2020年12月27日日曜日、新城市作手守義から北設楽郡設楽町三都橋に残る設楽森林鉄道鰻沢線(森林鉄道段戸山線田峯鰻沢線)の跡を歩いてきました。
今回は未踏査の区間ではなく、「設楽森林鉄道鰻沢線跡をちょっと歩く(4)」で歩いた区間を再訪問です。ここ3週間ほど山の中を歩いていなかったので、ひとまずお気楽に散策したかったのと、同区間の写真の撮り直しが目的です。あとは、新規にレールが発見できればと(笑)。
やって来たのは、国道420号と愛知県道35号鳴沢橋の交差点付近。国道標識が立つ場所から斜面を登っていきます。
森林鉄道跡へ来ました。杉林の中を一直線に跡が残っています。ここから設楽町三都橋方面へと向かい歩いていきます。
国道420号と県道35号の交差点を見下ろします。県道35号はこの先の崖崩れにより長らく通行止めが続いていて、新城市作手と設楽町を最短で往来するルートが使えず、わたくし的にはドライブに支障が出ております。
国道420号の真上に出てきました。以前はコンクリート補強された法面が丸出しの状態でしたが、今年になって落石防護網が設置されました。おかげで、森林鉄道跡は網を支えるワイヤーが縦横無尽に絡んでおります。
沢というほどでもない凹地を通過します。
「谷積み」した石垣の上にもう一列石を並べた石積み擁壁。「谷積み」だけのパターンはいくらでも見かけますが、わざわざもう一列積むパターンはあまり見かけませんね。
宮内省帝室林野管理局の境界標石。この地域の山地は、戦前は宮内省帝室林野管理局が管理する御料林でした。この境界標石はその当時の痕跡の一つで、「宮」の字を図案化したマークが刻まれています。
苔むした石積み擁壁が続いています。
前方の沢に小さな橋が見えてきました。
枕木とレールを乗せるコンクリート製の桁だけを架けたいたって簡素なもの。ここ以外にもう1か所同様の橋が残っています。
3年5か月ぶりに渡ります。分厚い桁なので、私が乗ったところでビクともしません。ただ、平均台歩きが怖くて嫌なだけです(笑)。
対岸へと渡り、幅広で穏やかな区間を歩いていきます。
レールが現れました。前回訪問時に確認済みのレールです。路盤が洗われて、宙に剥き出しになっています。
ご覧のとおり、供用当時の軌道幅を保ったまま残っています。
こちらは反対側。右側のレールは木に取り込まれてしまっています。
この先では木が根元からひっくり返っていますが、なんとか隙間を通り抜けます。
岩壁を削り込んだ区間を通過します。
ふたたび沢に出ました。ここには橋台と2つの橋脚が残されています。
対岸は岩盤の上に石積み擁壁を組んで路盤を築いてあります。
沢の中から橋脚を見上げます。鋭い沢でしたが、たまたまあった残置ロープを手すり代わりにして沢底まで降り、対岸へと横断しました。
渡った対岸側から橋梁跡を眺めています。橋台と橋脚の高さが相当ずれています。橋脚からさらに木組みをして橋桁を支える構造だったそうです。
渡った先も岩壁を削った険しい地形を通り抜けていきます。
またレールがありました。これは前回訪問時にはわからなかった物ですね。確認のため、靴で周囲を掘り返しました。
写真左側に対になるレールがあったはずですが、そちらは見つけられませんでした。
珍しく山側に石積み擁壁があります。ここは山へと登っていく古道が交差しています。
ふたたび沢へ向かい、路盤跡が山へと入り込んでいきます。
橋梁跡です。対岸にカーブを描く橋台が見えています。
前回訪問時はさらにこの先へと進んでいきましたが、ここは先ほどの沢よりもさらに鋭く抉れたV字型の沢。沢の周囲は手掛かりの無い滑らかな岩盤が露出しているので、沢に降りることすらできません。
進むためには大きく迂回する必要があるため、今回はここで引き返すことにしました。「一度歩いたルートだし、もういいや。」というのが本音です(笑)。
先ほどの石積み擁壁の所まで戻ってきました。まだ時間もあるので、ここから交差する古道を山側へと登っていってみます。
想像以上にしっかりとした道跡が残っています。この先に集落があるわけでもなし、なぜでしょうかね。
尾根の上に出てきました。奥に向かってまだまだ道跡が続いています。
細尾根の道になりました。
本来の尾根よりもかさ上げされて道が造られているのがわかります。わざわざこんな道を造る必要があるものがこの奥にあるんですかね?
