2020年4月11日土曜日、本日は新城市池場へとやって来ました。
かつて、この地区を通る街道は別所街道と呼ばれ、新城市川合から池場に至る「池場坂」は街道の難所の一つでした。今回ここを訪れたのは、別所街道池場坂が現在の国道151号ルートに切り換えられる以前、明治22年(1889年)から明治35年(1902年)まで、別所街道として利用されていた旧峠道を探して踏破するためです。
ちなみに、旧峠道は「鳳来町誌」によると、明治21年(1888年)から翌年にかけて開削工事が行われたそうです。工事費用は、当時の金額で公費負担が3,200円余、地元の四か村(村名の記載なし。)が5,800円余を負担したそうです。
1枚目の写真の桜の木の下から右側へと分かれる道へ入っていきます。路肩に古い石積み擁壁がありますが、この道自体が池場坂の旧峠道であったのかはわかりません。
今歩いている道は、谷沿いに出ると旧峠道よりも高い所を通ることになるはずなので(この道は池場地区の西側にある松平地区へおおよそ水平に向かう道のため。)、下方に道跡がないかを探していきます。
そのうち道跡らしきものが続いているのを見つけたので、この場所まで戻ってきて、ガードレールの隙間から谷側へと斜面を降りていきます。
はっきりとした道跡がありますが、これが目的の旧峠道なのかまだわかりません。ひとまず道跡を辿っていきます。
崩れ落ちてきた大量の石で道跡が塞がれていますが、乗り越えて先へと進みます。
ふたたび道跡が現れました。
路肩に古そうな石積み擁壁があります。簡易な造りである作業道ならこういう物はありませんし、進んでいる方向からみても、おそらくこの道跡が別所街道池場坂の旧峠道で間違いないでしょう。
しばらくの間、旧峠道は断続的に塞がる・現れるを繰り返していきます。
道跡に碍子が落ちていました。マークからして日本碍子製ですね。「2602」とあるので、皇紀2602年=昭和17年(1942年)製ということでしょうか。陶器は何年経ってもきれいですよね。
道跡を横切る沢がありました。石積みの橋台が残っています。
石垣に沿って旧峠道は続きますが、
この先で、上を通る松平地区との道路から下ってきたと思われる(確認していないので。)林道に塞がれてしまいます。旧峠道を徹底的に辿るつもりでなければ、この林道でアプローチするのも良いかもしれません。
林道に出てきて撮った写真。写真中央辺りで下り坂から水平に戻るので、そこからは旧峠道の路面が復活しているようです。
日が当たるやや開けた場所に出ました。旧峠道は、沢を渡りながら大きく左へとカーブしていきます。
ここには何らかの建屋があったようです。敷地内に大量の瓦が散らばっていました。
沢には橋ではなく土管が埋まっています。
道跡の真ん中にコンクリート製の電柱が立っているのが見えます。
近づいてみると何も取り付けられていません。一体何の用途のために立っていたのでしょうか?
また、石積み擁壁がありました。
廃道となり放置されていると思っていたら、コンクリート擁壁で補修されている所が現れました。車が通行している形跡は特に無く、補修する理由がいまいちわかりません。
地形が険しくなるにつれて、旧峠道の様相が段々と私好みになってきました(笑)。
大きめな石を用いている擁壁。
写真ではわかりづらいですが、傾斜のきついスラブ地形に道を通すために、下段に低くて幅広な土台を築き、その上に高い擁壁を造って道を通しているようです。
岩の崖を切り開いて造られた道が続きます。いい光景です(笑)。
このような区間も石積み擁壁で道幅を確保。
険しい地形ですが、馬車や荷車が通れるように緩やかな坂で巻いていきます。
昭和53年(1978年)の治山工事の標石。所々にあったコンクリート擁壁は、道路の補修ではなくて治山工事に関連するものなのでしょう。
山側の斜面が大きく崩落していて、たくさんの倒木が旧峠道にかぶさっていましたが、木々の隙間をうまく通り抜けられました。
倒木区間を通り抜けて、右カーブを曲がると直線区間が現れました。
この直線区間の先に砂防ダムがあります。川の名前は「南沢」と呼ぶようです(少し下流に架かるJR飯田線の橋梁名が「南沢橋梁」だったので。)
その砂防ダムのすぐ下流側に橋台の跡がありました。
ちょっと変わっていたところは、クワガタみたいに川に向かって二筋の橋台が伸びていたこと。左側は2m幅くらいの築堤で両側に石積み擁壁があり、右側は幅の薄い石垣のみ。最初は左側のみで、後に右側に石垣を造って、間に土を盛って幅を拡げたということなのか?
