職場に、日系アメリカ人で日本在住の英語講師の方がいらして時折話をする。
先日は日本の高校生の先輩後輩など上下意識の話になった。
アメリカではこのような上下関係は存在しないという。
同じチームで年齢差があっても、あくまでチームメイト。年齢差は関係ないという。
日本では上下関係は絶対であり、下のものはどんな理不尽にも忍従しなければならないのが普通だ。
海外ではスポーツは科学に基づいたトレーニングが基本だが、日本では未だ精神論を主体とした苦行のようなトレーニングと罵倒、暴力で自尊心を失わせ、隷従を強いることが基本になっている。ブラック企業と同じだ(と言うかブラック企業が同じやり方をしているわけだ)。
結局はコーチ/監督の自己実現、学校宣伝の道具として使い潰されることが多いのが実態だ。そこで怪我をしても何の保証もない。部活以外のことをまともにやってきていないので、そこで学校もやめて落ちるところまで落ちていくケースも珍しくない。まさに人権蹂躙である。人権が確立している近代民主主義国家ではあり得ないことである。
そこまでのことがなくても、暴力的な強制による関係は様々ひずみをもたらし、部活で直接の上位関係にないものに対する無礼な振る舞いをする、他人との関係を上下関係だけで考える、根拠なく自らを上位と考える、などのことが多い。
3年生が部活動を引退すると、途端に悪口を言いまくるなどもありがちだ。
単に力で無理矢理抑え付けているだけなので、ひずみをもたらすのは当然だ。
卒業後、有利な進路があるのは、ごく一部の有力選手に限られる。背後には無数の行き場の限られた者たちがいる。その一部の有力選手とて将来が安泰であるものはほとんどいない。セカンドライフに備えることが許されないまま使い潰されていくものも多い。
そういう世界出身の教員が部活顧問をして、再生産している。部活指導を期待されて採用された理科教員が、能力や知識の問題で本来の理科の教科指導ができないなどというケースすらある。部活重視校では、社会常識がが通用しない異世界が広がっている事もよくある。教員による日常的体罰、先輩による後輩への暴力に対する訴訟、部活顧問の学外での犯罪行為など、報道レベルでも目に触れる。
スポーツに関わってきた者たちが関わる東京オリパラで、その者たちの権力に隷従し、国民をないがしろにし続ける言動を見ていて、如何に日本のスポーツ界が狂っているかがよくわかる。
日本の運動観は個人の充実にはない。
戦前教育からつながる精神性と集団性の強いものである。
学校体育や部活動、スポーツにおいて人権など無視されるのは、そうした日本人が持つ運動観が全体主義と一体であるためだ。
オリパラという興行が全体主義に組み込まれているのが日本大会の特徴であると言えるし、IOC利益至上主義の商業主義としっかり結びついているのが近年のオリパラだ。商業オリンピック開催都市には大きな負債が残り反動不況に結びついても来た。
コロナ禍に置いてその歪みが噴き出している状況にあるのは、まさに全体主義の強い日本での大会が強行されているためであると言えるのだろう。
取りあえず日本は狂っている。
参考:
わが国におけるスポーツ観に関する研究―スポーツの教育的価値との関係を中心に一
立木 宏樹 九州保健福祉大学研究紀要 10:1~6,2009
https://core.ac.uk/download/pdf/52204186.pdf
Posted at 2021/07/04 19:59:31 | |
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