写真は本文とは関係のない、ピアッツァのフロント付近。
このところ夏を振り返るモード。
今年の夏の「やった」感、満足感は、少しあった。
しかし、なんだかいつもこの時期感じるのが「不完全燃焼」感。
やってもやっても感じる。
芸術でも研究でも突き詰めれば終わりがないのと同じで、一つこなせばまた新たな課題が生じ、つきることがないのが一つの理由。
もう一つは「夏」という特別な時期が終わってしまうことだろうか。
ヒトという動物にはこの時期になしておくべきことがあって、その時期が終わってしまうこと自体が大切なことができなくなるためにこのような感情を持つのかもしれない。
だが、もっと別な理由がありそうだ。
子供の頃は、夏にいろんなことをした。虫取りも電子工作も専門書を漁っての研究(?)も。規制し縛り付けることしか能のない親の元でも、新たなことを体験し知る最高の季節だったと思う。達成感などはなかったと思うが、それでも日常を超える経験ができる時期を過ごしていた。
年を経る毎に、やるべきことが少なくなってきてしまったような気もする。日常のなすべきことが多くなったせいか動きが取りづらいし、興味を持ちエネルギーを振り向けるべき対象がすっかり減ってしまったような気もする。専門性が高くなり過ぎ、個人レベルではどうにもならないこともある。研究の最先端の場には戻れない(生態を追うフィールドワーク出身の人は長期の休みにフィールドワークをするそうな。在野でもできる研究)。経験値がそれなりにあるので、最初から読めてしまうことには夢中にはなれない。年のせいか根気もなくなった。
今年の夏はクルマいじりに割りとエネルギーを傾けたけれど、クルマというのは私にとって決してものすごく大きな割合を占めるものではない(だったら2台持ったり全塗装するかというつっこみはあるだろうが)。いくらあえて稀少なものを自分の手をかけて苦労して維持し、小モディファイなどしてみても、ゼロから作り出すことにはもちろんかなわない。そういう意味ではあくまで小さなクリエイティビリティ・小さな満足感。達成感はあまりないのだ。
自分の中ではもっとクリエイティブでありたいという欲求が根強い。自分のエネルギーのすべてを注ぎたい。
社会人になったとたんに自分の能力も経験も評価されない単なるコマとして扱われる羽目に。それは私の職業選択の大きなミス。積極的な選択はすべて否定され、消極的な選択肢か許されなかった子供時代の負の遺産。
それでも打って出て情熱が結晶した過去もいくつかあるけれど、過去は過去。
今が大切。今を精一杯生きたい。「出来る範囲で」ではなく「限界に挑戦して」。
今年の夏もそんな風には過ごせなかった。
もちろん、用意された観光資源を消費しに行っても満たされることはない。
こんな気持ちが日常の不完全燃焼感をより強め、何の達成感も得られない仕事をしている日常の自分をより落としていく。
まとまった休暇がある夏が終わり、達成感がなく自由も裁量も効かない完全日常モードになると、結構厳しい。
戦国武将・真田幸村は、人生の最後の最後で花開いたが、それまでは若い一番いい時期を浪費させられ不遇だったと先日のNHKの番組では紹介していたように思う。戦死とは言え家康を追いつめる活躍を自分ではどう評価しただろうか。
人生の最後に充実感を感じて終えることはできるのだろうか。
振り返っていい人生だと思えることが誰しもの望みだろうが。
Posted at 2009/08/29 11:35:40 | |
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ひとりごと | クルマ