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小林あにのブログ一覧

2023年07月31日 イイね!

【新城市】古道「只持海老道」を探索する(2)

2023年6月24日土曜日、新城市只持から新城市海老へと至る古道「只持海老道」を探索してきました。「只持海老道」という名称は、旧鳳来町発行の「鳳来町誌 交通史編」によります。そのため、この道が地元の人々からはどのように呼ばれていたのかは不明です。

さて、前回(1)では、林道松峯線の終点までやって来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

「只持海老道」はまだ先へと続いているので、砂利道となった林道へそのまま進んでいきます。

砂利道に入ってすぐの場所ですが、右側に平場が続いているように見えます。


上へと上がってみると古道の続きがありました。


この区間に残っていた古道は短く、間もなく林道へと飲み込まれてしまいました。林道へと下りて、先へと進んでいきます。






林道に出てから、ずっと山側(右側)の斜面を眺めながら歩いていましたが、不意に法面の上へと登っていく踏み跡を発見。さっそく上へと登ってみます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

やはり古道の続きがありました。しかし、埋もれたのか崩れたのか、だいぶ道幅が狭くなっています。




沢へと出てきました。そして、沢の先へと続いている古道へ進むのを邪魔するように、倒木が思い切り倒れ込んでいますね…。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

段差の平らな所で沢を渡り、倒木の下をくぐって枝を掻き分けて対岸へと進みます。思っていたよりも苦労せずに通過できました。


沢を渡った箇所を振り返っています。対岸の路肩には石積みの擁壁が見えています。古道と沢の間には橋を架ける程の段差は無いので、流れの中をそのまま渡っていたのでしょう。


沢を渡った後も、古道の道幅は狭いままです。


古道が唐突に作業道へと変わってしまいました。周囲を確認してみましたが、正面の作業道以外に道跡らしきものはなく、作業道は古道を拡幅したものだと判断して、そのまま進んでいきます。


広い平場へと出てきたので、違う場所を古道が通っていないか念のため確認しておきます。


結局、作業道以外にはこれといった道跡は無かったので、このまま平場から下っていく作業道を歩いていきます。


作業道を下っていくと、道の分岐点に出てきました。


まずは下りてきた場所の正面から分岐していく道へと入ってみます。どうみても廃作業道なので、あまり気は進みませんが…。


ぬた場と思われる大きな水溜りで道がわからなくなってしまいました。この道から引き返します。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

平場から下りてきた分岐点まで戻り、隣の道へと入っていきます。




こちらもしばらくは廃作業道が続いていましたが、やがて途切れてしまいました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

こうなっては仕方がないので、杉林の斜面を下りて、先ほどまで歩いていた並行する林道へと出ます。




林道を進んでいくと、別の舗装林道へと合流しました。そのまま真っ直ぐ進んでいきます。


峠の深い切り通しに出てきました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

切り通しを通り抜けて、古道が通っていたと思われる方向へ左折します。この道も廃作業道のようですね…。


路上に木々が生えていたり、薮で覆われていたりと、なかなか不快な廃道です(笑)。




ここが作業道の終点のようです。この先に古道の続きはあるのか…。


しばらくは土砂などでかく乱されていましたが、そのまま進んでいくと古道が再び現れました。


古道が折り返して下を通っていくのが見えます。路肩に石積みの擁壁があるのが見えています。


この辺りは作業道ほどの道幅があります。「現役」の頃からこの道幅なのか、後年の作業道への改修によるものか、見当が付きません。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

小さな沢を渡る部分も路肩が石垣で補強されています。


小さな沢から振り返っての眺め。古道の路肩にはずっと野面積みの石積みがあります。この景色を見る限りでは、昔のまま残っているようにも思えます。


道が分岐していく場所に来ました。ひとまず、この地点で山へと登っていくことはないはずなので、左側の道を進むことにします。


ここへ来てまた倒木ですか…。しかも薮と絡んでいるし…。


少々嫌な思いはしましたが、また沢へと出てきました。


沢の辺りも土砂や岩で地面がかく乱されていて、道跡は全くわからない状態。そのまま沢を歩いて舗装林道へと出ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この時点で時刻は14時10分。実は夜に飲み会の約束をしているので(笑)、この場所から車まで引き返して、さらに自宅へと戻り、集合時間に間に合うように会場へ向かうとすると、時間的に限界かなと判断。ここで引き返すことにしました。

