高校1年生に対して、小論文課題を出すことになり、自分自身と科学の関係について考えさせるつもりで題材を選んだ。
『もうダマされないための「科学」講義』 (光文社新書)から、松永 和紀さんが書かれた章「報道はどのように科学をゆがめるのか」を題材に、発がん物質が含まれるとして回収された食用油エコナと報道の問題について書かれた本文に対して、マスコミのみならずネットなどから様々な科学に関わる情報をうける一方で、一方的であったりデマや間違った情報に触れることがあることを指摘し、自分たちのあり方について問うた。
それについての解説文をここに公開しておく。少々冗長であるが。
自分で考えられない大人、誰かに依存したがる大人、権威やブランドでしか判断できず、ニセ権威に簡単にだまされる大人が多すぎる今現在、少しでも自分で考える人間を育てたい。特に科学を自らの道具として扱える人間を。
私はそう考えている。
手順を覚えて再生するだけの『お受験教育』はいらない。
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(解説ここから)
課題文のエコナ問題は、マスコミが売るためにセンセーショナルな記事を書きたがる傾向と、科学的知識がないままに安易に科学の問題を取り扱ってしまう文系出身記者による報道が起こす問題の一例である。それと同時にそこにある科学的な問題は理解が難しく、マスコミや議員、一般市民の科学リテラシー(科学に基づいて正しく取り扱う能力)では取り扱いが困難であることも示している。
筆者は本稿ではマスコミの問題を重視しているが、課題ではそれを踏まえて、マスコミ以外にも情報の伝達手段があり、一方的な報道やデマ、売名行為があることを指摘した上、その情報の受け手のあり方を問うている。
当然、マスコミの問題ばかりに重点を置いてはならず、正しく情報を扱い判断が行われるための社会のしくみや一般市民の行動について論じなくてはならない。また、「科学をキーワードに」とある以上、科学について理解した上で論を進める必要がある。
提出された小論文を読むと、課題文の要約や例示に文字数を割き、最も重要な課題に対する議論がわずか数行のみのものが目立った。また、科学について取り扱わないものや、科学についての定義も曖昧なままに単に言葉として出しているに過ぎないものが大多数であった。
一方、例示として放射線問題を取り上げる者が多かったが、科学的根拠をはっきりさせないまま「東北の人々」に対する同情をあげて東北の食材が安全であるという前提で議論をするものも目立った。
コミュニケーション的な問題ととらえ、情報の扱い方について取り上げる者も目立ったが、科学についての視点が欠けるものが多かった。
おそらく、科学という言葉自体はなじみがあるため、特段その意味を考えないものが大多数であったのだろう。しかし、科学がどのような方法論に基づく学問であるのかをとらえ、科学に基づくとはどういうことかをとらえない限り、課題に対応することは出来ない。
科学の方法論とは、多くの実験・観察を行うことで偶然ではない客観的なデータを積み上げ、それを既知の事実や法則を元に分析・考察することで、自然界の真理に迫ろうとするものである。同じやり方で実験を行えば何度でも再現できる確実な実験方法によってデータの収集を行う。客観性のあるデータの分析によって「確からしさ」を高めて真理を追究していくのである。あくまで「確からしさ」を高めていくのであってどこまでいってもそれが100%になることはない。また、それまでの知見を否定するような事柄が見つかり、それが「より確からし」ければそれらが採用される。常にデータを集め確からしさを検討し続け、真理に迫ろうとする手法であるといえる。
エコナ問題にしても原発事故で発生した放射線の問題にしても、科学的データを根拠に科学的な確からしさが積み上げられ、科学者はそれを踏まえて考えている。害についてはあるかないかの二元論ではなく、リスクの程度として考える。
たとえば放射線の影響について「直ちには影響はない」というのは、放射線についての多少の知識があり科学的思考に慣れていれば、「すぐに症状が発症するような線量ではないが、長期的には影響が生じるリスクはありうる」状態であることが直ちに了解できる。であるからその長期的リスクは緊急の行動を要するものであるかどうかを検討すべきとなる。水や食材の規制値でも、リスクを伴うがそのリスクは十分低いと見積もることが出来る範囲で採用されていることが理解できる。
科学者はどのようにデータをとれば事実を確かめられるのか、どのようなデータならより確実性が高いのかを判断でき、どのような論文やデータにあたればこれまでの科学的成果の蓄積にアクセスできるのかも知っている。データや論文に問題があればそれに気づくこともできる。専門外であっても今回の原発事故に際し、事故の早い段階から状況をつかみ、データを分析をしてリスクを評価した伝えたり、より妥当なデータの見方を一般市民に向けて啓蒙活動していた科学者や科学に携わるものは多かった。
しかし、一般市民はそのような知識や科学的な表現・リスクの表し方になじみがなく、データへのアクセスの仕方データの吟味・分析の仕方も知らない。そのため科学的に妥当な見解と、単なるデマや間違った言説との区別も付けにくい。水や食材の規制値の大きさについても、リスクの程度を評価しないままリスクがゼロではないことを過剰に攻撃するものも散見された。精度の低い簡易ガイガーカウンターを使い測定の仕方を間違っていたり、自然放射線が西日本で強いという事実も知らないにもかかわらず「公的機関は測定値を改ざんして低く発表している」とか「西日本にまで放射線の影響が及んでいるのに政府はその事実を隠蔽している」などと発言し混乱を巻き起こしていたIT界の大物もいた。
