生徒のレポートを見ていると、奇異な表現に出会うことがある。
当然のことながら、一般に小学生よりは中学生、中学生よりは高校生の方が論理的で適切な文章表現ができるようになるものである、成長するほどより客観的で他人に了解されやすい表現をすることができるようになる。科学論文はその権化みたいなものである(もちろん、明確な定義に基づく専門用語や数式など、客観性を担保するための道具立てが専門的すぎて、一般の人には理解できなくなっていることは別の問題として)。
しかし、高校生にして小学生並みの表現しかできないものもしばしばいるし、これは「学力」と明確な関係がある。
先日高校生に眼球の解剖のレポートを書かせたが、そこで散見されたのが「そこまで」という表現だ。
「水晶体は
そこまで柔らかくなかった」
といったことがよく書かれていた。
以前うけもっていた、比較的偏差値が高めな生徒たちでは、中学生でもあまりこのような表現は見られなかった。使うにしても会話などにおおく、論述や理科のレポートにはあまり使われることはなかった。高校2年生にしてこの表現を散見するとは驚き以外の何物でもなかった。
ここでいう「そこまで」の「そこ」は指示代名詞で、「そこまで~ではない」という場合には
・明確な比較対象が示されていて、それと比較する場合
・話し手と聞き手(書き手と読み手)にとって明示しなくとも了解できる比較対象がある場合
に意味が了解できる表現であろう。
少なくとも科学においてはそうでなければまるで客観性がない。
わざわざ対象が不明確になりやすい指示代名詞を使うのは、どちらかというと文学的表現で、科学の場ではほとんど見ることがない。科学であれば
「○○と比較し、80%の弾性であった」
と具体的、客観的な表現をする。文学的表現は入る余地がない(あっても、本論ではない部分)。
レポートに散見された「そこまで」と言う表現においては
・自己の経験や知識において、期待されるものとの比較
をしているのであって、そんなものが読み手に分かろうはずがないし、それに対してどの程度の類似度であったのかもわからない。「そこまでとはどこまでのことか」と朱書きされるだけだ。
このような表現は極めて会話的で、特に何かを指し示すことなく極端な状況を想定し、それと比較して使われる。
「A男のうちのトイレは、そこまで狭くなかった」
と言った、極めて主観的な感覚を表現するのに用いる。
しかし、会話のような場合でも、比較対象が聞き手に了解できる場合、常識的な場合であって、その対象が了解できない場合には突っ込みの対象になるほどの主観的表現である。
「お前のうちのトイレはどんだけ狭いんだよ。」
比較対象が主観的でありすぎれば、誰にも了解されない。
自分の主観を比較対象にすることは、客観的に物事を捉えられない幼児や年少者によく見られるもので、
極めて幼稚な表現である。
大人がそのような表現を多用すると、「頭が悪い」ようにしか見られないだろう。
「ちっちゃくないよ!」と主張する子どもみたいなものだ。
もっとも、ある程度の年齢で背が低い人の場合、背が低いと言われることへの反発であって、真に背が低くないことを主張している訳ではないことは、容易に了解できるのであるが。
(ex:
WORKING!!のぽぷら。高校生だが小学生並みの身長で「ちっちゃくないよ!」が常套句にして代名詞)
**
子どもが書く“背伸びした”意見文などに指示代名詞が多く見られる傾向があるようだ。
「民主主義、それこそが我々の社会を貫くべき原理である」のような、体言止め+指示語を使っての強調のためのレトリックなど、「おとな」な表現のつもりでやっている可能性が高い。「真実にたどり着いたのである。私は」のような倒置法をやたらに用いるのと同じである。
大人が読むと「いかにも子どもだなあ」という感想を禁じ得ない。
かくいう私のこんなブログにも、本人が意識していない稚拙な表現が溢れているかも知れない。
このところ、ある活動のためにレポートをいくつも書いているのだが、知りあいへのメールなら混ぜっ返したくなるぐらいのいかにもな表現をレポートでは使っている。こんなものは音読されたらかなり恥ずかしい。
Posted at 2015/01/02 10:06:47 | |
トラックバック(0) |
言語 | 日記