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小林あにのブログ一覧

2020年04月25日 イイね!

北野天満宮、南禅寺水路閣、ねじりまんぽ などを巡りました

三連休の中日の2019年2月10日日曜日、姉から「北野天満宮へ行くけど、一緒に来る?」と言われ、暇だったのでついていくことにしました。

北野天満宮へ来たのは初めてですね。もっと受験生とかで混んでいるのかなと思っていましたが、そんなことは無くて、すんなりと駐車場へ停めることができました。



まずは本殿へと進み、参拝します。

「楼門」。



つづいて「三光門」。



「飛梅」ですね。



「本殿」です。



これは某茶人武将が主人公の漫画にありました燈籠ですね。



さて、姉が北野天満宮を訪れた目的は、宝物殿に展示されている刀「鬼切丸」を見るため。酒呑童子の伝説に登場する名刀ですね。どういう理由かわかりませんが、「スマホでの撮影は可。カメラでの撮影は不可。」とあったので、素直に写真は撮りませんでした。まあ、物騒な伝説に絡む刀なので、あまり撮る気もありませんでしたけどね。

これで姉としては目的を達したので、「あとはどうする?」という話になりましたが、せっかく京都に来たのでもう少し回ろうかということになり、北野天満宮から東へと向かい、次は銀閣寺へ行くことにしました。

銀閣寺。











ここからは、哲学の道を歩いて南禅寺へと向かいます。

南禅寺。







私の趣味的に南禅寺と言えば「水路閣」。



琵琶湖疎水の分水路の水路橋になります。建設当時は相当の物議を醸したそうですが(南禅寺という名刹の境内に西洋建築の煉瓦造水路橋を通そうというのですから当然ですね。)、今では立派な名物です。









これは水路閣の先にあるトンネル。この先はいくつかトンネルを抜けて、哲学の道沿いの水路となります。



つづいては、琵琶湖疎水のインクライン跡をくぐる「ねじりまんぽ」。



扁額になんて書かれたあるのかよくわかりませんね。調べてみると「陽気発處」と書かれてあったそうです。



内部は「ねじりまんぽ」らしく、螺旋状にねじれて煉瓦が積まれています。側壁も装飾されています。



反対側です。こちらの扁額は「雄観奇想」だそうです。



この後もさらに歩き進めて、

知恩院。



八坂神社。



八坂神社の西楼門まで歩いてきて、ここで引き返しました。



蹴上発電所。琵琶湖疎水の落差を利用した水力発電所です。



道路から水圧鉄管が見えます。



これは、「ねじりまんぽ」の上を通る、蹴上のインクライン(傾斜鉄道)跡です。1891年(明治24年)から1948年(昭和23年)まで利用されていたそうです。





琵琶湖疎水は、琵琶湖の水を京都市街地の用水として送り込むための用水路として建設されましたが、それだけではなく、京都と大津を結ぶ水運ルートとしても利用することになっていました。しかし、ここ蹴上地区は琵琶湖側と京都市街地側との高低差が大きく、船がそのまま水路を通ることができないためにインクラインが設置されました。

運用方法は、写真のように大きな台車に船を乗せて、一直線の坂を昇り降りさせる方法をとっていました。



残っているレールと枕木は、保存に合わせて再設置されたものだそうです。



インクライン跡の上流側の先端まで来ました。蹴上浄水場か蹴上発電所の取水口だと思います。



こういう水が吸い込まれていく施設を見ていると、何となく恐怖を感じます(笑)。



この後は元来た道を戻り、車を停めた銀閣寺近くの駐車場まで歩いて戻りました。そこそこ車で寄り道して見物するつもりが、結局さんざん歩き回ったので、けっこう足にきていたような記憶があります(笑)。
Posted at 2020/04/25 18:51:16 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2020年04月19日 イイね!

