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小林あにのブログ一覧

2022年10月30日 イイね!

百瀬川隧道と西野水道へ行ってきました

2022年10月1日土曜日、滋賀県高島市マキノ町にある百瀬川隧道と同県長浜市高月町西野の西野水道へ行ってきました。

初めにやって来たのは百瀬川隧道。天井川である百瀬川の下をくぐるトンネルで、大正14年(1925年)7月16日に開通しました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

今回、なぜ百瀬川隧道へやって来たのかというと、9月25日にTGRラリーびわ湖高島戦に出ることになった際、「そう言えば、会場の近くに天井川トンネルの百瀬川隧道があったよなぁ。」と思い出し、何気にネットで検索したところ、トンネル撤去のための工事を開始している記事を見つけたからです。

「これはいかん!!」ともう少し記事を漁ってみたところ、トンネル本体の撤去は10月半ばから開始することがわかりました。TGRラリーびわ湖高島戦の帰りに国道161号バイパスから見た限りでは坑門は健在だったので、さっそく最後の姿を撮りに向かったわけです。

さて、この場所にトンネルが開通するまで、ここを通過する西近江路(現在の国道161号に相当。)の通行者は、百瀬川を渡るために天井川の高い堤防を急坂で上り下りする必要があり、交通上の支障となっていました。

※5万分の1地形図「竹生島」:明治26年(1893年)測図・大正9年(1920年)修正測図・昭和7年(1932年)鉄道補入・昭和8年(1933年)発行。

この状況を解消するためにトンネル建設の機運が高まり、大正13年(1924年)にトンネル建設を開始。大正14年に開通したわけです。そして最近まで、百瀬川隧道は滋賀県道287号のトンネルとして利用されていました。ただし、大正時代建設のためトンネルの規格が小さく、またしても交通上の隘路となってしまっていました。

話は変わりますが、天井川である百瀬川は、洪水対策として百瀬川隧道付近の幅の狭い流路を廃止して、百瀬川の北部を流れる生来川(こちらは天井川ではない。)へと流路を付け替えるための工事が行われていました。そして、百瀬川の流水を生来川へと落とすための落差工とその新流路は2005年頃には仮完成していたらしいです。

しかし、どういう理由なのか河川の切り替えがずっと行われていませんでした。約17年が経過し、ようやく新流路へと切り替えが行われたようで、百瀬川隧道の撤去が決定したわけです。

あらためて百瀬川隧道の坑門です。現在はピラスター(壁柱)から外側の部分だけが下見板張りの装飾が施されていますが、開通当時は全面が下見板張りの装飾でした。






高島市役所発行の「広報たかしま」平成25年3月号に、百瀬川隧道の歴史と開通式及び開通時のトンネルの写真が掲載されています。

百瀬川隧道の扁額。現在の扁額は左側から読むように彫られていますが、開通式の写真に写っている扁額を見ると右側から読むように彫られており、後年に取り替えられたものと考えられます。


トンネル内部です。アーチ環よりも内側に巻き立てのコンクリートが見えているので、こちらも後年補強されたのでしょう。


トンネル周辺の様子です。百瀬川が流れていた土手状の流路はすでに撤去されています。


撤去後のイメージを伝える案内板。


トンネル本体が土砂の隙間から見えています。


反対側へと回ってきました。トンネル坑門の右側にかつての流路が残されています。川を渡るたびにいちいちこの高さの土手を上り下りするのは大変ですよね。


反対側の坑門。




反対側の扁額。こちらも左側から読むタイプになっています。


トンネル内部。


百瀬川隧道は文化財に指定されているわけではありませんが、滋賀県内でよく見られる天井川トンネルの一つとして貴重な土木遺産ではありました。建物などと違ってトンネルは移築できませんし、大正末期だと文化財的な価値もまだ低いでしょうから、撤去されてしまうのもやむを得ないのかもしれませんね。


百瀬川隧道の見物を終えて、そのまま百瀬川の堤防道路を上流へと進んできました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

上流側を眺めます。流路にはまったく水が流れていません。


こちらは下流側。新しく建設された流路を眺めています。奥に見えている大きな水溜りの先に生来川への落差工があるはずです。


こちらは旧流路側。旧流路の入口は土砂で塞がれています。


ここでUターンせず、堤防道路をさらに先へと進んでいきます。


山が間近に迫る場所まで上がってくると百瀬川も普通に水が流れています。


百瀬川の谷あいまで進む気は無かったので、途中で左折して平野側へと下りてきました。出てきた場所に門扉があったので「川沿いは立入り不可だったのかな?」と思ったら、単なる獣害防止用に設置されたもので通行OKでした。


