2021年10月23日土曜日、三重県尾鷲市と熊野市の境にある矢ノ川峠(標高:807m)を越えるルートのうち、通称「矢ノ川峠明治道」と呼ばれる廃道を歩いてきました。
今回歩いた推定ルート図はこちら。赤線が明治道になります。ちなみに黒線が昭和道になります。
※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
赤線の下端にある青線は明治道から分岐して安全索道 小坪駅跡へと至る道跡、緑線は昭和道訪問時に探索を断念した明治道です。
「矢ノ川峠明治道」は、江戸時代に矢ノ川峠を越える道であったデンガラ越え(伝唐越え)が急峻であったことからから新たに開削されたルートで、矢ノ川峠昭和道が1936年(昭和11年)に開通したことで、一応の役目を終えました。
詳細な記録資料がないためなのか(よくあることですが。)、インターネットで検索しても記事ごとに来歴が微妙に違っています。
以下、書き出してみると、
・1880年(明治13年)に新道ルート(明治道)が完成。熊野古道八鬼山越えルートに指定されていた三重縣道「熊野街道」が新道ルートに指定替えされる。
・1886年(明治19年)に着工し、1888年(明治21年)完成。
この時期に新道ルートが完成したとある記事もあれば、徒歩道レベルであった縣道をこの時期に荷車道へと改修したとする記事もあります(尾鷲市史には、この時期に徒歩道から荷車道へと改修されたと記されています。)。
・自動車の通行ができるように道路が改修され、1920年(大正9年)頃には尾鷲~木本間に乗合自動車が運行されるようになった。
・道路幅を平均3.8mに拡幅して、1921年(大正10年)頃から尾鷲~木本間に自動車定期便が運行開始された。
・自動車の通行ができるように道路が改修され、1922年(大正11年)に尾鷲~木本間に郵便車・乗合自動車・ハイヤーが運行されるようになった。
・尾鷲市側の大橋~小坪間は、改修後も急坂とつづら折りが連続する状況で通行上の支障も大きかったため、乗合自動車の運行会社であった紀伊自動車が代替手段として大橋~小坪間にロープウェイを計画し、1927年(昭和2年)から安全索道商会が建設を始めて同年内に完成。旅客も利用できるロープウェイとしては日本初(注:観光用の短距離のものは、これ以前にも設置例あり。)。尾鷲~木本間は、乗合自動車~ロープウェイ~乗合自動車という交通手段での接続になる。
・1936年(昭和11年)に昭和道が完成。これにより明治道とロープウェイの利用は寂れていき、最終的には1944年(昭和19年)の戦時統合によりロープウェイの運行会社である紀伊自動車が三重交通へと統合されたことで、明治道とロープウェイは廃止された。
という感じです。まあ、来歴の大筋自体には極端な相違点はないので、こんな流れで把握しておけばよいかと思います。
前置きが長くなりましたが、本題に入りたいと思います。
当日の朝9時15分、国道42号葛篭谷橋付近の駐車帯へ車を停めました。
ここからは、しばらく国道42号を熊野市方面へと歩き、左へと分岐していく明治道を目指します。
その前に、ここに残っている旧葛篭谷橋を軽くチェック。「葛篭」は「つづら」と読みます。昔話で出てくる「つづら箱」ですね。
親柱に刻まれていた年号によると、1928年(昭和3年)完成のようです。
歩道のない国道の路肩を歩いていきます。
数分ほどで現国道(かつての昭和道)と林道(かつての明治道)との分岐点へとやって来ました。
ちょうど分岐点に立っている距離標。国道42号は静岡県浜松市が起点なので、「浜松市から217km」とあります。
林道を進んでいくと矢ノ川に架かる矢ノ川大橋が現れます。先ほどから明治道の説明の中で出てくる地名のうち、「大橋」はこの橋に由来するものと思われます。
橋のすぐ上流側の河原に旧橋の残骸が散らばっていたので、対岸の橋のたもとを見てみると旧橋の親柱が残っていました。
達筆なので確信はありませんが、昭和6年(1931年)1月竣工のようです。
橋台跡から河原を眺めると、かつて旧橋だったコンクリートの塊が散らばっています。流れを支障するのに、どうして撤去しなかったのかはわかりません。
矢ノ川大橋を渡り、舗装路をどんどんと上り進めていきます。
「尾鷲ひのきプレカット協同組合」の建物を見下ろしています。林道は協同組合の敷地の右側外周に沿って通っています。
かつて、この協同組合の敷地にロープウェイ「安全索道」の大橋駅がありました。
