• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

小林あにのブログ一覧

2023年08月27日 イイね!

【飯田市南信濃】万古集落跡から谷京峠への峠道を探索する(2)

2023年7月29日土曜日、飯田市南信濃南和田の万古集落跡から谷京峠への峠道を探索しました。先週の7月22日土曜日は、飯田市南信濃南和田の飯島から谷京峠までの峠道を探索しましたが、今回はその続きの探索となります。

前回は、JR飯田線為栗駅から万古集落跡まで進み、集落跡の廃屋や建物を見て回りました。


ところで、戦前の旧版地形図を見てみると、谷京峠への峠道は集落の中から分岐しています。集落跡を見て回っている間、谷京峠への峠道の入口を探していましたが、結局、それらしい場所を見つけることはできませんでした。

※5万分の1地形図「満島」:明治41年(1908年)測図、昭和8年(1933年)要部修正測図。

ひとまず、集落跡の中央付近にあった段々地から登っていって様子を見ることにします。


段々地の最上段へ出ても道筋らしきものが見い出せません。峠道へと取り付けないか、そのまま斜面を登っていってみます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

稜線へと出ました。さらに上へと登っていきます。


峠道と思しき道筋が見つかりました。入口を確認するために道筋を下り始めましたが、すぐに崩落地と遭遇し、進めなくなってしまいました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

今回は入口を確認することはあきらめて、谷京峠方面へと向かうことにします。


歩き始めて間もなく、難所が現れました。硬く引き締まった急斜面に付いた細い踏み跡を慎重に歩いていきます。


ホッとしたのも束の間、また同じような難所が現れました。難易度はさらに高く、この場で引き返そうかと思ったくらいでした。


何とか無事に渡ることができました。こんな斜面で足を踏み外したら、谷底まで吸い込まれるように滑り落ちていってしまいます。


ようやくまともな道幅になってきました。しかし、序盤からこうも難所が現れると、この先も大丈夫かと不安になってしまいます。


折り返しが現れました。ここから一気に尾根を目指して高度を上げていくのでしょうか。


植林地へ入るとつづら折りとなり、何度も折り返しながら斜面を登っていきます。植林地の中の地面も硬く引き締まっていて、時折現れる谷側に傾いた細い踏み跡では、足が滑りそうになります。






跨ぐのもくぐるのも難しい半端な高さで倒木が倒れています。高巻きが大変そうだったので、谷側の低い位置で倒木を跨ぎましたが、これはこれで倒木ごと滑り落ちやしないかと気を揉みます。


ようやく尾根が見えてきました。そして、こんな高い場所に石垣があります。


2~3段の石垣が見えています。耕作地があったのか、茶屋の跡なのか。全然わかりません。


短い尾根を渡っていきます。


ピークを避けるように右側の斜面へと入って、通過していきます。






また尾根を渡っていきます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

何度も現れる尾根道をどんどん進んでいきます。尾根に出るまでの細く危険だった道筋と違い、尾根の上の道は道幅もしっかり残っていて、安心して歩くことができます。






尾根筋は、右側が緩い斜面(それでも急ですが。)、左側は崖のような急斜面となっています。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

またピークを避けて、右側の斜面へと入り込んでいきます。


右側の谷筋が終わり、山の頂上に向けて扇状の緩斜面(と言ってもやはり急。)へと変化していくと、道筋はその斜面の中を行ったり来たりしながら、つづら折りで登っていきます。








最後の折り返しです。


結局、尾根に出てからは厳しい難所が現れることはなく、無事に為栗駅から登ってくる峠道と合流出来ました。

合流した場所は見覚えのある場所でしたが、あったはずの馬頭観音が見当たりません。と思ったらうつ伏せに倒れていました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ちなみに、旧版地形図と実際に登ってきたルート(赤線。ルートはおおよそ。)と見比べると、実際に登ってきたルートは直線的に合流してきていることがわかります。

※5万分の1地形図「満島」:明治41年(1908年)測図、昭和8年(1933年)要部修正測図。

うつ伏せになった馬頭観音をそのままにしておくわけにもいかないので、地面を均して転ばないようにしてから置き直しました。


馬頭観音の光背には、文化四卯年(1807年)と為栗村の文字が彫られています。


この場所に馬頭観音が置かれたのは、危険な峠道の道中の安全祈願のためでしょうが、あとはこの場所が分岐点だということも理由にあると思います。


なんだかんだで、馬頭観音の前で45分程休憩していました。この先、谷京峠まで進むか悩みましたが、先週に遠山谷側から峠まで登っているので、今回はこのまま為栗駅へと下っていくことにしました。


万古集落跡からの峠道と同様に、尾根道で下っていきます。




尾根が落ち込んでいく場所に立っている飯伊森林組合のテント。マツタケ等の盗掘防止のための監視用だと思われますが、ご覧の通りボロボロで、現在は使用しているようには見えません。


水田跡へと出てきました。為栗駅まではまだまだ下りていきます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

