2016年11月21日
ホント私嫌なんだよね、掛け算順序問題。
伝統的な掛け算順序問題と違う話を、現実を無視して勝手に脳内事実を作り上げてそれを根拠にものを言う人たちがいて、排他的で攻撃的で、いかにもネットなので。
困ったことに、そう言う議論に何らかの研究者が巻き込まれて、事実でないことを事実と思い込んでものを言っていることが。
とある理系ではない研究者が最近この問題をやたらにツイートしているのだけど、彼も例によってネットの一派の思いこみを事実ととらえて、算数教育がおかしい云々と言っている。聡明な人がこの問題を理解できないのはおかしいとか。いや、聡明でないのはあなたなのだけど。
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掛け算の導入段階で、仮に順序を決めてそれに当てはめて立式するトレーニングをやる事を、小学校で掛け算の順序を定義して押しつけているみたいに言うのがよくある例。
この方法は、戦後の算数の歴史の初期段階からあって、おそらく日本人の大部分がやって来たやり方で、しかも日本だけではなく海外でもよくやられている。
掛け算という概念をはじめて学ぶ上で、「○○個のものを××倍」という身近でよく扱う課題を例に立式するわけだけど、どうかすると、掛け算は2つの数を×の両側におきさえすればいいと、闇雲に出てきた数字を並べてしまうことが起きる。立式に必要な数値ではないものがあっても、何も考えずに入れてしまったりする。それでは掛け算の概念が理解できているとは言いがたい。
実際に行う操作を、発想することが比較的自然な順番で立式することを通じて、掛け算とはどんな操作をするものなのかを身につけることが目的であるはずだ。
だから、もし逆に立式したとしても、本人がその順番でどういう操作をしているのかを説明できれば問題が無い。きちんと理解した上で指導している教員は、そうしているはずだ。算数教育としては決して順番を押しつけているわけではなく、操作と言語と立式を一致させて、式を立てるという難しい課題を扱いやすくしようとしている。
これをやらないと、単に掛け算が操作手順を暗記する機械的なものになりかねない。
そろばんができても、暗算ができても、それは操作手順に基づいた扱いをおぼえるだけで、数学的理解とは関係ないのと同じことになる。
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2点問題があって、一つは実際の現場では一斉授業なので、子供たちがどういう発想の元に立式したのかを発表する機会が少なく、画一的に与えられた順番を守らせる指導が起こりうること。小学校の教員はすべての教科を教えるために、理系出身者が少ない現実もあり、どうかすると理系科目への理解が低いまま取り扱われていることがありがち。
もう一つは、誤解の元に、過剰に定義の様に扱ってしまう教員がいるらしいこと。与えられたルールを何も考えずに守ろうとするのは、極めて日本的かも知れない。頭の悪い人間ほど、単純なルールを何も考えずに内面化し、他人にも適用させようとすることがあるが、そう言うケースなのかも知れない。
この問題を取り上げる人のすべてが、掛け算の数学としての取り扱いをマスターしていて何の疑問を持ってない故に、導入時の困難を理解できず、さらにその導入時に交換法則込みで教えることを根拠なく可能だと思い込んでいること。
単純に操作だけなら掛け算を身につけるのは難しくない。しかし、現実の操作を自分で立式することは掛け算を習い始めたばかりの、掛け算の概念も身についていない子供には難易度が高い。
ひとつひとつ段階を踏んで、理解の幅を広げていこうということなのだけれど、それが掛け算を既にマスターしてしまい、そう言う段階を踏んで身につけたことをすっかり忘れてしまっている人たちには理解できないらしいのだ。
自分は掛け算を理解しているから、子供たちも最初から同じレベルで扱える様にするべきだ、っていう一種の暴論なのだよね。
足し算に順序をやたらに強調するのは私も賛成はしないけれど、掛け算についてはまずは操作と立式の順序を一致させて、掛け算という概念がどういう操作を扱うものなのかを整理する機会を作った方が身につけやすいと思っている。
面積で扱うと、自動的に交換法則も成り立つことが分かるのだけど、掛け算をならう段階では面積を扱えないから、面積を扱う段階で順序にこだわることは無意味であることが分かればいいことになるけれど。
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数学的概念だけで物事を扱えると思い込んでいる人は時々いるのだけれど、その人が現実に使っているのは、人間に取り扱いやすい「文字」を使い、指の本数に起因する「10進法」であったりする。
人間にとって扱いやすい様に数学概念に制限を加えているのだけれど、ほとんどの人はそのことを意識せずにものを言っている。
掛け算初学者にとって、どう扱うことが導入しやすいのかを考えることは必要で、時に数学概念に制限を加えた状態で扱った方が理解しやすいことがあるだろう。
普通、自然現象を扱うグラフでは横軸に時間を取る。数学的には軸に何を取ろうが構わないのだが、目が横に移動しやすい人間にとって、我々にコントロールできない時間を横軸に扱った方が取り扱いやすいらしい。