まずは、峠の切り通しまで舗装林道を登っていきます。ちなみに、この林道の路線名は「桃の久保線」といいます。新城ラリーの初期にはSSコースとして使われたこともある林道です。




土砂崩れが放置されています。土砂の雰囲気からして、ごく最近の土砂崩れのようですが、誰もこの林道を通らないようですね。


さて、峠の切り通しの近く、道の上の斜面に石碑が立っているのを見つけました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

喜び勇んで(笑)近寄ってみたところ、これは名号碑ですね。独特の書体で「南無阿弥陀仏」と彫られています。それ以外の文言は全く無いため、残念ながらいつの時代に立てられたものかは不明です。


名号碑の目の前には古道が通っています。通っている場所からして、これが「只持海老道」でしょう。


せっかくなので、名号碑から左方向へと延びていく古道を辿っていきます。程なくして酷い道になるのはわかっていましたが…。


若木に覆われだしましたが、まだこの程度なら問題なく行けます。


いよいよ、いろいろなものが絡みだしてきました…。


かつて道が通っていたルートを忠実に辿ろうとすると、往々にしてこんな目に遭います…。何の「旨味」もない行動ですが、自分が納得するためだけに突破していきます(笑)。


とにかく面倒くさい事ばかりが連続する区間でしたが、何とか突破してきました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

あとはここから砂利道の林道へと合流し、まずは林道松峯線の終点に向けてひたすら歩いていきます。

林道松峯線の終点まで戻ってきました。もう古道は通らず、そのまま舗装林道を進んでいきます。


と言いながら最後に寄り道。スタートして間もなく古道へと取り付いた地点から只持側へと続いている、ほんのわずかな距離の古道を歩きます。




林道だけでなく、こちらの古道にも獣害防止柵の門がありました。しかも困ったことに扉が開かない仕様…。仕方がないので、金網を登って外へと出ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

最後の最後に引っ掛かりましたが(笑)、無事に車へと戻ってきました。




今回探索したルート図がこちら。赤線が往路。青線は復路ですが、一部赤線の区間も通っています。登山用アプリでの計測では、往復8.4kmに4時間15分かかりました。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

こちらの地形図での赤線は、今回探索した区間での「只持海老道」の推定ルートになります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

今回だけでは、只持から海老まで踏査することはできませんでしたが、残りの区間については日を改めて探索したいと思います。
Posted at 2023/07/31 22:01:05 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2023年07月30日 イイね!

【新城市】古道「只持海老道」を探索する(1)

2023年6月24日土曜日、新城市只持から新城市海老へと至る古道「只持海老道」を探索してきました。「只持海老道」という名称は、旧鳳来町発行の「鳳来町誌 交通史編」によります。そのため、この道が地元の人々からはどのように呼ばれていたのかは不明です。

「鳳来町誌 交通史編」によると、昭和の初め頃まで、只持は東側の山地を挟んで海老川沿いの谷にある海老や玖老勢との交流が盛んであったそうです。その中で「只持海老道」は名前のごとく、只持と付近の物流・商業の中心地であった海老の街を結ぶ道でした。

※5万分の1地形図「本郷」:明治41年(1908年測図)・昭和5年(1930年)鉄道補入・昭和7年(1932年)発行


※5万分の1地形図「三河大野」:明治23年(1890年測図)・大正6年(1917年)修正測図・昭和5年(1930年)鉄道補入・昭和7年(1932年)発行

また、この道は、海老にあった郵便局が只持での郵便物の集配を行う際にも利用していたようで、明治40年(1907年)の「海老局市外集配路線図」によると、海老局→須山→山中→湯島→只持→小松→只持→海老局の順路を徒歩で周回していたことがわかります。

さて、探索のために新城市只持へとやって来ました。国道257号から林道松峯線へと入り込み、地元の墓地の前にある広場へ駐車させてもらいます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

さっそく準備を整えて、まずは林道を歩き始めます。広場から先の林道は、ご覧のとおり獣害防止用の門が設けられているため、門を開けて進入していきます。


100mも歩かない所で、右側の斜面へと入り込みます。林道の右側の尾根筋を古道が通っているだろうと予測したからです。


予想どおり古道がありました。ここからは古道を歩いていきます。


深い堀割りがあります。掘削に労力を要する深い堀割りを見つけると、やはりそれなりの往来があった道なのかなと感じます。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