対岸から眺めた橋台。
対岸の旧峠道はすぐに川に抉られて無くなっていました。
写真中央の木が生えている所が旧峠道の続き。
上に登ってみてちょっと驚いたのが、河原に築堤を築いて道路にしてあること。ここは山側が大きな崩落地(巨石がゴロゴロ。)なので、意図的に河原を通したのかもしれません。
両側を石積み擁壁でしっかり固めて造られていますが、川が荒れた後の道路の保守が大変そうです。
築堤の先端へ来ましたが、この先の道跡が川を渡ったのか、このまま同じ岸を進んだのか、パッと見わかりません。
築堤の下へ降りてみたところ、石積み擁壁が川へ向かって曲がっていたので、対岸へ進むことにします。
南沢は一面に白色系の石が転がるだけで、水は全然流れていません。枯れ山水のようです。
対岸へと登り直し、進んでいきます。この辺りで川の反対側を見ると、山肌が一気に川へと落ち込む地形になっていて、道をこちら側に通した理由がわかりました。
何気に見上げたら、先ほど歩いてきた旧峠道が目に入ったので1枚。
さて、この旧峠道へ来るにあたり、前情報として「明治30年の石仏がある。」(これは今回見つけられなかった。)ことと「JR飯田線のトンネルの近くに切通しがある。」という2点をここを探索された方の著作から掴んでいました(「愛知の歴史街道」という本は本当にありがたい本です。)。ただし、切通しがどのような場所にあるのかコメント以外は手書きの地図が載せられているだけで、具体的なものではありませんでした。
対岸に渡ってから大体直線に歩き(道跡が不明瞭なので。)、蛇行してきた南沢に突き当たった所で正面を見ました。
「もしかして切通しってあれのこと!?」。確かに岩脈を四角に切り抜いています。しかし、川を渡った先にあるとは予想していなかった…。ここにも橋があったということですよね?でも、川で洗われてしまったのか橋台がわからない…。
とにかく、また白い石に埋もれている南沢を渡ります(川の左岸上にも道跡らしきものが続いていたので、もしかして旧旧道なのか確認しておきたかったけど、もう疲れてきていたので次の機会にしました(笑)。)。
切通しの下の岩場が良い足場になったので、苦もなく切通しに取り付くことができました。
しかし、今ならば何ということもないルート設定ですが、先ほどの河原の築堤と橋梁が2つ連続する構成は、橋梁の建設技術や保守管理、河川の治水管理がまだしっかりしていない明治時代としてはどうだったんでしょうかね?ほとんどの古い車道は多少道路線形が悪くなろうとも、保守が大変となる橋の設置は徹底的に避けて、本当に避けようも無くなるとやっと橋を架けるというパターンですからね。
別所街道池場坂は、旧峠道から現在の国道151号ルートへ明治31年(1898年)から明治35年(1902年)までかかって開削工事を行い変更されたそうです。(「愛知の歴史街道」による。「鳳来町誌」によると明治33年(1900年)から明治35年(1902年)。)。
それは旧峠道の道路保守が大変だったからじゃないのかなと(特に南沢の影響を受ける区間で。もちろん道路改良の意図もあるはずですが。)。まあ、現国道ルートも旧峠道より高く険しい地形を開削して造られており、また、深い沢を3つ越える必要があるので、どちらを取っても維持管理の大変さは変わらなかったでしょうけど。
切通しを抜けた先は高い築堤になっていました。
JR飯田線に出てきました。線路の向こう側に旧峠道が続いています。この辺りの飯田線が開通したのは昭和8年(1933年)。その当時は踏切があったのでしょうかね。
