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小林あにのブログ一覧

2023年09月29日 イイね!

宇連ダムまでドライブに出かけてきました

2023年8月20日日曜日、豊川水系宇連川のダム、宇連ダムまでドライブに出かけてきました。この前日に宇連集落跡から海老峠までの峠道を探索したところですが、その道中、ダム湖内がそこそこ干上がっていたのを見かけ、変わった景色を見せられると思い、母と弟を誘って出かけてきた次第です。

まずやって来たのは宇連ダムの堰堤。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

宇連ダムの銘板。宇連ダムではなく、「宇連堰堤」とあります。昭和33年(1958年)12月1日竣工とあるので、間もなく築65年になります。


こちらの銘板は、豊川用水通水50周年記念に取り付けられたもののようです。「豊川用水の水を飲む時は、水源地の事に思いを巡らそう。」というような意味ですかね。


ダム湖である鳳来湖の様子。この日の貯水率をチェックはしていませんが、湖面はけっこう低くなっているように感じます。


ダム堰堤上の建屋に取り付けられている銘板。


ダム管理事務所の対岸側からの眺めです。


さて、ダム湖の最奥付近となる新城市と設楽町の境界まで移動してきました。この辺りからダム湖内へと下りていくことができます。母と弟は初めてですが、私自身は2019年6月30日に訪れています。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この屏風状の巨岩は、この辺り一帯に広がる凝灰岩を突き破って噴き出してきた溶岩が冷え固まってできた安山岩だそうです。宇連ダムのダム湖内には、このような安山岩の岩脈が12本あるそうで、これは第10岩脈になります。




こちらは、第10岩脈のすぐ上流側にある「穴滝」。ご覧のとおり、岩盤に屈曲して穿たれた深い溝へと落ちる滝で、全体像を見るのが容易ではありません。宇連ダムができるまでは、名瀑として知られていたそうですが、現在はダム湖の渇水時でないと見ることができません。




第10岩脈の下流側左岸には、現在の愛知県道424号の旧道に当たる道跡がダム堰堤方面へと残っています。この道跡を歩いていきます。




夏の厳しい陽射しのおかげで、歩いている最中は汗が噴き出して止まりませんでした(笑)。


遺構の一つである暗渠が見えてきました。


私が前回見に来てから3年経っていますが、暗渠の中に土砂の詰まりは無く、きれいに抜けたままになっています。




母は暑さにギブアップして、先に引き返してしまいました。弟と二人、もう少し先へと進んでいきます。


二つ目の暗渠が見えました。


一つ目のものよりも小振りなサイズですが、かろうじて姿を残しています。


この先は道跡が欠落していて先に進めないので、私たちも引き返すことにしました。


満水時には水に浸かってしまう場所なので、こんな時にしか歩いたり眺めたりすることはできませんが、ダムに沈む前の昔の風景をちょっと窺うことができる興味深い場所です。


Posted at 2023/09/29 23:56:07 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2023年09月21日 イイね!

宇連集落跡から海老峠への峠道を探索する(2)

2023年8月19日土曜日、北設楽郡設楽町川合の宇連集落跡から海老峠への峠道を探索しました。

前回(1)では、沢の源頭部を巻いていく箇所まで進んできました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

源頭部を通過すると、今度は折り返しが連続する区間を通り抜けていきます。




折り返しを登り切ると短い稜線の上を進んでいきます。




大きく抉れた枯れ沢が現れました。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

枯れ沢の向こう側に道筋は見えていますが、けっこう深く抉れているため、一旦倒木に沿って下流側へと下り、足場がある所から対岸へと渡り、道筋へと登り直していきます。


枝が張ったままの倒木が行く手を塞ぎますが、無理せず隙間が広い所を迂回していきます。


またつづら折りを登っていきます。






間伐材がたくさん転がっていて、通り抜けるのに手間取ります。


ようやく海老峠がある尾根が見えてきました。


鞍部に向かって登っていきます。


海老峠に到着です。岩古谷山方面を向いています。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

東海自然歩道を宇連山方面へほんの少し歩くと休憩所があります。


ここに倒れてしまった道標があります。宇連集落と川売集落への案内表示もありますが、両方とも後付けされたような「通行不可」のプレートが貼り付けてあります。


せっかく海老峠まで登ってきたので、川売集落側への峠道を行ける所まで進んでみることにします。




細いながらも直線的に続く峠道を下っていったところ、岩盤が剥き出しになっている小さな沢にぶつかりました。道筋との段差は1m弱くらいですが、沢底へ飛び降りて着地できそうな平らな場所がありません。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

