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小林あにのブログ一覧

2023年01月30日 イイね!

【浜松市天竜区】鳥羽山の隧道擬定地を探索しました

2023年1月29日日曜日、静岡県浜松市天竜区二俣町の鳥羽山へとふたたび出かけてきました。

鳥羽山には明治32年(1899年)に開通したトンネル「鳥羽山洞門」が現存しています。しかし、前回のブログの終わりに書いたように、「鳥羽山洞門」が開通する9年前の明治23年(1890年)測図の2万分の1地形図「二俣町」には、同じ鳥羽山で「鳥羽山洞門」とは違う場所にトンネル記号があります。

こちらは「今昔マップ」というサイトで、前述の「二俣町」の地形図を閲覧したものです。右側の現在の地形図の中央部の黒丸印が隧道擬定地です。

※この地図は、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップon the web」((C)谷 謙二)により作成したものです。

この地形図の存在を知るきっかけとなった、2012年7月に現地を探索した方のブログでは、「崩壊したのか隧道の坑口は発見できなかった。」とありました。

同ブログに貼られていた写真を見る限り、仮に隧道が存在していたとしても、現存している見込みはほぼゼロのように感じましたが、やはり現地をこの目で見て自分なりの結論を出してみたいなとの思いに駆られ、鳥羽山へと出かけた次第です。

前回訪問時と同じく鳥羽山公園の駐車場へとやって来ました。


そして、同じように田代家住宅へと下っていく、古道を改修した散策路へと入っていきます。


左側に田代家住宅が見える場所まで下りてきました。散策路はここをヘアピンカーブで折り返していきますが、鳥羽山洞門が開通する以前の旧峠道が直進方向へと分岐しているので、そちら側へと進んでいきます。


「馬車も通行できた。」と言われた道路にしてはやや狭い気もしますが、しっかりと道跡が残っています。


山側には鳥羽山でたくさん出てくる玉石を利用した石積み擁壁があります。


天竜浜名湖鉄道の線路へと出てきました。正面は椎ヶ脇神社御旅所。旧峠道が利用されていた時代にはまだ鉄道は開通しておらず、そのまま神社の裏手を通って現在の国道152号から渡し場だった鹿島橋方向へと向かっていたようです。


ここで引き返して、峠方面へと向かいます。


散策路まで戻ってきました。黄色い矢印線が旧峠道に当たるはずなので、そちらへと進んでいきます。


散策路がふたたび折り返すカーブを直進していきます。


程なくして旧峠道は無くなってしまいました。ちょうど鳥羽山洞門の坑口の真上なので、トンネル建設時に削り取られてしまったのかもしれません。


旧峠道が通っていた場所を想像しながら斜面を横断していきます。


土が脆く崩れやすい斜面を3分ほど横断していくと、ふたたび旧峠道が現れました。


旧古道は竹林に囲まれてしまっていますが、人が歩ける分だけ竹が伐採されていたので、以前の南部新道の探索のように難渋することなく進んでいけます。


眼下に小さな砂防ダムがある凹地にぶつかり、直進方向に道跡が無くなりました。そこで山側(左側)へと目をやると、目的地へと連なる切り通しを見つけました。


だいぶ土砂に埋もれてしまっていますが、左右に人為的に削られたと考えられる低い垂壁が見えています。




馬車道だったとは思えないほどの急坂で登っていきます。やはり相当な量の土砂が堆積して埋もれてしまっているようです。




切り通し地形の左右の斜面を見上げています。どちらも高さは20m〜30mくらいはありそうで、しかもけっこうな急斜面です。




切り通し地形の頂上まで来ました。先ほどの石積み擁壁で見たような玉石が辺り一面にゴロゴロ転がっています。






頂上を通り過ぎて下っていくと、真下に深く掘り込まれた隧道の擬定地が現れました。


ガレた急斜面を下って、正面から眺めます。


切り通し地形を歩き通し、さらに上記の写真の光景を見た上での、この場所に対する自分の所感は後にして、左側に開いている穴へと入ってみます。




この穴について、前述のブログ主さんは地元の方に聞き取りされていて、銅を採掘していた坑道の跡なんだそうです。ちなみに鳥羽山で銅を採掘していたという記述は天竜市史には無かったので、記述されない程度の零細なものだったのでしょう。




穴を10mほど進むと、その先は水没しています。穴に入った瞬間にムッとするような嫌な空気で(外気との寒暖差と、奥が閉塞して空気が循環していないため。)、結末を見届けたらさっさと外へと出てしまいました。


