介護の日々は子育てに似ている。
何もできない人の代わりにご飯を作り食器を洗い、洗濯をし、ゴミを捨て、家事全般をする。
何度言ってもできない事に小言を言いながら問題に対応する日々。
人によっては高齢者を子供に対するように扱ったり赤ちゃん口調で話しかけたりしている。人は言語が不自由だったり動作が拙いと、それを幼い子供のように感じてしまうからだ。日本語が喋れない外国人の人に赤ちゃん言葉で話しかけてしまう人もいるぐらいだ。
この辺りで決定的に違う部分に気付いていく。
幼い子供であれば、これからだんだんとルールを覚えていく。だんだんと器用になっていってできない事もできるようになっていく。
人に気を使ったりお手伝いができるようになっていく。
子供は成長していく存在だ。そこには希望がある。手間もどんどんかからなくなっていく。
しかし、高齢者は確実に衰えていく。
今までできていたルールを守れなくなったり、不器用になってできない事が増えていく。体を動かせなくなったり、身のまわりのことができなくなり、トイレができなくなり、やがて痰の吸引なども必要になっていく。
介護は何処かの区切りを迎えるまでひたすら手間が増え、衰えていく様を見続けることになる。認知症が進めば真っ先に身近な人が分からなくなる。やがて一人では手に負えず施設で見てもらうようになっても、自分の手間は減るとは言え衰えていく様を見続ける。
そこには絶望しかない。
自分のように被虐待で親の顔色を読み取ることが生きる術になり、親がはめた枷から逃げる方法を考えることが人生のテーマになってしまい、やがて介護で最後まで親の支配を受け続け親のために生きることを強制される人間は、最後を迎えたときどう感じるのだろうか。
親の束縛や心理的にはめ込まれたその義務感から解放されたとき、自由を感じるのだろうか。いや、おそらく虚無感しか感じないだろう。
何を目標に生きればよいのか分からなくなる。
そして親に縛られ続けた一生だったと思いながら一生を閉じることになる。
そこから自分らしい人生を送れるだろうか。もうその頃には60代になっていて自分の人生の幕引きを考える時期になっているかもしれない。或いはもっと歳を取っているかもしれない。
子供もいないし大した財産もない自分は、社会の高齢者を切り捨てようとする圧力の中で唯一人で縮小し続ける高齢者福祉をわずかに利用しながら、自分が親にしたようなことを誰からされることもなく孤独死することになる可能性が高い。
結婚しなかったのが悪い?
虐待サバイバーが普通の恋愛をしたり結婚/子育てまでたどり着くことにそもそも困難性があり、しかも就職氷河期を生きてきた自分にそんな余地はなかった。
親に抑圧され束縛され様々なことに制限を受け、親の介護を義務づけられ、親が最後の時を迎えるまで仕え続ける。
その後は何にもない。
自分は多趣味で多能性が高い人間ではあるけれど(それも根本には自分をぞんざいに扱い認めてくれない親に自分を認めてもらおうとした結果)、60を過ぎたときにできることは限られている。
そもそも自分のために生きられない自分が、何を支えに生きて行くのだろうか。
虐待は子の人生をとんでもなく狂わす。
安定が怖い、幸せが怖いという気持ちが分かるだろうか。
自ら幸せを壊してしまったりするほど、虐待サバイバーは追い詰められている。自分のためには生きられない。
自分の人生を最初から諦めている。
さらにひたすら日本社会からババを引かされ続けた氷河期世代でもある。今後もババを引かされることが確実である。
この先には真っ暗な未来しかない。
Posted at 2025/10/21 05:10:34 | |
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母の介護 | 日記