奥羽本線「庭坂の大カーブ」の煉瓦造暗渠群

現地に行ってから1年半ほど放置していた探索案件です。この時のメインイベントは「奥羽本線赤岩-板谷間の廃線跡に残る廃トンネル群を踏破する。」ことで、こちらはおまけ案件だったので、載せることもなく今までお蔵入りにしていました。


2018年11月24日土曜日、奥羽本線赤岩-板谷間の廃線跡に残る廃トンネル群を踏破するために福島市へとやって来ましたが、その前に「ある方」の依頼を実行するため、広域農道荒井庭坂線と奥羽本線が交差する地点へと寄り道しました。

「庭坂の大カーブ」と呼ばれる築堤区間です(この写真自体は、本件探索の最後の方で撮ったものですが、全景を見せるのにちょうど良かったので。)。


今回の依頼は、この築堤に4か所ある煉瓦造暗渠の名称を確認することです。

趣味で鉄道の古い煉瓦造や石造の暗渠やアーチ橋を探したりしますが(道路もしますけどね。)、見つけたらその建造物の正式な名称もやはり知りたいというのが人情。しかし、部外者である我々がJRの資産管理台帳のようなものを容易に閲覧できるわけもなく(当然、公開されているわけではないので。)、そうなると現地確認しかないわけです。

明治や大正などの古い時代の建造物の場合、現場に名称や竣工年月を記した銘板を設置する考えはなかったようで、その場合は泣く泣く名称の確定をあきらめるわけですが、中にはコンクリート造で増設や改修をされた際に銘板が設置され、それにより名称が判明することがあるのです。ここもそのパターンで名称が確定できそうな場所でした。

ですが、「ある方」は夏にこの場所を訪れ、激しく生い茂る雑草の前に確認を断念せざるを得ませんでした(これもまたよくある話…。)。そこで、私が確認してみようと思い立ったわけです。

前置きがだいぶ長くなりましたが、本題に入ります。庭坂駅寄りから順に赤岩駅方面へと確認していきました。

馬場川橋梁。この時期ですら手が届きにくい頭上で枯れ枝が複雑に絡み合い、銘板を確認するのに相当苦労しました。


この周辺は、基本、下り線側が旧来からの煉瓦造暗渠で、上り線側にコンクリート造で増設した形になっています。全て上り線側から進入しました。










下り線側の坑口に来ましたが、ご覧のとおりで外に出ることはできません。また、下り線側もコンクリート造で増設されています。


振り返って、上り線側を眺めています。


次にやって来たのは、地神前橋梁。


ここは狭くて中腰がやっとの高さしかありません。無理な姿勢で撮ったので、写真が傾いています。


煉瓦部分に来ました。奥が真っ暗なので、埋まっているか土管などになっているかもしれません(外から見ても反対側は見つけられませんでした。)。


反対側へと通り抜けられないのであれば、この窮屈な姿勢でいるのもバカバカしいので(そもそも入り込んでいること自体がおかしいのですが(笑)。)、ここで引き返しました。


続いて、大堀川橋梁。


ここは、人道兼水路暗渠になっています。4か所の暗渠のうちで人が通行できる唯一の暗渠です。




増設部分のコンクリートが煉瓦アーチにぴったりと接合されています。


人が通れて古臭そうな物件だと、落書きがつきものです。でも、ここは周りに人家のない田園地帯なんですけどね。わざわざ見つけてやって来たと思うと、エネルギーありますよね。


下り線側に来ました。


こちらにも両側に落書きがあります。何となく作品っぽくなってはいますね。




下り線側の坑口の全景。5重巻きの半円アーチです。


最後は、窪田堀橋梁。


縦長形状の水路暗渠です。








下り線側に来ました。こちらはそのままよじ登って出られます。


下り線側の坑口の全景です。多分、「引き」で撮れなかったのだと思いますが(忘れた(笑)。)、写真が上下に分けれています。




この後も、さらに漏れがないか線路沿いに進んで確認していきましたが、煉瓦造・石造とも暗渠はありませんでした。


とにかくこれにて依頼は無事終了。「ある方」の掲示板へ書き込みをしてから、次の目的地へと出発しました。
2020年04月18日 イイね!