科学に慣れていない人々は、自分たちの置かれた状況について「危険なのか安全なのか」「有害なのか無害なのか」と結論を急ぐ。しかし、データの蓄積がないならどちらとも断言できるものではない。また、データがあればリスクがどの程度高いか低いかといった程度を示すのが科学的な方法である。そのような表現が科学に慣れない人々にとっては「はっきりしない」「あいまいだ」「わかりにくい」「ごまかしている」と感じられてしまう。そのため、一般市民と科学者との間にコミュニケーションのギャップが生じる。
(なお、データが不足している場合、危機管理としてはより厳しい状況を想定するのが普通である。ところが、そのような発言をした政治家がマスコミによって次々とバッシングを受けたのはきわめて不思議なことだ)
科学者なり科学に長けたもの(サイエンスコミュニケーター、サイエンスライター)なりが一般市民に平易な説明を行えばよいというのも一つの考え方であり、一方で一般市民の科学リテラシーを向上させ、データを元に科学的に考え、判断できるようにしていくとするのも一つの考え方であろう。
しかし、前者についてはそのような人材の育成が重要で、また職業として十分に生活可能な賃金が得られる環境を整えないと困難である。後者についてはかなり簡単ではない。客観的なデータ収集と論理をベースとする科学的方法論は人間一般の感情や印象に基づく行動様式や思考方法とギャップがあるため、かなりのトレーニングが必要であり、誰もが高いレベルで獲得できるとは限らない(理系学部出身であるからと言ってそれが十分獲得できているとは限らない。研究者と名乗る者にもあやしい者がいる)。個々人が科学的思考によってデータを読み取り科学的に判断することはかなりハードルが高い。
誰かに一任すればよいかと言えば、それは問題がある。間違いを犯すリスクは誰にでもあり、一方で何らかの理由によって意図的にミスリードを行う可能性もある。特に事実は複雑であるのに分かりやすい構図を示して危機感を煽ったり陰謀論を展開して自らに注目を集めようとする者がいれば、その内容には十分注意してあたるべきだろう。一般市民の「分かりやすい表現をするものへの依存」と「思考停止」は非常に危険である。
では一般市民はどうあるべきだろうか。
物事を分析的にとらえ吟味しようとする、客観的なデータを元に客観的に分析された(科学的な根拠・裏付けのある)もののみを信頼するという科学的態度を身につけることが出来れば、個々人が直接にデータを判断できなくても科学的に妥当と考えられるものを選び取ることが出来るようになるだろう。また、そうした態度で臨むことで根拠のない情報・デマが飛び交うコミュニティから離れ、科学的に妥当なコミュニケーションが行われるコミュニティを探し加わることも可能になる。
原発事故・放射線関連の理解はかなり専門的知識や理解力がないと困難であったことを考えると、一般市民が直接問題を扱うことは相当に難しかった。しかし、すくなくとも科学的態度によって根拠をもとに考えたり、妥当な情報元(公的機関の情報が常に正しいとは限らない)を選び取りアクセスできる状態であれば、間違った情報に左右されることはおこりにくかっただろう。この態度は情報元の確認などによって情報を選び取るいわゆる「情報リテラシー(情報を適切に扱う能力)」に似ているが、内容そのものについて科学的に検討する行動が伴わないと実現できない点で異なる。
科学的な問題に対応するためには、社会のしくみとして科学的態度を育てる機会を作ることが必要であるだろう。本来理科教育がそれを担うはずであるが、点取り教育・受験テクニック伝授教育が主流であり、科学的方法論を学んだり科学的態度を養う場になっていない面がある。理科教育を再構築することも必要かもしれない。
以上は一つの考え方であり他の考え方もあるだろう。
ともかくも、科学的な問題は一般市民には敷居が高い。エコナ問題の科学的解説を読んでも容易には理解しがたいことでも明らかだろう。専門家の間でも統一見解がない放射線の影響についてはさらに判断が難しい。
だが、原発問題で、否が応でも我々は科学的問題に直面してしまっている。今後も様々な科学的問題に出会うだろう。難しい科学的問題の判断をマスコミなど他人任せにして思考停止していては自らに危険が及ぶことを理解したはずだ。
市民一人一人がどのように対処していくか考えて行かざるを得ない。
* * *
科学的態度に関する実例を挙げておこう。
原発事故後、「放射線の影響で巨大化たんぽぽ」が見つかったとブログやツイッターで写真が紹介されていた。それを見聞きして、周囲を見回して「うちの庭にも巨大たんぽぽが生えていた!」などの投稿が相次いだ。
しかしそれは事実ではない。今まで気にもとめていなかった、セイヨウタンポポと同じキク科で背丈の高い「ノゲシ」や「ブタクサ」、「日陰で花茎が長く伸びているセイヨウタンポポ」などをみて「放射線の影響でたんぽぽが巨大化した!」と大騒ぎしたものが多く、様々なブログやツイッターを見るとそれらの写真が掲載されていた。
科学的態度があれば、放射線量がその地域で本当に増えているのか、確かにセイヨウタンポポが巨大化したのかそれとも似た別の種なのか、たんぽぽにはもともと花茎が伸びる条件があるのではないか、もし同じ種での変化であるなら、その地域の以前のデータと比較したらどうなのかなど検討できるはずだ。そして、少し調べるだけで巨大化たんぽぽの発見は事実ではないことに気付くことが出来たはずだ。
それをせずに、「自分も巨大化たんぽぽを見つけた」とふれて回ることや、伝聞元を無条件に信頼して根拠のないお墨付きを与えて伝えるなど、科学的態度からかけ離れた論外な態度であることが分かるだろう。
科学的態度を養うには一人一人がどのようにしていけばよいかを考えてほしい。
Posted at 2012/03/08 22:15:32 | |
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