2023年6月17日土曜日、長野県下伊那郡泰阜村の古道「和田新道」を探索してきました。
さて、前回(2)では、今回歩いた「和田新道」の区間で一番高い場所となる大城峠まで来ました。
ここ大城峠で「小城頭」へと向かう登山道は分岐していき、この先の「和田新道」はいよいよ廃道区間となります。
峠から下っていくと折り返しがあります。
しばらく歩いていくと、また折り返しが現れます。
急斜面の中ですが、古道はしっかりと続いています。
ちょっと怪しい雰囲気の場所があらわれました。大鹿村の北條坂でよく遭遇した光景。路面全体に土砂が斜めに積もって谷側へと傾斜しています。
場所はこちら。
※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
路肩が崩落している箇所もあります。でもこれくらいならまだ大丈夫。山側の土砂を踏み締めながら進んでいけば問題ありません。
ふたたび急斜面の中に続く一直線の古道を歩いていきます。
折り返しを下っていきます。
尾根の上を一直線に下っていきます。
尾根上の盛り土道。右側の斜面は急激に落ち込んでいっています。
しばらくは尾根を真っ直ぐに進んでいくものだと思っていたら、古道は左側へと逸れていきます。
下り始めると斜面が荒れていて、古道がはっきりしなくなっています。
踏み跡程度には道幅が残っているのと、路肩側には木々が生えているので、特に不安になることもなく通過していきます。
根の張り出しがすごいですね。
いかにもな格好のキノコ。アカマツが点在しているので、もしかして松茸?
廃道になって人が歩かなくなっている区間には、どうしても路面に土砂が積もってしまい、不安定な印象を感じてしまいます。まあ、土砂が柔らかければ長靴をめり込ませて歩けばいいだけなので、そんなに心配事ではないのですが。
檜の植林地になりました。植林地は硬く締まった地面が剥き出しになっているケースが多いので、古道探索としてはあまり好きな状況ではないですね。
ガレ場が現れましたが、安息角を保っているようなので、足元に気を付けて速やかに通過していきます。
木々は枝打ちが全くされていない感じです。(2)でも同じような雰囲気の場所がありましたが、山の手入れに入る人がもういないのかもしれません。
植林地を通り抜けました。落葉樹の林の方が、落ち葉が腐食して柔らかい土が残るので、歩く側としても歩きやすく感じます。
連続したつづら折りを下っていきます。
痩せ尾根に出てきました。
場所はこちら。
谷の浸食が進んで、絶壁になってしまっています。
左側の斜面の傾斜が幾分緩いので、浸食を受けてもこの痩せ尾根が一気に崩落することはないでしょうが、将来的にはこの場所も古道が寸断される要因になるかもしれません。
古道は正面のピークを避けるように尾根から右側斜面へと巻いていきます。
前方の斜面が明るく見えています。嫌な感じです…。
予想どおり、崩落斜面に遭遇しました。これは厳しいですね…。
場所はこちら。
※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
一応ロープが掛けられていますが、方向が踏み跡と一致しておらず、これでは使い物になりません。そして、細い踏み跡は乾燥して表面が固まった土の上にサラサラした砂が乗っています。こんな場所で足を滑らせたら、急斜面をはるか下まで一気に滑落です…。
しばらく考え込んで、この場所は迂回することに決定。古道が尾根から斜面へと進んでいた場所まで戻り、正面のピークを越えて崩落箇所を迂回します。
そして、ピークを越えて古道へと再合流しようとしましたが、古道を再発見することができません。登山用アプリで現在地を確認しながら歩いていましたが、古道が細い道幅になっているために見落としてしまったのかもしれません。
仕方がないので、現在歩いている尾根をそのまま下り、御棚側へとできるだけ進んでみることにします。
万古川沿いにある平場まで出てきました。万古川までは高さ20~30mほどの急斜面になっています。
場所はこちら。
※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
この平場で炭焼き窯の跡を発見しました。もしかしたら、この平場から御棚の集落へと向かう道跡があるかもしれません。
御棚側の斜面を探してみると、細く頼りない道跡がありました。これを進んでいってみることにします。
道跡を50mも歩かないうちに、またしても崩落斜面に遭遇してしまいました。