この尾根道から外れて、斜面をつづら折りで下りだすと為栗駅も近いです。


為栗駅の上方にある深いすすきの薮。前回このルートで来た時が11月だったので、こんなに濃い茂みになる場所だとは予想外でした。


すすきの薮をかき分けて、為栗駅へと出てきました。ここまで来ればもう安心です。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

そして、天竜橋を渡り、車へと戻ってきました。




今回探索したルート図です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

前回にも書きましたが、今回、為栗駅から万古集落跡まで行くだけで、あれだけ手こずってしまうとは予想外の出来事でした。あとは、万古集落跡から峠道への入口が見つからなかったことと、序盤の難所群の通過が大変でした。

とにかく、これで谷京峠へと至る峠道を三方向(為栗駅、飯島、万古集落跡。)から確認することができました。いずれの方向からも峠越えする人には優しくない道でしたが、地形的にこのようなルートしか取れなかったのだと言えるのかもしれません。

次回は、泰阜村我科の万古隧道から万古集落跡へ徒歩道で向かい、万古集落跡周辺の「秋葉道(中道)」をもう少し探索してみます。
2023年08月26日 イイね!

【飯田市南信濃】万古集落跡から谷京峠への峠道を探索する(1)

2023年7月29日土曜日、飯田市南信濃南和田の万古集落跡から谷京峠への峠道を探索しました。先週の7月22日土曜日は、飯田市南信濃南和田の飯島から谷京峠までの峠道を探索しましたが、今回はその続きの探索となります。

※5万分の1地形図「満島」:明治41年(1908年)測図、昭和8年(1933年)要部修正測図。

「泰阜村誌」によると、谷京峠を経由するこの峠道は「秋葉道(中道)」と呼ばれ、泰阜村と遠山谷(現在の飯田市南信濃。)との間に昔から存在する交流の道でした。また、名前の通り、伊那谷から秋葉神社(静岡県浜松市天竜区にある、火除け・火伏の神として崇敬を集めた神社。)へと参詣する人々が通行した信仰の道の一つでした。

この峠道は昭和初期までは日常的に利用され続け、今回の探索で登場する万古集落跡(かつては万古村。)には、宿屋や運送に関わる問屋が存在したそうです。

やって来たのは、下伊那郡天龍村の天竜橋のたもと。ここから天竜橋を渡り、為栗駅の前を通過して、万古川沿いに峠道の出発地となる万古集落跡を目指します。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

身支度を整えて、天竜川に架かる吊り橋「天竜橋」を渡っていきます。ちなみにこの橋は、長野県道430号為栗和合線に指定されています。




JR飯田線為栗駅。為栗は「してぐり」と読み、難読駅名の一つですね。


さて、為栗駅から先は、しばらく草むらをかき分けながら進んでいきます。途中、足元に大きな蛇が現れ、びっくりして「うわぁ!」と悲鳴が出てしまいました(笑)。






トンネルの横を通り過ぎると、斜面を進む細道となります。


トンネルの反対側の坑口へ来ました。ここから少しだけ線路沿いを歩き、万古川橋梁の下をくぐっていきます。




万古川橋梁の古写真を見ると、この場所は現在の光景からは全く想像できないような深い渓谷となっていました。


この道は送電線の巡視路になっているようで、ご覧のとおり橋も架けられています。いまいち不安な雰囲気を醸し出していますが。


橋を渡ると最初の難所になります。両足を揃えた程度の道幅しかありませんが、落ち着いて進んでいけばまだ何とかなります。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

難所を越えた後は、折り返しを進んでいきます。




折り返しを登っていくと、巡視路が右側へと急な上り階段で分岐していきます。万古集落跡は直進です。


山側に古いロープが吊るされています。ああ…、嫌な予感がしますね…。


ロープは無くなりましたが、「いや、ここも必要だろう!」と心の中では思っています。


そして、再びロープは復活しましたが、何の装備も無くて、高い場所が苦手な人間にこれは無理でしょう…。しばらく立ち止まって、行くべきかどうか考え込んでいましたが、やっぱりあきらめました。


赤線のとおりに歩けばいいんですけどね…。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

これは万古川の河原を歩いていくしかないと思い、万古川橋梁の近くまで戻ってきました。


河原を歩いていると斜面の低い位置に踏み跡があったので、跡を辿っていってみます。




辿っていた踏み跡が途切れてしまい、ふたたび河原へと出てきました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ここからは浅瀬を選びながら万古川の河原を歩いていくことにします。




正面に万古集落跡である広い河原が見えてきましたが、ここで流れの深みに阻まれて先へ進めなくなってしまいました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

もう一度為栗駅からの道筋へと戻るため、踏み跡のある場所を辿って斜面を登っていきます。




巡視路に使われる階段が現れました。これで少し安心できます。


登っていくと電柱がありました。万古集落跡へ向かう送電線のものでしょうか。


戻ってみたはいいものの、先行きを不安にさせるような路面状況です…。


こちらは難所を越えてから振り返っての写真です。こんな場所はあまり歩きたくはないのですが、もう行くしかありません。


路面の状態が復調してきました。このまま万古集落跡まで行けるのか…。


と思ったら、道筋が完全に消滅しました…。先端まで行って、そこから斜面を滑り下っていってもいいかとも思いましたが、それをきっかけに土砂が崩落するとも限らず、またも逆戻りです…。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

