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Yuh_Fazioliのブログ一覧

2019年04月10日 イイね!

痩せる?

 何か、生酵素なるものを食事にプラスすると、みるみる痩せるという広告を見たのだが。

 飢餓に備えて体に備蓄しているエネルギーを消費してしまうなんて、一体ドンだけ不健康なものなのだろう?

Posted at 2019/04/10 01:46:50 | コメント(0) | トラックバック(0) | ひとりごと | 日記
2019年04月09日 イイね!

TOKYO

 職場が変わって、久し振りに東京に出勤するようになった。

 江戸川をはさんで、風景はがらりと変わる。東京は目一杯に建物が建ち、せせこましく、多くの車が常に行き交い、人もまた。

 建物は新しかったり、メンテナンスをされているものが多く、何らかの店舗も多い。
 街が常に新陳代謝し、活気に溢れている。

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 千葉の住宅街に囲まれた文教地区にある職場でしばらく過ごしたが、周囲は古く衰退した町だった。
 古く薄汚れた店舗が多く、シャッターが閉じたままのものもある。
 かつての新興住宅街なので、住宅も古くなっている。

 街を行く人も少なく活気に乏しい。

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 私が住むのは、千葉でも特殊な、景観を売り物にした街だが、街を行き交う人が多いとは言えない。イベントとなれば大変な数の人が出てくるもののそうでないと街で見かける人の数は少ない。特に平日は活気を感じにくい。
 しばらく前には公演には多くのベビーカーがならんでいたが、最近はそれほどでもないようだ。千葉市の中でも珍しく子供人口が増えている新しい街だったが、最近は子供の数も減り、高齢化してきた。
 ここは基本的にはベッドタウンであって、ここに人が集まってくるわけではない。それが都心との決定的な差だ。

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 新浦安などの街では、住宅が多い一方で大きな商業施設も多く、両者が切り離されていない。おかげで商業施設周囲は活気があり、街の印象にも繋がっている。
 我が街は、公園をはさんで商業地区・ビジネス街で、そちらまで足を伸ばせば活気に溢れているうえに、更にイオンモールが出来たり大規模出店があるので、大きな視点で見れば街としては発展の途中ではある。

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 衰退をひしひしと感じる街にいると、何かつらい。
 伝統のある古い町ならいざ知らず、高度成長期に即席で作られた郊外の街が人口減少と高齢化によって痛み、古びていく姿は痛々しくもある。

 日本全国で、この衰退が進んでいる。
 私の目に入る東京の郊外はまだマシな方であるはずだ。

 ただ、人口が集中し、周囲から働き手が流れ込み、観光客等も訪れる東京も、人の流れに変化が出てきたようだ。

 久し振りの電車での通勤ラッシュを怖れていたら、知り合いから

「以前より空いていますよ」

と。
 なるほど、確かに随分余裕がある。

 これからの季節は通勤・通学とも人が多くなるので、まだ変化の余地はあるのだろうが、それでも人は少ないようだ。団塊の世代の大量退職と少子化が効いているのか。

 限られた人とお金を利益のために奪い合うため、競争が熾烈になり、見た目はよくても内情はブラックな世界が広がっているようでもある。

 日本の財界と政治は、その利益にしか興味がないらしく、衰退を放置している。賃金は伸びずむしろ減ってきたし、税金等は増えて、実質所得は確実に減り続けている。子供を育てるための支援も未だ乏しく、子供を持つことは多くの人にとってもはや贅沢になっている。年金も負担が増える一方で支給は減るばかりで、制度が維持できたとしても、もはや年金で生活はなり立ちそうにない。

 日本の衰退が止まる要素がない。

 不正招致によるオリンピック景気も、一部にお金が垂れ流される一方で広くは広がらず、セオリー通り開催前に終わりつつあるようだ。復興五輪などと言いながら、人材・資材をオリンピックに取られ、むしろ災害復興にはマイナスになっっているらしい。

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 都心は活気に溢れ、人・もの・金が集まっているけれど、少し離れれば衰退が広がっている。
 二極化と貧困、衰退を感じずにはいられない。

 活気のある街は好きだし、東京に戻ったのは個人的にはプラスだが、複雑な想いも持たずにはいられなかった。


Posted at 2019/04/09 23:58:17 | コメント(0) | トラックバック(0) | ひとりごと | 日記
2019年04月08日 イイね!

