2025年5月9日金曜日、山形県鶴岡市にある出羽三山神社を訪れ、その帰り道には、新潟県村上市勝木に残る旧国道7号や羽越本線旧線のトンネルを見物。この後は同じ村上市内にある道の駅「朝日みどりの里」に18時15分頃到着。晩御飯を食べてから仮眠しました。
21時50分頃、道の駅「朝日みどりの里」を出発。日本海東北道 朝日まほろばICから高速道路に乗り、一路愛知県を目指したわけですが、眠気が出てきてしまい、北陸道へ合流して最初のPAである黒埼PAへ。22時45分頃から翌5月10日2時45分頃まで、またも仮眠のためにストップ…。
目が覚めたところで、ふたたび真夜中の北陸道を走行。上越市からは上信越道へと入りますが、この頃からまたしても眠気が…。最寄りの新井PAまで何とか走行して、ここでまたしても仮眠。4時25分頃から7時05分頃まで停まっていました。
夜が明けた新井PA。このPAからは妙高山を望むことができます。5月初旬ですが、まだまだ多くの雪が残っています。
ようやく眠気も覚めてきて、「次のICで下りて、スイッチバック駅の二本木駅へ行ってみるか。」と寄り道することに。
えちごトキめき鉄道の二本木駅へとやって来ました。「ようこそスイッチバックの二本木駅へ」と書かれたのぼりが駅前に立っています。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
私が駅に到着した直後、続々と駅前に車がやって来て、車から降りてきた学生たちが駅舎へと入っていきます。
混雑を避けるため、ひとまず駅前に展示されている車輪や転轍機、煉瓦造の危険品庫などを見物。
電車が出発したのを見届けてから駅舎へと入っていきます。
駅舎の説明板。
二本木駅の顔ハメ看板。「さとまる」は二本木駅がある上越市中郷区のイメージキャラクターだそうです。
ホームへ上がると乗客は誰もいませんでした。おかげで、駅構内をゆっくりと見物できそうです
駅名板。駅に隣接する企業にちなんで「日本曹達前」の表示もあります。
ホームの先端まで行って、レールが交錯するスイッチバックの構内を眺めます。
赤線が本線、青線が駅構内への線路と、列車の引き上げ線です。
ホームの待合室にあった鉄道模型。
ホームと日本曹達の敷地の間には何本か側線があります。かつては二本木駅から日本曹達へと専用線が延びていて、原材料の搬入と製品の搬出が行われていました。貨物の取扱いは2007年3月に廃止されたそうです。
最後に駅舎内の写真を撮って二本木駅の見物を終了します。
二本木駅から国道18号へと出て、高速道路には乗らずにそのまま国道を走行していきます。
次にやって来たのは、国道18号妙高大橋下の国道の旧旧道。現在の妙高大橋と橋桁が撤去された旧妙高大橋の橋脚が望めます。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
ふたたび妙高大橋と旧妙高大橋を見上げます。典型的な田切地形を国道18号とこの背後を通過する上信越道は、高い橋梁で一跨ぎにしていきます。
一方、国道の旧旧道は田切地形の谷底まで下りてから、この谷を流れる大田切川を渡っています。
妙高大橋の下の崖の斜面を国道の旧旧道が横切っています。ガードレールが見えている箇所がそうです。
橋を渡った先にある大田切清水。
大田切清水の脇には、朽ち果てた電光掲示板が草むらに立っています。
「スピードおとせ」とあります。橋梁へ急坂・急カーブで進入していくので、注意喚起のために建てられたのでしょう
ちなみに橋梁を渡って急坂を登っていくと、急カーブの地点にもう一つ同じ内容の電光掲示板が残っています。
ここまで国道の旧旧道の遺物を紹介していますが、そもそも妙高大橋の下へとやって来たのは、えちごトキめき鉄道の太田切橋梁を見物するため。急斜面の雑木林をかき分けて、大田切川のほとりまで下りていきます。
太田切橋梁へとやって来ました。
太田切橋梁は、明治29年(1896年)4月刊行の「鉄道線路各種建造物明細録 第2編」によると明治21年(1888年)8月の竣工。田切地形を流れる大田切川を横断するために建設されました。谷底から線路までの築堤の高さは36m、その築堤を貫く流路のアーチ高は7.8mと、なかなか巨大な建造物です。
