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Yuh_Fazioliのブログ一覧

2015年02月21日 イイね!

ドラマ等の最後の「引き」


 ドラマやアニメでは、次の期が制作される場合、謎を残して次の期への期待を持たせる終わり方をすることが多い。主人公の絶体絶命のピンチなど。

 その手法を、クリフハンガー(崖からの宙吊り)と言う。アメリカの連続ドラマでよく見られる。

 アニメ:アルドノア・ゼロでは見事にやられた。

 その典型的な例がWikipediaにあったので転載。成る程ねえ。


一般的なクリフハンガーの例

・銃声が聞こえた場所に行くと人が死んでいる。死者の身元は不明のまま終わる。
・中心人物が瀕死の重傷を負う。一命を取り留めたのか没したのかは不明。
・事件が未解決のまま終わる。
・絶体絶命のピンチになる(敵に追い詰められたり自分の立場が危なくなるような事件が起きたり)。
・敵の黒幕と出会う。だが視聴者には正体が分かる寸前で終わる(黒幕と対峙、「あんただったのか……!」、相手は後ろ姿等)。
・物語から消えていた登場人物が前触れもなく登場する(作中では死亡したと思われていた等)。

 クリフハンガーで一番多いのが「誰が死んだのかわからない」である。アメリカでは俳優との契約はシーズンごとに行われるので、契約交渉が失敗するとその役者は次のシーズンでは突然ドラマから姿を消してしまう。そのために次のシーズンでその役者が出なくてもいいようにするためにこのようなクリフハンガーを使うこともある(なぜか最終回になって俳優・女優の髪型が急に変わったりするのは、次のシーズンに出演するときにその髪型で出演するため)。
Wikipedia クリフハンガー


 クリフハンガーで終わっておきながら、続巻が書かれずじまい、続編がつくられずじまいと言うこともまた多い。
 そう言うのは、頭来るなあ。

 アニメなんかだと、今どきのやり方だとメインスポンサーがなく、DVDやキャラクターグッズ等で利益を出すので、1期やって売れなければ2期はない。中途半端な最終回のアニメ作品が増える原因。



2015年02月14日 イイね!

ポニョを今更見た


 ジブリ作品(のうち宮崎駿監督作と近藤喜文監督作)は、「天空の城ラピュタ」以降、「千と千尋の神隠し」まではおおよそ映画館で見たが、それ以降は見ていなかった。

 「もののけ姫」でなにかが既に終わりつつあるような印象を受けていたし、「千と千尋」で作品としての作り方が変わって「?」があった。メタファーらしきものが多すぎる。もちろん、作品として楽しめたのではあるが。

 「ハウルの動く城」はDVDを買った。これも楽しめたのではあるが、原作のある作品で、「?」もあった。
 「おもひでぽろぽろ」と「平成狸合戦ぽんぽこ」はTVで。これは高畑作品なので、これはこれとして。
 
 「ゲド戦記」以降は全く見ていなかった。かなり低年齢向けに振った感があった「崖の上のポニョ」も駿氏の監督作品だが見ずにいた。

 近年ジブリ作品とは縁が無かったが、先日ジブリの後継者問題に関心を持ったこともあって、マロ氏がアニメーターとして宮崎駿氏を唸らせたという「崖の上のポニョ」を見てみたのだ。

 
 **

 この作品については、以前NHKで制作のドキュメンタリーを見ている。そこでは宮崎駿氏がさんざん苦しんで絵コンテ(脚本ではなく絵コンテからつくっていくのが宮崎駿流)を捻出している様子が映し出されていた。

 そのイメージがあるせいもあるが、本作品ではジブリ初期に制作された、若かりし頃の宮崎駿があたため続けてきた作品群との違いを鮮明に感じた。なにより分かりにくい。

 脚本としては、何かをあきらめて、手慣れた構成・展開でそれなりにまとまって、なるようになればいいと言うぐらいの開き直りを感じた。

 その代わりにアニメーションとしての表現にこだわって、作画には一切CGを使わず(彩色以降はデジタル)、誇張やデフォルメ、現実にはあり得ないことを次々と出し、ファンタジーらしさを強調している。

