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小林あにのブログ一覧

2023年10月29日 イイね!

万古集落跡と「我科村四辻」の間の秋葉道(中道)を探索する

2023年9月16日土曜日、飯田市南信濃南和田の万古集落跡と泰阜村我科の「我科村四辻」の間の秋葉道(中道)を探索してきました。

さて、今回もやって来たのは泰阜村我科の万古隧道前。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

今回は崩れて通りにくくなっている場所の整地をしようと、草取り用の柄の長い小さな鍬を持参。鍬で土砂を削って、長靴で地均し。多少は歩きやすくなりました(笑)。




万古集落跡の北側にある吊り橋。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

集落跡の中を通過し、集落跡内の峠「庚申ぼつ」に到着。前回、この地を訪れた時に、万古集落跡と名田熊集落をつなぐ峠道を少し探索しましたが、前回の引き返し地点よりも奥へと進めないかとやって来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

山の中の一軒家を通り過ぎ、小さな切り通しの所まで来ました。この先から、峠道の状況は悪くなっていきます。


前回引き返した場所を通過。斜面に付いている踏み跡を通るのは不安だったので、上方へと高巻きしていきます。


踏み跡が二方向へと分岐している場所に来ました。取りあえず、同じ高さで続く踏み跡へと進みます。ただ、真っ直ぐ踏み跡へと踏み込むのは嫌な感じだったので、ちょっと上側へと回り道します。


そして、踏み跡の分岐点からすぐ先の地点で峠道がまた崩れていました。日が当たる場所なため、地面がカチカチで長靴では足場を掘れません。そこに砂が乗っている状態で滑る可能性も大。そして絡みあった倒木。ここは引き返します。


引き返してきて、今度は上へと向かう踏み跡へと進んでみます。


上側の踏み跡も同じような様子の斜面…。この先進んでいくと地形はどんどん険しくなるはずなので、ここで撤退することにしました…。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ここは「庚申ぼつ」寄りの崩落斜面。引き返した地点へと向かっている時、帰りのために鍬と長靴で踏み跡程度の道を造っておきました。引き返し地点の斜面も、ここみたいに削ることができるくらいの柔らかさがあれば、まだ何とかなったんですけどね。


「庚申ぼつ」まで戻りました。ここから万古集落跡へと下っていきます。


集落跡内の平地と平地の間にある崖道を避けるため、万古川の河原を歩いていきます。


そのまま吊り橋まで歩いてきました。


ふと見ると、吊り橋の下側に丸いものがぶら下がっていることに気が付きました。望遠で眺めるとスズメバチの巣でした。橋を渡っている時に攻撃されなくてよかった…。


吊り橋から坂を登り、木橋が架かる場所へと来ました。地形図で見ると、沢沿いに進む方向へと破線道が記されています。以前から秋葉道(中道)かもしれないと思っていたので、行ってみることにします。


ところが、沢沿いに入り込んでみると、道の痕跡らしきものが全然見当たりません。「増水などで土砂に埋もれたのかも。」と思い、さらに踏み込んでみましたが、岩肌剥き出しの沢となり、「これはどう見ても道を通す場所じゃないなぁ。」ということで引き返しました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

木橋まで戻り、さらに坂を登っていきます。


「我科村四辻」へとつながる稜線の一つに来ました。ここから稜線を辿って、「我科村四辻」方面へ向かう道筋がないか探ってみることにします。




道跡があるにはありましたが、頼りなげな雰囲気です。




違う道へと合流しました。


今歩いてきた細道と違って、それなりの幅広さがあるしっかりした道筋です。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

そして、この先に石碑と石仏が立っていました。


馬頭観音碑と馬頭観音像です。どうやらこの道が秋葉道(中道)のようです。「我科村四辻」まで登ったら、後で下側の道跡を辿ってみましょう。


さっそく先へと進んでいくことにします。


盛土道がありました。元々の地形から道を盛り上げた様子がわかりますね。


ピークとは言えない程度の場所を堀割り道で進んでいます。


また盛土道が現れました。ここの盛土道は、路肩の角がしっかりと立っていますね。ここまで形がくっきりしている盛土道は初めて見ます。




路面が崩落しているので、ちょっと脇へと避けて進みます。


「我科村四辻」がある尾根に近づいてきました。


「我科村四辻」に到着です。正直、ここが「泰阜村誌」で言う「我科村四辻」なのかはわからないのですが、我科側へと下って行く道もありますし、勝手に「ここ」ということにさせていただきます(笑)。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