堀割りを通り抜けると谷側の路肩が急斜面になります。けっこう高い場所を通過しています。


山と山とをつなぐ尾根筋に盛土道がありました。細い尾根で渡る場所によく見かけます。


古道が二股に分かれているように見えます。左側の道の方が人の手で造られた感じがするので、左側へと進みます。


薮が邪魔ですね。


程なくして薮を抜けました。


右側から別の古道が合流してきました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

そして、この場所に石仏がありました。これは馬頭観音ですね。


光背には「文久三 亥三月」の文字が読み取れます。文久3年は1863年。今から160年前です。干支が「癸亥」(みずのとい)なので、「亥」とあるわけです。


石仏からさらに進んでいくと、間もなく林道へと出てきました。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この場所でふたたび林道から外れます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

少しだけ林道の下を並行してから左側へと曲がっていきます。


左へ曲がると長い上り坂が始まります。


また古道が二股に分けれています。右側はショートカットの道(もしくは下り用の道。)でしょうが、その分急坂になるので、左側の道を進んでいきます。


二股道の坂の頂上で折り返していきます。




一本に戻った道をさらに登っていくと、頭上に林道が見えてきました。


古道は林道に寸断されていたので、法面を登って林道へと出てきました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

林道を10m~20mほどだけ歩き、今度は右側へと逸れていきます。


この区間は薮が多くて、あまりいい状態ではありませんね。




薮は抜けましたが、道の雰囲気がいまいち。


ようやく真っ当な感じの古道に戻りました。


と思ったら、林道に削られて古道が無くなっていました。


斜面を滑り降りて、林道へと合流します。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

路肩に据え付けられていた林道松峯線の銘板。


古道の分岐点に来ました。左側の木々の間へと入っていきます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この場所に来て、初めは草地の中に古道が通っているのかと思って踏み込みましたが、道らしきものが見当たらず、引き返して右側の急坂を登っていきます。


いくら古道でも急坂過ぎます。疑問に感じつつもひとまずは坂を登り、状況を確かめることにします。


急坂を登ると右側から合流してくる道がありました。どうやら、本来は合流してくる道が古道だったようです。合流してきた道へ様子を見に入ってみましたが、すぐに林道の高い法面に寸断されていました。


先程の急坂よりは幾分緩いですが、なおも急坂が続いていきます。




古道の路肩に短く切られた丸太が並べられています。どういう目的で並べたものなのでしょうか。


深い堀割りです。前方には尾根が見えています。




堀割りを登り切ると、古道は折り返して尾根を進んでいきます。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

右側のピークを避けるように古道は進んでいきます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ここでちょっと寄り道。右側のピークにある三角点へと登ってみます。


三角点と「建設省国土地理院」の標柱が立っています。


標石を覗いてみると「三等三角點」とあります。「基準点成果等閲覧サービス」で閲覧してみると、基準点名は山の名前ではなく「只持村」。標高は408.28m。「点の記」には、選点が明治20年(1887年)7月21日とあり、当時の村名から付けられたのでしょう。選点時にこの山には名前が無かった証しとも言えますね。


古道へと戻り、先へと進んでいきます。




三角点がある山から下っていきます。


山からどんどん一気に下っていきます。








林道へと出てきました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

合流地点の先で、林道の舗装区間が終了しました。ここが林道松峯線の終点のようです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

※その(2)へ続く。
Posted at 2023/07/30 14:07:28 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2023年07月23日 イイね!

