• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

小林あにのブログ一覧

2021年08月29日 イイね!

自宅からJR西岡崎駅付近まで散歩してきました

2021年8月12日木曜日、3日間消化しないといけない夏期休暇のうちの1日をこの日に入れていたので、仕事はお休み。

特に予定があるわけでもなく、長雨が続いている最中でもあったので、日中は家の中でゴロゴロ。さすがに一日中ゴロゴロしているのも体がなまると思い、16時近くになってから当てもなく外へと散歩に出かけました。



こちらは安祥城址。現在はお寺になっています。徳川家康の直系の先祖にあたる安祥松平氏の居城でした。



場所はこちら。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

家康の祖父がここから岡崎へと本拠地を移し、その後は織田対今川・松平の間で最前線の城として争奪戦が繰り広げられました。秀吉対家康の争い「小牧・長久手の戦い」で徳川方の城として使われたのが最終期のようで、のちに廃城となりました。



さらに歩いていくと、古い集落に入ります。

こちらは、旧東尾産業組合農業倉庫。昭和10年(1935年)の登記があるもので、安城市が戦前に農業の多角経営で全国的に知られていた時代の貴重な建物です。



場所はこちら。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

集落の中心部を東西に横断する道。安城市と額田郡幸田町を結ぶ県道の旧道に当たります。ちなみに、私は集落を南北に縦断する道を北へと向かい歩いています。





場所はこちら。



付近の戦前の地形図です。


※5万分の1地形図「岡崎」:図面損傷により測図年確認不能・昭和7年(1932年)発行。

集落を通り抜けて、県道48号を渡り、さらに北側にある上条の集落も通り抜けて、東海道本線まで出てきました。

背戸田橋梁です。明治25年(1892年)発行の鉄道線路各種建造物明細録第一編によると一連六尺の煉瓦アーチとありますが、現在は石積み橋台にコンクリート版桁になっています。



場所はこちら。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ここからは東海道本線に沿って、西岡崎駅方面へと歩いていってみます。



惣作川橋梁。橋梁の下には2つの川が流れていますが、橋梁名は一つの川の名称しか付いていません。ちなみに「惣作」は付近の字名で、現在の川の名称は西鹿乗川です。



さて、惣作川橋梁の地点には道路橋が架かっていないので、橋の架かっている場所まで川沿いに移動します。

橋まで移動してきました。橋の名称は水吞橋。すぐ下流側にあった水門跡を眺めています。



場所はこちら。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

東海道本線方面を眺めています。連日の長雨で、西鹿乗川はけっこう高い水位になっています。



惣作川橋梁まで戻り、ふたたび東海道本線沿いの農道を歩いていきます。

丙中通り橋梁。鉄道線路各種建造物明細録第一編には「中通り丙」とあります。



乙中通り橋梁。ご覧のとおり、橋梁の下には川も水路もありません。区画整理で廃川になったのでしょうかね。



石積み橋台を見ると、左右で石材の加工のされ方が違っています。台形に造られる築堤にある煉瓦アーチだと、幅の違いで開業時の第一線と線増された第二線の判別ができますが、方形に積まれる橋台だと幅に明確な違いが現れず、加工の状態だけでは何とも判断付きません。



次に本来なら「甲中通り橋梁」があるはずなのですが(鉄道線路各種建造物明細録第一編には「錬鐵版桁」の橋梁として記載されている。)、現在、該当する橋梁は見当たりません。

農道を進んでいくと、路傍に石仏が置かれているのを見つけました。田んぼの真ん中にあるとは珍しいですね。



眺めてみると、光背部分に「右○○○道」「左○○○○」と刻まれているので、道標の役割も担っていたようです。内容は、ただでさえ崩し字で彫られているのに、摩滅していて読み取れません。石仏自体は馬頭観音のように見えます。



場所はこちら。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

石仏の背後を流れる川に沿って東海道本線へと向かいます。正面に鉄橋が見えますが、名称は市草橋梁といいます。この橋梁も鉄道線路各種建造物明細録第一編に記載されています。