尾根にあった林道を南側へと少し歩いてみましたが、大勢の人の声が聞こえてきたので引き返しました。


さて、馬頭観音がある場所まで戻ってきました。ここからさらに下側へと、秋葉道(中道)を下っていくことにします。


ちょっと怪しい雰囲気になってきましたね。大丈夫かな…。


ここにも盛土道がありました。ひとまずは心配無さそうです。


尾根から逸れて、さらに下っていきます。




地形図を見ると急斜面な感じだったのですが、やはりつづら折りが始まりました。




つづら折りが終わると、斜面をトラバースしていきます。


またつづら折りです。




急坂を一直線に下っていきます。


尾根道に出ました。昔の道は、地形をうまく使って造られていますよね。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

尾根伝いの直線路が続きます。


ここで左側へと大きくカーブしていきます。


ここからは途中に崩落箇所を挟みつつも、とことんつづら折りが繰り返されます。そんな状況でも、できる限り道幅は確保しつつ、勾配も抑えようとしていた意図を感じられます。














どうやら万古川まで下りてきたようです。


万古川の河原へと出てきました。対岸正面が万古集落跡になります。これでは、万古集落跡側から眺めても、この場所に秋葉道(中道)があったとはわかりませんね。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

万古川の河原に出てきてから35分後。ようやく車へと戻ってきました。


今回は、写真に撮っていない場面も含めると、4~5か所は埋まった道を掘り返していたので、いつもと違い上半身もだるいです…。万古集落跡へは何度も通うことになり、気になってしまってやりましたが、単発で訪れるような場所ではやりません(笑)。

今回歩いたルートの全体図です。


こちらは、今回歩いた秋葉道(中道)のルート図です。


谷京峠・万古集落跡を通る秋葉道(中道)の絡みで、繰り返しこの場所を訪問・探索してきましたが、これで万古集落跡と「我科村四辻」の間の秋葉道(中道)のルートも判明したので、今回で一旦終了とします。

まだ、谷京峠へつながる他の道や、泰阜村内の秋葉道(中道)、以前に歩いた泰阜村の和田新道の未踏査区間など、この周辺でもネタとなる道はありますが、連続で何度も来てちょっと「飽きてきた」(笑)ので、一旦ここから離れることにします。
2023年09月09日 イイね!

万古隧道から万古集落跡の周辺を探索しました(2)

2023年8月5日土曜日、長野県飯田市南信濃南和田の万古集落跡の周辺を探索してきました。今回の主な目的は、万古集落跡から泰阜村方面への秋葉道(中道)のルート確認になります。

前回(1)では万古隧道を出発し、万古集落跡の内、北側の集落の跡で廃屋を見て回りました。


次に集落跡を南北に隔てている小さな峠へと登っていきます。


この峠道の途中にも、すでに電線が撤去された電柱が残っています。


稜線が見えてきました。


峠に着きました。この峠を地元の人々は「庚申ぼつ」と呼んでいたそうです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

峠の西側にある石碑群。供養塔と思われます。


峠の東側にも石碑や石仏があります。


名号碑(南無阿弥陀仏碑)。側面には「享和四子年」と彫られています。享和4年は西暦1804年になります。


秋葉山大権現・金毘羅大権現碑。秋葉山大権現は火除け・火伏の神です。金毘羅大権現は海上交通の守り神とされていますが、「海」に関わる神であることから「水」にも関わる、よって「火除け・火伏」の神でもあるという論法のようです。石碑の右側には「文政十三寅十月吉日」とあります。文政13年は1830年になります。


こちらは石仏群。


中央の石仏は青面金剛像でしょう。青面金剛は庚申信仰の本尊であり、この峠を「庚申ぼつ」と呼ぶ由来になったものと思われます。光背には「享保十二年」と彫られています。これは今から296年前の西暦1727年となり、年号が読み取れた中では最も古いものです。


青面金剛像の台座。だいぶ摩滅していますが、「見ざる聞かざる言わざる」の三猿が彫られています。


こちらはおなじみの馬頭観音像でしょう。


さて、ここ「庚申ぼつ」には、秋葉道(中道)から東側へと分岐していく道がありました。けっこうしっかりとした道筋です。予定外となりますが、この道筋を少し辿ってみることにします。