【長野県泰阜村】古道「和田新道」を探索する(3)

2023年6月17日土曜日、長野県下伊那郡泰阜村の古道「和田新道」を探索してきました。

さて、前回(2)では、今回歩いた「和田新道」の区間で一番高い場所となる大城峠まで来ました。


ここ大城峠で「小城頭」へと向かう登山道は分岐していき、この先の「和田新道」はいよいよ廃道区間となります。


峠から下っていくと折り返しがあります。


しばらく歩いていくと、また折り返しが現れます。


急斜面の中ですが、古道はしっかりと続いています。


ちょっと怪しい雰囲気の場所があらわれました。大鹿村の北條坂でよく遭遇した光景。路面全体に土砂が斜めに積もって谷側へと傾斜しています。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

路肩が崩落している箇所もあります。でもこれくらいならまだ大丈夫。山側の土砂を踏み締めながら進んでいけば問題ありません。


ふたたび急斜面の中に続く一直線の古道を歩いていきます。




折り返しを下っていきます。


尾根の上を一直線に下っていきます。


尾根上の盛り土道。右側の斜面は急激に落ち込んでいっています。


しばらくは尾根を真っ直ぐに進んでいくものだと思っていたら、古道は左側へと逸れていきます。


下り始めると斜面が荒れていて、古道がはっきりしなくなっています。


踏み跡程度には道幅が残っているのと、路肩側には木々が生えているので、特に不安になることもなく通過していきます。


根の張り出しがすごいですね。


いかにもな格好のキノコ。アカマツが点在しているので、もしかして松茸?


廃道になって人が歩かなくなっている区間には、どうしても路面に土砂が積もってしまい、不安定な印象を感じてしまいます。まあ、土砂が柔らかければ長靴をめり込ませて歩けばいいだけなので、そんなに心配事ではないのですが。




檜の植林地になりました。植林地は硬く締まった地面が剥き出しになっているケースが多いので、古道探索としてはあまり好きな状況ではないですね。


ガレ場が現れましたが、安息角を保っているようなので、足元に気を付けて速やかに通過していきます。


木々は枝打ちが全くされていない感じです。(2)でも同じような雰囲気の場所がありましたが、山の手入れに入る人がもういないのかもしれません。


植林地を通り抜けました。落葉樹の林の方が、落ち葉が腐食して柔らかい土が残るので、歩く側としても歩きやすく感じます。


連続したつづら折りを下っていきます。








痩せ尾根に出てきました。


場所はこちら。


谷の浸食が進んで、絶壁になってしまっています。




左側の斜面の傾斜が幾分緩いので、浸食を受けてもこの痩せ尾根が一気に崩落することはないでしょうが、将来的にはこの場所も古道が寸断される要因になるかもしれません。


古道は正面のピークを避けるように尾根から右側斜面へと巻いていきます。


前方の斜面が明るく見えています。嫌な感じです…。


予想どおり、崩落斜面に遭遇しました。これは厳しいですね…。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

一応ロープが掛けられていますが、方向が踏み跡と一致しておらず、これでは使い物になりません。そして、細い踏み跡は乾燥して表面が固まった土の上にサラサラした砂が乗っています。こんな場所で足を滑らせたら、急斜面をはるか下まで一気に滑落です…。


しばらく考え込んで、この場所は迂回することに決定。古道が尾根から斜面へと進んでいた場所まで戻り、正面のピークを越えて崩落箇所を迂回します。




そして、ピークを越えて古道へと再合流しようとしましたが、古道を再発見することができません。登山用アプリで現在地を確認しながら歩いていましたが、古道が細い道幅になっているために見落としてしまったのかもしれません。

仕方がないので、現在歩いている尾根をそのまま下り、御棚側へとできるだけ進んでみることにします。


万古川沿いにある平場まで出てきました。万古川までは高さ20~30mほどの急斜面になっています。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この平場で炭焼き窯の跡を発見しました。もしかしたら、この平場から御棚の集落へと向かう道跡があるかもしれません。


御棚側の斜面を探してみると、細く頼りない道跡がありました。これを進んでいってみることにします。


道跡を50mも歩かないうちに、またしても崩落斜面に遭遇してしまいました。


この斜面にもごく細い踏み跡が付いていました。多分、獣道でしょう。行けそうな気がしないでもありませんでしたが、もし踏み外したら、もし斜面が崩れたら、10m以上下を流れる万古川まで一気に滑落です…。

しばらく立ち止まって進むべきかどうか考え込んでいましたが、どうしても恐怖感が拭えず、この場で撤退することにしました…。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

