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小林あにのブログ一覧

2021年07月27日 イイね!

東海道本線 旧揖斐川橋梁と周辺の煉瓦アーチ群

2021年7月22日木曜日、岐阜県大垣市と安八郡安八町の境界を流れる揖斐川に架かる東海道本線旧揖斐川橋梁と周辺の煉瓦アーチ群を巡ってきました。

旧揖斐川橋梁は、明治20年(1887年)に供用を開始され、明治41年(1908年)に東海道本線の複線化のために二代目の橋梁へと切り替えられたことにより、鉄道としての供用は廃止されました。その後は、道路橋として利用されて現在に至っています。

名神高速安八スマートICから揖斐川の堤防道路を走り、現地へとやって来ました。


まずは、旧揖斐川橋梁の穂積駅側の橋台を覗きます。


この橋台の特徴は、橋台下部にあるアーチ環の内側の煉瓦の積み方がフランス積みであることと、焼過煉瓦と赤煉瓦の2色を使用したポリクロミー(建築などに施された多色彩色装飾の意。)であることです。


河原から見上げた旧揖斐川橋梁。以前に訪れた時はクリーム色に塗装されていましたが、現在は鳶色に塗装されています。 これは往時の塗色を復元したものだそうです。


旧揖斐川橋梁を渡る前に、さらに上流に架かる樽見鉄道の揖斐川橋梁も見物します。この橋梁で使用されているトラスは、静岡県のJR御殿場線(丹那トンネル開通以前の旧東海道本線。)に設置されていたものを転用したものです。


一旦、旧揖斐川橋梁の下へと戻り、ここからすぐ間近にある旧橋梁の橋脚へ向けて薮漕ぎをします。


深い草むらと茨の棘に悩まされながらも橋脚の近くへとやってやって来ました。


橋台と同じように橋脚の下部にもアーチ環がありますが、アーチの内部は一般的なイギリス積みで、ポリクロミーも施されていません。


次の橋脚へと向かおうかと思いましたが、更なる薮の深さにこれ以上進むのは諦めました。


旧揖斐川橋梁の正面に来ました。この橋梁は国の重要文化財に指定されていますが、東海道本線開通当時の長大橋梁が設置位置も変わることなく残っていることが理由の一つだそうです。


鉄道の場合、前述の樽見鉄道揖斐川橋梁のように、最初の設置場所で鉄道としての供用が廃止されると、他の路線へ転用して活用するのがよくあるパターンですから、旧揖斐川橋梁は珍しい例と言えます。

全景も撮っておきます。


それでは全長325.1mの橋を渡っていきます。隣の現揖斐川橋梁と見比べると、橋梁内側は明らかに狭い規格です。


トラスに取り付けられている銘板。イギリスのパテント・シャフト・アンド・アクスルトゥリー社により1886年(明治19年)に製造されたことを示しています。


先ほど訪れていた橋脚の真上に来ました。眺めると私が付けた踏み跡がはっきり見えます。往復したルートを白線で印しました。


橋梁の各部構造材をピンで留めています。


すぐ下流に架橋されている現在の東海道本線揖斐川橋梁。揖斐川橋梁としては三代目となり、1961年(昭和36年)に供用開始されました。


大垣駅側へと渡り切りました。


旧揖斐川橋梁の延長線上から大垣駅方面を眺めています。ここからは、築堤沿いに煉瓦アーチ群を巡っていきます。


揖斐川の主流のほとりに立つ橋脚。


旧揖斐川橋梁の橋脚は、煉瓦造円形井筒2つを上部でつなげたタイプですが、写真の橋脚が一番その特徴を見ることができるものなので、本当はここまでたどり着きたかったですが、やはり冬じゃないと無理でしたね。

それでは築堤にある煉瓦アーチの1か所目、宮東橋梁です。こちら側は線路の北側で、築堤のうち、開通当初から存在している部分のはずです。


宮東橋梁は、明治25年(1892年)に鉄道庁が発行した「鉄道線路各種建造物明細録第一編」では1連の煉瓦アーチと記されていますが、現在は水路用と人道用が並列した2連アーチとなっています。