依然、道跡ははっきりと残っています。
荒れた凹地へと出ました。ここで本来の道跡は消えていましたが、細い踏み跡がさらに先へと続いているので、それを頼りに進みます。
ふたたび道跡が現れました。
この先に炭焼き窯の跡がありました。
そして、炭焼き窯跡があるこの平場で道跡は完全に途絶えてしまったようです。
どうやら、私が登ってきたこの道跡は、この炭焼き窯で焼いた炭を麓へと搬出するための道だったようです。
周囲を見渡していたら、沢沿いに踏み跡があったので、もう少し登ってみることにします。
尾根を登り詰めていったら、巨岩に行く先を塞がれてしまいました。やはり峠道という訳ではなかったようです。
先ほどの平場まで戻ってきました。
この平場の下方は崖になっていて、沢の流れが滝となって落ちていきます。
森林鉄道跡まで戻ってきました。道跡はさらに下へと続いているので、このまま国道420号まで降りていくことにします。
山へと登る側の道とは打って変わって、人一人がようやく歩けるほどの細道です。
もしかしたら、搬出した炭は今の国道まで降ろさずに、森林鉄道に便乗して搬送していたのかもしれません。想像ですけどね。
国道420号へ出ました。落石防護柵で塞がれていたらどうしようかと思っていましたが、ちゃんと切れ込みが造られていて助かりました。やはり昔は人の出入りがあったのでしょう。
やや場所は飛んで、鳴沢橋まで戻ってきました。現橋の真横に残る旧鳴沢橋の橋台です。この橋は1932年(昭和7年)に竣工したようです。
傍らに欄干の柱だけが残っています。
鳴沢橋で対岸に渡り、川沿いにあった細い道へと入り込みます。先ほど居た旧橋の橋台を反対側から見ようと思ったからです。
何と、その細い道に石仏があります。
見てみると馬頭観音です(仏頭に馬の頭が乗っています。)。これがお地蔵様ならさして気にしませんでしたが、馬頭観音となれば話は別です。この道が昔の街道であった可能性があります。
光背に年号が刻まれているようでしたが(誰かがなぞった跡があった。)、はっきりと読み取れませんでした(大正?)。
歩き進めていくとすぐに川べりで道が途絶えました。
これは石積みの橋台ですね。ということは、鳴沢橋の旧旧橋がここにあったということになります。これは想定外でした。
1908年(明治41年)測図・1932年(昭和7年)発行の地形図を見ると、現在の鳴沢橋の場所には橋も道路も記載されておらず、掲載されている前身の橋と道は「鳴沢の滝」を避けるためか、もっと下流にありました(その道は「新城市作手守義字小滝から設楽町三都橋までの古道を探索」ですでに探索済み。こちらでは橋跡を見つけられませんでした。)。
記載が漏れたのは、地図の内容更新がめったにされなかったためでしょうが、類推すれば旧旧橋の架橋は1908年以降ということになるでしょう。図書館へ行って「作手村誌」でも読み返してみないといけません。
こちらは旧鳴沢橋の橋台。昭和戦前物なのでオーソドックスなコンクリート橋台です。
車へと戻ってきました。今回、個人的には一番最後に予想外のものを見られたのが良かったですかね。そして、またモヤモヤが増えましたが…(笑)。