しばらく歩いていくと使われていない電柱がありました。これもかつて万古集落跡へと電線をつないでいた電柱でしょう。


つづら折りが現れました。


さらに進んでいくと道筋が崩れて、踏み跡程度になってしまいました。


今回の目的ではない道筋なので、ここで引き返しても良かったのですが、道筋にずっと並行している電線の行き先が気になり(電柱は無く、生えている木に電線を設置してある。)、もう少し進んでみることにします。


路肩に石垣があります。この先にあるかもしれない一軒家か作業小屋へ向かうだけの道なのかと思っていましたが、どうやらきちんとした道筋のようです。


そして、一軒家が現れました。「こんな所にあったのか!」とびっくりしました。


ネットで万古集落について検索すると、この家の家人である年配女性に聞き取りをした方が、2018年12月にツイッターへその内容を投稿した記事がヒットします。

私がびっくりした理由は、この家は万古川沿いの万古集落跡のどこかに建っているのだと勝手に思っていたので(実は投稿記事には地図も掲載されていましたが、全然気にしていなかった。)、よもや集落からこんなに離れた山奥の斜面にある一軒屋だとは思いも寄らなかったからです。

場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

そのやり取りについてここでは記しませんが、さらに遡ること2015年12月には、その女性は秘境駅「為栗駅」を定期的に利用する方としてテレビの取材も受けています。取材当時で76歳とあり、ご健在なら83歳でしょうか。


この家は、この土地が気に入った夫婦が自分たちで建てたものだそうです。テレビ取材や聞き取りされた当時は、天龍村平岡にある現在の住居から為栗駅まで電車で来て、駅からは険しい山道を歩いて通っていたそうです。

私は、聞き取りされた方のように、玄関で「こんにちは!」と声を掛ける勇気があるタイプの人間ではないので、家の周囲を外から見回しただけですが、雰囲気からして、もう現在は通われていないように見えます。


さて、この家の先にも道筋が続いているのか確認してみたところ、やはり道筋は続いていました。




倒木が多いですね。


石垣がありました。ほんの一区画だけの石垣なので、社やお堂が建っていたのか、家屋があったのかもしれません。


小さな切り通しを通過していきます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ちょっと厳しめの崩落地を越えていきます。下の方に石垣が見えていますので、本来はもう少し下の位置に路面があったのかもしれません。踏み跡は赤線のように付いていましたが、そのとおりに歩くのは怖かったので、黄線のように高巻きして通過しました。


きちんと道跡が残っている場所では、馬を連れて歩ける程度の道幅があります。


小さい沢ですが、V字に切れ込まれていて、対岸へと渡るのに手こずりました。


また崩落地が現れました。進めないことはありませんでしたが、今回目的とする道筋ではなかったので、ここで切り上げることにしました。


場所はこちら。


「庚申ぼつ」から近い場所で電気メーターを発見。メーターを読むためだけに一軒家まで入り込むのは大変ですからね。


「庚申ぼつ」まで戻ってきました。


峠の南側の集落跡へと坂を下っていきます。




坂の途中の左側に、秋葉道(中道)へとつながるように大きな切り通しがありました。こんなものを見つけてしまっては、そのまま見過ごすことはできません(笑)。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

入り込んですぐの場所で、戸倉沢(真下を流れる沢)にぶつかって道筋は途絶えてしまいました。


ひとまず沢まで下りて、対岸へと渡ります。


道のようなものが続いているので、跡を追っていきます。


程なく、沢沿いの道筋は植林地の中でわからなくなってしまいました。続きがないかと周りを探してみたところ、折り返して斜面を登っていく道筋を発見。


この道幅の割に、とんでもない急坂で登っていきます。


右側に崩落地が見えてきました。


覗き込んでみると、道筋の部分まで抉れているような感じだったので、真っ直ぐ行かずに左側へと迂回します。


半月状の石垣に囲われた場所が現れました。一体何なのでしょうか。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

左側を見ると、高い石垣が奥へと続いています。


確認は後にして、さらに道筋を辿っていきます。こちら側も奥へと石垣が続いています。


大きな崩落地に遭遇して、先へと進めなくなってしまいました。


ここで地形図を確認してみると、崩落地の先は7月29日に探索した万古集落跡から谷京峠への峠道につながっているようでした。ということは、大きな切り通しからの道筋が、秋葉道(中道)だったようです。集落跡内で峠道の入口を探しても見当たらなかった理由がわかりました。