下側へ迂回するか、上側へ迂回するか、しばらくその場で考え込んでいましたが、道筋よりも上側の沢底の方が足場になりそうな岩場の段差があったので、剥き出しの根っ子も手掛かりに使って、沢を渡っていきます。


ようやく難所を越えると、峠道はつづら折りで一気に下り始めます。




急傾斜の植林地に細い道筋が続いています。


落ち葉の下に大量の石が転がる斜面へと出てきました。案の定、埋もれてしまったのか道筋があやふやになってきました。


完全に道筋を見失ってしまいました。これよりも手前で折り返していたのか、今も正しいルートは歩いていて、道が埋もれたり崩れてしまっただけなのか…。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ひとまず、「道のように見える所」を進んでいくことにします。




岩場にある段差を伝って進んでいきます。真っ当に言えば、もはや道とは言い難い状況ではあります。


鞍部を越えていきます。


ここまで来ると、引き返すための決定的な口実を得るために進んでいるようなものです。


尾根が一気に下り始め、もう明らかに一般に使われる「峠道」が通る場所ではなくなりました。大げさですが、引き返す余力も考えておかないといけないので、ここで諦めました。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

実は、道を完全に見失った場所の先にあった岩壁に穴が見えていました。天然物でしょうが、もしかしたら石仏などが祀ってある可能性もあり、海老峠へと戻る際に近づいてみようと試みましたが、どう見ても足場が悪い崖を通るしかなく、こちらも諦めました…。


海老峠まで引き返し、あとは宇連集落跡まで下っていきます。今回はけっこう足にきてしまっていたので、要所要所で気を引き締めながら歩いていきます。






宇連集落跡の手前まで戻ってきたところで、「もう大丈夫だろう。」と沢に下りてひと休憩。沢の流れで顔を洗ったりしました。




気持ちに余裕が戻ってきたので、行きに見かけた滝を間近で見るために川まで下りてみました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

上流側にさらに落差のある滝が見えていたので、河原を歩いていってみます。


こちらは一枚前の写真の左側に写っていた滝です。


50mから100mくらい歩くともう一つ滝が現れました。落差は10mから15mくらいでしょうか。


滝のしぶきと滝の上から吹き降ろしてくる風のおかげで、とても涼しくて良い気分でした。


林道宇連線の入口の駐車場所まで戻ってきました。ここで着替えていたら、腰にヤマビルが一匹吸い付いていました。まだ大して血は吸われていませんでしたが、ヤレヤレです…。


あらためて今回の探索ルートの全体図です。新城市の川売集落側からと違い、宇連集落跡からは海老峠まで峠道を辿ることができました。



ここからは余談になりますが、宇連集落側から見ると、日常的につながりが深かったのは、海老峠を越えた先にある新城市海老ではなく、設楽町神田や新城市川合だったようです。

「設楽町誌 村落誌編」には、「宇連集落は他地域との交通が極めて不便であった。神田へ約6km、川合へ約8kmの山道を徒歩で、運搬は人の背に頼っていた。宇連に入る荷を『上げ荷』、宇連から出る荷を『下げ荷』といい、川合には『荷しょいさ』と呼ばれる女性が大勢いて荷の運搬に従事していた。『上げ荷』は味噌・しょう油・米・その他日用品や雑貨がほとんどであり、『下げ荷』は炭がほとんどであった。なかには木挽き板を海老(約8km)まで運ぶこともあった。木材運送のトラックが砂利道で川合へ通行するようになったのは戦後である。」とあります。