穴の外へと出てきました。


さて、ここで先延ばしにしたこの場所に対する自分の所感を述べると、「この場所は切り通しであり、隧道は元々存在していなかった。」という結論です。

結論に至った理由を書き出してみます。

両脇を高い岩壁に挟まれていますが、前方の土砂に埋もれている場所に坑口があったようには見えません。例えるなら蓋の無い側溝に土砂が流れ込んで埋まっただけのようにしか見えないのです。もしトンネルが崩落・埋没したのであれば、トンネルがあった方向に沿って、周囲よりももう一段細長く陥没した・凹んだ様子が地表面に見受けられるものですが、どうにもそれが感じられない(あくまで自分の経験上です。長い間に陥没部分が埋もれて均された可能性は有る。)。

そもそも岩壁よりも上の地質は玉石を含んだボロボロに崩れやすいもので、素人目に見てもとてもトンネルを掘削するのに適した地質ではありません。掘削した先からドンドン崩れて、トンネル建設中の時点で坑道を維持できそうもありません(前述のブログ主さんは、この地質が理由で隧道は崩落して埋もれたと結論付けています。)。


トンネルを掘削するのであれば、切り通し中央部について、左右の斜面があんなに高く露出するほど地表を掘り込む必然性がありません。山体に穴を掘るだけで良い訳ですから、それ以外に山体へ手を加える必要は無いはずです。

仮に、高い斜面が露出している原因がトンネルの崩落・陥没だとしても、あの高さまで斜面が露わになるほど山体が陥没するとは思えません(馬車道のトンネルなら、内高はせいぜい2〜3m程度。)。もしそうだとしたら、山が大きく凹んでしまった分の大量の土砂はどこへ行ってしまったのでしょうか。

次に天竜市史下巻の「鳥羽山峠新道」についての記述を持ち出すわけですが、そこには「明治17年(1884年)2月に工事開始、明治18年11月26日に完成。延長281間(約507m)、『地盤の切り下げ部分が67間(約120m)』。総工事費1,825円」とあります。「隧道の掘削」については一言の言及もなく、『地盤の切り下げ部分が~』とあるだけです。明治23年測図に間に合うような鳥羽山の峠道に関する大きな改良工事はこの記事だけです。

明治十年代に建設されたトンネルは鉄道用も道路用もあまり存在していません。そんな時代に地方の峠道に隧道を掘削するとなれば間違いなく地元の一大事。記録に残らないはずがありません。ですが、そのような記述がない。

ここは文面通りに受け取って、1年9か月かけて鳥羽山の鞍部を20mから30m切り下げて、切り通しを建設したのが妥当だと思います。人力での工事だったでしょうから相当苦労したと考えられますが、技術的にはトンネル掘削よりも問題は無いはずです。愛知県内にも明治時代の旧飯田街道でこの程度の高さを切り下げて建設された切り通しが存在しています。

さらに加えて天竜市史下巻には、「明治24年(1891年)6月15日、鹿島村民(鹿島村は鳥羽山の麓の村)が二俣町長あてに鳥羽山に隧道を掘りたいので、その筋に請願をしてほしいと申し出。」という記述もあります。

すでにトンネルがあって損壊しているのならば修復にかかる請願でしょうし、修復が無理だというのであれば、「元々のトンネルが使いものにならないので、新たにトンネルを掘りたい。」というような請願でしょう。

以上、現地を見た感想と天竜市史下巻の記述から、繰り返しますが「この場所は切り通しであり、隧道は元々存在していなかった。」という結論になりました。

では、どうして地形図にはトンネルの表記がされているのか?一つは単純に誤記。二つ目はまったくの想像(妄想)ですが、ロックシェッドのようなものが設けられていた。切り通し部分に木製の支保工のようなものが緻密に並べてあったりしたら面白いかなと(笑)。土砂がボロボロ崩れてくるわけですし、時には頭大の丸石も降ってくるような場所です。そのようなものから馬車や通行人を守るような設備があってもおかしくないはず。

ただ、二つ目の「案」もそれだけ特徴的な建築物があれば、やはり物珍しさで記録に残りそうなので、実際には深い切り通しをトンネルと誤記したというのが正解のような気がします。

こちらは二俣側の斜面。写真では全然見えませんが、すぐ真下に鳥羽山への登山道路があります。往時はここで左カーブ・右カーブと屈曲して、二俣側へと下っていったようです。


それでは切り通しを戻っていきます。




進入した側へと戻ってきました。右折して進みます。


岩壁に無数に付いている縦筋は鑿の跡なのでしょうかね。


路肩を保護する擁壁も玉石積み。


散策路へとよじ登ってきました。


ついでなので、鳥羽山への登山道路を少し歩きます。


古そうな石積み擁壁が残っています。


先ほどの切り通しからの道が合流していたと思われる地点。二俣の街が見えています。


駐車場へと戻ってきました。今回は1時間20分ほどの探索でした。


鳥羽山洞門の開通以前の、明治18年に開通した旧峠道を探索したルート図です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

今回は距離的にはピンポイントの短い探索でしたが、中身的にはなかなか濃いものになりました。現地探索と地元市史などの資料との突合せで、自分なりの結論を導くのは楽しいものです。

結論は結論ですが、本当はトンネルがあったのかもしれないという気持ちも無いわけではないのです。興味を持った誰かがトンネルの実在を立証してくれれば、また現地へ赴くだけですよ。
Posted at 2023/01/30 23:34:07 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2023年01月25日 イイね!