国道151号池場坂の廃道群

2020年4月11日土曜日、新城市池場に残る旧別所街道の旧峠道を探索後、引き続いて国道151号の池場坂に点在する廃道群を歩いてきました。

この国道151号ルートの池場坂、旧峠道から付け替えた区間に相当するのは、新城市側の千歳橋から峠にある池場集落までの2km余の距離ですが、「愛知の歴史街道」によると明治31年(1898年)から明治35年(1902年)まで(「鳳来町誌」によると明治33年(1900年)から明治35年(1902年)まで。愛知県が改修工事を担当。)かかってようやく開通しており、相当難工事であったと思われます。

国道に出てから池場坂の峠方面へと向かい歩いて、最初にやって来たのは滝見橋のたもと。


右側へと廃道があるので入り込みます。






しばらく歩いていくと左カーブとなり廃橋に出ます。


旧滝見橋です。


この橋は4つの親柱が健在で、銘板も残っていますが表面が剥落しているため、何が書かれていたのか全く読めないものもあります。

おそらく「瀧見橋」の表記。




おそらく「須栃澤」の表記。




おそらく「たきみはし」の表記。




ここには改築年月があったはずですが、「改築」の文字だけが読み取れるだけです。




ただ、この橋が昭和戦前期に架橋されたこと自体は間違いありません。「愛知の歴史街道」によると、新城土木事務所の橋梁台帳には昭和10年(1935年)改築とあるそうですし、親柱のデザインが愛知県内の昭和戦前期架橋のコンクリート橋によく見られるものだからです。

欄干もコンクリート製。金属製の枠がはめ込まれていますが、シンプルなデザインです。


中には地味ながら凝ったものもあって、豊橋市二川町の旧東海道に残る「新橋」という1929年(昭和4年)架橋のコンクリート橋は、欄干に金属材で「二川」という文字がデザインされてます(昔、携帯で撮った写真なので画質が悪いです)。


河原に降りて、橋の全景を眺めてみます。


東栄町側の橋台は高く築かれていますが、


新城市側は巨岩の上に低い橋台を築いています。


せっかくなので、橋名の由来となった滝を見に、河原の中を上流に向かって歩いていきます。数分ほどで着きます。

滝へとやって来ました。ちなみに滝の名前はわかりません(笑)。「滝見橋の滝」とか「須栃沢の滝」とか呼ばれているみたいです。




水量は少なく落差もさほどではありませんが(それでも10~20mはあると思います。)、岩盤に囲まれた荒々しい見ごたえのある風景なので、国道からここまで散策路を整備すればいいと思うのですが、いかがなものですかね。