※5万分の1地形図「本郷」:明治41年(1908年測図)・昭和5年(1930年)鉄道補入・昭和7年(1932年)発行

海老峠が利用されていたことがわかる一文もありますが、内容のほとんどは新城市川合との往来の記述になっています。

一方、集落の児童は、昭和22年(1947年)に集落内に神田小学校宇連分校が開校されるまでは、設楽町神田の神田小学校まで、およそ2時間かけて登校していたそうです。山道での遠距離通学だったために、集落児童の出席率は30%以下の状況で、これが分校設立への原動力になったようです。

※5万分の1地形図「本郷」:明治41年(1908年測図)・昭和5年(1930年)鉄道補入・昭和7年(1932年)発行

それ以外にも、「新聞も配達されず、郵便も三日に一度の集配、情報を得る手段はトランジスタラジオが唯一であった。電灯はなく、石油ランプの生活が地区が消滅するまで続いた。」との記述もあり、現代的な生活に浴することなく集落が消滅してしまったことが窺えます。

林道宇連線が開通した翌年の昭和42年(1967年)、宇連分校は廃校となりました。通学していたのは3名で、兄弟だったそうです。そして、廃校時点での集落の戸数は、わずか4戸となっていました。そして現在、宇連集落があった設楽町大字川合の人口は0人です。
Posted at 2023/09/21 23:47:11 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2023年09月18日 イイね!

宇連集落跡から海老峠への峠道を探索する(1)

2023年8月19日土曜日、北設楽郡設楽町川合の宇連集落跡から海老峠への峠道を探索しました。

海老峠は、宇連集落跡と新城市海老を結んでいた山道の途中にあった峠です。現在は、岩古谷山と宇連山の間を通る東海自然歩道の通過ポイントの一つでしかありません。

海老峠については、7月16日日曜日に峠の西側にある新城市の川売集落から峠道の探索を試みましたが、最終的には道筋がはっきりしなくなり、岩壁へと出たところで探索を断念して引き返すこととなりました。今回は、「西側がダメなら東側から。」と宇連集落跡から峠道の探索をしてみようと思い立ったわけです。

愛知県道424号 丸天橋へとやって来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

本当は、ここから宇連集落跡へと向かう林道へと入り、集落跡付近へ車を停めて峠へと向かうつもりでしたが、ご覧のとおり通行止めとなっていたため、この場所に駐車して向かうことにしました。このすぐ先で土砂が林道に流れ込んでいるのが見えています。


歩き始めると道路を跨ぐ倒木に遭遇。奥に人家が無いためか、もう積極的には道路整備されていないみたいです。


眼下の渓流。水が透き通っていてきれいですね。


小さな滝が見えています。滑り台のような変わった雰囲気の滝です。


小さな橋がありました。銘板は見当たらず、名称はわかりません。


対岸に石垣が見えています。上が平場なので、耕作地の跡かもしれません。


また小さな橋がありました。相当以前から車が通行していないのか、路面が一面苔だらけです。


右側の路肩に転がっていたダッシュボード。以前はここに廃車があったようですが、どうしてこのパーツだけ転がっているんですかね。


目線を先にやると大きな木の下に石碑があるのが見えます。


木の真下にある小さな石碑はよくわかりませんでしたが、こちらは竣功記念碑ですね。碑文を見て、この道が「林道宇連線」という名称であることがわかりました。


裏面は日付と関係者氏名が彫られています。「昭和41年(1966年)7月」が竣工時期を指しているのであれば、それまでは宇連集落跡まで自動車は入ることができなかった可能性が大です。




記念碑の先にはヘアピンカーブがあります。この写真の左側から分岐していく道がありますが、その道の先に旧神田小学校宇連分校があったそうです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ふたたび苔むした道を歩いていきます。滑って転ばないように気を遣います。


中身がもぬけの殻となった祠と石仏群。ここから先が宇連集落跡となります。


家屋があります。人が住んでいるような気配は感じられませんが、家の周囲はきれいになっており、時々は所有者が訪れているのかもしれません。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