鹿島橋・鳥羽山洞門へ行ってきました

2023年1月15日日曜日、静岡県浜松市天竜区にある国道152・362号の鹿島橋と煉瓦トンネルの鳥羽山洞門へ行ってきました。

場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

こちらは鳥羽山公園の駐車場。グーグルマップで目的地周辺の駐車場所を探してみたところ、ここが適当そうな場所だったのでやって来ました。


鳥羽山にはかつて鳥羽山城というお城があり、現在は公園になっています。最後に立ち寄ってみたいと思います。


まずは鹿島橋へと向かうため、鳥羽山を下りていきます。


下りていく道は、かつて二俣(天竜区の中心街)と浜松を結ぶ街道の峠道だったそうです。




細い路地を見下ろします。この真下には後ほど紹介する鳥羽山洞門があります。


「筏問屋 田代家住宅」の裏手へと下りてきました。今は素通りしますが、こちらも後ほど訪れてみたいと思います。


天竜川に架かる国道152号・362号の橋梁「鹿島橋」へとやって来ました。


鹿島橋の開通は昭和12年(1937年)。同地に明治44年(1911年)10月に開通していた吊り橋「天竜橋」が、昭和時代に入って自動車を含む交通量の増大(信号所を設置して通過車両の交通整理をするほどだった。)と老朽化の進行に悩まされ、その解消のため新たに架橋された橋梁です。

土木学会発行の「日本の近代土木遺産 現存する重要な土木構造物2800選」によると、全長は216.6m。現存する戦前の道路用鋼トラス橋で最大のスパン(102m)を持つ上曲弦トラス橋だそうで、Aランク(国指定重要文化財相当)に評価されています。


こちらは鹿島橋のやや上流側に現存する旧浜名用水取水口跡。昭和17年(1942年)から昭和21年(1946年)にかけて建設されました。その後、昭和53年(1978年)にさらに上流に船明ダムが完成して取水口がダムへと移動したことにより、その役目を終えました。


この取水口跡はご覧のとおり天竜川の水面とは接していません。上流に多くのダムがあり、水量が減っていることもありますが、進行し続ける天竜川の河床低下により、常に取水量不足に悩まされていたそうです。


鹿島橋のたもとへと来ました。このまま対岸へと渡っていきます。


対岸の橋のたもとです。


下流側には天竜浜名湖鉄道の天竜川橋梁が見えています。


戦前製の武骨な鋼橋の姿を眺めながら二俣側へと戻っていきます。








二俣側へと戻ってきました。


下流側へとしばらく歩きます。


天竜浜名湖鉄道の天竜川橋梁です。昭和15年(1940年)完成。全長は403mで、3連トラス橋と7連桁橋の構成となっており、国の登録有形文化財に指定されています。






鳥羽山をくぐり抜ける天竜浜名湖鉄道のトンネル。名称はわかりませんでした。




トンネルの横にある椎ヶ脇神社御旅所。椎ヶ脇神社の本社は鹿島橋を渡った対岸にあります。「御旅所」というのが気になり調べたところ、椎ヶ脇神社の例大祭の時に、祭神が神輿に乗って天竜川を渡り、一泊する場所だったそうです。



※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

椎ヶ脇神社御旅所から歩くこと2分。ようやく今回の本命「鳥羽山洞門」へ来ました。


鳥羽山洞門は、明治32年(1899年)の開通。トンネル延長は137.8mになります。かつて二俣と浜松を結ぶ街道は、トンネルの真上にある鳥羽山峠を上り下りしていたわけですが、その峠越えの労を解消するために開削されたトンネルです。


以下は天竜市史下巻に記載されていた鳥羽山洞門に関する記事の抜粋です。

「浜松・二俣間道路」
「浜松町元城から二俣町二俣に至る道路で、古くから二俣西街道と呼ばれていた。明治26年(1893年)7月、路線整備のために浜松町、曳馬村、有玉村、中郡村、美島村、平貴村、小野田村、麁玉村、赤佐村、二俣町で「浜松町外九ヵ町村組合」を組織。」

「この組合の最も重要な事業が鹿島の天竜川に橋を架けることと、鳥羽山に隧道を掘ることであった。鳥羽山洞門は、明治32年(1899年)9月に開通。長さ75間(約135m)、高さ12.5尺(約3.8m)、道幅12尺(約3.6m)、工事費は22,618円33銭1厘であった。」