こちらは水路用。


こちらは人道用。中央付近には支保工が設置されています。


現在の揖斐川橋梁へと架け替えられた際に増築された築堤部分は、コンクリート製のボックスカルバートになっています。


築堤の南側へと出てきました。人道用・水路用ともにボックスカルバートになっています。


橋梁名の銘板。


次は、喜内前橋梁。「鉄道線路各種建造物明細録第一編」には1連の煉瓦アーチと記されていて、変更はないようです。




こちらも内部がボックスカルバートから煉瓦アーチへと変化しています。




そして、中央部分は支保工で補強されています。


北側へと出てきました。


3か所目は無名の煉瓦アーチ。グレーチング蓋をかぶせられているので、わかりにくいですね。




4か所目。ここの煉瓦アーチ群では著名と言える甲大門西橋梁です。「鉄道線路各種建造物明細録第一編」には木桁橋梁と記されています。


なぜ著名なのかというと「ねじりまんぽ」だからです。「ねじりまんぽ」になっているのは、煉瓦アーチが築堤に対して直角ではなく斜めに設置されているから。






煉瓦積みのねじり具合はきつめと言えますかね。




南側へと出てきました。この橋梁からは揖斐川橋梁の架け替えによる築堤の増築の影響を受けていないため、両面とも煉瓦積みのままです。




5か所目は乙大門西橋梁です。同じ名称を使う場合は、識別のために頭に甲・乙と順番に付けています(現在なら第一・第二でしょうか。)。


この煉瓦アーチは内高が低いです。


制限高1.6mとあり、私の目線に合わせて写真を撮るとこんな感じになります。


「ねじりまんぽ」である甲大門西橋梁から近い場所にありますが、ここは築堤に対して直角に設置されているので、煉瓦アーチは普通の積み方になっています。


築堤の南側へと出てきました。甲大門橋梁と同じく、スパンドレルが赤煉瓦で、アーチ環が焼過煉瓦で積まれていて、アーチ環が強調されています。




ちなみに、乙大門西橋梁も「鉄道線路各種建造物明細録第一編」には木桁橋梁と記載されていますが、どのタイミングで木桁橋梁から煉瓦アーチへと改築されたのかは不明です。

可能性として、一つ目は明治24年(1891年)の濃尾地震による震災からの復旧工事、二つ目は東海道本線の複線化工事が考えられるでしょう。

乙大門西橋梁から揖斐川橋梁を眺めています。揖斐川橋梁の架け替えにより、築堤を右側へ増築したことがよくわかります。


ついでなので、乙大門西橋梁からすぐ近くにある樽見鉄道東大垣駅へ来ました。




かつては石灰石列車を運行していた名残りで、列車行き違いのためにホーム長よりも長く線路有効長が取られています。


旧揖斐川橋梁まで戻ってきました。この煉瓦造橋台は、二代目揖斐川橋梁のものです。明治41年(1908年)に供用開始され、昭和36年(1961年)に三代目の揖斐川橋梁が供用開始されたことにより廃止されました。


さて、旧揖斐川橋梁から穂積駅側へ向かうと、2つ目の鉄橋である犀川橋梁までの間に4か所の煉瓦アーチがあります。最後にそのうちの2か所を見物します。

甲中吹橋梁。ここも「ねじりまんぽ」の煉瓦アーチになります。こちらは築堤の南側になります。




この橋梁は甲大門西橋梁よりも大きな煉瓦アーチなので、ねじり具合はやや緩やかに見えます。








北側になります。


最後は乙中吹橋梁。南側は揖斐川橋梁の架け替えによる築堤の増築の影響で、ボックスカルバートで延長されています。






内部の煉瓦アーチは一般的な積み方です。


北側へと出てきました。ここは高さ制限を超える車両が突っ込んでこないように、両方の出入口とも鉄骨で強固にガードされています。


まあ、軽トラなら全然問題ないでしょうが、乗用車やワゴン車でも突っ込む人は突っ込んできますからねぇ。

今回は訪問は以上となります。


この辺りの煉瓦アーチ群は、6~7年前に西岐阜駅から大垣駅までの間を何回かに分けて歩いてチェック済みですが、ガラケーで撮った写真なので、今回はちゃんとしたカメラで撮り直して回った次第です。

同区間でまだ撮り直していない煉瓦アーチがあと13か所ありますが、もし行くのであれば冬になってからですかね。草ぼうぼうの場所が多いですから。
2021年07月22日 イイね!

