長く勤めた女子校でも、程度は違うがやはり部活動は全体主義的色彩に包まれていた。
すなわち、先輩後輩の関係は絶対。
ただ、部活自体がそれほど盛んではないので、部活顧問やコーチが自己実現のためのコマに利用する様なこともなく、苦行のようなトレーニングや暴力、罵倒で精神を支配されるようなことは行われることがない。
単純に生徒間の上下関係のみが強調される。女子校故に「お姉様へのあこがれ」みたいなものもあって、ある種微笑ましさもある。
***
このような部活の先輩後輩関係が学校における人間関係の軸になると、尊敬すべきは先輩であり、教員は埒外と扱われやすい。多くの場合、教員の地位は先輩らより低く扱われる。教員を馬鹿にしたりもする。
ある若い女性教員から部活の顧問として何か注意を受けたか何からしいのだが。
A「あいつむかつく!」
B「ねー。ふざけんなよー」
C「でも、ああの人、○○部の先輩なんでしょ?」
D「ええ?!先輩なのぉ?」
E「え、どうしたらいいの??」
教員を見下げ、部活の先輩は絶対。
じゃあ、教員が部活の先輩だったら…
卒業生が教員として勤務している学校は結構あるのだ。
そうなると、こう言う混乱が起きてしまう。
そもそも先輩が絶対であるのならば、人生の先輩である教員など反抗の余地はなく、高齢者には絶対遵守の対象でなければならない。
それを切り分けていくのが支配的関係だ。利害が直接関わる相手のみに絶対とする対象を絞る。だから、自分がうける抑圧や差別をそれ以外に向け、軽視したり見下げたりする。
支配のために自尊心を潰し、外部に差別意識を煽る。
戦前の教育は、兵士養成のための教育であり、それを戦後教育も色濃く影響を受けている。特にそれが強いのが単なる課外活動でしかないはずの部活動で、学校としてそれにのめり込んでいるのが海外にはあり得ない特徴である。しかも教員を動員し、無給でだ。
大学時代の研究室のボスが言っていた。
「アメリカでは、日本みたいに先輩がえらいとかないのよ。1年2年なんてあんまり変わらないんだから」
もっともである。ボスからしてみれば学部生や院生はみなひよっこ学生でしかない。ひよっこの1年の経験が絶対的なものだなんてあり得ない。
女性で学生結婚し、アメリカで学生生活をしてアメ車を乗り回していた小柄な豪傑であるボスは、日本に戻って学生の指導をするようになったが、異常な先輩後輩の絶対的関係に戸惑い続けているらしい。
Posted at 2021/07/05 06:23:03 | |
トラックバック(0) |
ひとりごと | 日記