サインバルタ


 うつ病治療薬のサインバルタは糖尿病や慢性腰痛の痛みの治療にも用いられるようになっている。

 比較的詳しくわかり易い説明が以下にある。

https://www.data-index.co.jp/knowledge/detail4-4.html

 要はセロトニンとノルアドレナリンを増やすことで心の働きが正常化するのと同じしくみで働きが悪くなった痛みを抑える神経の働きも正常化させられると言うことだ。

 副作用が強く出るケースではうまく行かないが、少しずつ増やして副作用を避けつつ痛覚抑制の効果を得ようとする。


追記:
 これまでに証拠が見つかっておらず理由が不明なことは存在しないことにしてしまうことがある。
 むち打ち症状で続く痛みなどはその典型で、本人は明らかに痛みを感じているのに「原因はない、気のせいだ」と突き放してしまったり、詐病扱いしたり、精神科送りにしてしまったりもする。
 このために逆に自分が問題患者と取られることを怖れて、交通事故でまだ自身にむち打ち症状の痛みが残っているのに治療を早期に切り上げてしまった医師を知っている。

 しかし、後に研究が進んでエピデンスが得られることがある。あるいは、そもそも専門性の問題で原因を見落とされていることもある。

 痛みの原因がはっきりしなくても痛みがあればそれは解決すべき問題だろう。

 慢性疼痛も原因不明の痛みとされてしまうことがあったが、痛覚抑制神経の問題で起こるものがある事が分かっている。シナプスにおける神経伝達物質の再取り込みを阻害するうつ病治療薬がその症状にも効くため用いられている。ストレスが痛みに関わることもわかっているが、抗うつ薬が処方されてもうつ病であると診断されているわけではない。

Posted at 2019/04/08 10:57:05 | コメント(0) | トラックバック(0) | 医学・医療 | 日記
2019年04月07日 イイね!

にっぽんじんJOKE

ネットでは時折国ごとの民族性を比較するJOKEが流れてくる。

これなどは見事にそれぞれの国民性をあらわしている。

豪華客船が沈没して、多国籍の人々が救命ボートに乗りました。しかし定員オーバーで、男の人たちに降りてもらわないと沈んでしまいます 。そこで船長は
アメリカ人に対しては、

「あなたはここでヒーローになれる」 と言いました。アメリカ人は、ガッツポーズをして海に飛び込みました。
次にイギリス人に対して
「あなたは紳士だ」 と言いました。イギリス人は、うなずいて海に飛び込みました 。
ドイツ人に対しては
「あなたは、飛び込まなくてはならない、それがルールだ」 と言いました。ドイツ人は納得して海に飛び込みました 。
日本人に対しては
「あなた、飛び込まなくていいんですか?ほかの男の人は、みんな飛び込みましたよ」 と言われました。すると日本人は、左右を見渡すと慌てて海に飛び込みました。

 日本人は何らかの集団に属することを至上とし、和を乱すことなく同調することを当然と考えて行動する。そこから少しでも外れるものを異分子として攻撃したり排除しようとする。
 
 バブル時代の景気がいい頃はもっと自由で個人主義になっていたように思うが、景気が悪くなってからは、皆が息を殺して嵐をやりすごそうとし、少しでも異分子と感じる者を排除するような社会になってきたように感じる。
 昨今様々な差別やヘイトスピーチが強まっているのは、ネットでなんらかの情報が行き渡りやすくなったと言うことだけでなく、生活や心に余裕をなくし、無意識の抑圧からのカタルシスを差別やヘイトスピーチに感じてしまう部分は、おそらくあるのだろう。受け入れたいから都合のよい情報は広まるのだ。

 たとえ貧困でなくても、多くの人が現状に圧迫を感じ、先行きに不安を感じている昨今、何かをきっかけにその不安をぶつけてしまう事件が起こりうる。
 他人に寛容になれない、他人の尊重できない社会は怖い。
 
 
 
Posted at 2019/04/08 00:35:07 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2019年04月07日 イイね!

