アニメ……アニメーション、古くはテレビまんがやまんが映画とも呼ばれていた映像手法で、多くは二次元の絵をコマ撮り撮影することで動画として見せるものである、ということは言うまでもない。
自分は子供の頃、親の圧力とまじめな性格であまりマンガやアニメを見ていない。小遣いの使途について強い制限を受けていたため、マンガなど買うことはなかった。友達のうちにいくと山ほどマンガが合ってうらやましく思ったものだった。近所の図書館や住区センター(規模の小さい公民館のようなもので、目黒区に存在した。他区については知らない)に置いてあるまんがを読むことがあり、白土三平や手塚治虫の作品に接したのはそこである。また、ピアノの先生のうちにはダンナさんが好きだという手塚治虫のブッダや火の鳥が置いてあり、レッスンを待つ間によく読んだ。
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アニメに話を戻そう。
親がテレビアニメを見せたがらない(特に『ダメおやじ』などに強い抵抗をされたのは馬鹿にされるのを恐れる父親の圧力だからとかと母親は曰ったが理由付けの一つに過ぎなかっただろう)。親の目を盗んでみてはいたものの、それほどではなかった。
母親はひどく観念的に世間の価値観をとり込みやすい人で、『アニメやマンガばかり見ていたら頭が悪くなる』と強い禁止を課すタイプの人だった。それだけならまだしも極端に走る人であるから『お菓子を与えすぎるのはいけない』を『お菓子を与えてはいけない』、『楽しいことばかりをさせてはいけない』を『決して楽しいことをさせてはいけない』、『子供の自由にばかりさせてはいけないを『子供に自由をあたえてはいけない』と、曲解して過剰に実行していた。子供の精神をがんじがらめにしようとする人で、それを『よかれと思って』と自分で考えることなく実行する人だった。このような人と『親の言うことは絶対』と思い込んでいるまじめな子供の組み合わせは結構悲惨である。未だに自分が幸せになることについて罪悪を感じる。こんな人間は恋愛すらまともにできない。
兄はずるがしこく、嘘や誤魔化しを当然とする人なので、自分のようなことはなかったらしい。
生徒など見ていても、強い圧力を課す親の元でそれに従い自主性を持てず人生に苦労するタイプと、圧力をすり抜けながら、ずるいことをずるいと感じなくなったタイプがいる。
子供の性格をよく見て育てないといけないが、いずれにしろ度を超した理不尽な圧力をかける親の元では子供はうまく育ちにくい。
また話がずれた。
アニメを見ていないといいながら、日本アニメーションのアニメ(『アルプスの少女ハイジ』などの低年齢対象のアニメ)やNHKのアニメ(未来少年コナンなど)は比較的許された。あまりアニメの害のようなことが言われていない時代であったこともあっただろう。小学生ぐらいになると制限ははっきりした。漫画・アニメに限らず、お菓子もあまり食べた記憶がない。
中学生ぐらいになると比較的幅が広がり、『うる星やつら』『めぞん一刻』あたりは見ていた。親の目が届かない夕方のアニメなども多少見ていた。何しろテレビ放送はマンガと違い無料で供給されるので、観やすかった。往年のアッコちゃんなどのアニメも多少年齢が上がってから見ていた。ブームとなった『機動戦士ガンダム』などの日本サンライズ作品もそれなりに見ていた。『クリーミーマミ』などのいわゆる魔女っ子ものもちょうどこの頃で、希に見ていた。しかし、他の子供に比べて視聴量も幅も遙かに少で、アニメ好きな子供とはとても言えない。親の一方的な価値観の元、アニメやマンガを強く好むことを軽蔑していた部分がある。
そんな状態のまま大学生に。ちょうどこの頃宮崎勤による幼女連続誘拐殺人事件があり、その前の時代に一つの盛り上がりを見せたアニメや、そのアニメオタクの志向の一つだったロリコン趣味に対するバッシングが激しくなったため、ますますそうしたものに接する機会は少なくなった。
ただ、作品にではなく表現手法としてのアニメーションには魅力を感じていた。
アニメやマンガに染まらなかった中学生から大学生までの時代、自分に大きな影響を与えていたのは