旧篠ノ井線廃線敷遊歩道を歩いてきました

2021年7月17日土曜日、長野県安曇野市にある旧篠ノ井線廃線敷遊歩道を歩いてきました。この遊歩道はJR篠ノ井線明科駅~西条駅の線路付け替えによる旧線廃線跡のうち、明科駅付近から第二白坂隧道までの区間を遊歩道として整備したものです。

とは言っても、今回は遊歩道の散策がメインなわけではなく、トンネルなどの遺構を見るのが目的です。

まずは、漆久保隧道の最寄りとなる駐車場へとやって来ました。遊歩道の路肩に5~6台分ほどのスペースが設けられています。


さっそく、漆久保隧道方面へと歩いていきます。


遠方に漆久保隧道がチラリと見えています。遊歩道は軽く砂利敷きがされており、おそらく当時のものと思われる架線柱が路肩に残されたままになっています。


さて、いきなり漆久保隧道へは向かわず、直前を流れる川に設置されている小沢川橋梁をまず訪れました。




川の中からの眺めです。ちなみに、川へ降りられるようには整備されていないので、普通は上から眺めるだけになると思います。


小沢川橋梁の銘板です。これは内部をコンクリート覆工した工事のものです。名称には「小沢川拱きょう」とあります。


「拱きょう」は拱橋のことでアーチ形状の橋という意味ですね。ここは実際には築堤をくぐる水路トンネルといった感じですが、鉄道ではこのような形状のも含めて「橋梁」に分類しているようです。

この小沢川橋梁の一番の特徴は、正面の壁面部分(スパンドレルと言います。)の煉瓦の積み方です。


煉瓦の小口面を見せている段が、おそらく川の流路に並行するように(全くの憶測ですが。)斜め方向に積まれています。


私は、このような壁面を持つ煉瓦アーチ橋はここしか知りません。独特の景観を持つ非常に珍しいアーチ橋と言えるでしょう。


また、5重のアーチ環もそれぞれの環がずれるように積まれていて、その特徴から内部は「ねじりまんぽ」ではないかと推測もできます。ただ、現在は分厚いコンクリートで覆工されてしまっているので、知るすべがありませんが…。


川の下流側です。こちらも同様の壁面となっています。


築堤を登り直して、ようやく漆久保隧道に到着です。


遊歩道として開放されている区間にはトンネルが2か所あり、この漆久保隧道ともう一つは明科駅付近に三五山隧道(未訪問)があります。

坑門を見ると、壁面の煉瓦がだいぶ劣化しているのがわかります。


トンネル内部にも煉瓦が剥落してしまっている場所が見受けられます。


延長は53mと短く、外光でも内部が十分明るいためか照明は設置されていません。


天井に架線を吊り下げていた碍子が残されています。


反対側の坑門です。こちら側は日当たりが悪いためなのか、苔むした感じです。


せっかくなので、ここから終点の第二白坂隧道まで往復してみることにします。


山側の斜面に土留めのための擁壁が現れました。上を見上げると遊歩道と並行するように平地が見えています。


架線柱に取り付いていたナナフシ。


潮沢信号場跡です。設置されたのは昭和36年(1961年)で、篠ノ井線が明治35年(1902年)に全通していたことを考えると、比較的新しいと言えるでしょう。


スイッチバック式の信号場で、列車の行き違いを行っていました。現役当時の写真が掲示されていました。


西条駅側の引込線跡です。すっかり草むらに埋もれています。


路肩に33.5kmの距離標がありましたが、真新しいので、これは遊歩道として整備された時に設置したものでしょう。


何らかの機器を設置していた台座でしょうかね。


本線と引込線の間にだいぶ高低差が付いてきました。


34kmポストの地点で引込線の終端となりました。と言うことは、引込線の長さは500m以上はあったようです。貨物列車の行き違いも行うわけですからね。


鉄道らしい緩いカーブ。この頃には暑さでだいぶ参ってきていました(笑)。


山側の斜面に設置されていた注意看板。「〇(たぶん牛)・馬・羊などを放牧しないこと。」とあり、「この斜面でそれは無理だろう。」とちょっと笑えました。


ようやく第二白坂隧道前の駐車場に到着。漆久保隧道から30分ほどかかりました。




遊歩道の案内板。漆久保隧道から1.7km歩いてきたようです。


もう少し先へと進んで、第二白坂隧道を見に行きます。




路肩に隠れるようにひっそりと建っている案内板。


第二白坂隧道に到着です。トンネル延長は2094m。明科駅側はご覧のとおり封鎖されています。2018年3月に西条駅側からトンネル内部へと入り、この扉の裏側まで往復しています。