さて、まずは万古川へと急傾斜で落ち込む稜線を登り直して、標高差200mの尾根を通る古道まで復帰します。


久しぶりの長時間の山歩きでありながら、ここまで来て道が無い急傾斜の斜面を登り直す羽目になり、古道へと再合流した頃には両太ももがつり始めてきていました。


行きの時には気にもせず下ってきた下り坂も、帰り道ではいくつもの偽峠と延々と続く急な登り坂に化けて、気持ちが折れそうになります…。それでも「まずは大城峠まで戻らないと。」と気持ちを奮い立たせて、少し歩いては休むというパターンを何度も繰り返しながら、根気強く登っていきます。




万古川沿いから引き返して約2時間後、ようやく大城峠まで戻ってきました。これであとは下るだけ。気だけは抜かないように注意していきます。


鎖場を通過。


「ヒヤダルの滝」。ここの流水で顔や腕を洗って一息つきます。昔、この道を行き来していた馬や人も、この滝で同じように一服していたんですかね。


大城峠から約40分、ようやく無事に車まで戻ってきました。「この時間までには車へ戻りたい。」と考えていた時刻までには何とか着くことができました。


言い訳がましいですが、古道を外れて長い時間歩くことがなければ、急坂だとしてもここまで消耗しなかったと思います。こういうアクシデントがあるたびに、「道は人が歩けるようにできているんだなぁ。」と痛感します。

さて、今回探索したルートの全体図です。赤線が「和田新道」、赤線の先の青線が古道を外れてから歩いたルートになります。


一部区間だけですが、「和田新道」を歩いた感想を言うと、馬道として開削されたとはいえ、この道は駄馬(荷物を積んだ馬)にとって、とても厳しい道だったのではないでしょうか。

今回歩いた栃城~御棚間だけでも長い長い上り坂を歩かされたわけですが、ルート的にいくつもの谷を横切っていく「和田新道」は、当然その分だけ谷と谷の間に峠越えが待っているわけです。

重い荷を積んだ馬も曳いていく人も、泰阜村金野から和田村までの間に「何回キツイ峠越えをすればいいんだよ…。」という気分になったことでしょう。

そんな厳しい道でも、かつては金野と和田を最短距離で結ぶ、地元にとってはとても重要な道路だったわけですからね(生活物資を受け入れる側である遠山谷の方が、より重みがあったでしょうけど。)。

そして、時代が変わり用済みとなってしまった今は、人知れずにただただ朽ちていくわけです。


※2023年7月27日追記。
かつて遠山谷にあった和田村の後身である南信濃村(現在の飯田市南信濃。)が発行した「南信濃村史 遠山」を入手したので、「和田新道」に関する記述がないか読んでみたところ、「泰阜村誌」とは違い、全く何も書かれていませんでした。「泰阜村誌」での取り上げ方から、多少なりとも何か記事があるのかなと思っていたので、これはちょっとした驚きでした。

南信濃村側にとって歴史的・経済的に一番重要な街道は、遠山谷を縦断する秋葉街道と、遠山谷と伊那谷の中心地である飯田(現:飯田市)とを結ぶ小川路峠越えの街道です。そのため、村史での交通に関する項目では、秋葉街道と小川路峠越えの街道に関する記述がメインとなっているのは当然と言えます。

しかし、隣村である泰阜村との道については、谷京峠を通る秋葉街道(支線)と、和田~山原~底稲~下沢~栃城〜二軒屋〜粟代〜法全寺と続く古道(下沢〜粟代が泰阜村内で、法全寺は飯田市内。栃城から先が「和田新道」とルートが異なる。)についての一文がある程度です。

さらに泰阜村との間の交易については、これといった記述が見当たりませんでした(飯田や遠州方面との交易内容がほとんど。)。

「泰阜村誌」では、古来から続いてきた遠山谷との交易の中で、「和田新道」を明治になって民間有志により開削された経済道路として「画期を成す」と取り上げたのですが、「南信濃村史 遠山」においては、遠山谷と泰阜村との交易は題材としてはあまり重要な出来事ではなく、「和田新道」も取り上げられなかったのでしょね。
2023年07月20日 イイね!