路面の舗装がここで途切れました。林道宇連線はこの場所が終点のようです。林道左側は山の斜面に、右側は沢沿いの緩斜面に、それぞれ石垣がある段々地が残っています。


少し歩くと道の右側に苔で覆われた小山があり、その頂上に石碑が立っています。


彫られている文字を読み取ると「御頭天皇」とあります。初めて見る文言です。後日、「設楽町誌 村落誌編」で調べてみたら、「牛頭天王の意である。」とありました。要するに当て字なわけです。牛頭天王は除疫神として崇拝されているようなので、疫病退散の意を込めて祀られたものでしょうか。


側面には「明治十三年辰六月」とあります。明治13年は西暦1880年なので、143年前のものとなります。


石碑を通り過ぎると橋が架かっていて鳥居があります。鳥居をくぐると宇連集落の氏神である諏訪神社があります。






「振草村誌」によると、宇連の諏訪神社は、「建御名方命を祭神とする。天平時代(729年から749年まで)の勧請と伝えるが真偽不明である。」とあります。また、神殿には元禄9年(1696年)の棟札があり、境内に立つ灯篭には「元禄六年癸酉天九月吉祥日 三州渥美之郡吉田宿加藤兵衛納」と文字が彫られているそうです。

天平時代はともかくとして、少なくとも320年から330年ほど前には、すでに宇連の地に定住していた人たちが居たことがわかります。

ちなみに、灯篭を奉納した加藤兵衛さんは、当時川合(新城市川合)・宇連・海老(新城市海老)を結ぶ山道で商売をしていた魚屋だそうです。こんな山奥なので、しっかり塩漬けして作られた干物などを売り歩いていたんですかね。今回の目的地である海老峠も、何度も越えたことでしょう。

場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

石製の嗽盥(うがいだらい)。


「設楽町誌 村落誌編」によると、寄進したのは佐藤彦蔵さん。国内有数の長寿者として知られた人だそうで、文化7年(1810年)に宇連地区の向貝津に生まれ、大正6年(1917年)に老衰により享年108歳で死去したそうです。長寿を祝っての恩賜金を三回賜ったことがあり、この嗽盥は104歳の時に恩賜金の一部を割いて寄進したそうです。

あらためて境内の写真です。本殿の右側に加藤兵衛さん奉納の灯篭が立っています。


結局、集落跡には入口の家屋と神社以外、林道から見える範囲で目に付くような廃屋などは残っていませんでした。

さて、探索を再開します。神社を後にして道筋を進んでいくと沢を渡ります。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

沢を渡った後に道筋が消えてしまうことがよくありますが、今回は杉木立が並木のように道筋を示していて、迷うことなく進んでいけます。






集落跡があった緩斜面が終わり、沢沿いを離れて山肌へと取り付きます。この先は何度も何度も折り返しが現れます。








小さな平坦地が現れました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

平坦地の奥には炭焼き窯の跡がありました。


ここからは道幅がさらに狭くなり、小刻みなつづら折りを繰り返しながら登っていきます。








稜線の上へと出てきました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

一息つけたのも束の間、またつづら折りが始まります。






この辺りからは斜面に石が散らばり、道筋もはっきりしなくなってきます。何度も周囲を見渡したり、振り返ったりして確認しつつ、急坂を登っていきます。




石が散らばる区間を通り抜け、炭焼き窯の跡の横を進んでいきます。




沢の源頭部を巻いていきます。


沢を見下ろすと、まさに岩盤製のウォータースライダー。どこまで滑り落ちていくんですかね。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

※その(2)へ続く。
Posted at 2023/09/18 21:29:40 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2023年09月09日 イイね!