これに文句をつける人はそうはいない。こういう取り扱いが一般的なのだ。
数式の中で「1×」は自明なので省略する。もちろん数学的には「1×」が入っていても全く問題ないのだが、自明なものは見た目に邪魔なので省略してしまう。これも普通は文句をつけない。
数学的には000000096と表記しても96と表記しても96.0000000000000と表記しても意味は同じだが、分かりやすい様にゼロは消してしまう。これも普通は文句をつけない。
一次方程式、二次方程式、三次方程式と順を追って扱うことに文句をつける人もいないだろう。それぞれ包含関係になっていて、三次方程式を扱えば自動的に他も扱えるとしても。
人間は、数学概念を扱うとき、自分たちが分かりやすいやり方を採用し、それになじんでいる。時にそれは数学概念に制限を加えた扱いをしているけれど、それはわかりやすさと引き替えにされている。特に学ぶ段階ではより簡単な形で扱う。
べつに小学生に数値を教えるとき、数学的には8進法や2進法で教えてもいい訳だけど、10進法と60進法しか扱わない。共に人間がなじんできたものだからだ。当然数学的発想を制限することになるけれど、それを云々する人はよほど変わった人だ。
しかし、なぜか掛け算の導入段階で制限を加えた形で掛け算を扱うことに慣れることを、発想を制限するといきり立つ人たちがいる。
自分の理解のレベルでしかものを考えられないとしか言いようがない。掛け算は誰もがマスターしている概念なので、文句をつけやすいのだ。
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最近、筆算で
1.7
+ 2.3
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4.0
と答えたら減点された、というtweetを見ていきり立っている人たちがいる。
筆算は途中計算式みたいなもので、小数点以下のゼロは書いても書かなくてもいい。ただし、数学的には数値の前のゼロや小数点以下の末尾のゼロは省略することが一般的なので、ゼロを消す指導をしている。
ところが実験系の人たちがこれを見ていきり立った。有効数字を無視していると。
自分も直感的にはそう思ったが、よく考えてみればこの計算で小数点以下の桁数が違う場合、有効数字の概念を知らないのに、ゼロをどこまでつければいいのかを小学生が判断することはできないと思い直し、そもそも筆算で出てくる小数点以下のゼロは、操作上出てくるだけのもので、有効数字とも、数学の扱いとも異なるものに過ぎないと気付いた。
筆算で出てくるゼロは、有効数字とは異なるものだ。だから、有効数字を理解していないこの段階では、数学での取り扱いであるゼロ省略で扱った方が、意味なくゼロを付加して数値を扱いにくく表記したり、一件意味ありげに見えて無意味にゼロをつけられた数字を表記することを避ける上でベターではないかと思われるのだ。
しかし、有効数字を半端に知っている人たちの中に、我慢ならない人たちがいるらしい。それはそもそも有効数字として扱っていないものを許容することだと言うことに気付いていないらしい。
有効数字とは、どの桁までが実測数値として意味があるかをあらわした取り扱いだ。単純に小数点以下何桁とつかうものではない。最小目盛りの1/10が有効数字の桁数を決めるとか、そう言うものだ。
先の筆算の、1.7という数値がそもそも有効数字込みの表記なのかどうかも分からない(実際は1.70かもしれないし、2かもしれない)のに、勝手に4.0が有効数字であると思い込んでいるに過ぎない。数学には有効数字という概念での取り扱いは普通しないのだから、勝手に有効数字だと思い込んで4.0を許容するのは有効数字での数値の取り扱い自体に誤解を与えかねない。
数学的には、004でも4でも4.0でも4.000000000000でも数値としては等価だ。桁数に一切の意味は無い。
追記:
この問題に首を突っ込んでくる、割と直情的にものを言ってしまう人たちのメンタルの方が興味がある。
ある有名な人物は、算数教育では虐待が行われていると言っているのだが、事実誤認がいくつも見られる。
自分は覚えてないだけで、現在数学としてのルールや実験系の有効数字の扱いを内面化していても、その前の段階があったはずなのだ。それなのに、自分が内面化しているものだけを正義として、自分がたどってきたはずの段階を踏んでいる部分を記憶にないばかりに「そんなコトをやることがおかしい」と全否定している。
じゃあ、はじめて掛け算に出会うこどもたちにどうやって数学的な扱い方を意味理解を含めて指導していくのか、考えてみればいい。日本語すら怪しいこどもたちに、いきなり交換法則を教えてもそれは意味理解にはつながらない。そもそも掛け算というのは何なのかを教えなければならないのだ。身近な事柄をベースに具体的操作を通して立式に結びつけていく過程はどうしても必要だと思うかどうか、是非考えてほしいものだ。
対案を出せ、というのはこういうときに言うべきこと。もしよりベターな対案が出てくれば新しい教え方というものが定着する可能性は出てくる。
Posted at 2016/11/21 09:00:11 | |
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