場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

秋葉道(中道)の道筋がわかったところで、先ほどの高い石垣の行方を確認するために引き返してきました。


写真ではわかりづらいですが、高い段差で区切られた棚田状の耕作地の跡だったようです。段差部に石垣が積まれていました。


潰れてしまった廃屋がありました。作業小屋だったのかもしれません。


この突出した地形の上にも棚田状に耕作地跡が残っています。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

秋葉道(中道)が通る側の反対側へと来ました。耕作地の長辺は100mくらいはあるでしょうか。このような耕作地跡が棚田状に斜面の頂上まで続いているのです。どれだけの年月と労力をかけて整地したのか、想像もつきません。


切り通しまで戻ってきました。


「庚申ぼつ」からの下り坂の続きを歩いていきます。


こちらの道筋は、万古川の河原へと飲み込まれてしまいました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

このまま南側の集落跡までは進もうと思いましたが、河原の先の方から子供のはしゃぎ声が聞こえてきたので、ここで引き返すことにしました。ヘルメットをかぶった汗まみれの怪しい人間がいきなり現れて、楽しい雰囲気に水を差すこともありませんからね。

聞こえてくる声からして家族連れのようでしたが、子供連れでどうやってこの場所まで入り込んだのだろうか…。まあ、為栗駅方面から万古川の河原を歩いてきたんでしょうけど、わざわざこんな奥までねぇ…。

帰り道も「庚申ぼつ」を越え、廃屋の横を通っていきました。なお、吊り橋は渡らずに真下の河原を渡りましたが(笑)。






万古隧道前の駐車場所へと戻ってきました。


今回探索したルート図になります。


今回で万古集落跡から谷京峠への峠道の集落跡側出入口が判明しました。あとは、「我科村四辻」までの秋葉道(中道)のルートも探索するつもりでしたが、最近の例に漏れず(笑)、疲れてしまってそちらは断念しました。

あとは、「庚申ぼつ」から分岐していた道筋ですが、これは戸倉沢沿いの斜面の中腹を辿り、戸倉山からの尾根を越えて、遠山谷側の名田熊集落とをつなぐ峠道だとわかりました。

※5万分の1地形図「満島」:明治41年(1908年)測図、昭和8年(1933年)要部修正測図。

「我科村四辻」への峠道と名田熊集落への峠道については、またあらためて探索してみたいと思います。万古隧道前を出発点にするとしても、それぞれが真反対の方向へ向かう道筋なので、別々の日に探索することになるでしょう(体力的に(笑)。)。
2023年09月06日 イイね!

万古隧道から万古集落跡の周辺を探索しました(1)

2023年8月5日土曜日、長野県飯田市南信濃南和田の万古集落跡の周辺を探索してきました。今回の主な目的は、万古集落跡から泰阜村方面への秋葉道(中道)のルート確認になります。

下伊那郡泰阜村我科にある万古隧道の東側坑口前へと来ました。このトンネルの東側坑口付近から、万古集落跡へと続く徒歩道が分岐しているはずです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

まずは、泰阜村栃城の「和田新道」探索の時にも立ち寄った万古隧道を見に行きます。


坑口付近にトンネルの銘板が立てかけてありました。平成9年度(1997年度)から翌年度にかけて、トンネル内の一部をライナープレートにより覆工工事したそうで、その時に取り外されたのでしょう。


銘板によるとトンネルの竣工は昭和28年(1953年)11月。想像していたよりも古いですね。トンネル延長は621m。施工主体は泰阜村森林組合で請負者は株式会社熊谷組とあります。現在は村道10号線となっていますが、元々は林道のトンネルとして開削されたわけです。

支度を終えて、万古集落跡への徒歩道を探そうかと斜面へ目をやると、車を停めた場所の真横に入口がありました。しかし、谷側が崩れていて、ちょっと厄介そうです。


慎重に入口部を進むと、すぐに小さな沢に遭遇。対岸へと渡っていきます。




細くなった道筋が奥へと続いています。


この場所は本来の路面部分が崩落してしまい、無理矢理に山側へ道を付け替えてあります。一応、鉄パイプで組まれたガードレールも設置してあります。こんな細い徒歩道ですが、万古集落跡への出入口となる道なので、集落に住民が住んでいた頃はこのように復旧作業もしっかりされていたのでしょう。