扁額は制限高・制限幅の注意標識に挟まれていますが、文字を読み取ることはできます。普通、トンネルのことを昔は「隧道」と表記していますが、ここは「洞門」と表記しています。




アーチ部分は焼過煉瓦の4重巻きです。


かつてトンネルの坑口付近は鉄骨で補強されていましたが、現在は鉄骨が撤去されて、代わりにメッシュで覆われています。




中央部は煉瓦巻きのままになっています。古い道路用トンネルだと、中央部は素掘り剥き出しのままが多いですが、このトンネルは総煉瓦巻き立てになっています。






反対側の坑口付近も天井がメッシュで覆われています。


反対側の坑門と扁額です。






アーチ部分を見ていたら、煉瓦を竪積みにしている箇所がありました。鉄道用の煉瓦アーチでは時々見かけますが、道路用煉瓦トンネルでは初めて見ました。




それではまたトンネルをくぐって戻ります。


トンネル遠景。手前の建物は筏問屋の田代家が明治30年(1897年)に建てた船宿で、昭和初期まで天竜川を筏流しで下ってきた筏師が宿泊していたそうです。


「筏問屋」田代家住宅です。主屋は安政6年(1859年)の再建です。田代家は、徳川家康が浜松城を本拠地にしていた時代に朱印状を下されたことをきっかけに、天竜川を行き来する船や筏に課税する役所の請負をしたことで大いに栄えたそうです。江戸時代に入ると名主と渡船場の船越頭も務めました。




ボランティアの方に説明を受けながら、主屋の中を興味深く見学させてもらいました(その分、部屋の写真を撮るのをすっかり忘れましたが…。)。ボランティアの方によると、田代家が朱印状を下されたのは、武田氏の遠州侵攻の際に、徳川方の天竜川渡河に協力したことがきっかけらしいです。

実際、武田氏は信玄・勝頼の二代に渡って徳川氏と二俣城(天竜区二俣の天竜川河畔にあった山城。)の争奪戦をしていますので、ほぼ事実なのでしょう(家康による遠江領の領地経営について、地元の有力者として協力していたようですし。)。

最後に鳥羽山城跡へと立ち寄ります。


各所に背の低い石垣が残っています。


大手門跡。


鳥羽山城跡の説明板。隣の山にある二俣城を巡る徳川氏と武田氏の攻防の際には、鳥羽山城に徳川方の本陣が置かれたそうです。徳川家康の関東転封以降は堀尾氏が入城し、現在残る石垣を有する城郭へと改修したそうです。


山頂からの眺め。眼下に鹿島橋が見えています。


四等水準点「鳥羽山」。標高は108.52mです。


東門跡。


暗渠。


城跡南面の石垣。発掘調査の結果によると、堀尾氏入城後は、戦時用の城ではなく、迎賓館的な性格を帯びた城へと変化したようです。


車へと戻ってきました。いろいろな場所を巡りましたが、歩き回った時間は2時間ほど。当日は曇天ながら気温が17度まで上がり、汗ばみながらの散策となりました。


さて、帰宅後、いつも通りにブログを書くための復習と資料収集でネット検索をし、ヒットした記事を読み漁っていましたが、とんでもないブログを見つけてしまいました(廃道好きな人間的に(笑)。)。

鳥羽山には、鳥羽山洞門が開通する前にも別のトンネルが存在していたというもの。そのブログによると、鳥羽山洞門が開通した明治32年よりも古い地形図の違う地点にトンネルの記号が記されているそうです。ブログ主は実際に現地を訪れ、トンネルの埋没地点と思われる場所を確認しています。

「今昔マップ」により確認したところ、鳥羽山洞門の開通よりも10年古い1889年~1890年の地形図にトンネルが載っています。現在の地形図に書き込むと以下の場所になります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

これは早急に現地へ行って確認してみないと気が済まない…。しかし、このブログを書いている時点で実はまだ再訪していません。先週は資格試験の受験があり、今週末はラリー絡みの用事があるので、ちょっと行くことが難しい…。

再来週までお預けです…。
Posted at 2023/01/25 15:43:48 | コメント(2) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2023年01月11日 イイね!