そして、その巨大なアーチの天井部の煉瓦には乾いた泥がこびりついています。過去にこの流路を埋め尽くすほどの土石流が発生しているそうで、その名残りなのでしょう。
前回(10年前)訪れた時はアーチ内へと入ることができましたが、前日の雨に雪解け水が合わさったのか、川の流れがなかなかの水量となっていて、間近まで近づくことはできませんでした…。
ふたたび国道18号を走行。途中から国道を逸れて、次にやって来たのは旧信越本線戸草隧道です。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
戸草隧道は、えちごトキめき鉄道の戸草トンネルに隣接して残っていて、現在は道路へと転用されています。
戸草隧道は、「鉄道線路各種建造物明細録 第2編」によると明治20年(1887年)11月の竣工で、延長は145.2m。昭和41年(1966年)8月の信越本線電化により廃止されました。
トンネル内部は、側壁が石積み、アーチ部分が煉瓦積みですね。
道路となっているおかげで、トンネル内には照明が点灯しています。
アーチ部分にはSL時代の煤煙がビッシリとこびりついています。
反対側へと出てきました。
このまま次の廃止トンネルを目指していきます。
廃線跡の下をくぐる用水路に石積みアーチを発見。
このアーチは、「鉄道線路各種建造物明細録 第2編」によると「戸草用水」橋梁だと思われます。竣工は明治20年(1887年)5月。
鉄道のガードをくぐっていくと、上を通る路地に石碑が立っているのを見つけ、路地へと入り込みます。
「三界萬霊等」碑とお地蔵さまかな。本来は「三界萬霊『塔』」だと思うのですが、当て字ですかね。
この先、線路に沿って砂利道があり、そこを進んでいった方が次の廃止トンネルへ向かうには近道でしたが、これが線路保守用道路だったりするとよろしくないので、並行して山すそを流れている用水路に迂回して歩いていくことにします。
廃止トンネルが近づいてきたところで、用水路は急に左へとカーブしてトンネル内へと消えていってしまいました。
この用水路、実は「戸草用水」橋梁の下を流れていた用水路。ネットで検索してみたところ「芋川用水」という名称だそうです。開削されたのは、天正8年(1580年)と慶長8年(1603年)説があるそうですが、どちらにしても400年以上の歴史を誇る古い用水です。
トンネルの坑門をアップすると小さな扁額が取り付けられていました。「芋川堰隧道」とあります。延長は1012mだそうです。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
さて、芋川堰隧道へと向かう用水路は、実に不自然に左折しています。そして、正面には何となく平場が続いているように見えます。
2つ目の廃止鉄道トンネルを見にいくという目的からは外れますが、気になってしまうと確認せずにはいられません(笑)。
薮となっている平場へ入り込んでいくと奥に何か見えます。
石積みのトンネルが現れました。思わず「にやっ。」としてしまいます(笑)。
この石積みトンネルはアーチ形状ではありません。明治時代以降の建設であれば、通常は石材でも煉瓦でもアーチ形状に積まれています。用水開削時に隧道も建設したとあるので、もしかすると開削当時に遡る古いトンネルなのかもしれません。
興味深い物件でしたが、見物するのはこれくらいにして、ようやく次の廃止トンネルへとやって来ました。
場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
大廻隧道です。「鉄道線路各種建造物明細録 第2編」によると明治20年(1887年)11月の竣工。
一般道路として利用されている戸草隧道と違って真っ暗。ある意味、往時の状態を残していると言えるかもしれません。
こちらのトンネルもSL時代の煤煙が天井にこびりついています。
退避坑。当然、煤煙で真っ黒。
反対側の坑門。
それでは車へと戻ることにします。
車へと戻ってきました。さて、次はどこへ立ち寄りますかね。ひとまず国道18号へと出て、長野盆地へと向かいます。