昔々大学生の頃、教育用ソフト製作のお手伝いをするアルバイトをやっていたことがある。当時の文部省の予算で製作されていた『ハイパー・サイエンスキューブ』と言うもので、アップル・マッキントッシュのハイパーカード上で動くアプリケーションソフトであった。その後、それが市販された様子はなく、あくまでも実験的な試みであったようだ。それはサイエンスに関わる様々な情報を引き出せる百科事典のようなソフトで、資料同士が相互にハイパーリンクでつながり、レーザーディスクの動画資料を再生するなど、当時としては最先端のマルチメディアを生かしたものであった。
自分は、たまたま取っていた講義の助教授がそのソフト製作の監修をしており(ググったら、
当人が概要を解説している物が見つかった)、アイディア出しをしたり、紹介で制作をしている某レコードレーベルにてそのソフト製作に関わるちょっとしたアルバイトをしていたのだった。
その時、プログラマー氏から、『四倍体の馬の話を入れたいが、どう思うか』と訊かれた。
なにかの本の引用で、『四倍体の馬を作ったのだが、目論見通り体が通常の2倍となったものの、体重は8倍で重くなりすぎた自重を支えられなくなり立っていることができず、さらに自分の体内で発生する熱を皮膚から放熱することができず、常にホースで水をかけ続けなくてはならなくなっていたそうだ。バランスの例、体積と表面積の増え方の違いの例としていいと思うのだがどうか』と言う。
長さLに対して面積はLの2乗、体積はLの3乗になるから、体長が2倍になれば表面積は4倍、体積は8倍になるが、体積の大きな増加に対して面積の増加は小さいので体積の増加に追いつかないという話だ。
自分は、馬はもちろんホ乳類で四倍体を作ったという話自体が聞いたことがなく、本当に行われた実験なのかどうか極めてあやしく思い、また恒温動物は熱が発生してしまうのではなくあえて熱を生産しているのだから、体積の増加に面積が追いつかないからと言って皮膚から放熱できずに死んでしまうというのがあまりに不自然に思われたので、ほとんど直感的に否定したのだった。
自分としては「恒温動物においては、同じ種でも寒冷な地域に生息するものほど体重が大きく、近縁な種間では大型の種ほど寒冷な地域に生息する」という適応に関するベルクマンの法則や、それに近いアレンの法則を載せるだけにした。
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助教授にはアイディアを出すことを求められていたのだが、実際の現場では雑用だけを求められていて、そのあたりを了解していなかった自分は、雑用係のくせにヘンに口を出すヤツとして嫌われてしまった部分がある。自分がアイディア出し後に誘った、ただ言われたことだけをやって、後はマックで遊んでいるだけの友人はえらく可愛がられていた。
それはともかく、この件はその後もずっと気になっていた。4倍体の馬というのは一体何だったのか。
当時でも植物では四倍体、六倍体と言った染色体のセット(ゲノム)が通常の2セット(二倍体)の整数倍になっている植物がいることは知っていたし、ミツバチの雄が半数体とか、人工的に三倍体の生物を作り種なしスイカを作るとか、体の大きなニジマスを産みだしていることも知っていた。
ただ、ホ乳類の四倍体というのは聞いたことがない。ヒトでは性染色体の異数性(ターナー症、クラインフェルター症など)はあるが、常染色体の異数性をもつと重度の奇形を起こすことも知っていた。4倍体のホ乳類が作れるとは思いにくかった。
植物では倍数体において植物体そのものが大きくなることが多いが、魚の三倍体は性成熟が起こらず、性成熟のエネルギーが成長に振り向けられたり1年で寿命を迎えないため大きく育つとも聞いていた。染色体数が2倍なら体が2倍というのもあまりにもできすぎた話に思えた。
更に、生物は機械と違って熱が発生してしまうのではなく必要なだけ熱を作り出しているのだから、体長が2倍になると体積が8倍になっても表面積は4倍にしかならないからと言って、自分が発する熱で死んでしまうというのも不自然に思われた。体のしくみの適応もあるだろうが、東京の動物園のホッキョクグマは、自分の体温で熱死してはいない。
科学的根拠があやふやなものを載せるわけにはいかないので、その判断は正しかったと思っていた。
しかし、そもそも一体この話の出典はなんだったのだろうかと気になっていた。弱冠二十歳の自分の判断は正しかったのかどうかも含め。
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随分前にふと思い出して「四倍体の馬」で検索してみた。
すると、なんと出典は文化人類学者グレゴリー・ベイトソンの『精神と自然 -生きた世界の認識論Chap.2 学校の生徒でもみんな知ってること』であるらしいことが分かった。この本の中に、ノーベル賞を取った博士が4倍体の馬を作った話が出てくるのだ(末尾にネットにあったものを引用)。
ここに出てくる博士がいるエレホン国は架空の国で、遺伝学者P・U・ポシフ博士も架空の人物。イギリスの作家であるサミュエル・バトラーの『エレホン』という小説と関係があるかも知れない。ここでのエレホンというのは小説に出てくる理想郷のことで、英単語「Nowhere(どこでもない)」のアナグラムであるという。