市草橋梁の下をくぐり、東海道本線の北側を並行する道路へと出てきました。この道を西岡崎駅方面へと進みます。



愛知県道26号へ出る手前で交差する水路に沿って東海道本線へと戻ります。そうすると、ここに煉瓦アーチがあります。鉄道線路各種建造物明細録第一編には記載されておらず、名称は不明です。



場所はこちら。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

水路を歩いて中へと入ります。アーチ部の造りはだいぶ雑です。煉瓦を接着させるモルタルがはみ出しまくっています。まあ、人に見られるわけでもないので、見映えは気にしなかったのでしょう。



反対側(下り線側)へと出ます。



アーチ環の造りは、上り線側と特に違いはないようです。



上り線側へと戻り、外へと出ます。



これで自宅へと戻ることにします。

西屋敷踏切。この辺りはこのような狭い踏切が2か所と、かつて踏切があったと思われる盛り土の道跡があります。



戻っていく途中、1か所気になる穴を見にいきます。

場所からして、「甲中通り橋梁」の名残りではないかと思われる暗渠です。



中を覗いてみると反対側もコンクリートで下半分が塞がれており、水路としての役目は終わっているようです。



あとは、暗渠が半円形をしているので、後年(といっても明治末まで。)に煉瓦アーチへ改修もしくは全くの新規で建設された物件かもしれないとの期待も多少ありましたが、やはりオールコンクリート造りでした。

西鹿乗川まで来ました。



ここからは、西鹿乗川に沿って、自宅方面へと向かっていきます。

下流へ向かって歩くと、さらに2か所水門がありました。3か所目のものは板材が取り付けられているので、一応現役なのかもしれません。





重量制限2トン・幅制限2mの橋。欄干が木材で造られていますが、橋桁は覗いてみると鋼材を使用しています。



今回の散歩ルートはこんな感じ。全行程で9km余を歩きました。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

最近は煉瓦アーチ巡りなどで歩き回ることが増えてきましたが、その影響なのか、一日中家でゴロゴロしていると、少しは歩かないといけないという気分になって、遅い時間から外へ出て歩いたり、自転車に乗るようになってきました。

一番は職場の健康診断で指摘された腹回りのスリム化ですが(笑)、ある程度絞れたところからは現状一進一退なので、せめて今のレベルは維持しないといけないという気持ちも多分に強いですね。
Posted at 2021/08/29 23:09:51 | コメント(0) | トラックバック(0) | 散歩 | 日記
2021年08月22日 イイね!

東海道本線 愛知御津~三河三谷間の煉瓦アーチを巡る(2)

2021年8月8日日曜日、東海道本線の愛知御津~三河三谷間に存在する煉瓦アーチを巡ってきました。(1)からのつづきとなります。

さて、神田川橋梁をあとにして、次の煉瓦アーチへと向かいます。次に向かう煉瓦アーチは、三河大塚駅の東側にあります。



こちらは、東海道新幹線と東海道本線が交差する地点からほど近くにある、新幹線用の変電・き電施設。要は新幹線へ電力を供給する施設の一つです。



新幹線の上に架かる人道用跨線橋を渡っていきます。



三河大塚駅を通り過ぎ、次の煉瓦アーチがある川へとやって来ました。上流側から下流側を眺めています。正面奥の木々の下に目標物があります。



谷川橋梁です。明治21年(1888年)6月の竣工になります。写真では明るく見えますが、実際は覆いかぶさって生い茂る木々のために薄暗いです。



ご覧のとおり両岸の護岸が高いため、近づくのに一苦労です。特に護岸の上に登り直す時は腕力頼みになるので、自信の無い方は護岸の上から眺めるだけがいいでしょう(わざわざ訪れる人はいないと思いますが(笑)。)。



内部は煉瓦のアーチと石積みの側壁で構成されています。流路部分は煉瓦積みのインバートですが、ほとんどの部分はコンクリートで覆工されてしまっています。



複線化工事による継ぎ目部分です。手前側が延長部分で奥側が開通時の部分になります。この煉瓦アーチも、開通時部分と延長部分では異なるサイズの煉瓦を使用していることがわかります。