旧滝見橋まで戻ってきました。


廃道を現国道へと向けて進んでいきます。


国道へと出たら、ちょうどライダーさんが休憩していたので、合流地点の写真は撮りませんでした。

ふたたび国道を池場坂の峠に向かい歩いていきます。

次は谷側に短く残るミニ廃道へ。錆びたフェンスの右側にはたくさんの岩石が転がっています。おそらく池場坂の改修工事をした際に切り崩したものでしょう。


人が通れる程度の隙間が路肩側に残されています。これまた茶色に錆びたデリネーターが残っています。


警笛鳴らせの標識が横たわっています。元からここにあったものなのかわかりませんが、あってもおかしくはない立地です。


狭いですねぇ。路肩を踏み外せば谷底まで真っ逆さまです(笑)。


国道へ戻ってきました。


今度は、「東栄チキン」の看板を右へと入っていきます。


ここもちょっとした廃道が残っています。




沢は暗渠で越えています。道幅狭いです。


すぐ国道に合流します。国道に出て、次の右カーブを曲がれば池場坂の峠です。


車へと戻ってきました。出発してからちょうど3時間です。


車に乗り込み、最後に滝見橋よりもさらに下にある廃道へと向かいます。

豊川用水佐久間導水路の放水口へと続く作業道の出入口前に来ました。出入口付近は駐車できるほどの幅広い路肩があります。


その路肩の新城市側の端にミニ廃道があります。


この廃道は、先ほどの谷側にあるミニ廃道よりもさらに道幅が狭く、多分、明治時代の車道の名残りかもしれません。


東栄町側はかさ上げされていて幅が広くなっています。


次は、国道を斜めに渡って反対側へと入り込んでいきます。


入り込むと明瞭な道跡が残っています。山側の路肩は石積み擁壁で固められています。


左カーブの先にかつては橋があったようです。




現在は築堤で沢を渡るようになっています。上流側は石で埋め尽くされており、実質、砂防ダムと化しています。


ここに立っていた保安林の標識。標識に表記されている国道が改修前の旧ルートで描かれています。


築堤を渡り、先へと歩いていきます。この辺りも石積み擁壁がしっかり残っています。


路肩に昔のガードレールの支柱が残っています。


国道へと戻ってきました。旧国道は、さらに右側の山の斜面に沿って峠へ向かっていましたが、現国道への改修工事により削り取られてしまいました。


「愛知の歴史街道」などによると、国道151号池場坂は半年以上通行止めにして一気に道路改修を行い、昭和47年(1972年)10月に現在ある対向2車線の道路になったそうです。通行止めの間は、愛知県道32号仏坂トンネルを迂回路にしていたとか(このトンネルが開通したことを受けて、改修工事を始めたそうです。)。この道、けっこう狭い所があるし、急坂なんですけどね。迂回距離も長いし。

これで国道151号と別所街道はひとまず終了。まだこの先、東栄町内にいろいろありますし、別所街道池場坂旧峠道をもう少し詰めたいところもありますが、世情が落ち着くのを待って再開といったところですかね。
Posted at 2020/04/18 20:06:09 | コメント(0) | トラックバック(0) | 別所街道・国道151号 | 日記
2020年04月11日 イイね!

別所街道池場坂の旧峠道を歩く

2020年4月11日土曜日、本日は新城市池場へとやって来ました。


かつて、この地区を通る街道は別所街道と呼ばれ、新城市川合から池場に至る「池場坂」は街道の難所の一つでした。今回ここを訪れたのは、別所街道池場坂が現在の国道151号ルートに切り換えられる以前、明治22年(1889年)から明治35年(1902年)まで、別所街道として利用されていた旧峠道を探して踏破するためです。

ちなみに、旧峠道は「鳳来町誌」によると、明治21年(1888年)から翌年にかけて開削工事が行われたそうです。工事費用は、当時の金額で公費負担が3,200円余、地元の四か村(村名の記載なし。)が5,800円余を負担したそうです。

1枚目の写真の桜の木の下から右側へと分かれる道へ入っていきます。路肩に古い石積み擁壁がありますが、この道自体が池場坂の旧峠道であったのかはわかりません。


今歩いている道は、谷沿いに出ると旧峠道よりも高い所を通ることになるはずなので(この道は池場地区の西側にある松平地区へおおよそ水平に向かう道のため。)、下方に道跡がないかを探していきます。

そのうち道跡らしきものが続いているのを見つけたので、この場所まで戻ってきて、ガードレールの隙間から谷側へと斜面を降りていきます。


はっきりとした道跡がありますが、これが目的の旧峠道なのかまだわかりません。ひとまず道跡を辿っていきます。


崩れ落ちてきた大量の石で道跡が塞がれていますが、乗り越えて先へと進みます。


ふたたび道跡が現れました。


路肩に古そうな石積み擁壁があります。簡易な造りである作業道ならこういう物はありませんし、進んでいる方向からみても、おそらくこの道跡が別所街道池場坂の旧峠道で間違いないでしょう。