「南部新道」(府縣道甲府静岡線)の廃トンネルを探索しました

2023年1月8日日曜日、山梨県南巨摩郡身延町にある廃トンネルなど3か所を巡ってきました。まずは旧国道52号の廃トンネル「下山隧道」と、国道から格下げ後、町道として現役の「榧ノ木隧道」の2か所を訪れました。

今回は、3か所目となる廃トンネルの訪問記録を記します。「訪問」と言うよりも、明らかに「探索」でしたが(笑)。

※2万5千分の1地形図「南部」:昭和3年(1928年)測図。

榧ノ木隧道から南部町方向へと国道52号を進み、最寄りとなる駐車帯へとやって来ました。


場所はこちら。駐車場所から目的地と推定される場所まで、徒歩で向かいます。地形図で見ると富士川沿いに破線道があるようなので、それを利用するつもりです。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

国道から進入ポイントへと向かう細い道へと入ってきます。


ところが、進入ポイントに到着して確認したところ、沢へと落ち込む急傾斜の斜面があるだけで、どう見ても破線道が見当たりません…。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

仕方がないので、南隣にある小さな沢を下ってみましたが、突き当りが崖…。


次は、破線道が分岐しているはずの沢の対岸へと移動。戦前の地形図だとこちら側に徒歩道があったようなので、道が残っているかわかりませんが、取りあえず進入してみます。


3軒ほどの家屋が残る無人の集落を通り抜けたら、鬱蒼とした竹薮に遮られ、進めなくなってしまいました。この後も、竹薮には散々苦しめられることになります…。


山の中を上り下りしながら、なんとか富士川を目指して進んでいくと、低い尾根の突端に出ました。そして、眼下には興味を引くような平場。


何とか平場へと下りて、周囲の様子を見てみると、どうやら道の分岐点のようです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

沢へと下る道があったので進んでみます。


なんと斜面に立派な石垣があります。「これは橋台だな。ということは『南部新道』へ出てきたんだ!」。


対岸にも石垣があります。こちらの石垣は、おそらく沢水による洗掘を防止するための擁壁でしょう。


先ほど「南部新道」という言葉を出しましたが、ここで少々説明を。「南部新道」という呼び名を知ったきっかけは某著名廃道系サイトです。探索時点では、廃トンネルが残るこの廃道が、かつて「南部新道」と呼ばれる道だったとしか理解していません。

今回ブログを書くにあたって、ネットで「南部新道」の出典をいろいろと検索してみましたが、全然わかりませんでした。結局、この廃道について私がわかった事柄は、某著名廃道系サイトとネット検索でヒットした「身延町誌」に記述されていた内容まででした。

書き表すと、従来の街道である「身延道(駿州街道)」に代わって、明治9年(1876年)から明治11年(1878年)にかけて、身延町大野から南部町中野の間の富士川沿いに「新道」が建設され、「縣道一等 駿州往還」と呼ばれたこと(新道区間も縣道に含まれた。)。その後は大正期の道路法施行により「府縣道 甲府静岡線」となり、昭和7年の榧ノ木隧道竣工を含むルート変更により府縣道ではなくなった。というところまでです。

身延町誌では「新道」または「縣道」と記されており、「南部新道」という言葉は全く出てきません。「南部」は隣町の南部町を指しているので、あえて記していない可能性もあります。南部町は「南部町誌」を発行しているので、閲覧することができれば新しい情報が得られるかもしれません。

それでは話を戻します。

ここで橋跡を見つけたわけですが、一旦逆方向となる身延町大野側へ少し進んで、南部新道を辿ってみることにしました。

路肩に土留め擁壁が残っています。廃道は目立つ遺構が少ないので、このような石造物はやはり目を引きます。


土留め擁壁を確認したところで、あっけなく寄り道は終了。寄り道でこの折り重なった枯れ竹を乗り越えていく気にはなりません。


沢まで戻ってきました。この先も沢がある場所は、このように深く抉れていることが予想されます。この場所は沢へと下りられる道が残っていましたが、この先もあるとは限らず、頭が痛い問題です。


沢底から両側の廃道を見上げます。高低差10m以上はあるでしょう。




急斜面を登って、対岸にある廃道の続きへと出ます。


そして、ほんの少し歩いたら笹薮の海…。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

背丈以上の高さがある笹薮で前方が見通せず、このまま突っ切って進めるのかわからなかったので、木によじ登って前方を偵察。少なくとも崖崩れはしていないようです。


至る所にぬた場がある笹薮を勢いを付けて突っ切り、なんとか笹薮の海は突破しました。


そして、また深い沢に遭遇です…。


足場になりそうな場所を選んで、露出している木の根っこや笹にしがみついて沢底へ。また対岸の廃道へと登り直します。


今度は廃道の路面が大きく崩落しています…。


急斜面で下りることができないので、山側へ高巻きして迂回。しかし、密生した竹薮と折り重なる枯れ竹が行く手を阻みます。体をよじり、跨いでくぐって、わずかなすき間を見つけながらジリジリと進んでいきますが、「なんでこんなことしてるんだろう…。」という気分になってきます…。