谷側の斜面を注視しながら戻っていくと、巡視路用の階段が設置されている場所がありました。手がかりになる木々もそこそこ生えているので、ここから下りていくことにします。


無事に河原まで下りることができました。ここからまた道筋の続きを歩いていきます。


杉の植林地が土砂で埋まっています。


土砂が流れてきた元の方向へと向かうと滝がありました。名称は不明です。豪雨の時には大量の土砂が滝口から降り注いでいたと思うと恐ろしいですね。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

滝を通り過ぎた辺りからが集落だったようです。あちらこちらに石垣があります。写真のさらに右側は墓地だったようで、土砂に押し倒された墓石が散らばっていました。


コンクリート造りの枡。どういう用途の枡だったのでしょうか。


土に埋もれてわからなくなっていますが、段々地になっています。居住地だったのか、耕作地だったのか。


手水鉢?


瓦が固めて置かれています。


この平坦地にある廃屋は、この一軒だけでした。




廃屋の先の斜面にも墓地が見えています。


戦前の旧版地形図を見ると何軒かの住居があったようですが、現在は天竜川の平岡ダムによって堰き止められた土砂が堆積して、埋もれてしまっています。

※5万分の1地形図「満島」:明治41年(1908年)測図、昭和8年(1933年)要部修正測図。



神社と思われる建物。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

峠道のスタート地点となる万古集落跡へ来るだけでこんなに苦労するとは、全然想定していませんでした。やはり崖地を通過している道は侮れない…。

次回は、ようやく峠道の探索へと入ります。
2023年08月22日 イイね!

【飯田市南信濃】南和田飯島から谷京峠への峠道を探索する

2023年7月22日土曜日、飯田市南信濃南和田飯島から谷京峠へと向かう峠道を探索しました。谷京峠そのものは、2020年11月28日にJR飯田線為栗駅から始まる峠道を登って訪れています。

さて、谷京峠を通過する地元の街道については、「泰阜村誌」に以下のような記述があります。

「『秋葉道(中道)』…赤石構造線の古道を遠山郷和田より分岐し『飯島』より谷京峠(焼尾峠)に出、これより万古村に下り、万古川を渡って我科村四辻に登り、温田、大畑村の尾根筋を通って…。」

2020年11月の時は谷京峠を訪れることだけを目的として、ネットに山行記録がある為栗駅からの峠道を登っていったわけですが、今回は「泰阜村誌」で「秋葉道(中道)」と呼ばれた街道の内、谷京峠への峠道となる区間を遠山谷側の登り口である「飯島」から探索してみたわけです。

※5万分の1地形図「満島」:明治41年(1908年)測図、昭和8年(1933年)要部修正測図。

谷京峠への登り口の想定場所付近へとやって来ました。とは言っても、実際には登り口の想定場所からは約800mほど離れた場所になります。最寄りに駐車スペースがある場所が無かったのです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

遠山川沿いを通る国道418号を歩き、谷京峠への登り口の想定場所へとやって来ました。現行地形図にある谷京峠への破線道がこの場所付近から始まっているので、しばしこの辺りを探ってみましたが、どうにもそれらしき場所が見当たりません。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

仕方がないので、ここからひとまず斜面を登ってみることにします。


30分後、ようやく谷京峠への峠道と思われる道筋へ取り付くことができました。どうやら峠道の登り口は、国道の拡幅工事か、登り口付近にある会社敷地の工事で斜面が削り取られて消滅してしまったようです。


いきなり大きなタイムロスとなりましたが、気を取り直して谷京峠へと峠道を登っていくことにします。


登り始めて間もなく、延々と続くつづら折り区間となりました。ただのつづら折りなら別にどうということもなかったのですが、硬い土質の急な斜面に細い道筋がかろうじて残っているような状態。所々、「え~っ、ここを歩くの…。」という場所もあったりして、恐怖を感じる程ではないですが、しばし緊張を強いられました。














つづら折り区間が終わり、ようやくまともな道跡になってきたと思ったら、今度はいろいろと絡んだ倒木が現れました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

その後も倒木が連続する区間を進んでいきます。






植林地へと入ってきたところで、道筋が怪しくなってきました。




強引に直進していったところ、ふたたび峠道を発見。砂や小石が散らばり歩きにくい植林地の中を、時々折り返しを繰り返しながら辿っていきます。










木の根元に石積みの祠がありました。中を覗いてみた限りでは、もう何も祀られてはいませんでした。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