開通時部分の煉瓦アーチの様子。



下流側へと出てきました。煉瓦アーチに密着して道路用の橋が設置されているため、下流側からも容易に煉瓦アーチを見ることはできません。





それでは護岸をよじ登り、次の煉瓦アーチへと向かいます。



次にあるのは広畑橋梁と呼ばれる煉瓦アーチですが、ここも近づくのが容易ではないので一旦パスし、もう一つ先にある半合橋梁を目指します。

快晴の日射しの下、飲み物をがぶ飲みしながら歩いていきます。ちなみにこの写真に写っている道路、単なる狭い路地にしか見えませんが、実は県道です。



証拠となるのが「愛知県」のラベルが貼付されたデリネーター(視線誘導標)。路線名は愛知県道372号大塚国府線になります。



県道から離れ、東海道本線の半合踏切を渡り、上り線側へと移動します。



渡ったところで休憩していたら、岐阜行きの普通電車が通過していきました。



この路地を進み、右側へと大回りしてふたたび東海道本線へとUターンしてきた場所に半合橋梁はあります。



到着しました。ここも木々が覆いかぶさっているので、直接煉瓦アーチを眺めることができません。



川へと下りてようやく姿を拝めました。半合橋梁です。ここも竣工は明治21年(1888年)6月です。上流側(上り線側)になります。



煉瓦アーチの開通時部分と延長部分の継ぎ目部分は、上り線寄りにあります。今までの神田川橋梁も谷川橋梁も上り線寄りにあるので、この辺りは既存線の山側(太平洋から見て。)に線増したことがわかります。



噛み合わせパターンは、だいたいが古い煉瓦4個に対して新しい煉瓦5個の噛み合わせですが、半合橋梁はそのパターンになっておらず、個数がバラバラの噛み合わせです。



ここの煉瓦アーチも、長手積みの中に小口面が並ぶ列が存在しています。



下流側へ出てきました。こちら側が開通時からあるスパンドレルになります。



先ほど、煉瓦アーチに小口面の列があると述べましたが、ここの煉瓦アーチにも煉瓦を竪積みしている箇所があるわけです。



上流側を眺めます。やはりここの煉瓦アーチに使われている煉瓦も、基本は赤煉瓦ですが、色合いにしっかりとした統一性はなくまちまちですね。



側壁の石積みにくっついていたピンク色のつぶつぶのもの。調べてみたら、ジャンボタニシの卵らしいです。あちらこちらにたくさんくっついていました。



噛み合わせ部分のアップ。開通時部分の煉瓦は、焼成時の焼け方が均一でないのでしょうね。1個の煉瓦でも色合いがまだら模様になっています。延長部分に使用されている煉瓦の方がまだ均一な品質になっている感じがします。



次に来たのは広畑橋梁ですが、ここも橋梁前後の護岸の高さが私の身長以上あり、なかなか接近できません。

下流側の護岸にはしごが付いているのを見つけて、そこから川の中を歩いてきましたが、あともう少しという所で淵に当たってしまい、長靴では越えられず引き返します。



結局、線路沿いに建つアパートと築堤の隙間を歩いて、橋梁の直前で川へと飛び下りました。どうやって登り直すかはまた後で考えます。



ようやく広畑橋梁です。ここも明治21年6月の竣工です。こちらは下流側(下り線側)になります。周辺の他の煉瓦アーチと同じくこちら側が開通時のスパンドレルになります。



