夢に向かって頑張り、困難を克服しつつ、それを実現することはすばらしい。
脳内で起きていることと言えば、A10神経の興奮、ドーパミンの放出によって快感を得る「報酬系」のはたらきである。
元来、生き物は「欲求」を感じ、それを満たすように行動する。食欲がわき、食事をすると言ったことだ。ここで働くのが報酬系である。
報酬系は欲求が満たされて「快感」を感じさせるが、将来欲求が満たされることが分かっているときにも興奮し快感を感じさせる。これは辛いはずの陸上長距離選手が辛さを感じずに走っていられる状態であり、いわゆる「ランナーズハイ」と同じ状態である(ただし、こちらはストレスに対する防衛でもある。完走する、上位に入ることが報酬にあたるだろう)。
人間というものは、将来の報酬、褒められる、ご褒美をもらえる、ボーナスをもらえるなどの状況があれば報酬系のはたらきでドーパミンが放出され、意欲がわく。だした結果に応じて報酬がより大きくなるのであればより意欲は高くなる。
ドーパミンの放出は大脳前頭前野を刺激し、さらに発想・イメージ・創造性を高め、快感のみならず極めてクリエイティブで活性化した状態を作り出す。
逆に、何の達成感もない状態、何をやっても結果は同じであれば意欲は低くなる。生産性も低くなる。
海外のファンドマネージャーが強いのは、自分の報酬に帰ってくることが大きい。日本のようにサラリーマンファンドマネージャーでは、比較して成績が今ひとつでも当然だろう。
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ステージを作るというのは、この報酬系をかなり刺激する。
いくつものステージに関わってきたが、自分が主体的に関わるイベントで、自分の能力をフル活用して取り組め、準備をし、本番に挑み、完走すると、とてつもない喜びがわき起こる。次はもっとすごいことに取り組みたいなどと思ったりする。
成功で人から賛辞をもらう喜びもなくもないが、むしろ自分自身の内発的な報酬になっている。これだけのことができたのだという喜びだ。具体的な報酬が得られるものと違い、内発的な動機付けの達成は、さらなる目標を設定しての発展を目指しやすい。
自分が参加しても、その能力を発揮する機会を次々と奪われて、より適任がいて自分がやらなくてもいい仕事をやらされるのであれば当然意欲などわかない。実際そんなこともあった。
完全に本番だけのお呼ばれスタッフで、知らない人たちに使われて、訳が分からないまま現場をこなして、はいサヨウナラというのは最悪である。これをボランティアでやらされたこともままある。というかごく些少のお礼をもらっても喜びなどあるわけがない。地元のホールのイベントで、常駐スタッフがおらず、わかる人がいないからと突然よばれてやる羽目になったことが時々あった。
一方、義務として属する集団で、一切自分の能力を封鎖され、工夫の余地を奪われ、その条件で困難なことばかりをやらされ、そのうえ身に覚えのない悪評を何度も立てられ直接的にも攻撃されることが何度もあるという状態のまま長く過ごしてきてもいる。
ここで奪われる時間が大変長い。クリエイティブな活動との落差は大きく、こちらが主体であるために鬱病手前まで陥ったこともある。
これはできる人間がいてを、それを敵視する人間が窓際に追いやると自主的に仕事をやめる原理そのものだ。クリエイティブな人間にとって、飼い殺しが一番辛い。
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自分の知っている人の中で、仕事を辞めて自分のやりたいことをやろうとする人が幾人かいる。
将来自分の店を持ちたいと、転職した人もいた。夢の実現のためだ。
夢とはなんだろう。
夢というのは、基本的に内発的なもの。自分自身で設定して報酬系を活発化させることだろう。夢の実現で得られるものを想定することでA10神経が興奮し、意欲が高まる。
夢は具体的なものでないと想定できないし、実現可能でないと想定不可能だ。
大金持ちになる、社会的に成功するというのは分かりやすい目標設定だが、自分のお店を持つというのも一つの自己実現だ。おそらく大金持ちになることも、社会的な成功にもなりにくいが、自分自身が主として好きなことをやって生計を営むのは、喜びとなり得るのだろう。
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会社を作るだけなら、今は簡単だ。資本金を用意して法人登記すれば会社は作れる。たちどころに取締役社長だ。だが、何をやるかが問題だ。訳ありでペーパーカンパニーを作ることは自己実現にはならない。中身がなければ登記する意味がない。
自分の場合は、能力的にやれることはたくさんあるが、やりたいことと言われると考え込んでしまう。自主性をたたきつぶして育てた親・兄弟の教育のたまものだろう。自分の発言・発想を全て禁止される中、親の目を盗んでいろいろな能力を自分で育てたが故にどうもアンバランスだ。いまだにやりたいことを考えること自体に罪の意識を感じる。こんな人間に夢は持てない。
最近はみんカラでブログを書いていて、私が車いじりがなにより好きであるように思っている人もいるけれど、車全般に強い興味があるわけではないし、デザイン的な好みで車を持っていて、その維持のために自分の能力を動員しているのであって、そのために車に関連する技術・技能・知識も身についている。車そのものがものすごく好き、車が趣味というのはちょっと違うように感じている。このあたりは一時期のピアノにも通じる。ピアノを買うために知識を蓄え、演奏技能も使ったが、ピアノが三度の飯より好きなわけではない。ただ、どうせ買うなら自分が納得のいくものを欲しかったし、街にも街のコンセプトを生かす優れたピアノがあるべきだと主張しただけだ。その結果業界の裏まで見えてしまったのだが。
この国の体制を立て直したいとか、教育制度を見直したいとか、すぐれた空間を持つ街を作りたいとかは究極的な夢ではあるけれど、それは今の自分に実現可能な範囲にない。相当困難だが、地方行政単位で何かを実現したところでそれが全体をかえることにはつながらず、もっと根本的な手段を用いなければ不可能だろう。
私が住む幕張ベイタウンは、集合住宅による団地でありながらデザイン的に団地ではないという、集合住宅での街づくりへ大きく石を投じたプロジェクトだ。少し前の公団でやった
ベルコリーヌ南大沢は単一組織によるものだが、千葉県企業庁は6住宅グループを参加させての街づくりを試みた。※
そうした街づくりは見学者も多いがそれを生かした国内プロジェクトは聞かない(その余裕がある自治体はどこにもないだろうし)。海外、韓国ではサムスンだったかが主体で似たようなコンセプトで開発をやろうとしていたようだが、その後どうなったかは聞いていない。
一石を投じたところでそれを広げるのは容易ではない。旧来の構造はそう簡単には変革できない。 なので「がらがらぽん」が必要だ。
私が唯一夢を持てるとしたら、がらがらぽんが起きることが前提なのかも知れない。
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ただ、その壮大な計画はバブルによるものであり、中身は結局縮小、コンセプトの見直しも随所に起きた。さらにごく一部住民だけが企業庁との関係をもってそれを住民全体に広げる努力を怠ったために、幕張ベイタウン・コアというコミュニティ施設の北側半分の建築計画は挫折。千葉県企業庁解体と共に今後再開する見込みがなくなってしまった。住宅グループも
JVは一時的なもので、街づくりが終わればそれまでだ。