しばらくの間、旧峠道は断続的に塞がる・現れるを繰り返していきます。




道跡に碍子が落ちていました。マークからして日本碍子製ですね。「2602」とあるので、皇紀2602年=昭和17年(1942年)製ということでしょうか。陶器は何年経ってもきれいですよね。


道跡を横切る沢がありました。石積みの橋台が残っています。


石垣に沿って旧峠道は続きますが、


この先で、上を通る松平地区との道路から下ってきたと思われる(確認していないので。)林道に塞がれてしまいます。旧峠道を徹底的に辿るつもりでなければ、この林道でアプローチするのも良いかもしれません。


林道に出てきて撮った写真。写真中央辺りで下り坂から水平に戻るので、そこからは旧峠道の路面が復活しているようです。


日が当たるやや開けた場所に出ました。旧峠道は、沢を渡りながら大きく左へとカーブしていきます。


ここには何らかの建屋があったようです。敷地内に大量の瓦が散らばっていました。


沢には橋ではなく土管が埋まっています。


道跡の真ん中にコンクリート製の電柱が立っているのが見えます。


近づいてみると何も取り付けられていません。一体何の用途のために立っていたのでしょうか?


また、石積み擁壁がありました。


廃道となり放置されていると思っていたら、コンクリート擁壁で補修されている所が現れました。車が通行している形跡は特に無く、補修する理由がいまいちわかりません。


地形が険しくなるにつれて、旧峠道の様相が段々と私好みになってきました(笑)。




大きめな石を用いている擁壁。


写真ではわかりづらいですが、傾斜のきついスラブ地形に道を通すために、下段に低くて幅広な土台を築き、その上に高い擁壁を造って道を通しているようです。


岩の崖を切り開いて造られた道が続きます。いい光景です(笑)。




このような区間も石積み擁壁で道幅を確保。


険しい地形ですが、馬車や荷車が通れるように緩やかな坂で巻いていきます。




昭和53年(1978年)の治山工事の標石。所々にあったコンクリート擁壁は、道路の補修ではなくて治山工事に関連するものなのでしょう。


山側の斜面が大きく崩落していて、たくさんの倒木が旧峠道にかぶさっていましたが、木々の隙間をうまく通り抜けられました。




倒木区間を通り抜けて、右カーブを曲がると直線区間が現れました。




この直線区間の先に砂防ダムがあります。川の名前は「南沢」と呼ぶようです(少し下流に架かるJR飯田線の橋梁名が「南沢橋梁」だったので。)


その砂防ダムのすぐ下流側に橋台の跡がありました。


ちょっと変わっていたところは、クワガタみたいに川に向かって二筋の橋台が伸びていたこと。左側は2m幅くらいの築堤で両側に石積み擁壁があり、右側は幅の薄い石垣のみ。最初は左側のみで、後に右側に石垣を造って、間に土を盛って幅を拡げたということなのか?

対岸から眺めた橋台。


対岸の旧峠道はすぐに川に抉られて無くなっていました。




写真中央の木が生えている所が旧峠道の続き。


上に登ってみてちょっと驚いたのが、河原に築堤を築いて道路にしてあること。ここは山側が大きな崩落地(巨石がゴロゴロ。)なので、意図的に河原を通したのかもしれません。