まだまだ林道を上っていきます。このカーブの山側には2か所、大規模に治山工事を行った現場があります。かつて大きく土砂崩れを起こしたのでしょう。
この先で林道は左へとヘアピンカーブを曲がり、さらに進んでいくとようやく右側の路肩に明治道への入口を見つけました。
ちょうど治山工事をした斜面の頂上付近になります。
入口から覗き込んでみると、なかなかの急坂ですね。
斜面をよじ上っていくと、ようやく本来の明治道の姿を見ることができました。写真中央部を弧を描くように通っています。
ここに標石があったので、近くでよく見てみます。
水準点の標石ですね。「水準點」と刻まれています。
何という名称なのか、国土地理院の「基準点成果等閲覧サービス」で検索してみましたが、該当する水準点は表示されませんでした。当然ですが、現在は把握されていない(利用されていない)水準点ということですね。
ここで気になっていたことを確認しにいきます。「明治道への入口はどうしてあのような場所にあるのか?」ということを。
水準点のある場所から道を下っていきます。
100mも歩かないうちに道を塞ぐようにロープが掛けてありました。この先で道跡は抉れてしまっています。
多分そうだろうなと思っていましたが、ここまで歩いてきた林道に削り取られてしまったようです。だから、あの場所から無理やりアプローチするようにしたのでしょう。
水準点がある場所まで戻ってきました。
ようやく今回の本題である矢ノ川峠明治道を歩き始めることにします。
路面の真ん中に三角形に整形された間知石が列を作っています。何でこんな場所にあるのですかね?本来は路肩にあるべきものなんですが…。
さっそく路面が削れていますが、歩く分には十分の幅が残っています。
苔だらけで、いかにも湿気の多そうな植生です。
羊歯の群落です。こういう場所はたいていはかつての崩落地と相場が決まっています。
見上げるとU字型の斜面の上まで羊歯が密生しています。こんな光景は見た記憶がありませんね。道跡は崩落に巻き込まれずによく残ったものです。
この場所から谷の対岸を通る国道42号の千仭橋を眺めています。2週間前は、あの橋のたもとから矢ノ川峠昭和道を歩いたわけです。
木々が無くて日当たりも良いので、この先に薮が出現しないか気になります。
幸い、すぐに植林地へ入ったので薮は現れませんでした。
路肩の石垣に使われている石が大きいです。自分が今までに行った場所では、もう少し小振りの石を使っている道が多い気がします。
石畳が現れました。これは想定外です。一応自動車も通行していた道なので、古い街道くらいにしかない石畳が残っているとは全然思っていませんでした。
左へと屈曲するヘアピンカーブが現れました。
この道をかつては6~8人乗りの乗合自動車が通行していたそうですが、このヘアピンカーブは一発で曲がれないでしょう(笑)。
山岳道路らしい雰囲気が出てきました。
沢を渡っていきます。沢の部分は石がゴロゴロしていて昔の様子はわかりません。全然深くはないので、先ほどのような石畳にして「洗い越し」にしてあったのかもしれません。
残っている道幅を見ると、やはり荷車道に毛が生えた程度にしか見えません。よくこんな幅の道で乗合自動車を運行していたものです。
先ほど見上げていた羊歯の密生する急斜面の上に来ました。もう少し抉れていたら通行不能です。
路肩の石積み擁壁。使われている石は多少整形されていますが、基本、野面積みですね。
道の両側に石が並んでいます。これは珍しい気がします。
谷側は当然石垣を積まないと路盤が維持できませんが、山側にあえて石を並べてある(埋め込んである。)のはどういう意図なのでしょうか。排水溝のようなものが造られていたのでしょうか。
ヘアピン後、明治道は尾鷲市街地の方角へと進んでいるので、谷の対岸を通る国道42号が接近してきています。
どうやら2か所目のヘアピンが現れたようです。
ここはヘアピン部分の路面が崩落しているので、ヘアピンの直前にロープを渡して、上段を通る道へと斜面を上るように誘導してあります。
ここも道跡の両側に石が並べてあります。山側の路肩を斜面に密着させていないのは、どういった理由があるのでしょうかね?
また羊歯が現れました。
まだまだ両側の路肩に石が並べられています。この辺りの山側は、やはり排水溝っぽい感じです。
また石畳が現れました。
ここは石造の暗渠で沢を越えているようです。
苔がわんさかと生えて、緑のお化けになっています。
暗渠の中を覗いてみます。一応、今も機能はしているようです。
大きな落石が道跡を半分塞いでいます。
※その2へと続きます。