10分ほどかかって、ようやく密生地帯を脱出。




久しぶりに廃道が現れました。ここでちょっと一息つきます。


ホッとしたのも束の間、もう嫌になるほど折り重なった枯れ竹の群れが現れました…。「こんなの通り抜けられるわけないだろう!」と心の中で愚痴ります。


「もういいや、さっさと沢へ下りよう。」と沢底へ迂回。沢の中まで枯れ竹が折り重なっています。


対岸の廃道へ登り直し、枯れ竹が無ければ歩いたはずの場所を眺めます。長くて立派な石垣が残っています。沢に沿った道なので、法面を守るために石垣で固めたのでしょう。


「ヘアピンカーブの地点に暗渠が残っているかも。」と思いながら、奥へと進んでいきます。


暗渠が残っていました。一瞬、石アーチかと思いましたが、よく見ると石をコンクリートでアーチ状に固定してあるようです。


そして、沢から上がり、頭を上げたところ、「あっ、あった…。」。

やっと3か所目の目的地である無名の廃トンネルに到着しました。廃道側から来ると廃トンネルは直角方向なので、山の陰に隠れて直前までわかりませんでした。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

まさにこのトンネルです。

※2万5千分の1地形図「南部」:昭和3年(1928年)測図。

さてこのトンネル、扁額が無いため名称は不明。建設された時期も経緯も不明のようで、「身延町誌」にも記録はありません。ただ、戦前の地形図が測図された昭和3年には存在していたことは間違いないでしょう(このコンクリートトンネルではなく、素掘りトンネルだった可能性もありますが。)。


関係性があるのかはもちろん不明ですが、坑門から突出したアーチ部の分厚い巻き立ては下山隧道を彷彿とさせます。


丁寧に造られた感じで、見た目の雰囲気だけで言えば、粗製乱造の昭和戦中期ではなく、昭和初期のコンクリートトンネルと言って全然差し支えないように思います。


トンネル内部へ入っていきます。シミは多いですが、特に剥落している箇所も見当たらず、きれいなものです。


指摘されていることですが、路面には車両の轍が全くありません。


この廃道が昭和7年以降利用されなくなっていったとして90年余が経過しているわけですが、地形図に描かれているということは一般に供用されているわけですし、そうなれば、自動車は通っていないとしても、荷車や馬車は通過していたはずです。長い年月で路面が均されてしまったのでしょうか。

トンネル内は全面コンクリートで覆工されていますが、あちらこちらで砂利が浮き出ています。建設された当時のコンクリートの製造品質によるものでしょう。




反対側の坑口へと出てきました。こちら側は土砂が流入して、半分ほど埋没しています。




反対側の坑門です。こちら側も扁額はありません。




廃トンネルを後にして、廃道を進める所まで進んでみることにします。


また路面が崩落しています。山側へ迂回し、先へと進みます。




廃道の川側に標石が立っています。読み取れたのは、「山梨縣」と「右 二八五」という文言ですが意味不明です。


次に現れたのは、建設省のものと思われる標石。「建 33-4」とあります。富士川の河川区域の境界を表す標石なのでしょうか。全然わかりませんね。




また崩落箇所に遭遇です。山側へと迂回します。本当にこのパターンの繰り返しが続きます。




明治期車道(馬車道)らしい道幅に戻りました。


倒木が絡まっていますが、通過には支障なさそうです。


川側の路肩には石積み擁壁が残っています。ここで落ちたら富士川まで真っ逆さまです。


けっこうな落差のある崩落箇所に突き当たりました。一応、山側に獣道のような踏み跡が残っていましたが、この先を探索しても同じことの繰り返しにしかならなそうなので、ここで引き返すことにしました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

廃トンネルまで戻ってきました。帰りはこのまま廃トンネルのある尾根へと登り、短距離で戻れそうなルートを探します。


尾根へ登ると古道を発見。これは助かります。




見覚えのある場所へと出てきました。国道から曲がって入り込んだ細い舗装道です。廃トンネルからこんなにあっけなく出てこられるとは、ここまでの苦労は一体…。


場所はこちら。このルートがわかっていれば、廃トンネルまでほぼ一直線でした…。まあ、廃トンネルを訪問した誰かが接近ルートを公表しない限り、どのルートが最短かは現地を歩き回ってみないとわかりませんからね。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

最後に追い打ちをかけるような急坂を国道52号まで登り、やっと車へと戻ってきました。出発して約3時間半が経過していました。


ここ最近の探索では最悪の部類に入る悪コンディションにすっかりグロッキーです…。廃トンネルそのものの情報はあっても、アプローチに関する情報が乏しかったので、接近するルートが試行錯誤になり無駄足が多かったのと、とにかく竹薮と枯れ竹と路面崩壊がねぇ…。

まあ、これで目的は果たしたので、新しい情報でも入らない限りは再訪することはないでしょうけどね。
Posted at 2023/01/11 22:02:01 | コメント(1) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2023年01月09日 イイね!