まだまだ折り返しをしながら稜線を登っていきます。




目の前にピークが現れたところで道筋が右側へと逸れていきます。


「これでようやく谷京峠へ直接つながる尾根に取り付けるな。」と思って進んでいったら、ほんの5mほど斜面が崩れていて、道が無くなっていました…。


仕方がないので、峠道が避けていたピークへと登って、迂回ルートを取ります。


やっと谷京峠へと直接続く尾根にやって来ました。赤線は本来の峠道になります。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

現行地形図では、ここから尾根の上を忠実に辿るルートで破線道を記載していますが、実際の道筋は尾根よりもやや下の斜面を進んでいきます。




細尾根を通過します。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ふたたび尾根を登って進みます。




そして、登ったと思ったら今度は下り。谷京峠までの間の尾根にはいくつもピークがあるので、ピークを越えるたびに登ったり下ったりしています。


ここの細尾根には盛土道が築いてあります。短い距離なら、いちいち上下動しないほうが多少でも楽になりますからね。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ここまで登ってくる間にけっこう疲れが出てしまっていますが、そんな時に面倒そうな倒木が現れると、さらに気力・体力を削ってくれます…。


折り返しで登って、また下っていきます。




ふたたび盛土道が現れました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ここからは谷京峠へ向けての最後の上りとなります。


この先はグッと道幅が狭くなり、小刻みな折り返しを繰り返していきます。










樹木化した太い蔓。種類は全然わかりません。


最後の最後でまた緊張する場面もありましたが、やっと谷京峠に到着しました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

飯島から登ってきた峠道の峠側入口にある道標。真ん中には「秋葉大権現」、右側から「右 和田村道」、「嘉永四年」、「亥霜月十五日」、「○○」(不明)と彫られています。嘉永4年は1851年にあたります。




こちらは道祖神。この石碑にも「嘉永四亥年」と彫られているように見えます。その他の文字は彫りがかすれていて、読み取れませんでした。


峠から西側へと進んでいくと三等三角点「谷京山」があります。標高は848.81mです。ちなみに地形図には「谷京峠」とあるので、三角点の基準点名も「谷京峠」だと思っていたら、実は違っていました(笑)。


峠にある鳥居。火除け・火伏せ信仰で知られる秋葉神社(静岡県浜松市天竜区)の遥拝所であることを表しています。「柱」だけが立っていて、「笠木」、「貫」、「額束」は落ちてしまっていますが、2020年11月に訪れた時はまだ鳥居の形を残していました。


石碑。四面にびっしりと文字が彫られていますが、谷京峠に関する由来が彫られているようです。「嘉永五年三月上澣建」との一文があり、1852年に建てられたものだとわかります。


三十三観音の石仏群。


木々の隙間から南アルプスを望みます。


峠の全景です。右側の鳥居の先にある峠道を下って行くと、為栗駅と万古集落跡へ向かうことができます。


十七番の観音像。なぜか石仏群から離れて、その背後に置かれています。うつ伏せに倒れていたので、起こして据え直しました。


それでは車へと戻っていきます。本当は時間が許せば、峠を通過して万古集落跡まで峠道を探索するつもりでしたが、標高差500mを登ってきただけで体力を消耗してしまったので、今回は止めました。


1時間50分後、無事に車へと戻ってきました。


今回の探索ルートの全体図です。青線は帰りにショートカットして車へと向かったルートです。


飯島からの谷京峠の峠道は、私としては体力的になかなか厳しかったです。特に前半部分は、峠道への取り付きでのタイムロスから始まって、ひたすら急坂での上り坂でしたから、ここで体力を消耗してしまったようなものです。

次は、谷京峠と万古集落跡とを結ぶ峠道を探索することになりますが、万古集落跡側から谷京峠を目指す形で実行する予定です。
2023年08月11日 イイね!

【新城市】カンバンタ山道と海老峠への峠道を探索する

2023年7月16日日曜日、新城市内の山の中で「カンバンタ山道」と「海老峠」への峠道を探索してきました。

まずは前書きです。

「カンバンタ山道」は、旧海老街道仏坂峠道と現在の新城市海老の街を結ぶ間道です。仏坂峠の峠道の途中から分岐して、カンバンタ(地形図に記載が無いため、具体的な場所は不明。)、川売と経由して海老へと向かう経路でした。旧街道である仏坂峠の峠道を歩くと、分岐点に「カンバンタ山道」への道標が立っています。

もう一つの「海老峠」ですが、こちらは海老の街から川売を経由し、設楽町設楽町川合にあった宇連集落とを結んだ道中にある峠です。現在では、岩古谷山~宇連山を縦走する登山道のポイントの一つでしかなく、峠に道標は立っていますが、川売方面・宇連方面とも通行不能の表示になっています。

「鳳来町誌 交通史編」には、「駄賃背負い」の話として、この周辺の山道の往来についての話が以下のように載っています。

『当時(この話が載っている項目の流れからすると明治30年代から40年代のことか。)、駄賃背負いの事をこの辺りでは「しょいこさ」と呼び、農閑期ともなれば四谷の里(新城市四谷)からも大勢の「しょいこさ」達が、連れ立って、ふりくさ道(海老街道)を歩いて神田(設楽町神田)と海老(新城市海老)を往来した。