万古隧道から万古集落跡の周辺を探索しました(2)

2023年8月5日土曜日、長野県飯田市南信濃南和田の万古集落跡の周辺を探索してきました。今回の主な目的は、万古集落跡から泰阜村方面への秋葉道(中道)のルート確認になります。

前回(1)では万古隧道を出発し、万古集落跡の内、北側の集落の跡で廃屋を見て回りました。


次に集落跡を南北に隔てている小さな峠へと登っていきます。


この峠道の途中にも、すでに電線が撤去された電柱が残っています。


稜線が見えてきました。


峠に着きました。この峠を地元の人々は「庚申ぼつ」と呼んでいたそうです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

峠の西側にある石碑群。供養塔と思われます。


峠の東側にも石碑や石仏があります。


名号碑(南無阿弥陀仏碑)。側面には「享和四子年」と彫られています。享和4年は西暦1804年になります。


秋葉山大権現・金毘羅大権現碑。秋葉山大権現は火除け・火伏の神です。金毘羅大権現は海上交通の守り神とされていますが、「海」に関わる神であることから「水」にも関わる、よって「火除け・火伏」の神でもあるという論法のようです。石碑の右側には「文政十三寅十月吉日」とあります。文政13年は1830年になります。


こちらは石仏群。


中央の石仏は青面金剛像でしょう。青面金剛は庚申信仰の本尊であり、この峠を「庚申ぼつ」と呼ぶ由来になったものと思われます。光背には「享保十二年」と彫られています。これは今から296年前の西暦1727年となり、年号が読み取れた中では最も古いものです。


青面金剛像の台座。だいぶ摩滅していますが、「見ざる聞かざる言わざる」の三猿が彫られています。


こちらはおなじみの馬頭観音像でしょう。


さて、ここ「庚申ぼつ」には、秋葉道(中道)から東側へと分岐していく道がありました。けっこうしっかりとした道筋です。予定外となりますが、この道筋を少し辿ってみることにします。


しばらく歩いていくと使われていない電柱がありました。これもかつて万古集落跡へと電線をつないでいた電柱でしょう。


つづら折りが現れました。


さらに進んでいくと道筋が崩れて、踏み跡程度になってしまいました。


今回の目的ではない道筋なので、ここで引き返しても良かったのですが、道筋にずっと並行している電線の行き先が気になり(電柱は無く、生えている木に電線を設置してある。)、もう少し進んでみることにします。


路肩に石垣があります。この先にあるかもしれない一軒家か作業小屋へ向かうだけの道なのかと思っていましたが、どうやらきちんとした道筋のようです。


そして、一軒家が現れました。「こんな所にあったのか!」とびっくりしました。


ネットで万古集落について検索すると、この家の家人である年配女性に聞き取りをした方が、2018年12月にツイッターへその内容を投稿した記事がヒットします。

私がびっくりした理由は、この家は万古川沿いの万古集落跡のどこかに建っているのだと勝手に思っていたので(実は投稿記事には地図も掲載されていましたが、全然気にしていなかった。)、よもや集落からこんなに離れた山奥の斜面にある一軒屋だとは思いも寄らなかったからです。

場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

そのやり取りについてここでは記しませんが、さらに遡ること2015年12月には、その女性は秘境駅「為栗駅」を定期的に利用する方としてテレビの取材も受けています。取材当時で76歳とあり、ご健在なら83歳でしょうか。


この家は、この土地が気に入った夫婦が自分たちで建てたものだそうです。テレビ取材や聞き取りされた当時は、天龍村平岡にある現在の住居から為栗駅まで電車で来て、駅からは険しい山道を歩いて通っていたそうです。

私は、聞き取りされた方のように、玄関で「こんにちは!」と声を掛ける勇気があるタイプの人間ではないので、家の周囲を外から見回しただけですが、雰囲気からして、もう現在は通われていないように見えます。


さて、この家の先にも道筋が続いているのか確認してみたところ、やはり道筋は続いていました。




倒木が多いですね。


石垣がありました。ほんの一区画だけの石垣なので、社やお堂が建っていたのか、家屋があったのかもしれません。


小さな切り通しを通過していきます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ちょっと厳しめの崩落地を越えていきます。下の方に石垣が見えていますので、本来はもう少し下の位置に路面があったのかもしれません。踏み跡は赤線のように付いていましたが、そのとおりに歩くのは怖かったので、黄線のように高巻きして通過しました。