旧国道52号 下山隧道と榧ノ木隧道を訪れました

2023年1月8日日曜日、山梨県南巨摩郡身延町にある廃トンネルなど3か所を巡ってきました。まずは旧国道52号のトンネル「下山隧道」と「榧ノ木隧道」の訪問記録を記します。「下山隧道」は廃トンネルで、著名な廃道系サイトでも紹介されています。「榧ノ木隧道」は、現在は身延町道の現役トンネルになります。

下山隧道の最寄りとなる国道52号の駐車帯へとやって来ました。廃道探索目的で山梨県を訪れるのは今回が初めてです。


場所はこちら。駐車場所から600mほど国道を歩いて、下山隧道への進入ポイントへと向かいます。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

こちらは下山隧道付近の戦前の地形図です。

※2万5千分の1地形図「身延」:昭和3年(1928年)測図。

さて、駐車場所から現地へは歩いて向かう訳ですが、この付近の国道52号は歩道が設置されておらず、わずかな幅の路肩に身を寄せて、車に注意しながら進むことになります。中部横断道が全線開通したおかげか、昔を思うと交通量が減っているのは幸いです。


国道からの富士川の眺め。谷あい全体を大量の土砂で埋め尽くして流れる富士川の影響で、国道は山の中腹を通過しています。路肩から真下の河原を見下ろすと、「ゾクッ」とするほどの高さがあります。


歩くこと10分、下山隧道への進入ポイントに到着です。前方に見えているのは、国道の古屋敷洞門。下山隧道への目印となる物件ですね。


かつての旧道へと入り込みました。ただ、この場所は盛り土がされており、本来の旧道の路面よりも高い位置になっています。


100mほど歩くと、沢を挟んだ眼下に下山隧道が見えました。写真では非常に見えにくいですが、丸印の中央部に写っています。


あらためて下山隧道です。竣工は大正12年(1923年)12月。延長は234m。昭和43年(1968年)に古屋敷洞門を通過する現在のルートへと改修工事が完成したことにより廃止されたそうです。




坑門の意匠には凝った要素は何もありませんが、その中で際立つ特徴は頭上に掲げられている巨大な扁額です。




トンネルの坑口には全面に金網が張られていますが、経年劣化によるものか、何者かの仕業によるものか、相当以前から穴が開いております。失礼して、中へと入らせていただきます。


トンネル内部は全面コンクリート覆工されていますが、路面は未舗装のままです。


一部分だけコンクリート覆工が厚めに巻かれています。ひび割れか水漏れが酷かったのでしょうか。


案の定と言うべきか、トラックの荷台や荷物に繰り返し削られた生々しい傷跡が残っています。あまりに削られて、コンクリート覆工の芯に入れられていた木材(支保工?)が露出しています。


坑口からしばらくの区間は漏水が酷いようで、アーチ部分にシミが多く、路面にも水溜りが続いています。




路面が乾いてくると、この先は特に記述するような目立った痕跡や特徴も無くなり、ただただきれいに覆工され、のっぺりとした白いトンネルが続いています。白くて、面が滑らかなためか、カメラのピントが全然合わず、写真を撮るのになかなか手こずりました。






側溝のふたは今もよく見かけるタイプのもの。昭和40年代前半にはこの形状になっていたのですかね。


アーチ部分に凹みを発見。当然、水抜き穴ではないし、トンネル変状などの検査用の穴にも思えませんし、一体何のための凹みなんですかね。


コンクリートが剥落しています。それでも、ここまで見る限りではきれいに保たれている廃トンネルです。


ここまででもチラホラと廃棄物が転がっていましたが、大物であるタイヤやその残骸と思われる物も転がっています。金網を張った時に片付けしなかったのですね。




反対側の坑口へとやって来ました。




側壁部分のコンクリートが両側とも剥落しています。




こちら側も金網が張られていますが、這い出ることができる程度の穴が開いているので、地面に四つん這いになって外へと出ます。

反対側の坑門です。デザイン的には進入した側の坑門と変わりありません。




唯一違うのは、「下山隧道」の文言の下部に小さく竣工年月が記されていることです。


こちらの坑門の前はスペースがなく、どうやっても坑門全体を1枚の写真に収めることができません。


理由は、坑門の直前を流れている沢が深く抉れているため。5mくらいの崖になっているので、気を付けないと足を踏み外して転落してしまいます。そして、その先には旧道が見えています。




長居したくなるような目ぼしい物もないので、これで引き上げることにします。






いやぁ、天井がゴリゴリ削られていますね。私の地元だと国道153号の伊勢神トンネルが古くて高さ制限3.5mなので、トラックの幌の角が壁面に擦れて、無数の線状の傷が付いていますね。