広畑橋梁は、煉瓦アーチに竪積み箇所はありません。



この橋梁は、周辺の煉瓦アーチ群の中で、一番きれいに流路部分の煉瓦積みインバートが残っています。





開通時部分と延長部分の継ぎ目部分です。ここも噛み合わせに規則性が有るような無いような…。「しっかり噛み合わせてあればいいだろう。」ということなんでしょうね。







上流側(上り線側)へ出てきました。こちら側もうっそうとしています。



橋梁の上流側の流路には石畳も少し残っていて、全体的に昔の状態が残されていると言えるでしょう。



そのまま上流側の岸へと這い上がりました。川岸に密生していた矢竹を何本か束にして掴んで、力業でよじ登りました(笑)。



これで一度車へと戻ることにします。ただ、まだ1.7kmほど歩かないといけません…。

三河大塚駅を通過する貨物列車。貨物列車の今の主力はEF210形電気機関車ですが、EF66形100番台電気機関車がけん引しています。



熱気でむせ返る線路沿いの路地を歩いていきます。車まではあともう少しです。



神田川橋梁近くの路地に停めておいた車にようやく戻ってきました。今回予定していたうちの最後の煉瓦アーチへと移動します。



東海道本線愛知御津駅から西側へ1kmほどの場所へとやって来ました。



雑草に覆われてわかりにくいですが、大森橋梁です。竣工は明治21年(1888年)5月。下り線側からの眺めです。



足元が確認できない雑草の中を直接下りるわけにもいかないので、線路とは反対側にある田んぼのあぜ道から水路へと入り、道路の橋の下をくぐって正面へ来ました。今までのものと違い、小さな煉瓦アーチなのでアーチ環も3重です。



通常、築堤と水路の高低差がこの程度だと、桁橋の場合が多いですが、ここは開通当時から煉瓦アーチが設置されていたようです。

内部もオーソドックスなもので、煉瓦アーチに石積みの側壁です。ただ、側壁部分は一部がコンクリートで覆工されています。



上り線側も雑草で覆われています。





ここの煉瓦アーチには、複線化工事に伴う継ぎ目部分が見い出せません。最初から複線用の幅で造られていたのかどうかは不明です。



アーチ内を往復して、下り線側から外へと出ます。雑草の中に茨が混じっていたのには参りました…。



今回は、愛知御津~三河三谷間にある6か所の煉瓦アーチを回りました。この区間は2016年2月に一度チェックして回っているので、訪れたのは5年半ぶりになります。特に大きな変化は見られなかったので、今後も当面は煉瓦アーチのまま維持されていくと思われます。

また訪れる機会はあるのか。もう訪れないのか。気分次第なので、何とも言えませんね。あとは愛知御津駅から東方に2か所残っているので、そちらは折を見て再チェックする予定です。

2021年08月15日 イイね!

東海道本線 愛知御津~三河三谷間の煉瓦アーチを巡る(1)

2021年8月8日日曜日、東海道本線の愛知御津~三河三谷間に存在する煉瓦アーチを巡ってきました。

最初にやって来たのは、三河三谷駅近くにある硯川橋梁。三谷駅南公共駐車場から道路を挟んで南側にあります。ここは駅前であり、周囲も住宅地に囲まれているので、まだ人通りの少ない朝6時半前に訪れました。



夏真っ盛りなので、大量の雑草に覆われていますね。





さっそく水路へと下ります。



アーチ環にある煉瓦の中には、〇の囲みの中にアルファベットの刻印が押されたものがあります。他の場所では東海道本線旧石部隧道や梶田避溢橋で見ることができます。



内部へと入っていきます。側壁は石積みで、水路部分は煉瓦によるインバート(逆アーチ)となっています。



煉瓦アーチ部分の奥には、ボックスカルバートと放物線型のコンクリート造アーチが連結されています。その先は暗闇なので暗渠が続いていると思われますが、暗渠を探索することが目的ではないので、ここで引き返します。



水路の吐口へと戻ってきました。



さて、ここ硯川橋梁の煉瓦アーチは、東海道本線の真下ではなく、なぜか駅前を通る道路の真下にあります。単純に理由として考えられるのは、東海道本線はかつては現行線の場所ではなく、硯川橋梁の真上を通っていたということ。

では、線路の位置がなぜずらされたのか。三河三谷駅は、開通当初から存在する駅ではなく、地元からの請願により昭和4年(1929年)に設置された駅です。この駅を建設する際に用地を確保するため線路を現行線の位置へとずらしたのではないかということです。

硯川橋梁の1枚目の写真を見てもらうと、橋梁が台地の端部に設置されていることがわかります。線路がこの位置のままでは、駅構内用の広い土地を確保するのはままなりません。

