今年の10月10日で宇部市にカーオーディオ専門店をオープンさせてから40年が経って、その40年史にお店をオープンさせる前の12年を含めた歴史を紹介するシリーズの第二弾で、今回は1973年から75年ぐらいまでの中学生活について書き込みたいと思います。
小学校の時に筆記式の試験でアマチュア無線の資格をとったものの、それで調子に乗ってが普通の勉強をしなかったために成績が下がり、それで無線機が買ってもらえずに何となく過ごしていた中学1年生の時に、一緒に試験を受けて落ちた友達はその後勉強を頑張って私立の中学に行き、一時的な勝ち組・負け組が逆転したというのが前回の終わりでした。
もう無線などという事には縁がないだろうと思っていましたが、組み立てラジオなどを作って電子工作は続けていて、8センチと16センチのスピーカーユニットを組み合わせて、2WAYもどきのスピーカーシステムなどを作ったりしていて、FM福岡をノイズレスで聴くためにきちんと波長計算したアンテナも作っていて、どちらかというとオーディオ的な工作の方を行っていました。
しかし中学1年生の後半に運命が変わって来て、2年生の生徒が4人もアマチュア無線の免許を取って、それで開局する事になったので、そこに便乗して親が無線機を買ってくれると言い出したので、これ幸いに買ってもらう事にしました。
当時は中学生・高校生は50メガヘルツからアマチュア無線を始めるというのが一つのブームになっていて、2年生はみんな出力3ワットのポータブル機を買ってもらっていて、自分は無線機の選択を全て親に任せていたら、10ワットの固定機を買って来ていました。
これが大きな間違いで、電池で移動運用が出来る3ワット機に比べて、10ワットの固定機では持ち運べないので、先輩が山の上から電波を出しているのを家で聞いて、「移動出来る機械がいいな。」と思っていました。
50メガはほとんどが学生なので固定機が売れずに、父親が代わりに買いに行ったのでこれ幸いにと売れない固定機を買わされたではないかと思っても後の祭りで、家から飛ぶ範囲は決まっていて、たまに強い電離層反射が起こると関東や東北まで届いて、でもそんな遠い所とたまに話せてもあまり面白くないと、悶々とした状態が続いていました。
そんな中学1年生が最初の間違いを起こして、その時の無線機は固定機ながら12・5Vの安定化電源で動かす無線機で、その電源装置のボルトを上げたら出力が増えて少しでも遠くに飛ぶのではないかという考えになって・・
電圧調整をマックスまで上げて運用していました。
(電源は当時の物とは違います)
ところがそれが中学生の浅知恵で、アンテナと無線機の整合性を上げずに電源電圧だけ上げると、パワートランジスタに無理が行って、最後にトランジスタがパンクしてしまい、当時のお金で2800円の部品を交換しないといけなくなって、ほぼ1か月のお小遣いが飛んでしまうという、とても痛い経験をしました。
しかしこの経験が後のピュアコンを生む根源になっていて、無理してパワーを上げるのではなく、無線機からアンテナに送る電波をアンテナのマッチングを良くして100%放出出来る様にして、パワーを上げなくても遠くに電波を飛ばす方法を考えるという方向転換するきっかけになったからです。
次にお小遣いをためて無線機屋さんに行って、測定器を買って、無線機から出力された電波がいかに効率良く放出されているか測るSWR計を買って、それからはメーターとのにらめっこをしていましたが、もう1つインピーダンスメーターという物があって、これは当時の価格で7万円ぐらいして、とても買える物ではなかったので、インピーダンスがSWR値が下がっているからこのぐらいだろうと予測する、今のピュアコンの調整の基礎となる直感を養う訓練みたいな事をしていたのは、自分としては全く意識などしておらず、単なる技術的な興味だけと、お金が無い分時間を使って延々と組合わせを変えるという作業をしていました。
そのうちに親戚の社会人のお兄さんが、固定機で移動出来ないからとトリオのTR-1200という1ワットのポータブル機を貸してくれて、これが困った事にスケルチというFMの局間雑音のザーを止める回路が付いておらず、相手が見つかるまでザーという音を聞くか、ボリュームを小さくして誰かが呼んだか分からない様な不便な無線機で、無線の本を読んでいたらこのTR-1200にスケルチ回路を追加する記事が載っていて、パーツ屋さんで穴あき基盤と部品を買って来て、見事にスケルチ回路が付いたTR-1200で、山の上で運用出来る様になりました。
これが自分の電子工作で、キットではない基盤のここにこの部品を付けるというガイドの付いていない基盤で工作した第一歩となりました。
中学2年になった時には小6の弟がアマチュア無線の免許を取って、この時は既に試験が四者択一になっていたので合格率は格段に上がっていて、自分が50メガの無線機を持っていたので、弟は144メガの無線機を買ってもらっていました。