きちんと道跡が残っている場所では、馬を連れて歩ける程度の道幅があります。


小さい沢ですが、V字に切れ込まれていて、対岸へと渡るのに手こずりました。


また崩落地が現れました。進めないことはありませんでしたが、今回目的とする道筋ではなかったので、ここで切り上げることにしました。


場所はこちら。


「庚申ぼつ」から近い場所で電気メーターを発見。メーターを読むためだけに一軒家まで入り込むのは大変ですからね。


「庚申ぼつ」まで戻ってきました。


峠の南側の集落跡へと坂を下っていきます。




坂の途中の左側に、秋葉道(中道)へとつながるように大きな切り通しがありました。こんなものを見つけてしまっては、そのまま見過ごすことはできません(笑)。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

入り込んですぐの場所で、戸倉沢(真下を流れる沢)にぶつかって道筋は途絶えてしまいました。


ひとまず沢まで下りて、対岸へと渡ります。


道のようなものが続いているので、跡を追っていきます。


程なく、沢沿いの道筋は植林地の中でわからなくなってしまいました。続きがないかと周りを探してみたところ、折り返して斜面を登っていく道筋を発見。


この道幅の割に、とんでもない急坂で登っていきます。


右側に崩落地が見えてきました。


覗き込んでみると、道筋の部分まで抉れているような感じだったので、真っ直ぐ行かずに左側へと迂回します。


半月状の石垣に囲われた場所が現れました。一体何なのでしょうか。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

左側を見ると、高い石垣が奥へと続いています。


確認は後にして、さらに道筋を辿っていきます。こちら側も奥へと石垣が続いています。


大きな崩落地に遭遇して、先へと進めなくなってしまいました。


ここで地形図を確認してみると、崩落地の先は7月29日に探索した万古集落跡から谷京峠への峠道につながっているようでした。ということは、大きな切り通しからの道筋が、秋葉道(中道)だったようです。集落跡内で峠道の入口を探しても見当たらなかった理由がわかりました。

場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

秋葉道(中道)の道筋がわかったところで、先ほどの高い石垣の行方を確認するために引き返してきました。


写真ではわかりづらいですが、高い段差で区切られた棚田状の耕作地の跡だったようです。段差部に石垣が積まれていました。


潰れてしまった廃屋がありました。作業小屋だったのかもしれません。


この突出した地形の上にも棚田状に耕作地跡が残っています。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

秋葉道(中道)が通る側の反対側へと来ました。耕作地の長辺は100mくらいはあるでしょうか。このような耕作地跡が棚田状に斜面の頂上まで続いているのです。どれだけの年月と労力をかけて整地したのか、想像もつきません。


切り通しまで戻ってきました。


「庚申ぼつ」からの下り坂の続きを歩いていきます。


こちらの道筋は、万古川の河原へと飲み込まれてしまいました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

このまま南側の集落跡までは進もうと思いましたが、河原の先の方から子供のはしゃぎ声が聞こえてきたので、ここで引き返すことにしました。ヘルメットをかぶった汗まみれの怪しい人間がいきなり現れて、楽しい雰囲気に水を差すこともありませんからね。

聞こえてくる声からして家族連れのようでしたが、子供連れでどうやってこの場所まで入り込んだのだろうか…。まあ、為栗駅方面から万古川の河原を歩いてきたんでしょうけど、わざわざこんな奥までねぇ…。

帰り道も「庚申ぼつ」を越え、廃屋の横を通っていきました。なお、吊り橋は渡らずに真下の河原を渡りましたが(笑)。






万古隧道前の駐車場所へと戻ってきました。


今回探索したルート図になります。


今回で万古集落跡から谷京峠への峠道の集落跡側出入口が判明しました。あとは、「我科村四辻」までの秋葉道(中道)のルートも探索するつもりでしたが、最近の例に漏れず(笑)、疲れてしまってそちらは断念しました。

あとは、「庚申ぼつ」から分岐していた道筋ですが、これは戸倉沢沿いの斜面の中腹を辿り、戸倉山からの尾根を越えて、遠山谷側の名田熊集落とをつなぐ峠道だとわかりました。

※5万分の1地形図「満島」:明治41年(1908年)測図、昭和8年(1933年)要部修正測図。

「我科村四辻」への峠道と名田熊集落への峠道については、またあらためて探索してみたいと思います。万古隧道前を出発点にするとしても、それぞれが真反対の方向へ向かう道筋なので、別々の日に探索することになるでしょう(体力的に(笑)。)。
2023年09月06日 イイね!