「しょいこさ」の一日をまとめると、おおよそ次のようであった。

朝、四谷の家を出発(4時~5時)~カンバンタ(4時50分)~海老峠(5時30分)~宇連(7時)。荷造りして宇連を出発(8時)~海老峠(9時)~カンバンタ大杉(10時)~引き返す~海老峠(11時)~宇連(12時)~昼食~宇連を出発(13時)~海老峠(14時30分)~カンバンタ(15時30分)~四谷(16時30分)~カンバンタ(17時30分)~四谷に帰宅(18時)

これは夏の日程である。冬の二回目のカンバンタは、明くる日になることがあった。馬車の来ない日は、カンバンタ引き返しは中止して、海老までの荷車引きとなった。』

以上のような内容です。

日程の例で挙げられている「しょいこさ」さんが、「主に何を運んでいたのか?」とか、「なぜカンバンタと宇連の往復ばかりしているのか?」とか、「話の初めに出ていた神田や海老へはどうして行かなかったのか?」とか、「馬車はどこへ来ていたのか?」とか、突っ込みたいところは色々あります(笑)。

おそらく、この「しょいこさ」さんは、カンバンタと宇連の間の海老峠の峠道を専ら担当していて、カンバンタを中継地として川売・海老や四谷・神田へと運ぶ「しょいこさ」さんへ荷物を引き継いでいたのでしょう。これだけでも、現在では人の往来が全くない山の中の廃道が、かつては頻繁に利用されていたことが十分伺えます。

「海老峠」の峠道が記載されている旧版地形図です。もう一方の「カンバンタ山道」と思われる道は記載されていません。まだまだ徒歩交通が盛んな時代、話通りの利用状況なら地形図に載っていてもおかしくはないのですが…。

※5万分の1地形図「本郷」:明治41年(1908年測図)・昭和5年(1930年)鉄道補入・昭和7年(1932年)発行

さて、「カンバンタ山道」については、2022年4月9日に新城市四谷側の仏坂峠の峠道から進入して探索しましたが、道筋は途中で途絶えました。また、峠越えする場所も複数の鞍部を探索しましたが、切り通しなどの目印となるような場所が見当たらず、特定するには至りませんでした。

今回は目線を変えて、新城市海老川売側から進入して「カンバンタ山道」の道筋を探索し、時間があれば海老峠へと至る峠道の探索も行うつもりです。

朝8時15分、川売集落下の駐車場所へとやって来ました。ここから川売集落内を通り、「カンバンタ山道」へと向かいます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

川売集落を見上げています。ご覧のとおり、海老から続く谷川の谷が行き止まりとなる場所になります。


川売集落を通り抜けた場所にある「猿ヶ岩」。私はあまり猿の顔に似ているとは思えませんでした。似たように見えるアングルがあるのかもしれません。


ここで棚山高原へと向かう林道と別れて左側へと分岐します。


しばらく歩くと次の分岐点が現れます。古道を通らずに山の奥へと進むのであれば林道を直進ですが、できる限り古道をなぞって進みたいので、ここは左側へと曲がります。


川に洗い越しがありました。横溝が入っているタイプは初めて見ますね。


この洗い越しを渡ってすぐの場所から「カンバンタ山道」へと入ります。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

どの程度残っているのか心配でしたが、まずのところは辿れる程度に道跡は残っています。




林道と交差して直進していきます。


程なくして林道へと出てきました。この先にも道跡があるように見えますが、ここからしばらくは林道を歩いていくことにします。


それでもはっきりと古道が残っている場所は、その都度古道側を歩いていきます。


林道に関してはすっかり廃道化しています。これだけ洗掘が進んで路面がボロボロになっていると、トラックや軽トラでは入ってこられないでしょう。まあ、こういう路面が大好物な方もみえるわけですけどね(笑)。






この場所で林道は高度を稼ぐために大きく迂回していきます。古道は川沿いを直進するため、ここで林道と再び別れます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

川には砂防ダムが連続して設置されています。この状況ではしばらくの間、古道は埋もれてしまっているかもしれません。




再び道筋が姿を現しました。


折り返しを登っていきます。


折り返しの先はしばらく急坂が続きます。




川へと近づいてきたところで古道の道筋が消えてしまいました。落石で埋もれてしまったようです。真上を林道が通っているので、その影響かもしれません。




仕方がないので、ここからは川の中を歩いていきます。

対岸から流れ込む滑らかな沢に巨石が乗っかっていますね。落石なのか、沢の奥から徐々に流れてきたのか。何とも言えない変な光景です。




またもや砂防ダムが現れました。


昔の砂防施設の跡のようです。


何となく道筋らしきものがあるので、ひとまず辿っていきます。




また砂防ダムです。


らちが明かないので林道へと出ました。ここまで土石に埋もれてしまうと、もはや林道なのか?と思ってしまいますが(笑)。


「カンバンタ山道」の峠擬定地に向けて方角だけ合わせて適当に歩いていると、作業道に遭遇しました。しばらく歩いていってみることにします。




最後の砂防ダムを過ぎると作業道は徒歩道へと変わりました。


路肩に石積みを見つけました。徒歩道に石積みがあると、手を入れる必要がある道だったのだと少々期待してしまいます。


深い雨裂が現れました。対岸には道筋が見えているので、上流側へと迂回して対岸へと渡ります。


折り返しを通ります。


折り返しを過ぎたところで道が無くなってしまいました…。周囲を見渡しますが、続きとなる道筋は見い出せません。本当に「カンバンタ山道」は峠越えの道筋を拝ませてくれませんね…。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