今津総合運動公園まで少し足を伸ばし、TGRラリーの際の駐車場所に車を停めて1枚。


まだ11時過ぎだったので、「滋賀県内でどこかもう1か所くらい寄ろうかな。」と考え、長浜市高月町の西野水道へ行ってみることにしました。

高島市今津町から国道161号バイパスに乗り、高島市マキノ町海津からは海津大崎を通り抜けて琵琶湖に沿って進んでいきます。さらに長浜市西浅井町大浦・菅浦と湖岸沿いを通り、奥琵琶パークウェイに入って「つづら尾崎」展望台で小休止。

展望台からの眺めです。




この後は奥琵琶パークウェイから国道8号、湖岸道路と走行し、長浜市高月町西野の西野水道へとやって来ました。


西野水道は弘化2年(1845年)完成した排水路です。この排水路が造られた西野地区は江戸時代後期、当地を流れる余呉川の大洪水にたびたび見舞われていました。そのため、洪水被害を防ぐには地区の西側に立ちはだかる山にトンネルを掘り、余呉川の水を琵琶湖へ一直線に流すしかないとの考えに至りました。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

天保11年(1840年)から工事は始められ、難工事と資金不足に苦しめられながらも、220mのトンネルを5年の工期で完成させたわけです。


さてさて、普通ですと江戸時代に造られた水路トンネルなんて、しっかり出入口を封鎖されて、外から眺めるのが関の山かと思っていましたが、なんとここは自己責任で水路トンネル内の見学が可能なのです。

場所が場所なので、ヘルメット・長靴・懐中電灯は必須ですが、それらも無人案内所にレンタル用のものが用意されているほどです。幸いにも私はすべて自前の物を持っていますので(笑)、それらを装備してまずは無人案内所へと赴きました。

無人案内所に掲示されている西野水道内部の案内図。


それでは排水路跡に下りて、西野水道のトンネル内部へと向かっていきます。






江戸時代なので当然手掘り。岩なので鑿でコツコツと掘り進めたようです。必要最小限の流路を掘り上げるだけでもとても大変な作業だったでしょう。






台状になっている部分は、サザエの貝殻を利用した明かりを置いていた場所だそうです。灯明皿の代わりにサザエを利用したのでしょう。


トンネル内部で一番天井高が高い場所。


比較的きれいに掘られている場所でも天井高が低いので、少し頭を動かすとすぐ壁にぶつかります。「これはヘルメット必須だわ。」と実感しました。


測量技術が未発達なので坑内は直線ではなく、上下左右にぶれながら進んでいきます。






断層の横断部分。案内板の左側が周囲の岩質と違う感じがするので、これが断層なのでしょうか?


坑内の中央地点です。


あと110m、狭く真っ暗闇な坑内を進みます。今さらですが、何匹かコウモリがいるので(狭いのでぶつかってくる(笑)。)、苦手な人は無理かもですね。


金属棒のアーチとフードが設置されている所へ来ました。ただでさえ前かがみ姿勢だったのが、この先は中腰に…。狭い・暗いよりも中腰で歩き続けることが辛いです。






無事に琵琶湖側の坑口へと出てきました。写真を撮りながらでしたが、通り抜けるのに約20分かかりました。出てきた時に親子連れの方と鉢合わせ。「何だあの人?」というような目で見られました(笑)。




現在使用されている西野放水路の河口の先に琵琶湖の湖面が見えています。


こちらが初代西野水道から三代目となる西野トンネル。扁額には「余呉川放水路」とありますが、地図には「西野放水路」とあります。




西野トンネルの注意看板。現役水路トンネルの中に入ろうとするもの好きは、さすがにいないとは思いますが。


帰りは、駐車場と琵琶湖を結ぶ通路となっている二代目の西野水道を歩いていきます。


駐車場側の坑口付近に取り付けられている銘板。昭和25年(1950年)3月竣工とあります。ということは、初代の西野水道は105年間利用されたわけですね。


二代目西野水道の駐車場側坑口です。戦後に造られた排水路トンネルがすでに利用されていないということは、このトンネルでは処理能力不足となる大きな災害があったのでしょうか。


西野トンネルの駐車場側です。


取り付けられている銘板によると、竣工は1980年(昭和55年)3月。銘板どおりなら、二代目の利用期間は30年間で終わったわけです。


今回は滋賀県内を2か所回りました。

予定どおりであれば、百瀬川隧道はすでに破壊・撤去されてしまったことでしょう。私が訪れていた時にもチラホラとトンネルを写真に収めている人がいました。長年地域に存在していたものですから、いざ無くなるとなれば名残惜しく思う方もいるでしょう。

西野水道については、江戸時代に掘られたトンネルを歩いたのはさすがに初めてなので、もう驚嘆しかないです。見た限り、コンクリート巻き立てなどの後年の補修も全然見当たらないので、当時そのままと言って差し支えないでしょう。いい体験でした。
Posted at 2022/10/30 15:48:48 | コメント(2) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2022年10月27日 イイね!