新井素子の一連の作品群だった。ライトなSFで、文体が当時としては圧倒的に口語調で、今で言うライトノベルの元祖とも言うべき作品を描いていた。日本文学の豊富な読書量と国内外SF作品の影響を受けていて、ベースはとてもしっかりしていたらしい。SFといいながらSF要素はひかえめだったり、独特な語り口調やどうかすると無理な展開で大団円に持っていこうとする傾向は作品によっては物足りなさを感じることもあったが、女性が書く女性の心理などが自分にとって新鮮であったことを覚えている。
星新一、筒井康隆、小松左京といったSF界の重鎮に可愛がられていたようだが(中でも星新一と新井素子の父親が同級生であったこともあって親交が深かったらしい)、遅筆で作品が少ない。当時彼女の影響を受けた人はかなり多く、ライトノベルの始祖としての評価はあるが、今となっては本人と作品群の存在感は薄くなってしまっている。
ちなみに、ライトノベルのメガヒット作『涼宮ハルヒの憂鬱』の設定や展開は、かなり新井素子の『…絶句』の影響をかなり強く受けているように見える(ほとんどコピーと言っていいぐらい似通っている)。ハルヒの作者の年齢的に新井素子は必ず読んだはずだし、すくなくとも両者が影響を受けた作品は共通するだろう。
そんな状態で、マンガやアニメからは距離を置いている状態が続いた。高校や大学の友人にはいわゆる薄い本(同人誌)を作っている人もいたが、そのあたりの人々が理解できずにいた。ただ、全くアニメから縁遠い人々に比べれば遠目でなんとなく気にしていた状態ではあった。
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90年代や2000年代のアニメのことはよく知らない。この間のエポックメイキングな作品と言えば『新世紀エヴァンゲリオン』だが、80年代にアニメがブームとなった頃に感じたオタクへの嫌悪感と、その頃の『不思議の海のナディア』のガイナックス作品の強いパクリ臭が気になったこともあって、話題になってもほとんどまともに観ることはなかった(まずはタイプグラフィー調のサブタイトルに嫌悪。当時、ナディアと同じく過去作品の要素の寄せ集め感を感じた。年齢が上がったせいもあるがナディアもNHKアニメでありながらほとんど観ていない)。続いていたガンダムシリーズはガンダムといいながら『宇宙世紀』ではなく、ただガンダムというロボットが出てくる
スターシステムになっていて、アムロとシャーの戦いと無関係なもので興味を持てなかったので全く観ることはなかった。以前は夕方からゴールデンタイムにかけて占めていたアニメがテレビ欄から少なくなり、ターゲットをより高年齢層に移した深夜アニメが主体になっていたことも知らなかった。アニメからは縁遠い状態だった。
ただ、一大ブランドになった宮崎駿の一連の作品群は、『天空の城ラピュタ』から『千と千尋の神隠し』までは劇場で観ている。
それがひっくり返ったきっかけは、『けいおん!』だったりする。これも本来成人男子を狙った深夜アニメだが、女子中高生の支持を受けて一大ブームに。当然生徒の間でもよく知られていた。そんな中で生徒からオススメされてみてみたのだった。京都アニメーションの手によるものだが、女子高生の日常が文句なく面白くできている。原作は未読だがおそらく原作を遙かに超える作品になっているはずだ。それぐらいアニメーションならではの表現手法が光っている。
この頃いくつか深夜アニメを見てみて衝撃を受けた。手書きのセルアニメ時代で止まっていた自分には、現代のコンピュータ処理での表現、かつてに比べて遙かに書き込まれた映像の情報量、音楽等のレベルの高さに驚いた。アニメはこんなに進化していたのだと。
そして、『涼宮ハルヒの憂鬱』を観る。SF設定を背景に萌えやミステリー要素を組み込み圧倒的な面白さに仕上がっていて、メガヒットも納得であった。これはすごいと。
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このあたりでアニメに対して貪欲になった。これぐらいのよくできた作品が他にもあるのではないかと。
