子供の頃、ご多分に漏れずグローブを持ち、壁にボールを投げて投球練習をしたりキャッチボールをしていた。そう言う意味ではごく普通だった。
近所の子と一緒に少年野球チームに一時的に入ったこともある。
子供時代には遊びとしての野球が自分にはあったわけだが、その後どんどん野球に嫌悪感を抱くようになる。
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単純な理由は、テレビで野球中継があるとレギュラー番組が潰されてしまう。そう言う面で野球は嫌だった。
しかし、そんなことはさしたる理由ではない。
大きな理由の一つは父親だ。
彼は子供の頃、近所の子や兄弟とキャッチボールをしたりして遊んだようなある意味普通の人とは言えるが、性格にかなりの問題がある。
突然の気まぐれに、私が何か他のことをやっているのを無理矢理引きずり出し、キャッチボールの相手をさせた。小さな子供のことだから、コントロールも定まらないし、ボールを取れないこともある。だがそんなことが少しあるだけでいらいらして腹を立て、感情丸出しに怒鳴り散らした。何かを指導するではなく、失敗に対して腹を立て罵声を浴びせる。
怒鳴られれば萎縮してますますうまくいかない。これに対して更に激昂して怒りまくる。
あげくに全てを投げ出し「もういい!」と吐き捨てて、グローブをたたきつけて帰ってしまう。
こんなことがいつも繰り返されていた。だから父親とキャッチボールをすることが苦痛で苦痛で仕方がなかった。
彼は近所の人からは「子供が萎縮してしまうから、そう言う態度はやめた方がいい」などとたしなめられていたが、まったく考慮した様子がない。
子供を育てるべき小さな存在ではなく、自分が命令できる単なる一存在としかみていなかった。だからキャッチボールの相手という自分の目的にかなわないと腹を立てるのだ。
キャッチボールという行為自体がトラウマになった。
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父親は、家にいて野球中継があればテレビを占領する。
見たいテレビが見られない。まあそれだけならありがちだろう。だが、一緒に野球をみると言うこともできなかった。とてもそばにいられないのだ。
彼は決して静かにテレビを見たりはしない。泣き笑いをするわけではない。
ただただ腹を立て続けるのだ。
テレビに向かって、途切れることなくあらゆる汚い言葉を浴びせ続け、怒鳴り続けるのだ。まるで掴まった極悪人を吊し上げるかのように。反論一つしないテレビに向かって。
それは選手にだったりアナウンサーにだったり、解説者にだったりする。解説に腹を立てたり中継が途中で終わったりするとテレビ局に電話をかけ怒鳴りつける。
一体何が楽しくて野球中継をみているのかまったく理解できない。ただひたすら腹を立てて怒鳴り続ける。褒める言葉は滅多に聞かれない。中継を見終わって機嫌が良くその後を過ごした記憶がないのだ。おそらくは思い通りになったところでそれで幸福感を得るわけではないのだろう。一応アンチ巨人らしいのだが、あらゆる選手について罵声を浴びせ続ける。
一言怒鳴り声を聞くだけで体がびくっとする。
それを中継の間中ずっとやられる。テレビで中継していなくてもラジオの中継でやられる。子供の自分には本当にたまらない時間だった。しかし、これが普通なのだと思っていたのだ。この苦痛が想像できるだろうか。
こういう体験が野球と結びついているので、野球観戦そのものにそこはかとない嫌悪感をもってしまっている。
父親のこうした言動は野球に限らず、日常の全てで、家族を含めあらゆるものを対象にして繰り返されていたわけだが、テレビでの野球観戦は時間の上で非常に多くを占めるので、完全にトラウマになった。
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一方、自分は、自分が参加し自分自身が動くことに喜びや楽しみを覚える。
たとえばバスケットボールは大好きな競技だが、テレビなどで見ていても面白いとは思わない。自分がボールを持ち、ドリブルをしたりシュートをしたりすることが楽しいのだ。
そのため、野球を観戦するという行為が今ひとつ理解できなかった。
知りあいが出ているならいざ知らず、自分と関わり合いのない選手が試合をしているのをみて、何が楽しいのか分からない。しかも、お金を払って球場にまで行って応援することの何が楽しいのかまったく理解できなかった。
そもそもプロ野球は企業が宣伝のためにやっている企業活動の一環でもあり、そう言う商業主義に組み込まれるのも気にくわなかった。
しかし、それが変わったのが2005年。
幕張の地元ロッテマリーンズが破竹の快進撃をした年、近所の人に誘われて観戦に何度か行った。
優勝に向けて乗りに乗っている年だったから、応援席の熱意も違うし、マリーンズの応援はサッカーのサポーターの応援の影響も受けたノリのいいものであり、やがて自分もそう言う応援の中に溶け込んでいった。野球と言うより応援の一体感が楽しかったと言えるのかも知れない。球場で野球を観戦することが面白いと感じた初めての経験だったと言える。
だが、まもなくその気持ちも一変させられる。
自分の街の通りの名前をバレンタイン通りに改称するという話が突然スポーツ紙に載り、この年ロッテマリーンズとジェフのダブル優勝で有頂天になっていた千葉市長が乗り気だという話が伝わってきた。しかもこの時点で「バレンタイン通り」という名称まで決められてしまっていた。
これは地元で誰も知らなかった話。それを地元の意向であると新聞で紹介されたのだ。地元の応援組織ですら知らなかった。