う~ん…、やはりウォーズマンの顔に見えてしまうな(笑)。


もともと坑門は煉瓦積みですが、後年、コンクリートで覆工されたようです。


窓の隙間からとても涼しい風が吹き出してきます。しばらく寄りかかって涼んでいました(笑)。


涼むのはこれくらいにして、1.7km先の漆久保隧道のさらに先にある駐車場まで、また炎天下を歩いていきます。


潮沢信号場跡に立っていた35km/h進入の速度標識。


漆久保隧道を通過。


駐車場へと戻ってきました。帰りは35分ほど掛かりました。歩くペースが落ちたようです。


これで帰宅してもよかったですが、せっかくなのであと2か所、煉瓦造暗渠を探しに行きます。

車に乗り、漆久保隧道近くの駐車場から明科駅側へ700mの所にある「けやきの森自然園」の出入口へと移動してきました。


一つ目の煉瓦造暗渠です(名称不明)。けやきの森自然園の出入口のほぼ真下になります。




やや屈むくらいで入れそうなので、潜ってみることにします。


LEDライトを持ってきていなかったので、スマホのライトを頼りに奥へと進んでいきます。


流路の部分も煉瓦でインバート(トンネル下部のアーチ構造のこと。)が造られていて、疑似的な円形トンネルになっていますね。


奥が土砂で埋まっているのは見えていたので、そんなには入り込まずに引き返してきました。


けやきの森自然園前の駐車スペースへの出入口に残る警報機と遮断機。


踏切跡からさらに明科駅側へと歩くこと15分強。2か所目の煉瓦造暗渠に到着です(こちらも名称不明。)。この時点で時刻は16時13分。沢底は薄暗くなってきています。


こちらの暗渠も先ほどの暗渠と同じく全周を煉瓦で巻き立てられています。


側壁の下部に段々が設けられているのがわずかな違いでしょうか。


ご覧のとおり、こちらの暗渠は貫通しているので、そのまま外へと出ます。


反対側のスパンドレルです。


暗渠内へと入ってきた下流側へと戻ってきました。


やはり1か所目の暗渠よりも丸みが強いですね。


久しぶりに煉瓦造暗渠へと潜りましたが、やはりLEDライトを持ってきていなかったのは失敗でした。内径が小さいので暗くなりがちなのをすっかり忘れていました。

ようやく車へと戻ってきたのは16時46分。すっかり遅くなってしまいました。


この後は、安曇野ICから長野自動車道に乗り、岡谷JCTで中央自動車道名古屋方面へ。

小黒川PAで晩御飯を食べた後、疲れが出てしまって後部座席で仮眠。起きたら19時半を回っていました。結局、帰宅したのは22時過ぎになってしまいました。
Posted at 2021/07/22 22:20:38 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・鉄道・廃線跡 | 日記
2021年07月18日 イイね!

倉沢川・沢水加川・橋詰川・鳥居川・屋ノ谷・滝脇川の煉瓦アーチを巡る

2021年7月11日日曜日、静岡市菊川市と掛川市にあるJR東海道本線の煉瓦アーチを6か所巡ってきました。

いずれも行ったことのある場所ですが、気楽に煉瓦アーチを見つつ、たまには炎天下を散歩しようか(一応こちらがメインです(笑)。)と出かけた次第です。愛知県内の東海道本線にも煉瓦アーチはありますが、車を横付けできる場所となるとなかなか無いので、ドライブも兼ねてちょっと遠出しました。

まずは菊川市倉沢へとやって来ました。


茶畑の先に東海道本線の大きな築堤が見えています。


1か所目、倉沢川橋梁です。竣工は明治21年(1888年)10月。この辺り(静岡~浜松間)の東海道本線が開通したのが明治22年(1889年)4月なので、その当時からの構造物となりますね。


場所はこちらになります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この橋梁はアーチ頂点までの高さがけっこうあります。流れている川は小川なので、洪水を想定してもこんなに高さを確保する必要はないかと思いますが、どういう理由だったのでしょうか。少しでも築堤用の土砂を節約するためとかね。




アーチに使われている煉瓦は、赤煉瓦と焼過煉瓦の2種類。焼過煉瓦を使用している幅の方が広いので、最初に焼過煉瓦側が開通して、後に赤煉瓦側を腹付け増線して複線化したと考えられます。