ところがそんな期待は甘かった。そんな作品には滅多に出会えない。
時間のあるときにアニメ作品をチェックするようになったが、アニメーションとしての表現力は絶対的に進化していても、ほとんどの作品が原作付きで、原作自体が粗製濫造のライトノベルであるために「まあまあ面白い』程度のものが大半で、観るに値しないようなものも多かった。同じような設定、同じようなキャラクターが出るものが多く、なんだこりゃ、と思い始めた。
そんな中では、原作なしのオリジナル作品で、相当な意気込みで制作され、視聴者をいい意味で裏切ることに徹した『魔法少女まどか☆マギカ』がピカイチであった。原作なしは視聴者が先を読めない。オマージュ的設定を示してそれを見事に裏切るという手法は見事にあたった。単なる生徒と教師のほのぼのとした恋愛ものと見せて思わぬ展開で話題となったドラマ『高校教師』なんかを思い出したりもする。単純にそれだけではないが、アニメがすっかり定型化しているのでこうした手法がみごとにはまったようだ。同作品監督の定石にしたがった魔法少女もの作品『魔法少女リリカルなのは』のセルフパロディであり、同じような作品を作るとは思えないのでどこでどうひっくり返すのだろうと期待したが、それでいても全く意表を突く展開に度肝を抜かれた。
それと比較するのは無理があるが、最近観た原作あり作品では、百人一首カルタを題材にした青春作品『ちはやふる』が光る。少女マンガ系に独特な心理描写や目配りが効いていて、おそらく原作の巧みさがうまくアニメにいかされているのだろう。
『這い寄れ!ニャル子さん』も原作あり作品。特撮/アニメ/SFファンにはたまらないパロディ満載のアニメで、中毒性のあるオープニングアニメが印象的だった。とはいえ、自分にはパロディの大半が分からないのでwikiでたしかめつつと言う状態。ただ、根幹をなす部分が80年代のパソコン・SFファンの多くが共有しているであろうクトゥルー神話のパロディなので、この部分で何となく知っていることがちりばめられていて楽しめた。ある意味、パロディをこれでもかと徹底的に表に出した快作だろう。
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ストーリーというか設定の面白さでは、『まどか☆マギカ』の脚本を担当した虚淵玄による『PSYCHO-PASS』『翠星のガルガンティア』が群を抜いていた。どちらも1クールでは勿体ないが、1クールで全てが完結してしまっている。キャラクター商品や挿入歌等の著作権ビジネスで稼げるタイプの作品でもないが。その点ではよくやったと言える。
『まどマギ』の成功が原作なしアニメを増やすきっかけになっているようだ。しかし成功した虚淵玄を起用するだけでなく、他のライターを起用したもっと野心的な作品作りがあっていいはずだが、なかなかそういうことは許されないようだ。
だからといって、実績のある監督が過去の宮崎駿作品のオマージュと宣言して作品作りをし、何も面白くないただの劣化コピーとなったようなものもある。無難な路線は必ずしもそこそこの成功になるわけでもない。
過去の作品のオマージュ(あるいはパクリ)ばかりが目立つようでは、よい作品は生まれない(その点でガイナックス庵野秀明は極めてうまかった)。もちろんアニメに限ったことではないが。現代のアニメは主人公が何故か異性に囲まれるハーレムアニメや魔法や剣を題材にした日本RPG的ファンタジー系作品、美少女を前面に出し萌えとエロばかりを強調したものが目立つ。学ぶことはよくてもただ成功要素をまねて満足していては少しも前に進めない。新しさを付け加えていかないと。そう言う意味では『まどマギ』は極めて野心的な試みだった。
表現手法や生産性は飛躍的に向上したが、
肝心の中身はコピーのコピーという状況は宮崎駿はじめ多くの人が指摘しているようだ。
アニメ制作現場は極めて厳しい働き方ながら年収300万円に満たない状態で制作にあたっているとか。業界に入っても離れる人が多いらしい。
商業的な理由で自由度の低い作品作りが求められ、制作者を圧迫している。