TGRラリーチャレンジinびわ湖高島戦へ参戦しました

2022年9月25日日曜日、滋賀県高島市で開催されたTGRラリーチャレンジinびわ湖高島戦へ参戦してきました。

前回TGRラリーチャレンジに参戦したのは、2021年3月14日の安芸高田戦。その時は引き続き通年参戦する予定でしたが、突然「ラリーへ行ってる場合じゃない!」ような事情が発生したため、長らく参戦休止してました。

ようやく、その「事情」が落ち着いてきたので、「ラリーを再開しようか。」とドライバーやすい氏から声が掛かり、1年半ぶりのラリー参戦となったわけです。本当は8月7日に長野県で開催予定の須坂峰の原戦から復帰するつもりで進めていましたが、新型コロナ流行により急遽開催中止(しかも公式通知が8月2日…。)という事態により、びわ湖高島戦での復帰となりました。

さて、現地への出発はラリー前日の9月24日土曜日朝。たいていの場合、ドライバーやすい氏はラリー車を積んだ積車で、私は自分の車で現地へと向かうパターンでしたが、今回は積車に同乗して向かいました。

実は、今年度の各戦の特別規則書を読むと「指定場所以外への関係者の駐車を発見した場合は最高失格とする。」といった条文が追加されるようになっていました。それで、ラリー会場周辺でコインパーキングを探してみましたが、会場から6km以上は離れた場所にしかなく、素直に同乗することに決めました(笑)。

今回のサービスパークとなる高島市の今津総合運動公園に到着したのは12時頃。


13時からHQで参加受付。今年度初参戦となるため規定のステッカーをもらい、車へ貼付します。

準備が整ったら、次は車検を受けに行きます。


今回は今まで参戦した中では一番念入りに車検を行っていました。そのため、順番待ちの車列が全然進みません。幸い、私たちはあっけなくOKもらえましたが、この後のレキ(下見走行)の開始時間までに終えられるのか心配になるくらいでした。

ある知り合いの参加者は、車検のオフィシャルに「HANSを使用するのに(2インチ幅ではなく)3インチ幅のシートベルトでいいのか?」と待機させられ、「2インチ幅は推奨であって、3インチ幅でも問題無いはずです!」と抗議。他のオフィシャルが「そのとおり。」とOKしたので合格になったと嘆いていました。

そして、ついに初めて車検失格となった参加者を目の当たりにすることなりました。公式掲示板にも当然失格車の車番が掲出されるわけですが、失格理由は明示されないので、いろいろと憶測が飛び交っていました。

そんなわけで慌ただしくレキへと出発。ルートは運動公園から近い箱館山の周辺をコンパクトに巡る設定だったので、私たちは何とか規定の時間内に終えることができました。

しかし、一番最後にレキをする公園内のジムカーナSSは、コースの設定上、どんどん車を流し込むことができず激しく渋滞。レキ終了時刻を過ぎてしまった車がけっこういたのではないでしょうか(ラリー事務局のスタッフがオフィシャルをせっついている場面も。まあ公道ではないので、多分時間延長したのでしょう。)。

夕暮れが迫る中、レキ時に撮影したオンボード映像を見ながらペースノートのチェック。2つある山道のSSは、両方ともコーナーが細かく連続していて、1年半ぶりにコドラをする人間にはあまりにハードなコース設定にすでに頭が痛くなっていました…。

これはSS1とSS4のペースノートですが、R(ライト)2とL(レフト)2が本当に多い。ドライバーやすい氏は「2」のコーナーをキツい方から「2+」・「2」・「2-」の3段階で表現しているので、細かいコーナーが連続するとノート上は「2」だらけになるわけです。