反対側へと出てきました。




今までに見落とした構造物がないか確認するため、ここから菊川沿いに築堤を追って歩いていきます。


築堤が終わる場所まで歩いてみましたが、これという構造物は見当たらなかったので、倉沢川橋梁まで戻ってきました。


焼過煉瓦と赤煉瓦の継ぎ目部分です。きちんと噛み合わせてあります。


鉄道の煉瓦アーチの中には単線開業時に将来複線へ変更することを見越して、噛み合わせのために片面だけ煉瓦の凹凸(下駄歯)を残したものもあります。この辺りの東海道本線が開通した時に、煉瓦アーチにそのような処置を施していたのかは不明です。

2か所目に来ました。沢水加川橋梁です。沢水加は「さばか」と読みます。竣工は明治21年(1888年)10月。


場所はこちらになります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この橋梁も煉瓦の色が明確に2色に分かれています。




3か所目は、橋詰川橋梁。竣工は明治21年(1888年)5月。


場所はこちらになります。


「橋詰川」とありますが、見た目はいわゆる「ガード」です。川に蓋をして道路として利用しているタイプですね。


こちらも焼過煉瓦と赤煉瓦の2色構成。ただ、焼過煉瓦側にもけっこう赤煉瓦が混ざっているのが今までの2つの橋梁との違いです。




東海道本線の煉瓦アーチを見ていると、明治20年代のものは煉瓦の焼成技術のレベルなのか品質管理が徹底されていないのか、例えば焼過煉瓦の中であっても色合いが非常に変化に富んでいます。それが工業製品らしからぬ何とも良い味を出していて、私はけっこう好きですね。

これが明治30年代から40年代になると一気に規格や色合いが画一化されてきます。これが正しい方向ですが、ちょっと味気なくもあります。

反対側です。


この橋梁はアーチの側面部分は、焼過煉瓦と赤煉瓦を面一にして擦り合わせていますが、アーチ上部は煉瓦同士を噛み合わせてあります。


壁面にペイントされた点検年月。


開通時から130年以上現役を保っていられるのも、適切に管理・保守が成されているからですね。

4か所目、鳥居川橋梁です。竣工は明治21年(1888年)12月。


場所はこちらになります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ここも焼過煉瓦と赤煉瓦の2色構成。違う点は、赤煉瓦側の下部に焼過煉瓦が使用されている点です。




色の境目はきれいに噛み合わせされています。


反対側からの眺め。鳥居川橋梁は北側の坑門がコンクリートで全面を補強されてしまっています。


鳥居川橋梁のさらなる特徴としては、赤煉瓦の下部に使用されている焼過煉瓦のみ、サイズがそのほかの面に使用されている煉瓦のサイズと違うこと。


右側の明治21年竣工部分の煉瓦は石材1個に対して4段積みですが、左側の新しい方(この橋梁がある菊川~掛川間が複線化したのは明治38年(1905年)。)は5段積みになっています。


アーチ上面部分の赤煉瓦は、明治21年竣工時に使用していた煉瓦サイズに合わせて作られています。今までに見てきた橋梁も焼過煉瓦と赤煉瓦のサイズに相違がないので、同じようにわざわざ作られたはずです。

さて、鳥居川橋梁から線路沿いに東へと歩き、5か所目の屋ノ谷橋梁へとやって来ました。




場所はこちらになります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この橋梁の竣工年月は不明ですが、東海道本線開通時には存在していなかったと考えられます(明治25年(1892年)12月刊行の「鉄道線路各種建造物明細録 第一編」に掲載されていないため。)。

元々は陶管暗渠だったものを何らかの理由により拡幅工事したのでしょう。内部は全て赤煉瓦で構成されています。


点検年月のペイント。


反対側です。


最後となる6か所目、滝脇川橋梁です。竣工は明治21年(1888年)4月。明細録には「瀧ノ脇川橋梁」と記されています。




場所はこちらになります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

橋梁の内部は、手前側の増線部分、奥側の開通当初からの設置部分ともに焼過煉瓦が使用されています。


この橋梁の一番の特徴は、新旧アーチの接合部分に石材で下駄歯が設けられていることです。




煉瓦は小さいし軽いので、ひとまず面一に建設しておいても、後日、噛み合わせのために容易に抜き取りもできるでしょうが、重量があり嵩もある石材はそういう訳にもいかないので、あらかじめそのように施工しておいたと考える方が妥当だと思います。