先程の道の折り返しまで引き返し、沢を渡ってさらに右隣の谷筋へと移動します。


まだこちらの谷筋の方が鞍部へと取り付きやすそうです。


谷筋の源頭部まできました。あとは斜面をよじ登って鞍部へと出るだけです。


カンバンタ峠の擬定地へと来ました。私の中では、この場所が峠の最有力地なのですが、いかんせん、この鞍部の前後に人が往来したと感じさせるだけの道筋がないのです。まあ、この尾根のどこにもそのような場所は発見できませんでしたが…。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

峠擬定地から川売方面へと進む細い道筋(獣道よりはマシな程度。)を進んでいくと、違う尾根の上へと出てきました。


他に進む道筋は無いので、そのまま尾根を下っていくと鞍部が現れました。しかし、この鞍部にも人が往来していたような道筋は付いていません。ここで「カンバンタ山道」の事はあきらめて、「海老峠」の峠道の探索に切り替えます。


「海老峠」への峠道が通っていたと考えられる谷筋へと移動するため、鞍部を左へと曲がり、緩斜面をどんどん下っていきます。


滑沢の中を進んでいきます。


さらに小さな稜線を越えて、峠道が通っていたと考えられる谷筋へと出ました。


河原へと下りて周囲を見渡しますが、これだけ岩石に埋め尽くされていると、どこに峠道が通っていたのか見当が付きません。ひとまず、旧版地形図と登山用アプリを頼りに登っていってみます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

植林地の終端がありました。土地の境と考えられるので、道筋の名残りかもしれません。どんどん登っていってみます。




どんな山奥にも残っている炭焼き窯の跡。


巨石に埋め尽くされた急峻な枯れ沢。この先のどこに「海老峠」への峠道は通っていたのか…。精度が甘い旧版地形図に記載されている道筋を辿るのは、現行地形図と比較しながらでも厳しいです。読図力が無いと言えばそれまでですが、昔の測量に元づく地形と現在の測量による地形では、山や谷の形が異なっていることがけっこうありますからね…。


峠道は、この辺りで右側の稜線へと登ってから峠へと向かうように記されているので、斜面へと取り付いて、それらしき道筋がないか獣道を歩いて探してみます。急斜面なので、けっこう緊張します。


それらしき道筋をようやく見つけました。


稜線をぐるりと回り、先へと進むと断崖の道…。いや、本当に道なのか?荷物を背負った人が歩いていた道なのだから、もう少し幅はあったはず。岩の段差が道に見せているだけなのか?


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

取りあえず少し踏み込んでみましたが、見渡せる限りでは道に見えなくもない。しかし、土砂が積もり、ずっと谷側へと傾斜している状態。ここで探索を断念しました。私のレベルや感覚ではこの先に進むのは怖い…。

あきらめついでに、眼下に見えていた滝まで急斜面を下って行ってみました。これまで鬱蒼とした山の中、高い湿度に包まれて汗だくになって歩いていたので、滝の水が冷たくて気持ちいいです(笑)。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ここまで下りてしまったら、もう一度先ほどの引き返し地点まで登り直すのも面倒なので、このまま沢を下っていきます。


林道の終点へと出てきました。ここからは林道を歩いて車へと戻ることにします。まあ、廃道化した林道なので、崩れたりしていなければいいですが。


道中で見かけた廃車。


洗い越しまで来ました。ここでも沢の水で顔や腕の汗を流します。


川売集落の対岸にある田んぼが見えてきました。車まではもうすぐです。


今回歩いた探索ルート図です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ということで、今回も「カンバンタ山道」絡みの探索、成果なく撤退となりました…。「鳳来町誌 交通史編」に記載されているとおりであれば、もっとしっかりとした道跡が付いていると思うのです。今までいろいろな古道を歩いてみましたが、けっこうしっかりとした痕跡があったものです。でも、ここの峠道にはそんな名残りが無い…。

「カンバンタ山道」、もっとしっかりとした記録が残っていないのかなぁ。現存していなくとも、道筋が確定できればもう満足なんですが…。

あとは、「海老峠」。あれだけ石に埋め尽くされた谷筋を通るのであれば、痕跡が見つけられないのは仕方がないですし、地形図で見ると峠付近の等高線が密なので、峠付近の道跡がもともと険しい可能性は否定できません。

次は、宇連集落側からの探索かなぁ。宇連集落は廃墟好きの方々には知られた廃集落。鳳来湖から集落へ至る林道が狭いそうで、その点は気がかりですが、集落から峠までは行ける可能性はあるかもしれません。

山行記録で「海老峠」と宇連集落の間を歩いた方の記録自体はネットにあったのですが、歩いたルートが旧版地形図の道筋と違っていたので、残念ながらそれは参考にはできません。いつものように、旧版地形図という手がかりと自分の勘を頼りに探索するしかありませんね。
Posted at 2023/08/11 15:48:25 | コメント(0) | トラックバック(0) | 旧海老街道 | 日記
2023年08月08日 イイね!