閲覧という語の使い方が気になる


 某ネットTVの自社CMで「動画閲覧期限」という言葉の使い方をされていて気になった。

 閲覧というのはWikipediaによれば図書館関連の用語だそうで、資料を持ち出さず館内で調べることを言う。「閲」は調べること、「覧」は見る・眺めること。単に読むことではない。

 これがインターネットの普及と共にページ閲覧、サイト閲覧という使い方をされるようになってきた。
 最初は「見る」のあらたまった語、丁寧語・謙譲語のつもりで使われたり(例:「拙ページをご閲覧頂きありがとうございます」←「ご高覧」との誤用の可能性も?)、何かを調べるためにページを見ることを指していたのだろうが、インターネットの内容が多様化するにつれて「閲」が持つ「調べる」意味合いが抜け、単純に見ることを指すようになってしまったらしい。

 「動画を閲覧」というのが違和感を感じるのは、元が印刷物などの動かない紙の資料、あるいはそれを複写した資料を調べることを指していたからだろうか。それとも娯楽のための映像を見ることへの違和感か。おそらくその両方であろう。

 映像資料を資料室のようなところで見ればおそらく動画であっても閲覧という行為と感じられるように思われる。

 PDFファイルも閲覧という語に違和感がない。資料配付にも使われる電子出版媒体であるからだろう。しかしこれがライトノベルを消費することだったりすると違和感を感じ始める。研究資料としてライトノベルを見るのであれば閲覧でも違和感はなくなる。

 図書館で資料を見るにしても、美術作品の「鑑賞」と「閲覧」では大きく意味が異なる。ネットの動画は「鑑賞」で適切なものも多いだろう。

 単純に動画を見るのであれば「視聴」という語がある。放送で使われてきて、動画配信サービス(AmazonやHuluなど)でも多くは視聴に統一しているようだ。

 情報の流れの軸がネットに転換したことで、文化や教養に疎い層が表舞台に出て、誤用や造語が広がっている面が確実にあるように思う。先日取り上げた「課金」も同じような事情に思われる。

 **

 ネット放送は大手でも文化的な教養と離れたネット系の勢力が強いのか、そもそも採用できる人材の教養レベルや採用できる人材の幅の問題なのか、言葉に無頓着で、校閲が不十分であるように感じることが多い。特に番宣CMの言葉の使い方は日本語を知らないとしか思われないものがある。元々地上波も民放は質に問題があったが、輪をかけているようだ。
 また、地上波では規制がかかるようなお下劣な内容でも、ネット放送だからと流されている。番宣を見せられるだけでかなり不快感がある。

 規制と言えば、小規模なネット放送や動画投稿サイトは規制がかかりにくく、デマやヘイトの温床にもなっている。

 規制は善し悪しな面があるが、表現の自由、見る側の選択権と言ってしまうと、情報発信のコストが下がるほどデマやヘイトまみれになりやすい。言うだけならほとんどコストがかからないが、その批判のための検証には極めてコストがかかるからだ。個人に何らかの「快」をもたらす情報は受け入れられやすく、差別、ヘイトスピーチ(憎悪表現)、攻撃は個人が抱える抑圧やコンプレックスにカタルシスをもたらしやすい。全体主義的圧力がかかり、個人が抑圧されやすい日本はそうしたカタルシスを得られるものが広がりやすい土壌があるかも知れない。

 校閲など、文化や言論を担うものが社会的責任において行っているものであろうが、そうしたことに無頓着に自由を謳うものが大きな勢力になってしまえばそれが大きな軸になってしまうかも知れない。
 
 それは単に言葉の問題にとどまらない。特に郵政解散時やその後に見られる一方的言論による多数派工作や3.11以降ネットのデマに踊らされる姿をたびたび見てきた中で、自分で考えず従順であることを求める教育で人が育つ日本では危険がより高いように思われる。




 

 
 
 
Posted at 2019/04/07 15:41:28 | コメント(0) | トラックバック(0) | ひとりごと | 日記

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