路肩がコンクリートで補強されています。この道は、戦前の旧版地形図には載っていないので、万古隧道が開通した時に新たに造られた道なのかもしれません。


細い道筋が続いていますが、路面はしっかりとしており、特段心配することなく歩いていけます。


稜線の突端を回っていきます。


続いて、小さな沢で折り返していきます。


木々の間に電柱が立っています。万古集落跡への送電線のものでしょう。


道の両側に杭が打ち込まれています。国土調査により設置されたものと思われます。杭の位置が、この道の本来の路肩のはずです。


万古川の河原が見えてきました。


場所はこちら。


先程よりも幅広になってきた道筋を進んでいきます。


鋭い折り返しが現れました。


場所はこちら。


折り返した先の路面はご覧のとおり谷側に傾斜しており、足場を確かめながら、一歩づつ慎重に進んでいきます。


短い尾根道に出ました。


短い尾根道部分が終わると、連続の折り返しで高度を下げていきます。




耕作地跡と思われる平場へと出てきました。


場所はこちら。

地理院地図(電子国土Web)に加筆。

山側には石垣が何段か組まれていますが、それぞれの平場の幅は狭く、土留め用のものではないかと思われます。


徒歩道の続きへと戻ります。


程なくすると木橋が現れました。万古集落跡へは、木橋を渡って左折し、沢沿いを下っていきます。ちなみに、右折側も地形図では破線道があるように表記されていますが、実際にはすぐ行き止まりで、道は存在しませんでした。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

さて、この木橋、材木をワイヤーで束ねてあるだけのもの。見た目は大丈夫そうですが、「もしかして腐っていないか?」との疑念が拭えません。とは言え、沢へ迂回するにも段差がそこそこあるので、正直渡るしか選択肢はありません。「しょうがない。」と小走りで駆け抜けて対岸へと渡りました。


万古川へと向かい、折り返しを何度も繰り返して下っていきます。




万古川に架かる橋が見えました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

事前に地形図を見ていた時に、「徒歩道だから、多分そうだろうなぁ。」と思っていましたが、やっぱり吊り橋でした。


見たところ、ワイヤーや床板が損傷している様子は無さそうです。橋全体がやや右側へと傾いていますが、まあ許容範囲のレベル。床板の真ん中部分には進行方向に桁が通っているので、「そこなら踏み抜くこともないだろう。」ということで、真ん中を歩いて渡りました。


特に変な挙動が出ることもなく、無事に対岸へと渡りました。渡った先にあった吊り橋のアンカー。


吊り橋の先へと進んでいくと緩傾斜地へと出てきました。


見上げてみると廃屋が一軒あります。


戸は無くなっていますが、家屋そのものはまだしっかりとしていそうです。


場所はこちら。


エンジン付きの運搬車。万古集落跡へは徒歩道を通るしか交通手段がありませんが、どうやってこの場所に持ってきたのでしょうか。万古隧道まで車で運んできて、そこから徒歩道を走らせてきたんですかね。私が歩いてきた徒歩道も、昔はもう少し道幅があったのかもしれません。


家屋は何も残っていないのに、和式便器だけ残っています。


住居跡か耕作地かわかりませんが、立派な石垣です。


ふたたび歩き始めると、また木橋に遭遇しました。ちなみに、この沢は泰阜村と飯田市の境界となっています。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

「こんな橋、絶対に渡れないだろう!」。沢も深いし、さてどうしたものか…。


斜面に踏み跡が付いていたので、長靴で土を削り込んで足場を拡げ、何とか沢底へと下りました。


簡単な構造ですね。沢に架けた材木を横木とワイヤーで束ねてあるのは先ほどの小さな木橋と一緒。さらに橋脚代わりに交差して組んだ木材と橋をワイヤーで縛ってあります。素人考えでは、組んだ木材に横木を渡して、その上に橋を乗せた方が良いような気がしますが、その部分の横木は朽ちてしまったのか、元から今残る状態の造りだったのか。謎ですね。




沢から登って道筋を進むとまた便所が…。どうして道のそばに建ててあるのでしょうかね。


川沿いを通る崖道になりました。これは嫌な感じです…。


やっぱり道が崩落しています。矢印の先端まで進んでみましたが、その先へ進むのはどうしても無理。また引き返してきました…。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

