不定期でお届けしている新・お客様の質問にお答えしては、旧シリーズで一度取り上げた事も新しい読者の方のためにもう一度掲載している事もありますので、既にご存じの方は再確認というか、前のシリーズで深く取り上げていなかった部分もあるかも知れないので、もしよかったらお付き合いください。
今回は比較的新しいお客様からのご質問で最も多い、「なぜ社長は高校を卒業して、石灰石加工会社に勤めたのですか?」、「なぜ電気関係の会社ではなかったのですか?」という部分にお答えしたいと思います。
高校3年生の時に、秋になると成績順で就職試験を受ける順番が決まって、学校の推薦が無いと大きな会社の試験を受けたくても受けられないという決まりがありました。
電気科で成績の良い生徒は電力会社や電々公社(今のNTT)などを受けて、自分はそのあたりは興味が無かったのでN社という大手電機メーカーを希望して、学校推薦も決まっていました。
なぜN社が良かったかというと、今は作っていませんが、当時はアマチュア無線機を製造していたというのが魅力で、無線の部所にならなくても会社の無線部に入れるというそれだけで希望していました。
自分の成績には問題は無く、特に専門分野の成績はやたら良くて、更に普通は取れない国家試験も復数合格していて、このまま就職出来るものと確信していました。
ところがある日担任から呼び出されて、「N社の学校推薦は無くなった。」と言われました。
理由はN社の山口工場の役員に機械科の生徒の親戚がいて、N社の山口工場は機械科の生徒を逆指名して来て、今年の本校の電気科の募集は無くなったという話でした。
その時は「なんだ、そんな事だったんだ。」と軽く考えていて、「同じクラスのK君がH社を受ける様になっていて、自分の方が成績がいいから、そこにして下さい。」と言ったら、「もう電気メーカーは全て推薦が決まっているから変えられない。」という事で、自分は街の電気屋で勤めるか、電気メーカー以外の会社を選ぶかの二者選択を迫られました。
ちなみに自分よりも成績が悪かったK君はH社に落ちて、街の電気屋さんで働いていたので、「落ちるんだったら自分と替わっておけばよかったのに。」と思いましたが、そこは変えられない仕組みなのでどうにもなりません。
それで自分は電気とは無関係な石灰石加工会社を受ける事にして、それでもそこは普通機械科か工業化学科の生徒が受ける所で、電気科から行こうと思えば試験で1番にならない限り受からないと言われて、これまでそこの会社の就職試験で出た傾向の分野を一生懸命勉強しました。
そして工業化学科から1名と自分の2人が自分の高校から受かって、4月から働く事になりました。
4月になってから最初の3か月は石灰石に関する講義ばかりを受けていて、「この仕事で定年まで頑張るんだから。」と石灰石の種類や加工後のpH値の変化など、これまで高校で習った事と全く別な事を勉強していました。
これがその後に自分がカーオーディオの仕事を始めて、誰も完成させられなかったセメントコーティングが出来るきっかけになった出来事です。
その後現場に出されて、重油バーナーで石灰石を焼いて砕いて製品化する部所で働いていて、石灰石を焼く窯の温度数十か所と炉に送る重油バーナーへの油圧のチェックを数十か所行うという仕事を任されていました。
数本の窯を何人かで分散してチェックしていたのですが、毎日ほぼ値は変わらず、調べもしなくて「どうせいつも同じ値だから。」と見回りをせずに適当な値を書き込む先輩がいて、これまで何年もそおれでやっているから問題は起こらないだろうと思っていたところで・・
ある日異常が出ている窯があるのに調べずに適当な値を入れていたら、実は異常が出ている部分があって、それが夜12時から朝の8時までの夜勤の時で、同じ班の誰かが朝4時に工場長の家に行って起こして呼んで来て、工場長が窯の前に来た時はもうどうしようもなくて、「窯の火を落とす。」という判断をされました。
こういった工場の窯は一度温度を安定させるのにすごくお金がかかるのでよほどの事が無いと止められなく、しかも中で石灰石が詰まってどうにもならなくなっていて、最終的にその窯は捨てたのではないかと思います。
思いますと書いたのは、その事があって自分はきちんとチェックしていたのに、同じ班だからとめちゃめちゃ叱られて、「こんな会社やってられない!」と現場に出されてから数か月で石灰石加工会社を辞める事にしました。
辞めてから1年ぐらいが経った時に前の会社の人とばったり会った事があって、「お前いい時に辞めたな。」と言われて、例の問題を起こした人がその後にまた問題を起こして、周りは大変だったという話を聞きました。