そのために線路を現行線の位置へとずらし、その際に川には新たに放物線アーチ型の橋梁を架けたという見解です。放物線型アーチ橋梁は昭和戦前期のものをしばしば見かけます。ボックスカルバートについては真上が公共駐車場なので、駅前周辺を整備する際に設置されたものと考えられます。

以上、裏付けのない憶測ですが、まんざらハズレでもないと思っています。硯川橋梁の真上に立って駅から東方向にある星越山隧道方面を眺めると、ちゃんと鉄道用地の端が一直線に見えています。

こちらは地形図に書き込みをしたものです。かつては東側から一直線に硯川橋梁へと線路はやって来て、その先でややカーブする線形だったのでしょう。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

※9月16日木曜日に安城市図書情報館に所蔵されていない地誌を見るため、岡崎市立中央図書館へ行ってきましたが、その際に「正式二万分一地形図集成」という明治時代に作成された地形図の復刻版をまとめた巨大な冊子を見つけました。

その中に明治23年(1890年)測量・明治26年(1893年)発行の「蒲郡」があり、現在の三河三谷駅の位置を確認したら、東海道本線はその位置でちゃんと「くの字」に曲がっていました。これで確定です。

ちなみにこの冊子がいくらするのか発行元のホームページで調べたら、定価10万円でした(笑)。1万円くらいなら買ってもいいかなと思いますが、さすがにこの金額では手が出せません。

それでは2か所目の煉瓦アーチです。宮川橋梁といいます。



ガードレールがある場所を覗き込むと煉瓦アーチが見えます。これは上り線側の写真ですが、ここから川へは下りられないので、下り線側へと回ります。



下り線側へと回る前に、次の煉瓦アーチへと向かうための道が車の通行できる幅か確認するため、ちょっと寄り道します。

通行するのに問題ない事がわかったので、もう1か所寄り道して、新幹線を越える跨線橋へと来ました。右側が東海道新幹線。左側遠方に東海道本線が見えています。正面の山を新幹線は星越トンネル、東海道本線は星越山トンネルで越えています。



ちょっと眺めている間に何本もの新幹線が通過していきます。



ようやく宮川橋梁の下り線側へとやって来ました。こちらが下流側になりますので、吐口ということになります。





上部に笠石が並び、スパンドレルは石積みとなっています。



水路の真ん中には人道用と思われる通路が設けられています。その下部は煉瓦敷きによるインバートとなっています。



内部は側壁が石積みです。内部の煉瓦アーチを見ている限りでは、複線化に伴う増築の跡は見られないので、最初から築堤が現存するサイズで建設されたのか、もしくは何らかの事情で煉瓦を巻き直しているのだと思われます。



通路ですが、途中で水没してしまいます。流路に土砂が溜まっているためです。



アーチを一周する亀裂がありました。点検はされているようですが、補修の跡は特にありません。現時点では問題視されていないのでしょう。



上流側の吞口が見えてきました。すぐ先は、道路をくぐるボックスカルバートの暗渠になっています。



スペースが無いので、道路下の暗渠に入り込んで上流側の吞口を撮りました。



下流側へと戻ってきました。



ちなみに、ここもアーチ環にアルファベットの刻印入りの煉瓦があります。この辺りの煉瓦アーチで使用された煉瓦の供給元が同じ会社であることが推察できます。



ここでまた寄り道をすることにします。星越山トンネルまで、大築堤に沿いながら歩いていきます。見落とした構造物がないかのチェックも兼ねています。



線路沿いを通ってきた道路が線路と分かれていく場所へと来ました。線路越しに三河湾が見えています。



豊橋方面へと向かう電車が通過していきます。



これ以上は星越山トンネルへと近づくことはできないので、望遠で撮ってみます。

こちらは下り線用トンネルにある銘板。



こちらは上り線用トンネルの坑門の一部。



余談。ここ星越山トンネルは、開通から現在の供用状況に至るまで、少々複雑な経緯があります。

このトンネルは単線並列型に設置されていますが、まず現行下り線用が明治21年(1888年)6月竣工。つづいて複線化に際して現行上り線用が明治41年(1908年)に開通しています。