 極めて現代的な、名前を呼び捨てにする親子関係、託児所、老人ホーム、ゴミで溢れる海が描かれる。そこに魔法や魔法使いなどファンタジー要素を組み合わせる一方、かつてのナウシカやトトロなどにあった現代文明批判みたいな要素もあるが、メッセージ性を強く持つものでもない。津波という災厄をもたらす存在となるポニョが全くその自覚無く、またそうと捉えられることもなく描かれる。ポニョの父親であるフジモトにとっても母親であるグランマンマーレにとっても幼い子どもを人間にして手放すことは大きな決断であるはずだが、ポニョによる魔法の暴走で地球が破滅することを避けるためとは言え、意外に淡々と描かれる。
 そして全ては宗介とポニョの「スキ!」のキスで解決され、その瞬間にストーリーも全一巻の終わりとなる。
 唐突だしなぜか分からない展開も多い。


 ストーリーとしてはなんだかよく分からない。開き直っていろいろなものをちりばめて、それをエンターテインメント性でまとめているようにみえる。それがちゃんと作品として支持されるものになるのがすごいが、なんだかよく分からないから解釈も多様にできてしまう。

 宮崎駿氏は、多様な解釈が可能な作品が増えたことについて、「自分の変化もあると思いますが、もう1つは世界がますます複雑になったため、現実の世界を追いかけていくうちに映画が複雑になってしまったのです。」と言っている。
“ポニョ”を作りながら考えていたこと:
「世界は美しいものなんだな」と感じてくれる映画を作りたい――宮崎駿監督、映画哲学を語る(後編)


 海に沈み、ポニョの両親にして元人間の魔法使いフジモト、母親にして海を司るグランマンマーレと共に過ごし、なぜか車椅子なしに歩けるようになり元気になる老人ホームのおばあさん達、そして宗介や母親リサは、いったんあの世に行ったかのようにも見えるが……。

 宗介の母親のラリードライバーのような運転テクニックは、宮崎作品でおなじみの超人的な登場人物の活躍のなごりのようなものかも知れない。しかし、それは超常的な存在達にすっかり食われている。あくまで現代の何処かにいる人間であって、人間はそういう活躍をする存在としては位置づけられていない。

 

 初期イメージボードからは大幅に変わっていることを見ても、相当に苦しんだ様子がうかがえる。
 宮崎駿にしか作れない作品に仕上がってはいるけれど、なにかこう無理矢理ひねり出した感がぬぐえなかった。

 宮崎駿はこのあと「風立ちぬ」で長編作品から引退。「ポニョ」から全く方向性の違う作品に挑んでピリオドを打ったのは、何となく理解できるような気がする。

 **

 ジブリの後継者となるはずだった近藤喜文氏(「耳をすませば」監督)が過労死し、ジブリを引き継げるものはいなくなってしまったのだろう。作品を見ても、そこをむりむりやって来たように感じた。

 ジブリが「風の谷のナウシカ」の成功から宮崎駿・高畑勲・鈴木敏夫の三人で作品をつくるために設立した会社であるから、後継者が育ちようがないという評もある。
 外から人を招いても次々と降板させてしまうし、かなり無理のある宮崎吾朗の担ぎ出しも宮崎駿の反対からうまく言っているとは言いがたいし、吾朗氏にしても、生え抜きの米林宏昌氏(「借りぐらしのアリエッティ」「想い出のマーニー」監督)にしてもも、どうも観客の心をわしづかみにできる表現者ではないようだ。こぢんまりして、ジブリ作品の文法の中で小さくまとまった作品作りしかできずに終わりかねない。

 ジブリ界隈に後継者として最適と皆が認める人材は見当たらないようだ。

 だからと言って、庵野秀明氏を後継者と言われても……。それは違うだろうに。ヲタクなメカ表現にひたすらこだわる一方で何処かから借りてきたものを多数組み合わせる作風の庵野氏に、宮崎駿氏の作品に見られるあたたかみや作品構成力を求めるのは違う気がする。

 **

 ウォルト・ディズニーなきあとのディズニーはしばらく停滞が続いたが、その後のディズニーは伝統を守りつつ革新をつづけ、大きな成長を続けている。これがジブリの今後のモデルのようにも言われる。
 まあ、同じことを続けていても飽きられるし、本人以外がやれば亜流のそしりは免れない。そして、宮崎駿や高畑勲本人も当然金太郎飴のような作品を作り続けたわけではない。
 ジブリらしさを持ちつつ新しい表現や内容で惹きつけられる作品を生み出し続けられるかどうかが、ジブリ存続の絶対条件なのだろう。

 ジブリはこの業界では例外的に正社員だけで構成されていて、ブラックと言われるアニメ業界の今後のためにもこの雇用を守らなければならない。
 そのためにも、真の意味でジブリを引き継げる人材の登場が待たれる。

 もっとも、宮崎駿氏は、商業的な成功を目指した人ではないのだが。

 一体どうなってしまうのだろう……。

 単なる一視聴者・観客としては、突拍子もなく、わくわくするような作品が生まれるといいのだが。



 
2015年02月08日 イイね!