次に務めた所は当然の事ながら街の電気屋さんで、個人経営の電気屋ながらけっこう大規模で、他の家電屋がやっていない製品も扱っているというのが特長でした。
その普通は扱っていない商品の中にアマチュア無線機とカーオーディオがあって、当時はまだカーオーディオよりも無線に興味があって、「大好きな無線機を扱って給料がもらえる!」とかなり有頂天になっていました。
ところが無線機というのはものすごく儲からない商売で、自分でも「こんなに儲からないのか。」とガッカリするもので、これは仕事にならないと思っていたところに更に追い打ちをかける事が起こりました。
それは無線機は国家試験を受けてその級によって10ワット・100ワット・500ワットと使える無線機が決まっていて、高い無線機は難しい上級試験に受かった人しか買えず、市場が小さい割に売りたい無線機屋さんの数が多いから値引き競争で儲からないという仕組みが出来ていたところに、それでは生活が出来ないからと無免許の人に500ワットや当時許可が降りなかった1000ワット機械を売る店が出て来て、それがあっという間に全国に波及して、日本全国違法無線だらけになって、『無線=難しい試験に合格した人の特別な趣味』から、『柄の悪い無法者が妨害電波を出してもなりふり構わず交信を楽しむ』という、全く別なイメージになってしまい、無線を趣味にしていること自体が恥ずかしくなって、アマチュア無線をやめてしまいました。
それと同じ頃にディスコという音楽を浴びながら踊るという場所にはまって、ディスコの行き帰りにカーオーディオで音楽を聴くというのが趣味に変わりました。
そして自分が勤めていた会社もカーオーディオを販売していたのですが、販売のみをオーディオ担当者が行って、取り付けは電装屋さんが行うというスタイルで、それを受けていた電装屋も20人ぐらいいる大世帯の所で、勝った人⇒販売した人⇒電装屋の営業⇒電装屋のピットと伝言ゲームで、「言っていた取り付け方法と違う!」というトラブルが多く、カーオーディオが段々ブームになって来て仕事が増えれば増えるほどトラブルが増えて、「電装屋が営業とピットが分かれているのがトラブルの原因ではないか?」と考えて、会社を辞めてカーオーディオの出張取り付けを行う仕事を自営業で始まめした。
これは最初の頃はうまく行っていて、販売した先に行って営業担当者とお客さんが一緒におられたら前の会社の様なトラブルが無くて、最初はスムーズに仕事が進みました。
しかしお店側もどんどん仕事が増えれば販売してお客さんを帰して下請けは付けるだけになって、前の会社ほどは無いにしても、お客さんの不満は出て来て、やり直しの仕事も出て、手数の割には儲からなくなりました。
そこで22歳の時に自分が販売して自分が取り付けるというスタイルにして、今年の6月で62歳になり、この秋の10月10日では何と40周年を迎える事になりました。
店舗を持って少ししてヴァン・ヘイレンの1984が流行って、プリンスの1999が流行った時は、「1999年って本当に来るの?」と思っていたら、もう1999から23年が経っていました。
文字だけで長い書き込みとなりましたが、18歳の時は運悪く電気メーカー勤める事が出来ずに自分は何て運が悪いんだ!と思っていましたが、あの時に機械科の同級生にはじかれていなかったら、今ここにサウンドピュアディオは存在していなかったと、逆にメーカーに普通に勤めていたらと思ったらゾッとします。
それはメーカーに就職した同級生が40代の後半ではリストラされていて、昭和の終身雇用制が壊れていて、逆にサラリーマンでなくて良かったとも思っています。
そして2年半前にあれだけ嫌だと思っていた無線を再開して、違法無線もほぼ世の中から消えていて、色々と実験を行っていたら、中学生から高校生の時に波長を合わせるとか、インピーダンスの整合性を合わせると頑張っていた事が、こんなに無意識のうちに力になっていたんだと実感して、当時は無かった波長の合わせ方やインピーダンスの合わせ方を習得して、今最高潮にカーオーディオの音が良くなっています。
ただ純正オーディオから換えられない車が増えていて、プレミアムサウンドのインピーダンスが特殊な車が増えて来て、今まで以上の力を出してやっと前の車と同じレベルに出来るという、とても大変な時代に突入しているなと思っています。
以前のブログと重複している部分も多々ありましたが、文字だけの長文を最後まで読んで頂いて、ありがとうございました。