万古隧道から万古集落跡の周辺を探索しました(1)

2023年8月5日土曜日、長野県飯田市南信濃南和田の万古集落跡の周辺を探索してきました。今回の主な目的は、万古集落跡から泰阜村方面への秋葉道(中道)のルート確認になります。

下伊那郡泰阜村我科にある万古隧道の東側坑口前へと来ました。このトンネルの東側坑口付近から、万古集落跡へと続く徒歩道が分岐しているはずです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

まずは、泰阜村栃城の「和田新道」探索の時にも立ち寄った万古隧道を見に行きます。


坑口付近にトンネルの銘板が立てかけてありました。平成9年度(1997年度)から翌年度にかけて、トンネル内の一部をライナープレートにより覆工工事したそうで、その時に取り外されたのでしょう。


銘板によるとトンネルの竣工は昭和28年(1953年)11月。想像していたよりも古いですね。トンネル延長は621m。施工主体は泰阜村森林組合で請負者は株式会社熊谷組とあります。現在は村道10号線となっていますが、元々は林道のトンネルとして開削されたわけです。

支度を終えて、万古集落跡への徒歩道を探そうかと斜面へ目をやると、車を停めた場所の真横に入口がありました。しかし、谷側が崩れていて、ちょっと厄介そうです。


慎重に入口部を進むと、すぐに小さな沢に遭遇。対岸へと渡っていきます。




細くなった道筋が奥へと続いています。


この場所は本来の路面部分が崩落してしまい、無理矢理に山側へ道を付け替えてあります。一応、鉄パイプで組まれたガードレールも設置してあります。こんな細い徒歩道ですが、万古集落跡への出入口となる道なので、集落に住民が住んでいた頃はこのように復旧作業もしっかりされていたのでしょう。


路肩がコンクリートで補強されています。この道は、戦前の旧版地形図には載っていないので、万古隧道が開通した時に新たに造られた道なのかもしれません。


細い道筋が続いていますが、路面はしっかりとしており、特段心配することなく歩いていけます。


稜線の突端を回っていきます。


続いて、小さな沢で折り返していきます。


木々の間に電柱が立っています。万古集落跡への送電線のものでしょう。


道の両側に杭が打ち込まれています。国土調査により設置されたものと思われます。杭の位置が、この道の本来の路肩のはずです。


万古川の河原が見えてきました。


場所はこちら。


先程よりも幅広になってきた道筋を進んでいきます。


鋭い折り返しが現れました。


場所はこちら。


折り返した先の路面はご覧のとおり谷側に傾斜しており、足場を確かめながら、一歩づつ慎重に進んでいきます。


短い尾根道に出ました。


短い尾根道部分が終わると、連続の折り返しで高度を下げていきます。




耕作地跡と思われる平場へと出てきました。


場所はこちら。

地理院地図(電子国土Web)に加筆。

山側には石垣が何段か組まれていますが、それぞれの平場の幅は狭く、土留め用のものではないかと思われます。


徒歩道の続きへと戻ります。


程なくすると木橋が現れました。万古集落跡へは、木橋を渡って左折し、沢沿いを下っていきます。ちなみに、右折側も地形図では破線道があるように表記されていますが、実際にはすぐ行き止まりで、道は存在しませんでした。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

さて、この木橋、材木をワイヤーで束ねてあるだけのもの。見た目は大丈夫そうですが、「もしかして腐っていないか?」との疑念が拭えません。とは言え、沢へ迂回するにも段差がそこそこあるので、正直渡るしか選択肢はありません。「しょうがない。」と小走りで駆け抜けて対岸へと渡りました。