ところがこの144メガヘルツは50メガの学生中心から、社会人の人が車に付けて交信しているという全くユーザー層が違っていて、これは面白いと自分が弟用に親が買った無線機を自分が独占して、それで社会人の人の車と交信して、自分は144メガの車載器を自転車の前かごに積んで、小型のバッテリーアンテナを後ろの荷台に付けてそれで移動運用して、お互いに場所を打ち合わせて実際に会う事が出来るというスタイルに無線の運用が変わって行きました。
これはこれまではどんな人の声かが分からなかったのが、本人の生声を聞く事が出来て、性能の悪い無線機やスピーカーでは声が違って聞こえるというのが分かって、より良い音で聞けるといのも一つのポイントになって来ました。
弟用に買っていた無線はアイコムのIC-22というカートランシ―バーで、これもなぜ学生なのにポータブル機ではないのか?という不思議な選択で、父親が同じ無線機屋さんで買って来たので、店の勧められるままで買ったのでしょうが、逆に運の良い事に受信音だけはポータブル機に比べれば良くて、外部スピーカーを工夫すれば交信相手の生の声に近い音を再生出来て、ここが生声を表現する原点になっていると思います。
この頃の交信相手の社会人の方が付けていたアンテナに、ドイツのビジー製のAF-10という優れたモデルがあって・・
トランクや屋根に穴を開けて付ける、アメリカのパトカーやラリーカーに付いているあのアンテナを付けておられる方がおられました。
そのビジーのアンテナのコイルは同じインダクタンスでもQ値が高く、国産の144メガの8分の5波長のアンテナでジリジリノイズが混じるのが、このアンテナだとノイズレスで受信出来るという優れ物でした。
当時自分は144メガの8分の5波長と50メガの4分の1波長の両方に同調出来るアンテナを自分で作ろうとしていて、ビジーのQの高いコイルを目標にしていて、来る日も来る日もコイルを巻いては実験して、測定して結果が悪ければまたほどいてを繰り返していて、あのビジーのコイルの性能の憎たらしい事と、その社会人の人と会ったらビジーのコイル部分をじっと見ていました。
自分がコイルを巻く時にはいつもこの中学生の時のコイル巻きの事を思い出すために、2年前に偶然に福岡の無線機屋さんでAF-10を見つけた時に買って帰って、仕事の前にこのコイルのQを目指した時の中学生の時の純真な心を忘れない様に目の前に置いて仕事をしていました。
同じインダクタンスでも高いQでという中学生の意地みたいなものが、知らないうちに身に付いていて、まさか将来カーオーディオの仕事に就いて役に立つとは知らずに、何か壁に当たったら無我夢中でそれを何とか解決するという、そういう電子工作にかける気持ちは10代の時も60になっても変わりません。
ただこの頃に原音に忠実に受信するという工夫をしながらも、他校の女子生徒の無線家が出て来ると、ちょっといいカッコがしたくなって、社会人の人がエコーマシーンを使って若干の残響を付けて喋っているのがカッコいいと思って、それでマイクと無線機の間に自作のエコーマシーンを作って入れるという、完全な邪道に走った時期もあり、どの方法で遅延させるか?それでいて中学生の小遣いで出来る内容という、かなりチープな物が出来てしまい、直ぐに使わなくなってしまいました。
一度は邪道にそれたものの、再び真っ当に電波を遠くに飛ばすという風にしようと思うと、既に余分な所に費用を使っていて、当時田舎の無線機屋さんで1メートル当り180ぐらいしていたインピーダンス50Ωの5D-2Vのケーブルが必要なメーター数が買えず、仕方なく1メートル当り100円ぐらい安いテレビ用の75Ωの同軸ケーブルを使って、あれこれ工夫して何とかインピーダンスを50Ωに近くして使っていました。
そんなお金が無い時期にインピーダンス変化して作った自作のアンテナで北九州市の八幡西区の人で当時は中学生だった人と何十年かぶりに交信出来て、昔はお金が無かったからあれこれと工夫した話をしていました。
これは現在の無線機の写真で左から351メガ・真ん中上が433メガ・下が145メガ・右が51メガです。
中学の3年間は1年の前半はオーディオ的な実験と、後半から3年までは同調させる実験をして、最後の方はまたオーディオ的な工作をする様になって、今の技術の大事な部分を知らず知らずのうちに身に付けていました。
よく井川のブログはオーディオの話ではなくて関係ない無線の話が出て来ると思われる方もある様ですが、実は他のお店が全く気付かない部分で音質を改善して音に差を付けているのは、こうした学生時代の失敗とそれを努力して越えた成功の繰り返しがあって、知らないうちにそのリズムが身に付いたからに他なりません。
この『今のサウンドピュアディオが出来るまでの40年史+12』は、2回でやっとスタートから5年が経過したまで進んでいますが、2022年までに何回で最終回になるか、書き込んでいる自分にも想像が付きません。