両側を石積み擁壁でしっかり固めて造られていますが、川が荒れた後の道路の保守が大変そうです。


築堤の先端へ来ましたが、この先の道跡が川を渡ったのか、このまま同じ岸を進んだのか、パッと見わかりません。


築堤の下へ降りてみたところ、石積み擁壁が川へ向かって曲がっていたので、対岸へ進むことにします。


南沢は一面に白色系の石が転がるだけで、水は全然流れていません。枯れ山水のようです。


対岸へと登り直し、進んでいきます。この辺りで川の反対側を見ると、山肌が一気に川へと落ち込む地形になっていて、道をこちら側に通した理由がわかりました。


何気に見上げたら、先ほど歩いてきた旧峠道が目に入ったので1枚。


さて、この旧峠道へ来るにあたり、前情報として「明治30年の石仏がある。」(これは今回見つけられなかった。)ことと「JR飯田線のトンネルの近くに切通しがある。」という2点をここを探索された方の著作から掴んでいました(「愛知の歴史街道」という本は本当にありがたい本です。)。ただし、切通しがどのような場所にあるのかコメント以外は手書きの地図が載せられているだけで、具体的なものではありませんでした。

対岸に渡ってから大体直線に歩き(道跡が不明瞭なので。)、蛇行してきた南沢に突き当たった所で正面を見ました。


「もしかして切通しってあれのこと!?」。確かに岩脈を四角に切り抜いています。しかし、川を渡った先にあるとは予想していなかった…。ここにも橋があったということですよね?でも、川で洗われてしまったのか橋台がわからない…。


とにかく、また白い石に埋もれている南沢を渡ります(川の左岸上にも道跡らしきものが続いていたので、もしかして旧旧道なのか確認しておきたかったけど、もう疲れてきていたので次の機会にしました(笑)。)。


切通しの下の岩場が良い足場になったので、苦もなく切通しに取り付くことができました。




しかし、今ならば何ということもないルート設定ですが、先ほどの河原の築堤と橋梁が2つ連続する構成は、橋梁の建設技術や保守管理、河川の治水管理がまだしっかりしていない明治時代としてはどうだったんでしょうかね?ほとんどの古い車道は多少道路線形が悪くなろうとも、保守が大変となる橋の設置は徹底的に避けて、本当に避けようも無くなるとやっと橋を架けるというパターンですからね。

別所街道池場坂は、旧峠道から現在の国道151号ルートへ明治31年(1898年)から明治35年(1902年)までかかって開削工事を行い変更されたそうです。(「愛知の歴史街道」による。「鳳来町誌」によると明治33年(1900年)から明治35年(1902年)。)。

それは旧峠道の道路保守が大変だったからじゃないのかなと(特に南沢の影響を受ける区間で。もちろん道路改良の意図もあるはずですが。)。まあ、現国道ルートも旧峠道より高く険しい地形を開削して造られており、また、深い沢を3つ越える必要があるので、どちらを取っても維持管理の大変さは変わらなかったでしょうけど。

切通しを抜けた先は高い築堤になっていました。


JR飯田線に出てきました。線路の向こう側に旧峠道が続いています。この辺りの飯田線が開通したのは昭和8年(1933年)。その当時は踏切があったのでしょうかね。


左右をよく確認して反対側に渡ると、使い古しの電信柱が地面にゴロゴロ転がっていました。


電柱の左側へと入り込むと旧峠道が再び現れます。




ここにも立派な石積み擁壁。


道跡が崩れている所を越えると、


ふたたびJR飯田線の脇に出ました。


ここから横を流れる川へ向かって地面が突き出しています。


これを下から見上げると石積みで造られている様子。


「橋の跡かもしれないから念のため。」と思い、川を渡って対岸をしばし探索しましたが、道跡らしきものは見つからず、何のための突起であるかはわかりませんでした。


この付近は谷の幅が広いので、架橋するには適当な場所ではないですが(川幅が狭い所が良い。)、旧峠道がどうやって国道151号側へ合流していたのかはわからないので、無駄足になってもチェックはしておきます。