さて、現地に置いていく荷物をまとめてシートで覆い、貴重品などは車に積み込み、宿泊先である福井県小浜市へと移動します。


夜は1年半ぶりのラリー前夜祭(笑)。と言っても二人だけでのささやかな宴会です。




9月25日日曜日ラリー開催当日。朝7時15分頃に再び現地入り。


サービススペースは、同じく愛知県から参戦のハラダ選手と隣り合わせにしました。そしてサービス担当としてツールボックスのムロモトさんも来てくれました。


ここで余談。今回の大会名誉会長は地元高島市の市長さんでしたが、この方、車好きのようで、開会式の挨拶の中でも自分でそのように話していました。しかも、同じく挨拶をしたトヨタガズーレーシングの幹部の方から「展示車両に乗っていて開会式に遅れそうになっていましたね(笑)。」と言われおりました。

式後はサービスパーク内を歩き回って、各チームを覗いておりました。私達の車の方へもやって来て、私が「あっ、市長さんが来た。」とドライバーやすい氏へ言ったら、「市長さんもスプリンター乗ってたみたいだから、ぜひ話をしないと!」とテントから出ていって自分の車を紹介してました(笑)。話をしたら、乗っていたスプリンターは、さらに二世代は前の車だったみたいですが(笑)。

さて、今回のSSコースは、前述のとおり、今津総合運動公園の北側にそびえる箱館山周辺の山道が舞台となります。

距離は、
SS1・4「KAWACHIDANI」:4.68km。
SS2・5「TANKAI LAKE」:1.75km。
SS3・6「STADIUM」:0.44km。
SS合計13.74kmで、「STADIUM」が公園内のギャラリーステージです。 

それでは走行タイムと簡単なラリーの内容について。

SS1:4分50秒0(58.0km/h)。クラス7位。


私たちのクラスである「E-4」のトップであるGRヤリスから26.1秒差…。
AE111に乗るハラダ選手から7.5秒差…。
1年半ぶりのペースノートのリーディング。はっきり言ってぶっつけ本番で、遅れたりバタバタした場面もありましたが、何とかまずまず行けました。途中の右ヘアピンがレキで予想した以上にきつくて、危うく法面に車を当てそうになりました。

SS2:1分55秒4(54.5km/h)。クラス3位。


「E-4」のトップであるGRヤリスから5.9秒差。
AE111に乗るハラダ選手には0.3秒先行。
路面コンディションが悪く、至る所で水や泥が出ている状況でしたが、クラス3番手のタイム。

SS3:41秒2(38.4km/h)。クラス4位。
「E-4」のトップであるGRヤリスから1.4秒差。
AE111に乗るハラダ選手からは1.0秒差。

SS3までを終えて、サービスパークへと戻ってきました。何とか午前のセクション1を無事に終了。配給の弁当を食べて休憩します。


そして、午後のセクション2は私にとって惨憺たる状況となります…。

SS4:4分49秒1(58.2km/h)。クラス8位。
SS1から0.9秒縮まりました。しかし、SS1の時のノートリーディングがやや遅れ気味だったので修正しようとしたら、タイミングが全然合わなくなってしまい、事実上の失速…。SSが終わってからドライバーやすい氏に「こっちが文句を言っていても、いちいち動揺せずにノートを読んでくれ!」と言われる始末でした…。
「E-4」のトップであるGRヤリスから20.9秒差。
AE111に乗るハラダ選手からは8.9秒差。

SS5:2分05秒4(50.2km/h)。クラス9位。
SS2から10.0秒の遅れ。依然、ペースノートのタイミングが合わないことに加えて、コース終盤の橋の手前の右コーナーで泥に乗り、アウト側へコースオフ。かろうじてコース復帰できましたが、10秒の遅れとなってしまいました…。
「E-4」のトップであるGRヤリスから15.7秒差。
AE111に乗るハラダ選手からは12.2秒差。

SS6:40秒2(37.7km/h)。クラス1位。
SS3から1.0秒短縮。ジムカーナコースとは言え、最後にクラス1位(2台)のタイムが出て少しは慰みにはなりました。
「E-4」のトップであるGRヤリスには0.4秒先行。
AE111に乗るハラダ選手からは0.5秒先行。

総合タイムは15分01秒3。順位は「E-4」クラス完走8台中6位、総合完走76台中20位に終わりました。「E-4」クラス優勝であるGRヤリスは13分51秒7で、総合でも1位。AE111に乗るハラダ選手は14分32秒5でクラス2位、総合6位でした。


ゴール後、また1台失格になっていました。昼のサービス時に整備申告書を提出して許可を受けるべき内容の交換作業を、無許可で実施していたことが判明したからでした。パルクフェルメ(車両保管所)内でドライバーとコドラがオフィシャルから質問を受けていて、「整備スタッフに任せていたのでわかりません…。」と戸惑いながら返答しているのを見かけました。