その後、現行下り線用トンネルの老朽化と電化工事の進展により、戦前の弾丸列車計画で用地買収済みの場所を活用して、現在の東海道新幹線星越トンネルの位置に上り線用のトンネルを新たに掘削して、昭和27年(1952年)に切り替え。現行上り線用トンネルを電化用に改修工事をしたのち、下り線用トンネルへと切り替えて供用開始します。この時点で、現行下り線用トンネルは一旦放棄となりました。

さらにその後、今度は東海道新幹線の建設計画が持ち上がり、新上り線用として供用していたトンネルを新幹線へと明け渡すことになり、急きょ、放棄していた現行下り線用トンネルを電化用トンネルへと改修工事。昭和37年(1962年)にようやく現在の形へと落ち着きました。

下り線用トンネルの三河大塚駅側手前付近の築堤の斜面には、改修工事の際に破壊され取り除かれたものと思われる煉瓦の塊が敷き詰められている場所があります(今回は草茫々で近寄れませんでしたが。)。

それでは、3か所目の煉瓦アーチへと向かいます。やって来たのは、神田川橋梁。川沿いの草むらの海をかき分けて近づきます。



川の護岸の上からの撮影。こちらは上り線側になります。頂上部に笠石、スパンドレルは石積み、アーチ環は4重です。



内部へと入っていきます。側壁部は石積みです。



ここはアーチ部分に複線化増築の痕跡が明瞭に残っています。写真左側が増築された煉瓦アーチ、右側が開通時からの煉瓦アーチです。開通時の煉瓦4段に対して、増築時の煉瓦5段で噛み合わせてあります。



アーチ部分は、基本的には煉瓦の長手部分が表面に見えていますが、よく見てみると、煉瓦の小口面が並んでいる列があります。これについては、反対側からアーチ環を見ると理由がわかります。





この橋梁も、流路部分は煉瓦積みのインバートになっています。



下り線側へと出てきました。目の前には住宅があるので、家人が現れないか少々気になりますね(笑)。





先ほどのアーチ部分に小口面の列ができている理由ですが、アーチ環に煉瓦を竪積みしている箇所があるためです。竪積みを挟むのは、アーチをしっかり支えるためだと考えられています。



下り線側から上り線側を見ています。アーチ部分の煉瓦は基本赤レンガで構成されていますが、焦げ茶色の煉瓦も多く混ざっています。中には半分だけ焦げ茶色になった煉瓦も使われています。



上り線側へと戻ってきました。



右側の石積みをよじ登って、川から上がります。



ちょうど、豊橋方面の電車が通過していきました。



また草むらの海へと分け入り、次の煉瓦アーチへと向かいます。



※その2へつづく。
2021年08月12日 イイね!

長野県木曽郡南木曽町 柿其渓谷へ行ってきました

2021年8月1日日曜日、母・姉と長野県木曽郡南木曽町にある柿其(かきぞれ)渓谷へ行ってきました。

中央道を中津川ICで下りて国道19号を走行。「柿其入口」交差点で左折して、最初のうちは対向2車線ですが、やがて1車線余の細さになる山道を案内板に従って登っていくと柿其渓谷の駐車場に着きます。