矢印の先端の場所から引き返してくる途中で撮った写真。こんな場所はあんまり通りたくはないのです。


万古川の河原へと下りてきました。河原を歩いて迂回です。


先程引き返した場所を見上げています。


白い土砂で埋め尽くされた万古川を進んでいきます。


現在の地形図で建物が描かれている平場へとやって来ました。


今度は引き返した場所を反対側から眺めています。


場所はこちら。


平場へと下りていきます。


水槽の跡でしょうか。


ここにも廃屋があります。やはり戸が無くなってしまい、吹き抜け状態になっています。早晩、屋根の重みで潰れてしまうかもしれません。


他にも廃屋があります。


民俗資料でよく見かける脱穀機かと思いましたが、違うような気もします。


作業小屋か倉庫の跡でしょうか。


先程見上げていた廃屋を、上から見下ろしています。


この廃屋は、覗いてみると風呂場と便所でした。ということは、私が立っている側にかつては家屋が建っていたのかもしれません。


廃屋を見て回るのはこれくらいにして、万古集落跡を二つに分ける小さな峠へと登っていきます。


※(2)へ続く。
2023年08月27日 イイね!

【飯田市南信濃】万古集落跡から谷京峠への峠道を探索する(2)

2023年7月29日土曜日、飯田市南信濃南和田の万古集落跡から谷京峠への峠道を探索しました。先週の7月22日土曜日は、飯田市南信濃南和田の飯島から谷京峠までの峠道を探索しましたが、今回はその続きの探索となります。

前回は、JR飯田線為栗駅から万古集落跡まで進み、集落跡の廃屋や建物を見て回りました。


ところで、戦前の旧版地形図を見てみると、谷京峠への峠道は集落の中から分岐しています。集落跡を見て回っている間、谷京峠への峠道の入口を探していましたが、結局、それらしい場所を見つけることはできませんでした。

※5万分の1地形図「満島」:明治41年(1908年)測図、昭和8年(1933年)要部修正測図。

ひとまず、集落跡の中央付近にあった段々地から登っていって様子を見ることにします。


段々地の最上段へ出ても道筋らしきものが見い出せません。峠道へと取り付けないか、そのまま斜面を登っていってみます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

稜線へと出ました。さらに上へと登っていきます。


峠道と思しき道筋が見つかりました。入口を確認するために道筋を下り始めましたが、すぐに崩落地と遭遇し、進めなくなってしまいました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

今回は入口を確認することはあきらめて、谷京峠方面へと向かうことにします。


歩き始めて間もなく、難所が現れました。硬く引き締まった急斜面に付いた細い踏み跡を慎重に歩いていきます。


ホッとしたのも束の間、また同じような難所が現れました。難易度はさらに高く、この場で引き返そうかと思ったくらいでした。


何とか無事に渡ることができました。こんな斜面で足を踏み外したら、谷底まで吸い込まれるように滑り落ちていってしまいます。


ようやくまともな道幅になってきました。しかし、序盤からこうも難所が現れると、この先も大丈夫かと不安になってしまいます。


折り返しが現れました。ここから一気に尾根を目指して高度を上げていくのでしょうか。


植林地へ入るとつづら折りとなり、何度も折り返しながら斜面を登っていきます。植林地の中の地面も硬く引き締まっていて、時折現れる谷側に傾いた細い踏み跡では、足が滑りそうになります。






跨ぐのもくぐるのも難しい半端な高さで倒木が倒れています。高巻きが大変そうだったので、谷側の低い位置で倒木を跨ぎましたが、これはこれで倒木ごと滑り落ちやしないかと気を揉みます。


ようやく尾根が見えてきました。そして、こんな高い場所に石垣があります。


2~3段の石垣が見えています。耕作地があったのか、茶屋の跡なのか。全然わかりません。


短い尾根を渡っていきます。


ピークを避けるように右側の斜面へと入って、通過していきます。






また尾根を渡っていきます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

何度も現れる尾根道をどんどん進んでいきます。尾根に出るまでの細く危険だった道筋と違い、尾根の上の道は道幅もしっかり残っていて、安心して歩くことができます。






尾根筋は、右側が緩い斜面(それでも急ですが。)、左側は崖のような急斜面となっています。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

またピークを避けて、右側の斜面へと入り込んでいきます。


右側の谷筋が終わり、山の頂上に向けて扇状の緩斜面(と言ってもやはり急。)へと変化していくと、道筋はその斜面の中を行ったり来たりしながら、つづら折りで登っていきます。