実はその地元の応援組織の長だったたった一人の人物が、勝手に地元の意向としてスポーツ紙の記者に喋り、その後千葉市路政課と話をつけてしまっていたのだ。
この時点で市長の指示で千葉市の側は条例の改正作業を始め、「地元の要望」という要件を満たすために自治会や商店会の代表と接触をして、要望書の提出を求めたのだ。
千葉市はロッテ球団、バレンタイン監督と接触し快諾をうけ、要望書が出れば千葉市は条例の改正と共にすぐ改称する手はずを整えていた。
自治会の代表者は当然自分個人では決められないと断ったが、商店会の代表者は「お上のご意向である」と要望書の提出をそうそうに決めてしまったのだ。街の通りの名称を変えるという大ごとなのに、住民に知らせることも意見を聞くこともなく。千葉市は自治会か商店会が要望書を出せば改称するという条例を作ってしまっていたので、一切話し合いがなくても要望書さえ出れば有効というとんでもないものだった。
今度は大手紙に改称作業が進んでいるという記事が載った。
しかし、なにしろ地元住民はそんなことは一切知らないのだ。何故こんなことになったのかと騒ぎになり、もしやるならちゃんと合意形成をし、通りの名称を募集するところからやるべきだという声が上がった。私はその1人だった。
しかし、過激なロッテファンが噛みつき、自治会の場にまで乗り込んできて、この誰が決めたかも分からない話を、自分たちは何も知らないにも関わらず押し通そうと圧力をかけ始めた。
彼らは自治会の場で商店会の代表者の説明を聞いて、そんな話だったのかと驚いてすらいた。しかしよほどバレンタインの名前を地図に残すことが魅力的だったらしく、改称ありきと都合の悪いことを誤魔化すために印象操作の嘘を重ねたり、裏で良識派を恫喝するものも現れた。自分自身が実際その被害をうけた。
結局改称に賛成するという人間は、誰1人街の住民に同意を求めるような運動をすることもなく、名称を公募することもなく、ただ反対をする人間を非難したたきつぶす動きをするだけだった。
混乱をうけて最終的な意見をまとめることを求められた自治会は、意見が二分していると結論とは言えない結論を千葉市に伝え、これをうけて千葉市は手はず通りに改称した。
この街は開闢以来、住民参加と合意形成を重ねて様々なことを実現して来た。それに惹かれて私はこの街にやって来た。その良き街の気風が、当時の市長や過激なファンによって完全にたたきつぶされたのだ。
合意形成もせず改称を主導した
千葉市長は、その後贈賄で失職、有罪判決をうけている。
過激な応援団体は、その後バレンタイン解任に絡んで球団や選手を貶める活動を続け、それに嫌気が差した一般ファンから無視され、ついに解散した。
この件に絡んだ連中の顛末はこんなものだが、自分の中で野球のイメージ、野球の応援に対するイメージがとてつもなく悪化した事件だった。
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そんなことで、自分にとっての野球のイメージはとても悪いものになっている。特に、自分が野球をするわけでもないのに、毎度入場料を払い続け、応援をしている人たちがどうも良く理解できずにいる。
ロッテ優勝時の紙吹雪とその清掃作業は話題になったが、その中心人物は遠くに飛んだ紙吹雪があることを知っても、「そんなものは回収しなくていい」などと言って回収を制した。また、細かいところにはかなりの量の紙吹雪が残っていたが、それを知っていても彼らは改めて回収することもしなかった。マスコミ向けに回収が見えるところだけ行われていればOKだったのだろうか。
このロッテがらみではM.V.P.という略称で知られていた過激なロッテファンや彼らに同調していた人たちがまったく理解できない。
バレンタイン解任に際して球団・フロントをを汚く非難し、そう言う行動を子供たちの前でやることを咎めた選手の応援をボイコットどころか横断幕やアウトコールで攻撃したのだ。彼らは一体何を応援していたのだろう。
彼らは球団ともかなり密接だったが、ロッテを久々の優勝に導いたバレンタインに心酔していたのは間違いない。その結果、バレンタインを解任しようとする球団と自分たちに都合の悪い選手、更に一般ファンすらも敵に回した。
運営に不満があったならもっと良いやり方があったはずだ。そして監督が替わってもチームは存続する。そのチームを愛するから応援するのがチームの応援団なのではないのか。
いつの間にかチームの応援団ではなく、自分たちの都合をごり押しする圧力団体になっていた。
応援団から応援をボイコットされた選手に対して、一般ファンから自発的な応援コールが起きたが、今度はそれを邪魔するなどもはやだだっ子の行動そのものであった。
結局M.V.P.の行動は、自分の思い通りにならないかんしゃくに過ぎないだろう。自分たちさえよければチームも一般ファンもどうでも良かったのだ。
応援という行為自体が、そもそも応援をすることを楽しむ自己愛に過ぎないように思われるのだ。応援は選手に伝わるという建前があるわけだが決して直接的なものではない。
自己愛のような行為を度が過ぎる形で行う人物には相当なエゴが伴って不思議ではない。過激なファンというものはそう言うものだろう。
ある私の知るM.V.P.に関わっていた人物は、一見リーダーシップがある好人物だが、裏では汚い行為をし、また野球以外でも他を顧みない自己本位な行動でいろいろな問題を起こし続けた。
そう言う連中の一部によって、積み上げてきた街の気風も破壊された。
本当に自分にとっては、野球のイメージが悪い。
おそらく二度と球場に行くことはないだろうな。