駐車場から渓谷入口までは徒歩5分ほどです。







渓谷の入口に架かるつり橋「恋路のつり橋」。そこそこ揺れるのは仕方ありませんが、手すりが無いので、母は渡る時に腰が引けていましたね。



対岸へと渡り、川沿いの遊歩道を進んでいきます。



つり橋から10分も歩かないうちに渓谷は険しさを増してきますが、しっかりとした遊歩道が造り付けられているので、気楽に渓谷美を楽しむことができます。





つり橋からほぼ平坦な道を歩いていきますが、途中からは一気に急な階段で崖上へと登っていきます。



階段を登り切ると休憩所があり、この遊歩道の終点にある牛ヶ滝が見えます。



休憩所からは再び下りとなり、遊歩道の終点へと向かいます。



階段の踊り場から滝の上にある削れた岩を眺めます。



遊歩道の終点である牛ヶ滝の展望台に着きました。牛ヶ滝の眺めです。





終点の展望台は数人が立てる程度の場所なので、長居はせずに引き上げました。





遊歩道の脇に転がっていた森林鉄道のレール。路線は野尻森林鉄道柿其線と呼ばれていたようです。





つり橋のたもとに掲示されていた注意書き。



つり橋から上流側の眺め。多くの人たちが水遊びに興じています。



一方、下流側には人影は見られませんでした。



これで、この日のドライブ目的は果たされたので、あとは適当に走りつつ帰宅します。

柿其渓谷から恋路峠を越え、木曽川を渡りやって来たのは、JR中央本線野尻駅。単なる寄り道です。





ホームへ出たら、ちょうど名古屋行きの特急しなのが通過していきました。駅の向こう側には貯木場が見えています。昔は森林鉄道から木材が搬入され、ここ野尻駅で積み替えて、中央本線で送り出されていたのでしょう。



野尻駅の駅名板。



次に訪れたのは、読書水力発電所の取水路の橋である柿其水路橋。柿其渓谷へ行く道路が橋の下を通り抜けています。



外観はまるで鉄道などの高架橋を思い起こさせますが、中を覗き込むと発電所へと送られる大量の水が流れています。



この後は寄り道せず帰路につきましたが、中央道の渋滞があったので、東海環状道豊田藤岡ICまで下道で迂回する羽目になりました。

Posted at 2021/08/12 21:39:52 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2021年08月09日 イイね!

東海道本線 小田原川橋梁・穿屋川橋梁・梨子谷橋梁

2021年7月31日土曜日、JR東海道本線 関ヶ原駅の東方にある3つの煉瓦アーチを見に行ってきました。東京駅方からの順番だと梨子谷橋梁・小田原川橋梁・穿屋川(うやがわ)橋梁の順ですが、表題は見て回った順番になっています。

やって来たのは、岐阜県不破郡関ケ原町野上にある旧中山道を散策する人向けの公共駐車場。ここに車を停めて、歩いて向かいます。



駐車場近くを流れる川を辿り、まず訪れたのは小田原川橋梁。竣工は明治17年(1884年)5月とあります。東京~大阪間の鉄道建設を、東海道ルートではなく中山道ルートで推進しようとしていた時期に竣工したものです。