最後の折り返しです。


結局、尾根に出てからは厳しい難所が現れることはなく、無事に為栗駅から登ってくる峠道と合流出来ました。

合流した場所は見覚えのある場所でしたが、あったはずの馬頭観音が見当たりません。と思ったらうつ伏せに倒れていました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ちなみに、旧版地形図と実際に登ってきたルート(赤線。ルートはおおよそ。)と見比べると、実際に登ってきたルートは直線的に合流してきていることがわかります。

※5万分の1地形図「満島」:明治41年(1908年)測図、昭和8年(1933年)要部修正測図。

うつ伏せになった馬頭観音をそのままにしておくわけにもいかないので、地面を均して転ばないようにしてから置き直しました。


馬頭観音の光背には、文化四卯年(1807年)と為栗村の文字が彫られています。


この場所に馬頭観音が置かれたのは、危険な峠道の道中の安全祈願のためでしょうが、あとはこの場所が分岐点だということも理由にあると思います。


なんだかんだで、馬頭観音の前で45分程休憩していました。この先、谷京峠まで進むか悩みましたが、先週に遠山谷側から峠まで登っているので、今回はこのまま為栗駅へと下っていくことにしました。


万古集落跡からの峠道と同様に、尾根道で下っていきます。




尾根が落ち込んでいく場所に立っている飯伊森林組合のテント。マツタケ等の盗掘防止のための監視用だと思われますが、ご覧の通りボロボロで、現在は使用しているようには見えません。


水田跡へと出てきました。為栗駅まではまだまだ下りていきます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この尾根道から外れて、斜面をつづら折りで下りだすと為栗駅も近いです。


為栗駅の上方にある深いすすきの薮。前回このルートで来た時が11月だったので、こんなに濃い茂みになる場所だとは予想外でした。


すすきの薮をかき分けて、為栗駅へと出てきました。ここまで来ればもう安心です。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

そして、天竜橋を渡り、車へと戻ってきました。




今回探索したルート図です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

前回にも書きましたが、今回、為栗駅から万古集落跡まで行くだけで、あれだけ手こずってしまうとは予想外の出来事でした。あとは、万古集落跡から峠道への入口が見つからなかったことと、序盤の難所群の通過が大変でした。

とにかく、これで谷京峠へと至る峠道を三方向(為栗駅、飯島、万古集落跡。)から確認することができました。いずれの方向からも峠越えする人には優しくない道でしたが、地形的にこのようなルートしか取れなかったのだと言えるのかもしれません。

次回は、泰阜村我科の万古隧道から万古集落跡へ徒歩道で向かい、万古集落跡周辺の「秋葉道(中道)」をもう少し探索してみます。
2023年08月26日 イイね!

【飯田市南信濃】万古集落跡から谷京峠への峠道を探索する(1)

2023年7月29日土曜日、飯田市南信濃南和田の万古集落跡から谷京峠への峠道を探索しました。先週の7月22日土曜日は、飯田市南信濃南和田の飯島から谷京峠までの峠道を探索しましたが、今回はその続きの探索となります。

※5万分の1地形図「満島」:明治41年(1908年)測図、昭和8年(1933年)要部修正測図。

「泰阜村誌」によると、谷京峠を経由するこの峠道は「秋葉道(中道)」と呼ばれ、泰阜村と遠山谷(現在の飯田市南信濃。)との間に昔から存在する交流の道でした。また、名前の通り、伊那谷から秋葉神社(静岡県浜松市天竜区にある、火除け・火伏の神として崇敬を集めた神社。)へと参詣する人々が通行した信仰の道の一つでした。

この峠道は昭和初期までは日常的に利用され続け、今回の探索で登場する万古集落跡(かつては万古村。)には、宿屋や運送に関わる問屋が存在したそうです。

やって来たのは、下伊那郡天龍村の天竜橋のたもと。ここから天竜橋を渡り、為栗駅の前を通過して、万古川沿いに峠道の出発地となる万古集落跡を目指します。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