左右をよく確認して反対側に渡ると、使い古しの電信柱が地面にゴロゴロ転がっていました。
電柱の左側へと入り込むと旧峠道が再び現れます。
ここにも立派な石積み擁壁。
道跡が崩れている所を越えると、
ふたたびJR飯田線の脇に出ました。
ここから横を流れる川へ向かって地面が突き出しています。
これを下から見上げると石積みで造られている様子。
「橋の跡かもしれないから念のため。」と思い、川を渡って対岸をしばし探索しましたが、道跡らしきものは見つからず、何のための突起であるかはわかりませんでした。
この付近は谷の幅が広いので、架橋するには適当な場所ではないですが(川幅が狭い所が良い。)、旧峠道がどうやって国道151号側へ合流していたのかはわからないので、無駄足になってもチェックはしておきます。
もう一度川を渡って戻り、JR飯田線の脇を通り抜けていくと、
ふたたび道跡らしくなってきました。
木製の電信柱が残っています。
きちんと組まれた石垣。ここはかがんで岩の下を通り抜けていきます。
崩れた道跡を越えていきます。
やがて道跡が山肌に突き当たると、左へと折れて一気に川側へと下り、
そして道跡は消えてしまいました。山の斜面全体が石張りされているので、もしかしたら治山工事に伴って、本来の道跡は消滅したのかもしれません。
歩けるスペースは続いていたので、そのまま進んでいったら、橋がありました。
橋を渡り、もう少し下流側へと進んでみると放水口と思われる施設があり、覗き込むと「豊川用水佐久間導水路4号トンネル」とありました。
佐久間ダムから豊川用水へ融通される水が通る水路トンネルです。ここから豊川水系へ放出されるわけですか。
これで出て来た場所はわかりましたが、ここから登っていっても国道への出入り口にフェンスがあることもわかったので、違うルートで国道まで登ることにします。斜面を見上げてみると、中腹に平場が続いているのが見て取れたので、まずはそこへ向かい斜面を登ります。
作業道なのか獣道なのかわかりませんが、これだけの踏み跡があれば歩くのには十分です。
何とか国道151号へ出ることができました。
最後に旧峠道の下流側が、どのように国道151号へ合流していたのか何とか探し当てたかったのですが、あれだけ地形が改変されてしまっていると確認のしようがないですね。
しかし、これだけしっかりと道跡が残っていたのは収穫でした。難所でしかも明治30年代には街道指定から外された道なので、もっと荒れていることを心配していましたが、その後も山林管理の作業道などに利活用されていたのかもしれません(少なくとも1か所では他の道と繋がっていたわけですし。)。それから、河原を通る道路築堤は本当に珍しくて、個人的にはこれが一番大きい収穫ですね。
まあ、少なくとももう1回、石仏探しと切通し付近の道跡らしきものの追跡確認のために訪れないといけませんけどね。
※追記
2020年4月26日日曜日、再訪して石仏探し。道沿いの岩陰に立っていました。
馬頭観世音碑です。光背部には「明治三十年(1897年)四月一日」と日付けが彫られています。
台座には石碑を建てた「長岡馬車連」の銘。別所街道を往来していた馬車の組合といったところでしょう。
「長岡」は、池場坂の東側の麓、現在のJR飯田線東栄駅周辺を中心とした地域です。明治30年の時点では、近隣の村々と合併して三輪村となっています。
池場坂の難所を通る道沿いに馬車連が馬頭観音を建てて安全祈願(もしくは事故に遭った馬の供養。)をするのはもっともだと言えるでしょう。
あと、この石碑がこの場所にあることで、この道が明治30年当時は別所街道であった傍証にもなるわけですね。