プログラマー氏が提案してきたのは、詰まるところ科学的根拠のある話ではなく、長さ2倍の時、面積は4倍、体積は8倍になるということを単純に空想上の「四倍体の馬」に当てはめた寓話に過ぎなかったようなのだ。話の中では全てが単純にサイズアップされているが、生物の体は個体サイズが大きくなったからと言って細胞のサイズもそのまま大きいわけではない。四倍体で細胞自体の大きさが2倍になったら細胞自体の活動に支障が生じるだろう。血管も要求シグナルに従って伸びたり増えたりする。単純に長さ2倍、面積4倍、体積8倍を当てはめることはできないだろう。
サイエンスを標榜するからには、実例であるかのように空想話を入れるわけにはいかない。モデルを紹介するのとは違う。
当時の自分の判断はやはり正しかったのだと思う。
まあ、おそらく単なる教育用マルチメディアのデモソフトでしかなかったので、多少おかしなことがあっても問題化することもなかったのかも知れないが。
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後に、サイエンスとして成り立っていない、陰謀論に組みしがちな某作家氏が紹介している、内容も根拠も意味不明で、ただ放射性物質への恐怖を煽るだけのでたらめな記事を、生物濃縮の例として中学生に配ろうとした理科教員がおり、全力で反対した。ところがこの教員は職員室で『そんな細かいことは大学でやれ。中学生はこれでいいんだ。俺は雑誌を信じる。』とこちらを非難し大騒ぎしたあげく強引に配布されてしまった。その他にも間違いや独自の造語だらけの原発や放射線についての解説がなされていた。
自分もその教材を配らされたが、やむを得ず、いかにサイエンスとして成立していないかを説明し、雑誌のあおり記事を鵜呑みにすることの弊害を説く材料にした。
現場の理科教員は、正しいサイエンスの知識と考え方を伝え、自分で取捨選択できる人間を育てなければならない。
**以下引用**
「4倍体の馬のはなし」
「一九八〇年代後半、荷物運搬用の馬のDNAを遺伝子操作したエレホン国の偉大な遺伝学者P・U・ポシフ博士にノーベル賞が授与された。受賞の理由は、当時「新しい科学」として脚光を浴びていた「移送学」に多大な貢献をしたというものだった。なにはともあれ彼は、普通のクライデスデール種の馬の2倍のサイズの馬を「創造」(神の領域にふみこんでいったこの応用科学を語るのにこれほどふさわしい言葉はないだろう)することに成功したのである。
体長も、背丈も、横幅も、すぺて2倍というこの馬は「4倍体」、つまり
染色体の数が通常の4倍ある馬(ブログ主注 通常は2倍体なので、4倍体は通常の2倍の染色体数を持つ)だった。ポシフ博士はいつもこう弁明していた。「仔馬のときはちゃんと4本の脚で立っていたのですが」。それはさぞかし見事な姿だったことだろうが、少なくとも近代文明の粋を集めた情報伝達装置に記録され、一般公開されたときには、あの馬は立てなくなっていた。体があまり重すぎたのである。なにしろふつうのクライデスデール種の8倍の体重があった。
見物客や報道陣に見せるときには「ホースの水を止めてください」というのがポシフ博士の指令だった。哺乳動物としての正常な体温に保っておくために、普段は四六時中、体中に冷却水を流していたのだが、いまにも体の中心からステーキになっていくのではないかと、見ている方は気が気ではなかった。この哀れな馬は、皮膚と皮下脂肪との厚さが通常の二倍あった。これでは表面積が四倍あるといっても、まともには冷えてくれない。毎朝、この馬は、小さなクレーンの助けを借りて立ち上がり、車のついた箱の中に吊るされたバネにかけられる。バネは足にかかる体重が半分になるように調整されている。
体を冷やすためにも、八倍もの体に酸素を補給するためにも、いつもハァハァ喘いでいなけれぱならなかった。気管の断面積はふつうの四倍しかなかったからである。それから食生活が間題だった。毎日、ふつうの馬の八倍の量のエサを、四倍の広さの食道に押し込まなくてはならたい(ブログ主注 原文ママ)。血管も相対的に細くなっているから、血液循環の抵抗も増す。心臓も大きな負荷に耐えねばならない。聞くも哀れな馬の物語……
この寓話が示しているのは、二つ以上の変数がちぐはぐに増減したらどんな結末が待っているかということである。四倍体の馬の不幸は、体長と表面積と体積とのバランスが崩れてしまったことにある。
この種のケースで今日、最も有名なのは、原子爆弾中の核分裂物質のふるまいだろう。ウラニウムは天然に産出され、自然状態でも常に核分裂を続けているが、反応の連鎖が確立されないために爆発とはならない。各原子の崩壊時に放出される中性子が別の原子に当たって二次分裂を起こしても、ウラニウムの塊が臨界値より小さいときは、一回の分裂で出る中性子のうち、二次分裂を起こすものの数が平均一個以下であるために、連鎖はいずれ尻切れとなる。塊を大きくすれぼ、二次分裂を起こす中性子の割合も増加し、臨界点から先では、分裂プロセスが末広がりの累乗的増大を示し、爆発となる。」(グレゴリー・ベイトソン「学校の生徒でもみんな知ってること」より)
イノレコモンズのふた。
▼文化人類学解放講座 グレゴリー・ベイトソンの「4倍体の馬のはなし」
http://illcomm.exblog.jp/16306259/
より引用