進入してきた側の坑口へと戻ってきました。


前述したようにトンネルの正面は盛り土になっているので、トンネル前への出入りには盛り土の斜面を行き来しなければなりません。土が脆いので、少々気を遣います。




もう一度坑門を撮ってみましたが、強くなってきた日射しをもろに受けて陰影が濃くなり、思うようにきれいには撮れませんでした…。


坑門横の翼壁を登り、頭頂部の裏側へと回ってみました。裏側の壁面は玉砂利が剥き出しのままの状態。人目の付かない所には化粧を施さなかったようです。昔はセメントも高かったでしょうからね。


トンネルの前を見下ろします。ボックスカルバートの橋が架かっていますが、現役当時のものなのかは不明のようです。確かにトンネルに対して、橋の幅が狭いようには感じます。




これで下山隧道も見納めです。


こんな場所から国道へひょこっと姿を現すと、通りがかった車の人は「あいつ何してるんだ?」と疑問に思うでしょうね(笑)。


下山隧道の位置図です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

続いて2か所目となる榧ノ木隧道へとやって来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

あらためて榧ノ木隧道です。昭和16年(1941年)3月に内務省土木試験所より発行された「本邦道路隧道輯覧」によると、起工は昭和6年(1931年)12月15日、竣工は昭和7年(1932年)6月30日で、延長は206mです。


トンネル開通以前、身延町大野から南部町中野の区間では、富士川沿いを通過していた府縣道甲府静岡線(国道52号の前身道。)。昭和6年(1931年)に自動車道への改修工事が提起された際(身延町誌では「昭和6年に縣道改修問題が起きる。」としか記述していないが、時代的に馬車道から自動車道への改修の問題だと思われる。)、通行上も保守上も問題の多かった富士川沿いから、榧ノ木峠越えへとルート変更が決定され、これに伴い建設されたのが榧ノ木隧道です。

※2万5千分の1地形図「南部」:昭和3年(1928年)測図。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

坑門には、石アーチや頭頂部のティンディル(歯飾り)、石積み調の文様などが装飾されており、このトンネルへ込めた期待度が見て取れます。


一方で、こじんまりとしたサイズの扁額。竣工年月の記載はありません。


トンネル内部はコルゲート材ですべて覆われているため、かつては素掘りだったのか、それともコンクリートなどで覆工されていたのか確認できませんが、「本邦道路隧道輯覧」によれば、場所打ちコンクリートにより全面覆工されていたようです。


反対側の坑門・扁額も同一のデザインです。




車へと戻ってきました。


それでは3か所目の目的地へと移動します。目的地はこの地形図の中にあるのですが、たどり着くまでにものすごく苦労しました…。

※2万5千分の1地形図「南部」:昭和3年(1928年)測図。
Posted at 2023/01/09 21:25:53 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2023年01月09日 イイね!

浜名湖から鳳来寺山へとドライブしました

2023年1月2日月曜日、母・弟・私の3人で浜名湖から鳳来寺山へとドライブしてきました。

自宅を出発して、幸田町を通過し岡崎市内へと出てから国道1号を豊橋市内まで走行。そこからは普段は全然通らない県道4号へ入り、多米トンネルを通り抜けて浜名湖湖岸を通る国道301号へ。走りっぱなしだったので、以前に訪れた気賀関所でトイレ休憩しました。

道中はほぼ私が運転していたことと、浜名湖湖岸を走行している時には停車しなかったので(停まれるような広い路肩がない。)、その辺りの写真は無し。

気賀関所からは国道257号へと出て新城市方面へ。鳳来寺へ行ってみるかという話になり、鳳来寺山パークウェイで山の上まで登ってきました。思っていたよりも参拝客が多くて、駐車場入り口でちょっと渋滞してました。


せっかくなので、鳳来寺東照宮で初詣。


古そうな狛犬。よく見かける形式的な狛犬と違って、古い狛犬は独特なデザインのものが多くて、なかなか興味深くて好きですね。


鳳来寺本堂。


本堂の裏手にあるお堂まで登ってみます。






かつての宿坊と思われる建物。参拝客や宿泊客で賑わっていた時代の名残りです。こちら側から眺めると立派な建物ですけど、傷みが激しくて、遠からずあばら家になってしまうでしょう。


鳳来寺山パークウェイを下りて、鳳来寺の表参道入口である門谷地区で見つけた小さな古い橋。この橋もかつての参詣路です。




この後は新城市街から作手地区と経由し帰宅しました。
Posted at 2023/01/09 13:10:04 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記

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「【豊根村】霧石峠への富山漆島側峠道を下見しました http://cvw.jp/b/1796277/47676277/
何シテル?   04/25 00:05
「小林あに」と申します。よろしくお願いします。 休日はドライブしたり、廃道となった旧道や峠の古道を歩いてみたり(煉瓦製のトンネルや暗渠も好物ですが、最近は...
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