送に関わりたいという気持ちがあって、自分がオーディオの仕事である程度大きなお金が動かせる様になった時に、昭和の時代に番組にお金を出してくれるスポンサー探しで苦労した事を思い出して、今ではスポンサーとしてラジオ放送に関わる事が出来る様になりました。
小学生の時にFM福岡の試験放送の音楽だけの電波を聴いて、それからしばらくして本放送が始まり、「FM福岡ってどこにあるんだろう?」と思っていた場所に、まさかレギュラー番組を持つ会社の社長になって、月に何回も行く様になるとは、その時の自分には全く予想が付きませんでした。
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Posted at
2018/07/12 21:25:40