2019年3月9日土曜日、新城市四谷と北設楽郡設楽町神田の境にある街道の峠、仏坂峠を歩いていきました。
この仏坂峠を通る街道は、新城市海老と北設楽郡東栄町振草を結んでいた「海老街道(ふりくさ道)」。伊那街道と別所街道を短絡する街道で、三河と信濃の交易路の一端を担っていました。峠の入口にある案内板によると、最盛期は明治から大正にかけてで、一日二百頭近くの馬がこの峠道を行き来していたそうです。
その後は、現在国道となっている街道の整備が進んだことや現在のJR飯田線が山間地へと順次延伸したことにより、違う経路が選択されるようになり衰退していったようです。
ここが新城市四谷側の峠道への入口です。
傍らに案内板と峠に向かい三十三体設置された観音像のうちの七番目の観音像が設置されています。
それでは、峠道へと進んでいきます。
八番目の観音像。
八番目の観音像の近くの斜面上に設置されている役行者像。写真右端に街道がチラリと見えてます。
この辺りはまだ道幅も広く、明治時代の馬車道のような感じです。
十二番目の観音像。長い間に行方不明になった観音像もあるようで、平成時代に新たに設置し直したものですね。
いくつかの砂防ダムの脇を通り抜けて沢沿いに登ってきますが、ここで対岸へと沢渡りをします。周りは倒木が多くて荒れており、また橋も無いため、峠道を見失いやすいポイントです。
沢を渡った先にはヘアピンカーブ。ここから徐々に険しさを露わにしていきます。
誰も通らないので、荒れ方もひどいままです。
十三番目の観音像。杉の落ち葉に横たわっていました。
ちょっと先の路傍には馬頭観音碑。
明治七年(1874年)の銘があります。
峠道の分岐点に来ました。仏坂峠は左。右側は真横の沢を渡って山越えをする「カンバンタ山道」。新城市四谷を通らず、カンバンタ、川売と山を越えて海老へと向かう道だそうです。栄えた当時はこの道で海老へと行き来した人もいたのでしょう。
で、仏坂峠への道にはまた倒木が…。
倒木を潜った先の地面に十四番目の観音像が転がっていたので、引っ張り起こしました。
ちょっと重たかったですが、元々あった岩の上に据え直し。台座が傾いていたので、隣に置きました。
ヘアピンを通過。
十五番目の観音像。
峠道がまた沢沿いになってきたところで倒木が増え始めます。
台風や豪雨が原因なのか周りの斜面が崩壊していて、ついに峠道が完全にふさがれてしまいました。
道のとおりには進めなくなってしまったので、やむなく斜面の上方へと高巻き。
どうしたものかと思案していたところ、ここで職場から携帯に電話。対応に20~30分かかってしまいました。
内容は無事解決したので何とか先に進むことにしますが、対岸の峠道にも倒木が覆いかぶさっています。
渡った先も獣道を辿って倒木地点を高巻き。
タイムロスは大きかったですが、無事に峠道に復帰できました。
石仏が寄せ集まっています。
十七番目の観音像。
馬頭観音碑。
石仏。三十三体観音とは別の由来のものでしょうか。
十八番目の観音像。
また沢筋に出てきました。これで3本目の沢筋になります。
ここでは渡らずに道筋はUターン。石畳が残っています。
大正十五年(1926年)の石仏。
二十番目の観音像。
こちらは「釜滝」といいます。形や色から「釜」らしいです。
地形もだいぶ険しくなり、所々では石垣を築いて峠道を通しています。
二十一番目の観音像。
大正十五年の石仏。こちらも「二十一番」の銘が彫られています。古い方の石仏が摩滅したので新たに据えたものでしょうか。峠の麓である四谷の馬方達が施主であることがわかります。
二十二番目の観音像。
(2)へと続きます。
Posted at 2019/03/10 18:13:05 | |
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旧海老街道 | 日記