新世代アニメをつくりあげられるか 宮崎吾朗と米林宏昌


 宮崎吾朗のことが気になっていて、行き着いた動画。NHKスペシャル 2014年8月8日放送だったものらしい。

アニメーションは七色の夢を見る 宮崎吾朗と米林宏昌

 
 ジブリを出た宮崎吾朗とジブリで次を担おうとする米林宏昌(マロ)両監督の足跡をたどっている。

 吾朗氏が3DCGという手段にこだわって難しい感情のアニメーション表現を切り開いていこうとするのに対し、マロ氏はこれまで通りのセルアニメで、アニメーションになりにくい心理描写の多い作品に挑戦する。

 この二人を対比させている。


 しかし、経験があまりに浅く、手法もスタッフも新しい吾朗氏はかなり厳しい状況にあると言える。
 たたき上げてもいないし場数も踏んでいない吾朗氏には、制作スタッフとの共有言語がもてていないかのようにすら感じる。

 ジブリが3DCGを嫌い、あくまで手書きセルアニメにこだわることに対して、そこを出た吾朗氏には3DCGにこだわらなければならない理由がある様だ。
 だが、3DCGにこだわるなら表現の方向を見直すべき。父らのつくってきた表現を神聖視しすぎているように感じる。

 正直言って困難が多すぎるし、結果として作品としては今ひとつではあるけれど、心情的には吾朗氏を応援したい気持ちにはなる。

 もちろん、宮崎駿/高畑勲が関わらない初のジブリ長編作品を背負ったマロ氏も応援したいとも思う。

 しかし、彼らの行く道は厳しいようだ。


 宮崎駿は、アニメーションをやりたいという人間はもういない、彼らはアニメに幻影を持つ最後の世代だと言う。

 国内だけでは人件費的にとても成り立たないアニメ産業が有能な人を呼び込みにくいこと。
 利益は小さいけれど安全最優先で、ライトノベルやマンガを原作とした、エロ萌え魔法暴力しかないようなアニメが乱造されていること。

 他にもあるかも知れないが、アニメーションの未来はかならずしも明るくは見えない。その中で彼らはどんなアニメ表現をしていくのだろう。

 重いものを背負って彼らが制作した「山賊の娘ローニャ」も「思い出のマーニー」も、評判は今ひとつ。
 現実は厳しい。

 彼らを縛る呪縛から解き放たれないと、新しいアニメーションの世界は見えてこないのかも知れない。
 
2015年02月08日 イイね!

山賊の娘ローニャの不自然さ

山賊の娘ローニャの不自然さ
 山賊の娘ローニャというアニメ作品が現在NHK BSプレミアムで放送されている。

 放送開始時に、まったく予備知識なく1話を少しだけ見たが、

・3DCGだけど、人物や動物の動きの表現力は随分上がっているなあ。ぱっと見はセルアニメっぽくよくできてる。しかし……。
・わー、3DCGで子どものキャラを描くと、動きや表情がなんか無機質でものすごく不自然。
・頑張ってはいるけどやはりセルアニメ風処理は違和感が強い。
・話が間延びしているし、絵のせいもあるのかキャラクターに親近感を感じない。
・子ども向けアニメに山賊って、ありなのかなあ。
・見ているのがつらいなー。

等々と思い、1話見きることなくやめてしまった作品。まあ1話で切ったからと言ってその作品が悪いとは限らない。SAOも、実は1話の途中でつらくなってやめている。1話見きればぐいぐい引かれていただろうが。
 しかし、この作品についてはどうにもよい評価を聴かない。

 **

 その後知ったところでは、宮崎吾朗監督作品だとのこと。宮崎駿の息子にして、「ゲド戦記」で監督デビューし、宮崎駿脚本参加で「コクリコ坂から」を送り出してきた吾朗氏であるが。