身支度を整えて、天竜川に架かる吊り橋「天竜橋」を渡っていきます。ちなみにこの橋は、長野県道430号為栗和合線に指定されています。




JR飯田線為栗駅。為栗は「してぐり」と読み、難読駅名の一つですね。


さて、為栗駅から先は、しばらく草むらをかき分けながら進んでいきます。途中、足元に大きな蛇が現れ、びっくりして「うわぁ!」と悲鳴が出てしまいました(笑)。






トンネルの横を通り過ぎると、斜面を進む細道となります。


トンネルの反対側の坑口へ来ました。ここから少しだけ線路沿いを歩き、万古川橋梁の下をくぐっていきます。




万古川橋梁の古写真を見ると、この場所は現在の光景からは全く想像できないような深い渓谷となっていました。


この道は送電線の巡視路になっているようで、ご覧のとおり橋も架けられています。いまいち不安な雰囲気を醸し出していますが。


橋を渡ると最初の難所になります。両足を揃えた程度の道幅しかありませんが、落ち着いて進んでいけばまだ何とかなります。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

難所を越えた後は、折り返しを進んでいきます。




折り返しを登っていくと、巡視路が右側へと急な上り階段で分岐していきます。万古集落跡は直進です。


山側に古いロープが吊るされています。ああ…、嫌な予感がしますね…。


ロープは無くなりましたが、「いや、ここも必要だろう!」と心の中では思っています。


そして、再びロープは復活しましたが、何の装備も無くて、高い場所が苦手な人間にこれは無理でしょう…。しばらく立ち止まって、行くべきかどうか考え込んでいましたが、やっぱりあきらめました。


赤線のとおりに歩けばいいんですけどね…。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

これは万古川の河原を歩いていくしかないと思い、万古川橋梁の近くまで戻ってきました。


河原を歩いていると斜面の低い位置に踏み跡があったので、跡を辿っていってみます。




辿っていた踏み跡が途切れてしまい、ふたたび河原へと出てきました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ここからは浅瀬を選びながら万古川の河原を歩いていくことにします。




正面に万古集落跡である広い河原が見えてきましたが、ここで流れの深みに阻まれて先へ進めなくなってしまいました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

もう一度為栗駅からの道筋へと戻るため、踏み跡のある場所を辿って斜面を登っていきます。




巡視路に使われる階段が現れました。これで少し安心できます。


登っていくと電柱がありました。万古集落跡へ向かう送電線のものでしょうか。


戻ってみたはいいものの、先行きを不安にさせるような路面状況です…。


こちらは難所を越えてから振り返っての写真です。こんな場所はあまり歩きたくはないのですが、もう行くしかありません。


路面の状態が復調してきました。このまま万古集落跡まで行けるのか…。


と思ったら、道筋が完全に消滅しました…。先端まで行って、そこから斜面を滑り下っていってもいいかとも思いましたが、それをきっかけに土砂が崩落するとも限らず、またも逆戻りです…。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

谷側の斜面を注視しながら戻っていくと、巡視路用の階段が設置されている場所がありました。手がかりになる木々もそこそこ生えているので、ここから下りていくことにします。


無事に河原まで下りることができました。ここからまた道筋の続きを歩いていきます。


杉の植林地が土砂で埋まっています。


土砂が流れてきた元の方向へと向かうと滝がありました。名称は不明です。豪雨の時には大量の土砂が滝口から降り注いでいたと思うと恐ろしいですね。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

滝を通り過ぎた辺りからが集落だったようです。あちらこちらに石垣があります。写真のさらに右側は墓地だったようで、土砂に押し倒された墓石が散らばっていました。


コンクリート造りの枡。どういう用途の枡だったのでしょうか。


土に埋もれてわからなくなっていますが、段々地になっています。居住地だったのか、耕作地だったのか。


手水鉢?


瓦が固めて置かれています。


この平坦地にある廃屋は、この一軒だけでした。




廃屋の先の斜面にも墓地が見えています。


戦前の旧版地形図を見ると何軒かの住居があったようですが、現在は天竜川の平岡ダムによって堰き止められた土砂が堆積して、埋もれてしまっています。

※5万分の1地形図「満島」:明治41年(1908年)測図、昭和8年(1933年)要部修正測図。



神社と思われる建物。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

峠道のスタート地点となる万古集落跡へ来るだけでこんなに苦労するとは、全然想定していませんでした。やはり崖地を通過している道は侮れない…。

次回は、ようやく峠道の探索へと入ります。

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「【豊根村】霧石峠への富山漆島側峠道を下見しました http://cvw.jp/b/1796277/47676277/
何シテル?   04/25 00:05
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