そんな中で高い意識と創作意欲を持続させながら人材を育てていくことは難しそうだ。
一方でアニメで育った世代がアニメを志向して現場に入ってくるので、これまでを超える発展性を期待しにくい面もあるようだ。
これからもよい作品が生まれることは期待するが、それはアニメ業界だけではうまく行かないのかも知れないと思ったりもする。
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オススメの過去の作品を一つあげろというなら、『魔法のスター マジカルエミ 蝉時雨』を挙げておきたい。
当時の少女たちに圧倒的な支持を受けた『魔法の天使 クリーミーマミ』に連なる、スタジオぴえろによるいわゆる「魔法少女もの」だが、制作者たちの挑戦的意欲が感じられる作品になっている。
一連のシリーズで定番となっていた、ある日突然に主人公の少女が魔法を扱う力を得るという設定を受け継いではいるが、この作品の中では主人公が理想の将来像であるマジシャンに変身するというだけで、何かの大きな役割を与えられることもなく、ただ日常とマジシャンとしての二重生活が綴られていく。やがて主人公は理想の姿に変身することに疑問を抱くようになり、自ら魔法を放棄する。
淡々と日常を描く手法は、後に発表されたOVA『蝉時雨』でさらに強められる。魔法少女ものでありながら、魔法を使っての活躍ではなく、ひたすらある夏の人々の日常の風景を淡々と追っていく。空、光、水の流れ、蝉の声……叙情的な風景表現へのこだわりがすばらしい。
高校生か大学生の頃だったか、夏休みに地元UHF局でたまたま流れていたこの作品の、なんとも言えない空気感に強く惹かれたのを覚えている。
マジカルエミ全編は、魔法を手に入れたからこそ、自分自身の手でつかんでいくことの大切さを感じた主人公の成長物語。その過程のほんの一部の夏の日々を、大人になった主人公の追憶として描いている。
作品自体は『マミ』『ペルシャ』の魔法少女もの2作と比較してとても地味で、おそらく当時の少女たちにはうけなかっただろう。魔法の小道具がほとんど登場せず、スポンサーうけも悪かっただろうと思われる。魔法少女もののヒット作を手掛けてきたスタッフが、なぜまるで魔法ものを否定するかのような作品を制作したのだろうと考えずにはいられない。その方向性を更に強めたのがOVAの『蝉時雨』だ。OVAが多分に実験的になりやすいのではあるが、そもそものテレビシリーズ自体の方向性がメインターゲットである少女とスポンサーに媚びた作品作りをしているようには見えない。
80年代は今と違ってたとえ原作付きでもアニメ版では独自の設定を加えたり独自の展開をするものが多かった。そのことの是非はあるものの、制作側がフルに創作意欲を爆発させられた時代だったとが言えるのかも知れない。今は原作に忠実であることがほとんどだ。制作者のエネルギーが向かうところは映像表現ばかりになってしまう。制作者の意欲を発揮することが多少なりとも許された時代だからできた作品だったのだろう。
今の目で見れば技術的には稚拙だが、ひたすら情緒を感じる作品。登場人物たちの感情の機微含め、大人になったからこそ分かると言っていいだろう。ググってみると、この作品を評価するファンは多いようだ。
追記
トークイベント「ペルシャ&エミ…思い出語り」
http://www.sam.or.jp/staff_diary.php?year=2010&month=01#19
監督の安濃高志氏への質問から。
質問:「魔法少女ものは普通、小さな女の子を対象に作ると思いますが、(大人向けの演出をしているエミは)当時、対象年齢をどの位だと意識されていましたか?」
安濃:「対象年齢について(プロデュサーなどから)説明はされましたが、夢中になってしまって、作る自分が面白いと感じる作品でないと見ている人も面白くないだろうと思って作ってました。もちろん子どもにわかりやすい話にしてほしいという要望はありましたが、エミに関しては周囲からの文句などはありませんでした。ペルシャを作っていたころはまだ信用がなかったので色々と制限がありましたけど、エミでは任せてもらえました」