川へ飛び降り、中へと向かいます。





この暗渠、内部が「ねじりまんぽ」になっています。線路に対して斜めに川が流れているからです。



真ん中あたりに複線化工事の際に煉瓦アーチを増築した名残りが見て取れます。



よく見ると煉瓦の継ぎ目に段差があり、ここで噛み合わせたのだとわかります。





継ぎ目よりも奥側の煉瓦アーチの方がモルタルの浸み出しが少なくきれいです。



反対側へと出てきました。すぐ目の前を道路が通っています。



こちら側のスパンドレルは、コンクリートで覆工されています。



アーチ環は4重積みですが、一番外側はコンクリートで塗られてしまい、露出しているのは3重分です。





内部を振り返っての眺め。



道路に上がりました。今度は関ヶ原駅方面へと進み、穿屋川橋梁を目指します。



穿屋川橋梁に着きました。竣工は小田原川橋梁と同じく明治17年(1884年)5月です。繁茂した植物で完全に目隠しされていますね。



川床に降り、のれんのように掛かった薮をかき分けて近づきます。中からうっすらと靄が流れ出ています。



写真を撮るのに靄がかかっているのは困りものですが、さらに中へと踏み込んでいきます。



中へ入ると靄は晴れてきました。猛暑の屋外と水が流れている暗渠の中では気温差も激しいでしょうから、開口部付近は靄が立ちやすいのでしょうね。



さて、ここ穿屋川橋梁の核心部分が見えてきました。



どういう理由でこうなったのか不明ですが、穿屋川橋梁は中央部分だけが「ねじりまんぽ」という、非常に珍しい煉瓦暗渠です。





入ってきた方角を振り返ってみるとこんな感じ。中央部分の内高の高い煉瓦アーチに一回り小さい煉瓦アーチを突っ込んだような形状をしています。





穿屋川橋梁にも複線化工事に伴う増築の際の継ぎ目が見て取れます。手前側の長さが短いので増築部分、奥側が開通当時からあった部分でしょう。



あとは煉瓦積みのねじれ度合いがなかなか強烈なことです。線路に対して川の流路の斜め度合いが先ほどの小田原川橋梁よりもきついためです。









なぜこんな積み方になるのか。現物や図面を見ながら説明してもらうと理解できるのですが、言葉だけで説明を受けて理解するのは難しいですね。

反対側も、一回り小さくて通常の積み方をした煉瓦アーチがつながっています。



この先は水深がやや深くて長靴では進めないので、反対側へと出るのはあきらめました。



振り返っての内部の様子です。



これだけ癖のある煉瓦暗渠だと飽きがこないですが、いつまでもいるわけにはいかないので、いい加減外へ出ることにします(笑)。





さらに関ヶ原駅方面へと歩いてみましたが、ボックスカルバートの架道橋があっただけだったので、引き返しました。



次は、梨子谷橋梁へと向かいます。



穿屋川橋梁、小田原川橋梁と通り過ぎ、梨子谷橋梁へとやって来ました。こちらも竣工は明治17年(1884年)5月です。鉄道線路各種建造物明細録第一編には「梨子谷川」と記載されています。





ここは小さいですし、流れもあまりきれいではないので、ちょっと覗いただけで終了。



この後の行動は、結果的には余談の範疇になります。

あと1か所だけ、垂井駅寄りの煉瓦アーチを探しに、もうしばらく歩き進めることにします。









この先の左手側に小川が流れているのを見つけ、「小さな煉瓦アーチがあるかも。」と進んでいきましたが、軽トラックを停めて作業をしている方があり、いちいち話しかけられるのも面倒だと引き返しました。



もうしばらく付近を探索。この茶畑の細い道は地形図にちゃんと載っている道です。



踏切が見えたので渡ることにします。



伊吹道踏切。



踏切脇に20パーミルの勾配標が立っていました。この急勾配を回避するために、大垣~関ケ原間で登りとなる下り線側には貨物列車などが迂回する別線が存在します。



旧中山道まで戻ってきました。これは、交差点に立つ伊富岐神社の鳥居。神社はこの先700~800mの場所にあります。



この時点で時刻は15時10分。「もういい時間だし、飲み物も無いし(自販機も見当たらないし…。)帰るか。」と、ここで探索は打ち切り。このまま旧中山道を歩いて駐車場まで戻りました。

プロフィール

「旧熊野街道 船木橋・神瀬橋・ねじりまんぽの道路橋 http://cvw.jp/b/1796277/45557442/
何シテル?   10/21 19:30
小林あにと申します。よろしくお願いします。 休日はドライブしたり、たまに廃線・廃道を歩いてみたり、ごくたまにミニサイズのラリーに出場してみたり、やる気がな...
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2021/8 >>

123456 7
8 91011 121314
15161718192021
22232425262728
293031    

ブログカテゴリー

愛車一覧

スバル インプレッサ WRX STI スバル インプレッサ WRX STI
所有4台目(4代目)となるインプレッサ。 ガチガチのマニアというわけではないですが、4 ...
スバル インプレッサ WRX STI スバル インプレッサ WRX STI
平成16年夏に購入。 自身3台目のインプレッサとなります。 購入理由は、2台目インプレ ...
スバル インプレッサ WRX STI スバル インプレッサ WRX STI
平成9年夏購入。 インプレッサ2台目。 行きつけの車屋さんへタイヤ交換の依頼をしに行っ ...
スバル インプレッサWRX スバル インプレッサWRX
平成7年夏購入。 インプレッサ1台目。 購入動機は、WRCのビデオを見たのが一番。 ...
ヘルプ利用規約サイトマップ
©2021 Carview Corporation All Rights Reserved.