【長野県泰阜村】古道「和田新道」を探索する(2)

2023年6月17日土曜日、長野県下伊那郡泰阜村の古道「和田新道」を探索してきました。(1)では「和田新道」開削までの簡単な交通史などを記しましたが、今回からは探索した内容について記していきます。

さて前回、「和田新道」の想定ルート図を載せましたが、距離自体もそれなりにあり、「泰阜村誌」によると4里(約15.7km)だそうです。全線を探索できればいいのでしょうが、さすがにそこまでの気力・体力はありません(笑)。

そこで、想定したルートの中で、地形図に破線道(徒歩道)がそれなりの長さで記載されている部分を選びました。実際に道があり、少しでも無難に探索できそうな部分を選んだわけです(まあ、破線道はあてにならない部分もありますが…。)。

それが泰阜村栃城から御棚の区間。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

御棚側からは万古川を渡って「和田新道」へアプローチする必要がありましたが、地形図にある橋が現存するのか不明でした。一方、栃城側はストリートビューで入口付近の確認ができ、駐車スペースと入口への目標物があったので、栃城側からアプローチすることにしました。

泰阜村温田から栃城へと向かう林道に入っていきます。こちらは栃城への道程のまだまだ序盤にある万古隧道。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

1車線幅の狭い舗装林道を走行し、栃城側の入口へとやって来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

栃城側からの「和田新道」は、途中まで「小城頭」(こじろがしら)という標高1040mの山への登山道になっています。これならば、登山道の区間は道が維持されている可能性大です。


「小城頭」への簡単なルート図も掲出されています。


さっそく登山道である「和田新道」へと踏み込んでいきます。


歩き始めて20mも進まない場所で土石流の跡に遭遇。


幸い、乗り越えて進んでいくと「和田新道」はちゃんと続いていました。




折り返して登っていきます。


涸れ沢を越えていきます。黄色のタンクは入口付近にあった住宅のものでしょうか。


つづら折りを登ります。




「和田新道」は道幅6尺(約1.8m)だそうですが、土砂で埋まったり、路肩が崩れたりしていて、半分くらいの幅になっています。まあ古道なので、よくあることですが。




倒木があるザレ場が現れましたが、特に気にすることもなく進んでいきます。


岩場へ出てきました。眺めてみると「和田新道」は左斜め上へと続いているようです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

実はここまで地形図の破線道とは違う場所を歩いてきました。最初に入口で破線道があるはずの地点を少し探ってみましたが、どう見てもただの急斜面でしかありませんでした。なので、地形図の破線道は無視して登山道を歩いたわけです。旧版地形図でも登山道のルートが旧来からの道のようです。

ちょっとした岩場を登っていきます。






山側からの土砂で細くなった「和田新道」を歩いていきます。


「ヒヤダルの滝」に来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

山の斜面のこの部分だけ岩盤が縦に露出しており、そこを流れる細い水流が滝となっています。




滝の下流は真っ逆さまに落ち込んでいっています。


ふたたび細い道が続いていきます。


折り返していきます。


道幅がかなり細くなっている場所に出てきました。踏み場はしっかりしているので、気にすることなく進んでいきます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

「ヒヤダルの滝」の前後にはトラロープが掛かっていましたが、この崩落箇所にはより頑丈な鎖が掛けられています。


路肩に石垣のようなものが残っています(自然石が割れただけかもしれませんが。)


地形図には無い分岐路が現れました。ここは右側へと進んでいきます。


折り返しです。ここにもカーブの内側から分岐していく小径があります。




そのまま道なりに進んでいきます。


岩の段差を登ります。


檜の植林地に入りました。


石がゴロゴロして荒れています。檜も全然枝打ちされておらず、今は人の手が入っていないのかもしれません。


落葉樹林へと戻ってきました。落葉樹林の方が地面が柔らかく感じます。


炭焼き窯の跡です。


「和田新道」と「小城頭」への登山道の分岐点となる大城峠に着きました。標高は地形図読みで925mです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

大城峠の看板。


道案内の看板。私は小黒山方面へと進んでいきます。




大城峠から先の「和田新道」は廃道となります。ここからが本格的な探索になるわけです。


(3)へ続きます。
2023年07月20日 イイね!