そういう意味では、現状、東海道本線の煉瓦アーチで下駄歯を設けておいた確実な例の一つだと言えるでしょう。

明治21年竣工部分の煉瓦は、焦げ茶色であっても色々な風合いのものがあります。


点検年月のペイント。「キ4m」とあるのは亀裂の長さを表しているのでしょうか。


ここもご覧のとおり、道路の下には川が流れています。


反対側です。


アーチの側壁部分の煉瓦には艶があります。自然とそういう焼き上がりになったものなのか、釉薬を使っているのかどうなんでしょうね。


滝脇川橋梁の銘板と連絡先の表示シール。以前に訪れた時はシールだけでした。しかも「竜」脇川橋梁とあります。なぜだろうと思っていましたが、誤植だったわけですね。


これで、この日に回るつもりだった煉瓦アーチの訪問はすべて終了。以前に訪れた時と特に変わった様子もなく、まだ当分は煉瓦アーチのままで現役を続けてくれそうです。
2021年07月14日 イイね!

名古屋市市政資料館・永平寺・依佐美送信所記念館・半田赤レンガ建物

2021年6月から7月にかけて訪れた場所をまとめました。建物関係ばかりなので、私の知識や文章力ではあまり書けることがないのと、廃道歩きみたいに行動して展開していくパターンでもないので、まとめてしまいました。


2021年6月12日土曜日。この日は人間ドックの受検のために名古屋市東区の病院へ行き、その足で名古屋市市政資料館を訪れました。

名古屋市市政資料館は、旧名古屋控訴院・地方裁判所・区裁判所として大正11年(1922年)に建てられ、昭和54年(1979年)に後身である名古屋高等・地方裁判所が名古屋市内他所へ移転するまで使われました。現在は、国の重要文化財に指定されています。

建物は、ネオ・バロック様式と呼ばれる建築だそうで、名古屋市内でこの規模の煉瓦造建築物はなかなか無いのではないかと思います(私が知らないだけかもしれませんが。)。




















2021年6月27日日曜日。福井県吉田郡永平寺町にある曹洞宗の大本山である永平寺を訪れました。元々は、姉が同県鯖江市にある道の駅「西山公園」へ行きたいとのことで、そこへ立ち寄った後に訪れました。

自分の記憶に残っているのは、25年前に職場の研修旅行での訪問先の一つとして立ち寄ったことですかね。訪れたのが2月で、たまたま雪は少なかったですが、とても冷え込んでいたことが印象として残っています。

今回はあいにくの雨天でしたが、濡れた緑が映えて良い趣きがありました。




































2021年7月3日土曜日。愛知県刈谷市にある依佐美送信所記念館を訪れました。

依佐美送信所は、昭和4年(1929年)に対ヨーロッパとの長距離無線送信施設として完成しました(対となる受信施設は三重県四日市市に建設された。)。

戦後はアメリカ軍に接収され、アメリカ海軍の基地として利用されました(私にとっては、一番身近にあった米軍基地ですね。)。平成6年(1994年)に日本側へ返還され、その後、敷地内の建物と8基あった鉄塔群は撤去されました。送信用に設置されていた鉄塔の高さは250mあり、地域からは「依佐美の鉄塔」と呼ばれていました。

記念館自体は、元の施設とは道路を挟んだ反対側にある公園内に建てられ、施設があった場所には現在は太陽光パネルが並んでいます。




























2021年7月4日日曜日。愛知県半田市にある半田赤レンガ建物を訪れました。

半田赤レンガ建物は、旧カブトビール(現存せず。)の製造工場として明治31年(1898年)に完成しました。古い時代のビール工場の数少ない遺構として貴重だそうで、国の登録有形文化財に登録されています。

現在、内部は展示室やカフェ、イベントスペースとして利活用されています。



















Posted at 2021/07/14 18:31:22 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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「【豊根村】霧石峠への富山漆島側峠道を下見しました http://cvw.jp/b/1796277/47676277/
何シテル?   04/25 00:05
「小林あに」と申します。よろしくお願いします。 休日はドライブしたり、廃道となった旧道や峠の古道を歩いてみたり(煉瓦製のトンネルや暗渠も好物ですが、最近は...
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