1年半ぶりの参戦となったびわ湖高島戦、課題ばかりの復帰戦となりました…。ドライバーやすい氏からの注文は、「細かいコーナーが連続場所は息が苦しいかもしれないけど、できる限り途切れずに読み上げて欲しい。あと、焦ってくるとコーナーを先読みし過ぎて合わなくなる気がする。それから、危険個所はリピートしてほしい。泥で滑った場所、1回目の時はリピートしてくれたから避けられたけど、2回目の時は無かった。大変だろうけど頼むよ。」といったところ。

次戦は10月23日の富士山おやま戦。私はいい歳してマイナス思考の人間なので、次戦が来るのが憂鬱でたまらない…。普通は何事も年々経験を積むことで多少なりとも良くなっていくものですが、この「コドラ業」はなかなかうまくいかない…。それならきちんと学習して練習するべきところですが、そういうこともしない。「それで何を愚痴言ってんだか。」という気持ちもあるわけで、とにかく何とかいい方向へ脱却できないとまずいですね…。
Posted at 2022/10/27 21:31:12 | コメント(2) | トラックバック(0) | TGRラリーチャレンジ | 日記
2022年10月24日 イイね!

井倉洞・備中松山城跡・備中高松城跡へ行きました

2022年9月10日土曜日、弟に誘われて岡山県新見市の井倉洞、同県高梁市の備中松山城跡へと行ってきました。備中高松城跡は、帰り道のおまけでの立ち寄りです。

当日は自宅を午前3時に出発。国道23号知立バイパス・伊勢湾岸道・新名神と進んでいきましたが、新名神を走行中に情報掲示板で走行ルートに予定していた名神草津JCT~高槻JCTの一部区間が夜間通行止めになっていることがわかり、急遽、京滋バイパス→第二京阪道路→近畿道→中国道へと変更。やや大回りする羽目になりました。

その後は中国道を北房ICまで進み、高速を降りてからはナビの案内に従って国道313号→岡山県道58号→県道50号と経由。ところどころ、道が狭い箇所もあって心配になることもありましたが、10時15分頃、無事に井倉洞の駐車場へと到着しました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

それでは駐車場から井倉洞の入口へと歩いていきます。

こちらは付近を通るJR伯備線をかつて走行していたD51蒸気機関車。


お召列車をけん引したこともある機関車だそうで、デフレクター(除煙板)に鳳凰のプレートが残されています。


井倉洞を訪れるのは相当久しぶりになりますが(少なくとも「みんカラ」を始めた2013年以降は訪れていない。)、その当時は立ち並んでいた土産物店がきれさっぱり無くなっています。駐車場も閑散としていましたし、これも時代の流れなのでしょうか。


井倉洞の入口へとつながる橋が見えてきました。


橋の近くに立てられている説明板と井倉洞の銘が彫られた石碑。




入洞料1,000円を支払い、高梁川に架かる橋を渡っていきます。


こちらが井倉洞の入口です。こんなに小さかったですかね?昔は長距離ドライブの目的地として何度も訪れた場所ですが、すっかり忘れてしまっています。




それでは、しばし洞内の写真をお楽しみください(笑)。洞内をけっこう登っていくので、途中に1か所だけエスケープ路が設置されています。






























洞内をずっと登ってきますので、見物を終えると結構高い場所に出ます。そこから橋までは急な通路を下っていくことになります。


ここでちょうどお昼になったので、橋のたもとにある食堂で昼御飯を食べて、次の目的地である高梁市の備中松山城跡へと向かいます。

井倉洞から高梁川沿いに国道180号を進み、備中松山城跡へとやって来ました。場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

案内板に従って国道から狭い路地へと入り込み、お城の麓の駐車場に車を停めてシャトルバスに乗り換え。山の中腹にある小さな駐車場までバスで上がったら、そこからは徒歩で山上の天守を目指します。






大手門跡に着きました。中に入ると三の丸になります。


しかし、天守がある本丸はこの三の丸の石垣群のさらに上にあります。もうしばらくは頑張って階段を登っていきます。




麓の高梁市街地からだいぶ登ってきました。


二の丸に到着です。ここでようやく天守の姿が見えました。


さっそく本丸へと入っていきます。


こちらは猫城主の「さんじゅーろー」。ちとお疲れの様子。鼻先に指を近づけても匂いを嗅いでくれず無反応でした。


天守です。2層2階の構造で、現在の姿になったのは天和元年(1681年)から3年かけて行われた当時の藩主である水谷氏による城郭の大改修によるものとみられていますが、創建年に関しては確定的な資料が無いようです。


城は明治6年(1873年)の廃城令により売却されましたが、不便な山上にあるため解体を免れました。しかし、その後は放置され荒れるに任せる状態となり、昭和初期に地元の教師が調査した頃には天守などの建物はあばら家と化し、崩壊してしまった櫓もありました(その当時の写真が残っています。)。

その後、地元の高梁町(当時)で修復の機運が高まり、二重櫓、天守などが修復され、昭和16年(1941年)に国宝(現在の重要文化財に相当。)に指定されました。


天守1階。


天守2階。


天守を出て裏側に回り、二重櫓を眺めます。


二重櫓側から見上げた天守。


それでは本丸を出て、さらに北側にある後曲輪へと移動します。


後曲輪から見上げた二重櫓。剥き出しの岩山にさらに石垣を積み上げて聳え立つ姿が良いですね。天守よりも気に入りました(笑)。




さて、最後に訪れたのは、岡山市北区高松に残る備中高松城跡。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この城は、天正10年(1582年)の羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)による「高松城の水攻め」で有名です。

高松城は低湿地の中に築かれており、容易に攻めることのできない「沼城」でした。織田軍対毛利軍の最前線であるこの城を攻めあぐねた秀吉は、高松城の三方が山に囲まれていて、一方だけが平野に開けている地形を逆手に取って長大な堤防を築き、付近を流れる足守川の水を引き入れて、城の周囲を水没させました。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

こうして高松城の補給線を遮断。急報を受けて高松城方の援軍としてやって来た毛利輝元・吉川元春・小早川隆景率いる毛利軍も、城を囲む湖のために手出しができない状況に陥りました。

こうして秀吉と毛利方が休戦・領土割譲交渉を進めている最中に織田信長が明智光秀に襲撃される「本能寺の変」が勃発。秀吉の「中国大返し」へとつながるわけです。

そんな歴史上の大事件の現場だった高松城。今も城跡を田んぼが取り囲んでいて、「沼城」の面影をわずかに残しています。






城跡に立てられている水攻めの説明板。


帰路は岡山総社ICから高速に乗り、山陽道から中国道へと出て、大阪からは往路の逆順のルートで帰りました。
Posted at 2022/10/24 20:37:53 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ | 日記
2022年10月10日 イイね!

新城市作手白鳥地区の旧挙母街道を探索しました(2)

2022年8月20日土曜日、愛知県新城市作手白鳥地区の旧挙母街道を探索しました。

最初に余談を少々。

前回の話の終わりの方で「国道との交差点に本宮山の登山口を示す古そうな石碑が立っています。」と記しましたが、石碑の写真が無かったので、2022年10月9日日曜日に別件で新城市作手白鳥にある砥鹿神社の鳥居を再訪したついでに、石碑を確認しに行ってきました。

場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

おそらく「本宮山登山口」と彫られた石碑。石碑の下部は地面に埋まっているので、実際に読める文字は「本宮山登」までです。




わたくし、この石碑は現国道沿いに立っていることから、大正期以降のものとは想像していたのですが、今回、石碑の裏面を確認したところ、昭和38年(1963年)に寄贈・設置されたものだとわかりました。拍子抜けするほど新しい(笑)。


現在、この場所から本宮山へ登山しようとする人はまずいないかと思います。そもそも、ここに登山口があったことすら知られていないでしょう。さらに言えば、この登山口からの登山道の半分以上は、本宮山スカイライン建設時に破壊されているはずです。

本宮山スカイラインの開通は昭和48年(1973年)なので、この石碑が設置された当時はまだ本宮山・砥鹿神社奥宮まで登山道が通じていたはずです。とはいえ、今も昔もメインの登山口は本宮山南面の豊川市側(砥鹿神社の里宮は豊川市一宮町にある。)ですから、登山道としては石碑設置当時にはすでに寂れていたのかもしれません。

では、本題に戻ります。

砥鹿神社の鳥居を後にして、ふたたび旧挙母街道を進んでいきます。




小さな峠を越えると田んぼが広がる平地へと出てきました。


田んぼを左側へと迂回して、正面に見えていた山の麓へと取り付きます。ここからふたたび小さな峠へと登っていきます。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

山への出入口に石仏がありました。摩滅がひどくてどのような像が彫られていたのかあまりはっきりしませんが、小さく愛らしい感じがします。


獣害防止用の門扉を開けて、山道を登っていきます。






登り坂の途中で道が二手に分かれています。左側は林道・作業道として造られた道のようです。なので、徒歩道である右側へと進むことにします。


徒歩道は雨水が流れる溝のようになっています。




先ほど別れた道へと合流します。


登ってみると、峠というほど切り立った地形ではなく、なだらかな鞍部を緩やかに越えていきます。そして傍らにはまた電話線が寄り添ってきています。


道幅は軽四が通れるほどありますが、倒木がそのまま放置されているくらいなので、今は道路として使われていないのでしょう。




橋を渡ります。この橋も架け替えられていて、古い遺構は見当たりませんでした。


林道を横切り、反対側の林へと入り込んでいきます。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ここまで幅広だった道が徒歩道の古道へと戻ります。


丘の上から麓へと下りるのために、1か所折り返しを挟みます。




深い切り通しを抜けると前方が明るくなってきました。






田んぼへと出てきました。右側に国道301号が見えています。


国道へと合流しました。今回の探索はここまでです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

国道から振り返った眺め。あんな場所に街道が通っていたとは、まったく想像できません。


今回探索した区間の旧挙母街道が山越えを繰り返すルートになったのは、巴川沿いは所々で山が急斜面で川へと落ち込んでいる場所があり、街道の開削がそもそも困難であったことが一番の理由でしょう。

現在の国道301号はそんなことを微塵も感じさせることはなく、歩道付きの快走路を提供しています。しかし、車まで戻っていく最中、国道が通る周囲の地形を眺めながら歩きましたが、けっこうきわどい地形を通していることを実感しました。大正年間に荷車道を開削した際は相当苦労したのではないでしょうか。

今回探索した旧挙母街道のルート図です。南北方向に長いので、2枚に分かれています。




最後におまけで、車まで戻る途中に国道301号のミニ廃道を経由しました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

















14時10分、車へ到着。歩行距離約6.3km、歩行時間約2時間半の行程でした。
Posted at 2022/10/10 11:48:27 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2022年10月02日 イイね!

新城市作手白鳥地区の旧挙母街道を探索しました(1)

2022年8月20日土曜日、愛知県新城市作手白鳥地区の旧挙母街道を探索しました。

旧挙母(ころも)街道は、現在の名古屋市天白区平針から豊田市を経由して新城市に至る街道でした。明治12年(1879年)の愛知県内の街道名一覧表によると、「縣道二等 挙母街道 愛知郡平針村ヨリ南設樂郡新城村ニ至ル」とあります。

今回の区間を探索することにしたきっかけは、戦前の地形図で旧見代発電所の取水堰堤がある作手白鳥地区を見直した時のことです。

現在の国道301号は巴川に沿って通っているのですが、戦前の地形図をよくよく見てみると旧挙母街道は国道301号ルートよりも西側の山の中を越えていることに気が付きました。

※5万分の1地形図「御油」:明治23年(1890年)測図・大正7年(1918年)修正測図・昭和2年(1927年)鉄道補入・昭和4年(1929年)発行。

ちなみに作手村誌によると、挙母街道の改修は大正2年(1913年)に旧新城町から開始されましたが、旧作手村に至る前に滞ってしまったそうです。それを見かねた当時の作手村出身の県会議員 佐宗九一が村内へと街道改修を継続するよう献身的努力を続け、
大正7年(1918年):保永地内
大正8年~9年(1919年~20年):保永地内~白鳥地内
大正10年(1921年):白鳥地内
大正11年~13年(1922年~24年):清岳地内~高里地内
大正14年(1925年):高里地内~田原地内
と進められたことにより改修は完成を見ました。

この記述から、作手白鳥地区の挙母街道が現在の国道301号ルートへと切り替えられたのは大正8年~大正10年の間と考えられます。なお、昭和4年発行の地形図に新ルートが反映されていないのは、修正測図されたのが大正7年だからでしょう。

この旧挙母街道のルート、現在の地形図にもほとんどの区間が道路として記載されていたので、気楽なルート探索という感じで赴くことにしました。

旧挙母街道と国道301号が分岐していく付近にある「安城市作手高原野外センター」の入口へとやって来ました。安城市民である私、小学生の頃に一度だけ、林間学校でこのセンターを訪れたことがあります。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

旧挙母街道が国道301号ルートから逸れていったであろう予想地点に来ました。ここから斜面へと入り込みます。現在の国道は山を切り崩して直進しており、かつては山の斜面に旧街道が残っていたのだと思われます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

斜面へと入り込むと細い道がありました。しかし、これは国道の切り通しを建設した時に付けられたものでしょう。


国道が眼下に見えています。


山の尾根まで登ると道跡らしいものに遭遇しました。さらに奥へと進んでみます。


浅い切り通しがありました。どうやらこの道跡が旧挙母街道のようです。


切り通しを下ると右側から合流してくる道があります。探索時は右側の道は確認しませんでしたが、一応行き先を見ておくべきだったかなと思っています。


この先は一本道となり、この道が旧挙母街道ということでもう間違いないでしょう。






国道から入り込んで歩くこと20分ほど。分岐点に出てきました。左側には牛舎があります。ここは直進方向で進んでいきます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

牛舎のある分岐点から5分ほどで次の分岐点。唐突な形での分岐に行くべきが少し悩みましたが、地形図では左へと入り込むようになっていますし、きちんと刈り込みもされているので、そのとおりに進むことにします。


どうやら正解だったようです。


沢が現れました。古い橋の橋台や石造暗渠が無いか見渡してみましたが、それらしいものはありませんでした。ここから道が右側へと分岐しているので、少し辿ってみます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

分岐した道は、程なくして国道301号の法面に阻まれて途絶えてしまいました。




地形図を見てみると、どうやらこの分岐した道は、旧見代発電所の探索の時に発見した橋跡を通って野郷集落へと向かう道のようです。

※5万分の1地形図「御油」:明治23年(1890年)測図・大正7年(1918年)修正測図・昭和2年(1927年)鉄道補入・昭和4年(1929年)発行。

それでは旧挙母街道へと戻ります。


特に目を引くようなものが見当たらないまま、林道・作業道化した旧街道を歩いていきます。




旧街道に並行する電線に気が付きました。


どうやら新城と作手を結ぶ電話線のようです。電話線は設置当時の主要道路に沿って建設されたようで、その名残からか、今では人すら通らないような廃道に沿って現在も電話線が通っているのをまま見かけます。ある意味、この道が旧街道の証拠とも言えるでしょう。


小さな峠を越えていきます。


林道・作業道は右へとカーブしていきますが、直進方向にいかにもという道跡が見えています。当然そちらへと突っ込んでいきます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

旧街道は道路と交差してさらに直進していきます。






そして、小さな川にぶつかって途絶えました。昔はここに橋が架かっていたのでしょうが、目立った痕跡は見い出せませんでした。


対岸からの眺め。築堤はわかりますが、橋台と思しきものは見当たりません。


ここからは舗装路を歩いていきます。


左側の山の斜面に旧街道と思われる道が付いていますが、入口が人家に入り込んでいるようだったので、この箇所は通りませんでした。


程なく旧街道と思われる道が合流してきました。


わずかな距離だったので、逆戻りして辿るのは止めました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

さてさて、この場所には鳥居が立っています。しかし、神社の社殿は全然見当たりません。


鳥居をよく見てみると扁額には「本宮山」と彫られています。


そして、鳥居の傍らには「正一位 砥鹿神社」の石碑。


この二つの要素から考えるに、この場所は砥鹿神社の神奈備山である本宮山の遥拝所だったのではないでしょうか。実際には視界が開けていないので、直接本宮山を目で見ることはできませんが、鳥居の立っている方角からして、間違いはないかと思います。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

もう一つ考えられる理由があります。この鳥居が立っている交差点から国道301号へと向かうと、国道との交差点に本宮山の登山口であることを示す古そうな石碑が立っています。

現在の本宮山のメインルートは豊川市側から本宮山の南面を登るルートですが、かつては新城市作手側から尾根を縦走して本宮山へと向かうルートも使われていたようで、この鳥居が本宮山への登山口を表していたのかもしれません。

燈籠の石柱には「大正六年一月」の年号が刻まれています。大正6年は西暦で1917年。この鳥居の前を通る道が挙母街道であった時代のものです。


鳥居の南側にある水場。祭祀用の水場なのか、本宮山へ登る前の水垢離の場なのか、街道沿いであるので単に牛馬の水飲み場だったのか。これも一体何なのかわかりませんね。


鳥居とは道路を挟んで反対側にある石仏と石碑。


明王形の石仏ですが、頭に小さな馬頭を頂いているので、馬頭観音のようです。


百八拾八ヶ所塔。「百八拾八ヶ所」というのは、四国88か所、西国33か所、坂東33か所、秩父34か所の合計188か所の観音霊場を表しています。これだけの功徳を持って供養するという意味でしょうか。


石仏・石碑側から見た鳥居の眺め。


それでは先へと進んでいきます。


※その2へつづく。
Posted at 2022/10/02 16:07:59 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記

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