【長野県泰阜村】古道「和田新道」を探索する(1)

2023年6月17日土曜日、長野県下伊那郡泰阜村の古道「和田新道」を探索してきました。

さて、「和田新道」を探索するきっかけとなったのは、泰阜村が発行した「泰阜村誌」道路交通編の一番目の項目にこの道の事が説明されていたことに興味をひかれたからです。

そこで、探索の話は次回からにさせていただきまして(笑)、今回は「泰阜村誌」からの引用で「和田新道」開削に至るまでの泰阜村〜遠山谷(現在の飯田市南信濃周辺。)間の地域交通史を簡単に記します。

古来より、泰阜村では産出する米穀を遠山谷へと輸送してきました(狭隘な谷あいで田畑に乏しい遠山谷一体で米を販売するためでしょう。当然、米以外の物資も取り扱ったと考えられます。)。その輸送方法は坦送(人が担いで運ぶ方法。)であり、輸送ルートは、泰阜村内から南へと下り、万古(まんご。飯田市南信濃南和田。)を経由し谷京峠を越えて、飯島(飯田市南信濃南和田)で遠山谷へと出て、和田村へと至るものでした。

万古~谷京峠~飯島の推定ルート図です。谷京峠は、2020年11月にJR飯田線為栗駅から出発して峠までの古道を探索したことがあります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

泰阜村周辺の全体図です。地図中、「金野」は「和田新道」の出発点、「和田」は遠山谷の中心集落で「和田新道」の終点となります。金野~和田を直線で結ぶと、万古・谷京峠越えルートは直線から南側へ大きく外れていることがわかります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

さて、時代が進み、天竜川の通船が発達してくると、泰阜村の明島港から満島(現在の天龍村平岡。)まで舟運で輸送し、満島から和田へと坦送するルートが利用されるようになります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

しかし、地図で見るとおり、この通船ルートも直線上からは大きく南側へと外れたルートであり、舟運に坦送にと費用が嵩むことが泰阜村側の大きな悩みでした。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

そこで、泰阜村と遠山谷の間に新たな馬道を開削して、駄馬(荷物を積んだ馬)により直送することが計画されます。

明治15年(1882年)、泰阜村高町の吉沢某、泰阜村打沢の吉沢某、土岐某、萩本某等は、和田村の山崎某、遠山某、小松某等と図って、泰阜村山手集落から和田村へと通ずる道路を企画し、資金を募ります。

調査・測量の結果に基づき、明治18年(1885年)秋に着工。昔からある里道を改修する部分もあったものの新規開削した部分も多く、万古川以東の山岳地に入ると急峻な地形のために工事は困難を極めました。

また、工事には道路が通過する集落の有志が中心となって参加していたようで(昔のことなので、実は住民挙げて労働奉仕しているかもしれない。)、農作業などに影響しないよう農閑期である秋口から冬期に作業は行われていました。そのため、土地の凍結や厳しい寒気も工事の進捗に大きな影響を与えることとなりました。

さらには工事の資金不足にも悩まされましたが(これもお約束。)、この計画の主唱者である泰阜村高町の吉沢某の多額の資金融通もあり、明治21年(1888年)に無事に竣工となりました。

ところで、明治20年(1887年)に工事費用の寄付金を募った際の趣意書である「道路修繕及新設御允可願」には、この新道を「栃城新道」と記していますが、「泰阜村誌」は「和田新道」と紹介しています。泰阜村から遠山谷の和田村までの新道なので「和田新道」としたのだと思います。

「和田新道」の推定ルート図です。「泰阜村誌」に記載されている経由地と戦前の地形図に記載されている道を参考に作成してみました。金野〜和田間をほぼ直線的に結ぶルートになりました。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

推定ルートの拡大図です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

現在、このルートを踏襲するような道路は存在していません。現存する集落間をつなぐ道路や山中にある徒歩道にその名残を見い出せますが、地形図からその存在をまったく消してしまった区間もあります。

「和田新道」にとって最も大きな影響を受けた出来事は、昭和11年(1936年)の三信鉄道(現在のJR飯田線。)満島駅(現在の平岡駅。)開業と満島~和田間の車道改修でしょう。

「和田新道」がいつ頃まで利用されていたのか「泰阜村誌」に記載はなく、満島~和田間の道がいつ頃自動車通行可能な道路へと改修されたのかも資料がわからず不明ですが、大きな峠を4つも越えて歩く駄馬の輸送量とスピードが、たとえ大回りルートてあっても鉄道貨物とトラック輸送にかなうはずもなく、これらの出来事が「和田新道」の息の根を止めてしまったことは間違いないはずです。

それでは、次回から探索の内容を記していきます。

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