万古川へと向かい、折り返しを何度も繰り返して下っていきます。




万古川に架かる橋が見えました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

事前に地形図を見ていた時に、「徒歩道だから、多分そうだろうなぁ。」と思っていましたが、やっぱり吊り橋でした。


見たところ、ワイヤーや床板が損傷している様子は無さそうです。橋全体がやや右側へと傾いていますが、まあ許容範囲のレベル。床板の真ん中部分には進行方向に桁が通っているので、「そこなら踏み抜くこともないだろう。」ということで、真ん中を歩いて渡りました。


特に変な挙動が出ることもなく、無事に対岸へと渡りました。渡った先にあった吊り橋のアンカー。


吊り橋の先へと進んでいくと緩傾斜地へと出てきました。


見上げてみると廃屋が一軒あります。


戸は無くなっていますが、家屋そのものはまだしっかりとしていそうです。


場所はこちら。


エンジン付きの運搬車。万古集落跡へは徒歩道を通るしか交通手段がありませんが、どうやってこの場所に持ってきたのでしょうか。万古隧道まで車で運んできて、そこから徒歩道を走らせてきたんですかね。私が歩いてきた徒歩道も、昔はもう少し道幅があったのかもしれません。


家屋は何も残っていないのに、和式便器だけ残っています。


住居跡か耕作地かわかりませんが、立派な石垣です。


ふたたび歩き始めると、また木橋に遭遇しました。ちなみに、この沢は泰阜村と飯田市の境界となっています。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

「こんな橋、絶対に渡れないだろう!」。沢も深いし、さてどうしたものか…。


斜面に踏み跡が付いていたので、長靴で土を削り込んで足場を拡げ、何とか沢底へと下りました。


簡単な構造ですね。沢に架けた材木を横木とワイヤーで束ねてあるのは先ほどの小さな木橋と一緒。さらに橋脚代わりに交差して組んだ木材と橋をワイヤーで縛ってあります。素人考えでは、組んだ木材に横木を渡して、その上に橋を乗せた方が良いような気がしますが、その部分の横木は朽ちてしまったのか、元から今残る状態の造りだったのか。謎ですね。




沢から登って道筋を進むとまた便所が…。どうして道のそばに建ててあるのでしょうかね。


川沿いを通る崖道になりました。これは嫌な感じです…。


やっぱり道が崩落しています。矢印の先端まで進んでみましたが、その先へ進むのはどうしても無理。また引き返してきました…。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

矢印の先端の場所から引き返してくる途中で撮った写真。こんな場所はあんまり通りたくはないのです。


万古川の河原へと下りてきました。河原を歩いて迂回です。


先程引き返した場所を見上げています。


白い土砂で埋め尽くされた万古川を進んでいきます。


現在の地形図で建物が描かれている平場へとやって来ました。


今度は引き返した場所を反対側から眺めています。


場所はこちら。


平場へと下りていきます。


水槽の跡でしょうか。


ここにも廃屋があります。やはり戸が無くなってしまい、吹き抜け状態になっています。早晩、屋根の重みで潰れてしまうかもしれません。


他にも廃屋があります。


民俗資料でよく見かける脱穀機かと思いましたが、違うような気もします。


作業小屋か倉庫の跡でしょうか。


先程見上げていた廃屋を、上から見下ろしています。


この廃屋は、覗いてみると風呂場と便所でした。ということは、私が立っている側にかつては家屋が建っていたのかもしれません。


廃屋を見て回るのはこれくらいにして、万古集落跡を二つに分ける小さな峠へと登っていきます。


※(2)へ続く。

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「【豊根村】霧石峠への富山漆島側峠道を下見しました http://cvw.jp/b/1796277/47676277/
何シテル?   04/25 00:05
「小林あに」と申します。よろしくお願いします。 休日はドライブしたり、廃道となった旧道や峠の古道を歩いてみたり(煉瓦製のトンネルや暗渠も好物ですが、最近は...
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