 今回のローニャも含め全て原作もの。しかし、ゲド戦記は評判が悪く,内容改変で原作者からもクレームが付く始末。コクリコ坂はそれなりの成功作になっているようだ。

 アニメーションとしては三作目になるローニャは、今回ジブリ外で監督を務める彼にとって重要な作品になるはずだが、どうも評判が悪い。先ほど最新話を見てみたが、やっぱりつらい。


 原作は「長くつ下のピッピ」等で知られる児童文学作家アストリッド・リンドグレーン。ちゃんとつくればそれなりになるはずの作品。それをかなり原作に忠実になぞっているらしい。

 ならば、見せ方を間違っているのだろう。なんといっても3DCGが不自然に感じる。
 リアル方向にフルほど不気味の谷に落ち込むが、セル画調にすると、工夫を重ねないと自由度の高い絵表現のあるセル画との違和感がつきまとう。

 ローニャのそれは、たとえて言うなら、目が全く動かず表情がない着ぐるみのリカちゃんを見るような感覚なのだ。もちろんそれよりは遙かに巧みに作り込まれているのだが、よく言っても大根役者が指導されずに演技をしているかのような見ていられなさがある。

 背景は完全に2次元なのに、3Dでモデリングされたキャラクターは動くほどに立体物に見える。紙の背景の前で人形を動かしている感があり、これは違和感の原因の一つだろう。

 同じフル3DCGでも、あくまで無機質に見せていた「シドニアの騎士」は3DCGの特性を逆手に取っていたように見えるし、「蒼き鋼のアルペジオ -アルス・ノヴァ-」は色使いのうまさ、動きへのこだわり、アップやぼかしなど様々な手法で動画から3Dモデルらしさを消し、セルアニメ的魅力を作り出している。
 セルアニメ風に処理しているにもかかわらずそういうこだわりや工夫がローニャにはあまり感じられない。それだけにいくら動きがよくても違和感が目立つ。

 3Dでやるなら徹底的にセルアニメに似せるか(既にかなり技術がある)、セルアニメとは縁を切り、もっと大胆に造形を変化させて3DCGならではのやり方を目指さないとダメなのだ。米ピクサーはこの点よく分かっているのだろう。

 それにもかかわらず、ローニャではストーリー展開が妙に遅く、その分3DCGでキャラクターが動く様子ばかりやたらに見せられる。そこが見ていられない部分だけに、ついて行けない。

 背景はすばらしく、普通にセルアニメでやればもっとキャラクターが生きただろう。
 
 **

 何で無理のある企画が通ってしまったのだろう。

 セルアニメ調3DCGが適している作品とも思いにくい。
 また、原作に忠実にやることになっているらしく、2クールでやるほどの中身が原作にはないので間延びになってしまうらしい。
 厳しい条件で、そこを面白く惹きつけるものに仕上げるには絵コンテ段階でかなり頑張らねばならないだろう。しかし、その力量は吾朗氏にはなさそうだ。

 吾朗氏は担ぎ上げられてアニメ業界に入った。アニメ業界でたたき上げてきたわけではない吾朗氏にアニメ監督は酷な気もするし、企画の問題は吾朗氏の責任ではないかも知れない。しかし、絵コンテを描いているのは彼のはずで、見るのがつらいアニメにしてしまっている責任は確実に彼にあるだろう。

 宮崎駿の息子として、年齢が上がってから経験もなく同じアニメ世界へ担ぎ込まれ、様々なプレッシャーと批判にさらされ続ける吾朗氏は気の毒には思う。しかしそれも結局は彼の選択だから、何とかやっていくしかないのだろう。

 それにしても、なぜ困難の多い企画の監督をやることになってしまったのだろう。「ジブリを出て武者修行」と言われているらしいが、経験の積み方がおかしくはないか。もう少しライトな企画を多くこなしていけばよいのに。

 **

 ところで、最近のアニメでは3DCDは当たり前に使われるようになっている。メカ類を中心とした使われ方からどんどん広がっていて、フル3DCGも制作されるようになってきた。アニメ製作における3DCGは制作費削減の決め手で、もはや止まらない方向性らしい。
 3DCGでも伝統的なセルアニメのように見せる技術力はますます高まるだろう。

 ただ。それがコストダウンのために進んでいる方向であるので、創作物としての出来とは関係がなく、むしろ低コストで乱造される方向がますます強まるのかも知れない。

 ラノベ原作の、1クール尻切れトンボみたいなアニメばかり量産されても仕方がない。

 アニメの製作のあり方を変えていかないと、海外の作品に押されてどんどん尻つぼみになっていきそうだ。


 
 
 

 

 

 
2014年07月27日 イイね!

あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。


 時間があったというか、何もする気が起きず、名前は良く見るが中身は全く知らなかったアニメ作品を見てしまった。タイトルで食わず嫌いをしていた作品である。

『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』


 子供時代の秘密基地の集まり「超平和バスターズ」。ところが関係のもつれから起きたある事件のあとに、その一人の少女「めんま」が事故で亡くなってしまう。「めんま」やお互いへのそれぞれの思い・後悔・わだかまりの中で、やがてばらばらになってしまう。
 時はたち、高校生となったある日、亡くなった幼なじみ「めんま」が、当時のリーダーで今は引きこもりの高校生「じんたん」の前に幽霊として現れる。当初トラウマによる妄想と思った「めんま」を受け入れ、「願い」を叶えるべく動き出す。他の人には見えない彼女の残した「願い」とは一体何なのか。やがて再び集まったかつての超平和バスターズのメンバーが、それぞれの思いやわだかまりにケリをつけるべく、彼女の「願い」をかなえ、成仏へと動き出すが……。
という感じのお話。原作のないアニメオリジナル作品である。連載中の話題作のアニメ化と違い、きっちり完結している。作品というのは本来そうあるべきだろう。

 決して新規性がある訳ではなく、普遍的な要素からなっている作品ではあるが、ギャングエイジたる子供時代の感性、自己の内面へと向かっている高校生の感性、その時代時代の恋模様、利己と打算、その昇華・和解・成長が上手に描かれている。時に自らの心の利己をもつつかれながらも共感を持ち、子供時代に残した記憶のノスタルジーに包まれつつ、幽霊話につきものの成仏展開に涙腺を緩めながら一気にみてしまう。
 
 昔なら少し暗めの青春小説にでもなっていそう作品だが、キーとなる少女「めんま」を子どもらしくも元気いっぱいの可愛らしい可憐な少女として描くことで、萌え要素を含む現代のアニメ作品としてうまく成立させている。これを実写でやられたら安っぽくてみてられなさそうだが。

* *

 舞台は現代。携帯電話やネットは当たり前に存在する。それでも、地方を舞台にしているからこそ成立する、秘密基地や「花火」(埼玉県秩父市下吉田町の龍勢ロケット:ロケット花火の大きなもので、祭事で打ち上げられていたもの。本作品とのコラボレートも行われたらしい)と言った道具立ては、誰しも覚えのある子供時代のノスタルジアとうまく結びつけられる。それ故に幅広い年代からの支持を得たようだ。

 簡単な脚本をいくつか書いたことがある身の上としては、少し嫉妬をする様な作品ではある。少し描き足らない部分も感じるしご都合主義もあるけれど、再度アニメを見始めて4,5年の中では上位に入る良作だと思う。

* *

 幽霊は従来怨念を持った魂という非物理的存在であったはずが、本作では物理的存在で、空も飛ばず、こけたりもする。飲み食いすらする。一見ほとんど生きている人と変わりなく描かれている。
 しかし、生きているかのような可憐な存在だからこそ、視聴者は幽霊のはずの「めんま」を迷い無く魅力的な登場人物として受け入れる。「じんたん」が当初妄想が産んだ「夏の獣」と思っていた「めんま」を受け入れることも、成仏のために動いていたのがやがて成仏しないことを願うようになることも、自然に受け止められる。

 あくまで非物理的な幽霊然とした存在であれば、旧来の幽霊に魅入られる「狂気の愛の物語」になる。ファンタジーとしての本作は、幽霊とは思えないような物理的存在、かつ可憐な存在の「めんま」によって成り立っているのだろう。

* *

 アニメは2011年放映だが、劇場版も存在し、2013年公開。
 アニメの本編を再編集しつつ、新たに子供時代と後日談を描いている。
 生まれ変わることを前提に成仏した「めんま」のその後は描かれることがなかったが、それが正解だろう。
 アニメ本編、劇場版共にかなり評判が良かった作品のようだ。

 

プロフィール

「梅雨、日本周辺にしかない独特の気候なのだ。おかげで日本人は紫外線の影響を受けにくくなっているし。悪いことばかりではない。」
何シテル?   06/15 10:04
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