もう一度川を渡って戻り、JR飯田線の脇を通り抜けていくと、


ふたたび道跡らしくなってきました。


木製の電信柱が残っています。


きちんと組まれた石垣。ここはかがんで岩の下を通り抜けていきます。


崩れた道跡を越えていきます。


やがて道跡が山肌に突き当たると、左へと折れて一気に川側へと下り、


そして道跡は消えてしまいました。山の斜面全体が石張りされているので、もしかしたら治山工事に伴って、本来の道跡は消滅したのかもしれません。


歩けるスペースは続いていたので、そのまま進んでいったら、橋がありました。


橋を渡り、もう少し下流側へと進んでみると放水口と思われる施設があり、覗き込むと「豊川用水佐久間導水路4号トンネル」とありました。


佐久間ダムから豊川用水へ融通される水が通る水路トンネルです。ここから豊川水系へ放出されるわけですか。

これで出て来た場所はわかりましたが、ここから登っていっても国道への出入り口にフェンスがあることもわかったので、違うルートで国道まで登ることにします。斜面を見上げてみると、中腹に平場が続いているのが見て取れたので、まずはそこへ向かい斜面を登ります。

作業道なのか獣道なのかわかりませんが、これだけの踏み跡があれば歩くのには十分です。




何とか国道151号へ出ることができました。


最後に旧峠道の下流側が、どのように国道151号へ合流していたのか何とか探し当てたかったのですが、あれだけ地形が改変されてしまっていると確認のしようがないですね。

しかし、これだけしっかりと道跡が残っていたのは収穫でした。難所でしかも明治30年代には街道指定から外された道なので、もっと荒れていることを心配していましたが、その後も山林管理の作業道などに利活用されていたのかもしれません(少なくとも1か所では他の道と繋がっていたわけですし。)。それから、河原を通る道路築堤は本当に珍しくて、個人的にはこれが一番大きい収穫ですね。

まあ、少なくとももう1回、石仏探しと切通し付近の道跡らしきものの追跡確認のために訪れないといけませんけどね。

※追記
2020年4月26日日曜日、再訪して石仏探し。道沿いの岩陰に立っていました。


馬頭観世音碑です。光背部には「明治三十年(1897年)四月一日」と日付けが彫られています。


台座には石碑を建てた「長岡馬車連」の銘。別所街道を往来していた馬車の組合といったところでしょう。


「長岡」は、池場坂の東側の麓、現在のJR飯田線東栄駅周辺を中心とした地域です。明治30年の時点では、近隣の村々と合併して三輪村となっています。

池場坂の難所を通る道沿いに馬車連が馬頭観音を建てて安全祈願(もしくは事故に遭った馬の供養。)をするのはもっともだと言えるでしょう。

あと、この石碑がこの場所にあることで、この道が明治30年当時は別所街道であった傍証にもなるわけですね。
Posted at 2020/04/12 00:25:54 | コメント(1) | トラックバック(0) | 別所街道・国道151号 | 日記
2020年04月06日 イイね!

TGRラリーチャレンジin恐竜勝山が開催見送り

5月24日に開催予定だった2020年TGRラリーチャレンジの第3戦である恐竜勝山戦が開催見送りとなりました。現時点では、ひとまず開催はしないということで、延期とするか中止とするかは別途通知されることとなりました。

私にとって、TGRラリーの開催の是非が、現時点で最も新型コロナウイルスの影響を受けている事柄になりますね。これだけ間延びするとモチベーションが下がってきてしまいますが、こればっかりはどうしようもないことですからね…。

流行が下火になるか、治療法・治療薬が発見されるか。このままシーズンを棒に振るはめになることも覚悟しておかないといけないかもしれません。
Posted at 2020/04/06 21:11:04 | コメント(0) | トラックバック(0) | TGRラリーチャレンジ | 日記

プロフィール

「【豊根村】霧石峠への富山漆島側峠道を下見しました http://cvw.jp/b/1796277/47676277/
何シテル?   04/25 00:05
「小林あに」と申します。よろしくお願いします。 休日はドライブしたり、廃道となった旧道や峠の古道を歩いてみたり(煉瓦製のトンネルや暗渠も好物ですが、最近は...
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