この斜面にもごく細い踏み跡が付いていました。多分、獣道でしょう。行けそうな気がしないでもありませんでしたが、もし踏み外したら、もし斜面が崩れたら、10m以上下を流れる万古川まで一気に滑落です…。
しばらく立ち止まって進むべきかどうか考え込んでいましたが、どうしても恐怖感が拭えず、この場で撤退することにしました…。
※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
さて、まずは万古川へと急傾斜で落ち込む稜線を登り直して、標高差200mの尾根を通る古道まで復帰します。
久しぶりの長時間の山歩きでありながら、ここまで来て道が無い急傾斜の斜面を登り直す羽目になり、古道へと再合流した頃には両太ももがつり始めてきていました。
行きの時には気にもせず下ってきた下り坂も、帰り道ではいくつもの偽峠と延々と続く急な登り坂に化けて、気持ちが折れそうになります…。それでも「まずは大城峠まで戻らないと。」と気持ちを奮い立たせて、少し歩いては休むというパターンを何度も繰り返しながら、根気強く登っていきます。
万古川沿いから引き返して約2時間後、ようやく大城峠まで戻ってきました。これであとは下るだけ。気だけは抜かないように注意していきます。
鎖場を通過。
「ヒヤダルの滝」。ここの流水で顔や腕を洗って一息つきます。昔、この道を行き来していた馬や人も、この滝で同じように一服していたんですかね。
大城峠から約40分、ようやく無事に車まで戻ってきました。「この時間までには車へ戻りたい。」と考えていた時刻までには何とか着くことができました。
言い訳がましいですが、古道を外れて長い時間歩くことがなければ、急坂だとしてもここまで消耗しなかったと思います。こういうアクシデントがあるたびに、「道は人が歩けるようにできているんだなぁ。」と痛感します。
さて、今回探索したルートの全体図です。赤線が「和田新道」、赤線の先の青線が古道を外れてから歩いたルートになります。
一部区間だけですが、「和田新道」を歩いた感想を言うと、馬道として開削されたとはいえ、この道は駄馬(荷物を積んだ馬)にとって、とても厳しい道だったのではないでしょうか。
今回歩いた栃城~御棚間だけでも長い長い上り坂を歩かされたわけですが、ルート的にいくつもの谷を横切っていく「和田新道」は、当然その分だけ谷と谷の間に峠越えが待っているわけです。
重い荷を積んだ馬も曳いていく人も、泰阜村金野から和田村までの間に「何回キツイ峠越えをすればいいんだよ…。」という気分になったことでしょう。
そんな厳しい道でも、かつては金野と和田を最短距離で結ぶ、地元にとってはとても重要な道路だったわけですからね(生活物資を受け入れる側である遠山谷の方が、より重みがあったでしょうけど。)。
そして、時代が変わり用済みとなってしまった今は、人知れずにただただ朽ちていくわけです。
※2023年7月27日追記。
かつて遠山谷にあった和田村の後身である南信濃村(現在の飯田市南信濃。)が発行した「南信濃村史 遠山」を入手したので、「和田新道」に関する記述がないか読んでみたところ、「泰阜村誌」とは違い、全く何も書かれていませんでした。「泰阜村誌」での取り上げ方から、多少なりとも何か記事があるのかなと思っていたので、これはちょっとした驚きでした。
南信濃村側にとって歴史的・経済的に一番重要な街道は、遠山谷を縦断する秋葉街道と、遠山谷と伊那谷の中心地である飯田(現:飯田市)とを結ぶ小川路峠越えの街道です。そのため、村史での交通に関する項目では、秋葉街道と小川路峠越えの街道に関する記述がメインとなっているのは当然と言えます。
しかし、隣村である泰阜村との道については、谷京峠を通る秋葉街道(支線)と、和田~山原~底稲~下沢~栃城〜二軒屋〜粟代〜法全寺と続く古道(下沢〜粟代が泰阜村内で、法全寺は飯田市内。栃城から先が「和田新道」とルートが異なる。)についての一文がある程度です。
さらに泰阜村との間の交易については、これといった記述が見当たりませんでした(飯田や遠州方面との交易内容がほとんど。)。
「泰阜村誌」では、古来から続いてきた遠山谷との交易の中で、「和田新道」を明治になって民間有志により開削された経済道路として「画期を成す」と取り上げたのですが、「南信濃村史 遠山」においては、遠山谷と泰阜村との交易は題材としてはあまり重要な出来事ではなく、「和田新道」も取り上げられなかったのでしょね。