【奈良県川上村】大鯛木馬道を歩く

2023年7月15日土曜日、奈良県吉野郡川上村中奥に残る「大鯛木馬道」を歩いてきました。この木馬道は1944年(昭和19年)に開通したもので、全長は2kmです。

「大鯛木馬道」を知ったきっかけは、廃道の本であった気がするのですが、どうにも思い出せません。手持ちの廃道関連本には見当たらないんですよね…。

とにかく、せっかくの三連休なので、日ごろ行きづらい場所へ行ってみようかと思い立ち、あらためて「日本の廃道」第79号や訪問者のブログなどをチェックして現地へと向かいました。

さて、やって来たのは川上村中奥にある「中奥地区簡易水道浄配水場」前の広場。正しくは林道大鯛線の終点転回場なんだと思います。


場所はこちら。浄配水場へたどり着くには、川上村白川渡で国道169号から奈良県道258号中奥白川渡線へ入り、中奥川沿いにところどころ行き違い困難区間がある狭い県道を中奥集落まで進みます。中奥集落からは林道大鯛線(一応舗装路。実態は苔で舗装されていたり(笑)、舗装がボロボロになっている状態。)の急坂を登っていきます。林道へ入ってからは、途中何度か停まっては落石を路上から取り除いて進みました。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

準備ができたところで、浄配水場の前から折り返していく林道を登っていきます。


2~3分ほど歩くと、斜面に取り付けられた階段が現れます。大鯛木馬道へ行くにはこの階段を登ります。まあ、階段というよりも梯子と言ったほうが正しい気がします。しかも、一部踏み板が腐食しているので要注意です。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

階段を登ると大鯛木馬道です。が、目の前には細い踏み跡があるだけです…。おそらく、駐車場所から登ってきた林道が造られた際に削られてしまったのでしょう。


細い踏み跡なのは取りあえず大丈夫なのですが、ここでいきなりマムシとにらめっこになってしまいました…。まだ子どものようですが、マムシですからね…。いつまでたっても全然動いてくれる気配がなかったので、仕方なく高巻きして前方へと移動しました。

マムシがいた場所を越えると、まともな道になりました。


岩盤を切り取って造られた道が続いています。




岩盤剥き出しの沢が現れました。まだほんの序盤なのですが、私にとってはいきなりの難所です。道から沢へと下りることはできますが、岩盤全体がぬめっているように見えます。もしも滑ったら、すぐ真下は高い段差になっているので万事休すです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

沢へ下りて、下流を眺めています。ここから真横に進むと、ヌルヌルの岩盤の上を歩くことになるので精神衛生上よろしくない。そこで、足場になる苔や落ち葉が積もっている場所を選んで上流側へ迂回し、対岸へと取り付きました。


対岸から振り返っての眺めです。道の路肩に石垣が積まれています。路肩を補強するための擁壁ですね。


結局、このようなルートで沢を渡りました。




せっかく難所を越えましたが、ふたたび狭い道幅に戻ってしまいました。


2つ目の沢が現れました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

沢底からの眺め。踏み跡をなぞって沢から脱出します。


この沢は、1つ目の沢に比べると特に悩むこともなく通過できました。対岸を振り返ると、石垣がわずかに残っています。


渡ったルートはこちら。


ここも石垣がしっかり残っています。こんな場所で石垣が崩れていたら、進めなくなってしまいます。


崖上の切り取り工の道を進みます。


わずかな間だけ植林地を通過します。


3つ目の沢です。この沢には石積み橋台が残っています。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

対岸を振り返っての眺め。向こう側にも石積み橋台が残っています。


この沢は山側を通過していきます。




ふたたび植林地です。灌木帯の中を進んでいきます。


4つ目の沢です。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

今のところは、後から現れる沢の方が難易度が低いですね。




ふたたび崖上へと出てきました。眼下には大鯛滝が見えてきたので、目的地まではあとわずかのようです。


その前にこの場所にある横穴へちょっと寄り道です。


中はすぐに行き止まり。下手に身を乗り出すと、下へ向かって広がっている部分へ落ちてしまうので、注意します。


そして、ようやく目的地である大鯛木馬道の素掘り隧道に到着しました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

隧道の手前の路面が切れ落ちています。この道、木馬道そのものを訪れる人や、さらにここから白鬚岳へと登山する人も通るので、安全確保のため(通過時にバランスを保つためのものかと。)トラロープが設置されています。


下流側の坑口は、谷側が大きくえぐれています。掘削しているうちにこのような形になったのだと思います。


4つ目の沢を渡ってからずっと急な登り坂ですが、隧道の中もそのまま急坂が続いています。


内壁は荒々しく削られたままの状態です。


上流側の坑口へと出てきました。隧道の先も絶壁の上を通っています。


「木馬道」の名残りと考えられている木材。


「木馬道」(きんばみち、きんまみち、きうまみち。)は、伐り出した木材を「木馬」と呼ばれる「そり」に積んで搬出するために造られた道です。「木馬道」には、摩擦を減らすために「盤木」と呼ばれる丸太などが敷かれていて、「木馬」はその「盤木」の上に乗せられ、人力で曳いていました。

この「木馬」による搬出は、かつてはごく一般的な搬出方法だったそうですが、下り坂の「木馬道」で重量物である「木馬」を人力で曳いたり止めたりするわけですから、大変危険な作業であったそうです。

せっかくなので、もう少し先へと歩いていってみます。


大鯛滝の上まで登ってきています。


滝口を過ぎると、今までの崖上の道から穏やかな渓谷へ沿う道へと景色が変わります。






褶曲活動でねじ曲がった岩盤。


5つ目の沢が出てきました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

沢を越えるためには、一旦沢底へと下りて、流れの中を下流方向へ歩き、そこから道へと登り直す必要がありました。越えることはできそうでしたが、沢の中に段差があり、そこで服を濡らすことになりそうだったので、今回はこの沢で引き返すことにしました。


素掘り隧道へと戻っていきます。




滝口から下を覗いてみますが、滝壺までは見えません。


崖上の下り坂を慎重に下っていきます。




素掘り隧道まで戻ってきました。


この景色を直接見たくて、ここまで来たんですよね。


写真だと本当にわかりづらいですが、隧道内も急坂であることが多少は感じられると思います。






こんな崖上の狭くて急な坂で木材を積んだ「木馬」を引いて下っていたなんて、恐ろしい話です。

隧道内の写真を撮っていると、坂の下で待っている人がいるのに気が付きました。「これはいけないな。」と、道を譲るために下まで下りていきました(ただし急坂なので慎重に。)。


近くまで下りていくと、いかにも登山者だという風体の方が待って見えました。

登山者:「もう(木馬道の)終点まで往復されたのですか?」
私:「いえ、すぐ上の沢で引き返しました。この坂をゆっくりでしか下りられないような素人ですから。」
登山者:「(笑)。まさかほかの人が来ているとは思いませんでしたよ。それじゃあ、気をつけていってください。」
私:「ありがとうございます。お気をつけて。」

確かに、こんな場所で他人と遭遇するのは珍しい事。動物と遭遇する確率の方がよっぽど高いでしょう。

とにかく目的は果たしたので、まずは無事に車まで戻ることに専念します。

立ち話をした場所から20分ほどで階段まで戻ってきました。ここも、踏み外さないように慎重に下りていきます。


無事に車まで戻ってきました。後ろの車は先ほどすれ違った方の車でしょう。


ここで上着にヤマビルが1匹くっついていることに気がつき、指で弾き飛ばしました。


今回の探索ルート図です。距離としては往復2kmほどと、最近では短い部類の探索となりましたが、内容が濃くて満足でした。引き返した先にもまだまだ木馬道は続いていますが、過去の訪問者のレポートを読む限りでは、あまり「成果」のある雰囲気ではないようです。ただ、紅葉が綺麗らしいので、晩秋に再訪するのも良いかもしれませんね。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
Posted at 2023/08/08 23:52:14 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記

プロフィール

「【豊根村】霧石峠への富山漆島側峠道を下見しました http://cvw.jp/b/1796277/47676277/
何シテル?   04/25 00:05
「小林あに」と申します。よろしくお願いします。 休日はドライブしたり、廃道となった旧道や峠の古道を歩いてみたり(煉瓦製のトンネルや暗渠も好物ですが、最近は...
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2023/8 >>

  123 45
67 8910 1112
13141516171819
2021 22232425 26
2728293031  

ブログカテゴリー

リンク・クリップ

東海道本線旧牧之原隧道と宇津谷隧道 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2023/12/10 07:32:18

愛車一覧

スバル インプレッサ WRX STI スバル インプレッサ WRX STI
所有4台目(4代目)となるインプレッサ。 ガチガチのマニアというわけではないですが、4 ...
スバル インプレッサ WRX STI スバル インプレッサ WRX STI
平成16年夏に購入。 自身3台目のインプレッサとなります。 購入理由は、2台目インプレ ...
スバル インプレッサ WRX STI スバル インプレッサ WRX STI
平成9年夏購入。 インプレッサ2台目。 行きつけの車屋さんへタイヤ交換の依頼をしに行っ ...
スバル インプレッサWRX スバル インプレッサWRX
平成7年夏購入。 インプレッサ1台目。 購入動機は、WRCのビデオを見たのが一番。 ...
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation