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小林あにのブログ一覧

2021年05月30日 イイね!

旧別所街道開削以前の太和金峠の峠道を探索する

2021年5月30日日曜日、北設楽郡東栄町と豊根村の境にある太和金峠へと行ってきました。

現在の太和金峠は、国道151号が新太和金トンネル(延長685m)で通過しています。このトンネルは2017年(平成29年)に開通し、太和金峠を越える道としては四代目になります。


新太和金トンネル開通以前は、1958年(昭和33年)に開通した太和金トンネル(延長395m)が峠越えのルートを担っていました。このトンネルは、開通年代が古いためにトンネル内部の規格が小さく、乗用車同士でもすれ違い困難でボトルネックとなっていました。

それに加えて、2011年(平成23年)にはトンネル内部で土砂崩落が発生。老朽化も懸念されて、新太和金トンネルへと切り替えられました。現在はフェンスで封鎖され、通行止めとなっています。

太和金トンネル東栄町側坑口。


東栄町側から見たトンネル内部。


豊根村側の坑門。


トンネル諸元を記した銘板。


豊根村側坑門から見たトンネル内部。


太和金トンネルへ立ち寄ったのは5月29日土曜日でしたが(単なるドライブでの寄り道。)、翌日の5月30日日曜日、ふたたび太和金トンネルの前へとやって来ました。


2017年5月に太和金峠から東栄町側に残る太和金トンネル開通以前の旧国道(旧別所街道でもある。)を歩いたことがありますが、今回はその旧別所街道の峠道が開削された1897年(明治30年)よりも以前の峠道を探索するために訪れました。

さっそく長靴に履き替えて、旧旧旧道(新太和金トンネルから見て。)に当たる峠道へと出発します。まずは、国道のガードをくぐり、谷底を流れる沢へと向かいます。


歩くこと数分で沢に着きました。ここから沢沿いに峠へと登っていって道跡を探索していきます。


砂防ダムを乗り越えていきます。


砂防ダムがあることで沢が埋まり、道跡が消えてしまっていないか心配でしたが、幸いにも明瞭に残っていました。






沢に架けられた丸太橋の先に道跡が続いているので、丸太を渡り進んでいきます。




2か所目の丸太橋(と言っても沢に転がしてあるだけの状態。)を過ぎると、道跡は右へと折り返して斜面へと登っていきます。


ほどなく今度は左折します。


徐々に荒れてきましたが、まだ道跡は残っていて追うことができます。


ふたたび沢を渡ります。




この先から間伐材と薮の絡み合いが酷くなり、道跡を辿るのが困難になります。




これ以上歩き進めることは大変なので、頭上に接近していた旧国道の峠道へと登り出ました。


場所は地図中の十字マークの地点になります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

旧国道から道跡があった付近を覗き込んでみましたが、それらしいものは見当たらず、この辺りで旧国道に吸収されてしまったようです。

この地点で沢を峠直下まで詰めていたので、3~4分ほどで太和金峠に到着しました。




場所は地図中の十字マークの地点になります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

峠にある石仏。光背には文化十二年(1815年)とあります。


今回も峠の切通しの上に登り、周辺を見渡してみましたが、やはりこの石仏以外のものは見当たりませんでした。

峠から下るとすぐに林道へと合流します。左側の道が旧国道になります。




旧国道(旧別所街道)は山肌に沿って左へと大きくヘアピンカーブで曲がっていきますが、旧別所街道以前の峠道はここを真っ直ぐに下っていきます。


場所は地図中の十字マークの地点になります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

U字型の道跡は間伐材で埋め尽くされています。


50mほどの所で道跡は右へと折り返していきますが(写真は峠を振り返って撮影。)、ここからは直進方向へと分岐しているもう1本の道跡を追ってみます。




ちょっとした堀割りを抜けます。


堀割りを通り抜けると尾根道へと変わります。幅は狭いです。




真下には新太和金トンネルを通り抜けた国道151号が見えています。


尾根にある小さなピークを右側へと避けて進むと、道跡は下り始めます。




また堀割りが現れました。


尾根の先端部をつづら折りの道で下っていきます。


峠下で分かれたもう1本の道と合流しました。帰りはこの道を辿って峠へと登ることにします。


峠の下にある路地へと合流しました。左側へと進めばすぐに国道151号です。正面の塀の向こう側はかつてはガソリンスタンドでしたが、今は空き地になっています。


場所は地図中の十字マークの地点になります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

峠道の出入口には祠があり、神様と石仏が祀られています。


右側へと分岐して登っていく道が太和金峠への峠道です。正面の木の裏側に祠があります。


国道へと出てきました。正面の橋は津川橋。渡った先は国道151号と設楽町津具へと向かう愛知県道428号の交差点です。


木々に覆われていてわかりにくいですが、津川橋の下流側には旧橋の石積み橋台が残っています。




車へと戻るため、太和金峠への峠道をふたたび登っていきます。


行きに通った尾根道よりは道幅があり、坂も緩めに造られています。


ただ、こちらの道も間伐材がたくさん転がされていて、道跡を辿るために木を乗り越えたり潜ったり迂回しながら少しづつ登っていきます。








旧国道まで戻ってきました。


場所は地図中の十字マークの地点になります。登ってきたルートは青線になります。


「愛知の歴史街道」に記されていますが、行きに通った尾根道が旧道、帰りに登ってきた道が新道のようです。確かに、尾根道は最後のつづら折りが急で、荷馬の通行には向いていないので、荷馬の通行が盛んになった頃に道を付け替えたのでしょう。

ここからは旧国道を国道合流地点まで歩き、そこから車へと戻ることにします。

太和金峠。


旧国道(旧別所街道)。










国道との合流地点まで来ました。


場所は地図中の十字マークの地点になります。津川橋からここまで歩いてきたルートは青線になります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ようやく車へと戻ってきました。約3時間、約4.5kmの行程でした。障害物が多かったので、距離の割には時間が掛かりました。


これで太和金峠を徒歩道で越える一番古い時代の峠道のルートを踏破できました。奥三河の主要道路である明治県道「別所街道」が太和金峠を経由するようになったのは、1894年(明治27年)から1897年(明治30年)にかけて本郷(現東栄町本郷)から上黒川(現豊根村上黒川)まで車道(馬車道・荷車道)が開削されたことによる指定替えですが、それ以前の道は何と呼ばれていたのか、どんな格付けの道だったのかはわかりません。


ルート的には、現在の東栄町振草から新城市海老へと向かう海老街道(振草道・ふりくさ道)の延長線上にあるので、別所街道に指定される以前から交易の道として利用はされていたのは間違いないでしょうね。
Posted at 2021/05/30 23:36:34 | コメント(0) | トラックバック(0) | 別所街道・国道151号 | 日記
2021年04月14日 イイね!

愛知・長野県境 旧新野峠の古道を探索してきました

2021年4月10日土曜日、愛知県と長野県の県境にある旧新野峠の古道を探索してきました。2月下旬に膝を痛めてから山中を歩く古道探索は控えていたので、前回の探索から約2か月ぶりの活動再開となります。

峠付近の地図はこちら。ひとまず、国道151号の新野峠から長野県側にある旧道の路肩(星印の場所)に駐車しました。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。



現在は、かつての別所街道である国道151号が県境を通過する場所を新野峠と呼んでいますが、旧の新野峠はさらに西方にあったそうです。

戦前の地形図には徒歩道として記されていて、図中の赤線がその峠道となります。


※5万分の1地形図「根羽」:明治41年(1908年)測図・昭和8年(1933年)修正測図。

それでは、駐車場所から国道151号に向けて旧国道を歩いていき、古道らしきものがないか確認していきます。

駐車場所からヘアピンカーブを一つ通り抜けた場所で、峠方向へと登っていく道跡を見つけました。さっそく突入してみます。





鮮明に道跡が残っています。



と思いましたが、すぐにあいまいになってしまいました。少し周囲を歩き回り、写真中、左斜めへと向かっている窪地を道跡と判断して進みます。



ここは明確な道跡があった右方向へと進みます。





少し進むと堀割りに合流しました。先程、右へと曲がりましたが、真っ直ぐ進んでもこの地点へ出たようです。



峠へと向かう道筋が幾筋もあるというのも、今までの経験則からままあることです。

もう峠が近い雰囲気になってきました。



坂を登り切ったところで、道跡は平坦な地形を右へとカーブしていきます。





切通しを通り抜けたり、鞍部を越えたりする、いかにも「峠」といった感じではなく、少々肩透かしな気分です。

正面に石仏が見えてきました。どうやらここが古来の新野峠のようです。



「愛知の歴史街道」によると、この石仏は「聖観音」像で寛保二年(1742年)の銘が刻まれているそうです。



石仏の右側に上へと登っていく道があるので行ってみることにします。



「金刀比羅大神」と刻まれた大きな石碑が立っていました。側面には「明治二十八年(1895年)八月建立」とありました。



石仏から先の道跡を進んでいきます。



この辺りは地形がなだらかなためか道跡が不鮮明で、わずかに窪んだ道筋や木の生え方を頼りに先へと進んでいきます。





倒木や薮で荒れてしまい、このまま進んでよいものか迷ってしまいます。



もう少し進んでみると道跡が復活してきました。





100mも進まないうちに、今度は道路で切断されてしまいました。



道路からさらに先を眺めてみると、道跡らしき窪地が見えています。



ひとまず道跡で間違いないでしょう。





道跡が切り刻まれた木材で埋もれてしまっています。



程なくして旧国道へと出てきました。短いですが、今回の探索としてはこれにて終了です。新野峠の古道は、このまま正面の谷へと下っていっていたそうです。



ここまで歩いてきたルートは図中の青線となります。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

帰りは大回りになりますが、そのまま国道151号を歩いて車まで戻りました。

国道の新野峠にある国道標識と「長野県・阿南町」の案内標識。



国道151号の長野県管理区間のスタートとなる0kmポスト。



車へと戻ってきました。



今回探索した旧新野峠は別所街道の後身である国道151号沿いにある峠ですが、別所街道に指定されたことはなかったようです。

明治9年(1876年)に「渥美郡豊橋驛より長野縣伊奈郡界に至る」三等県道として別所街道が指定された当時、新野峠付近では現在の愛知県道74号に相当するルートが指定されていたようで、明治30年代に別所街道の車道(馬車道・荷車道)改修に伴い、新たに指定されたのが現在の国道151号ルートでした。

なので、旧新野峠を通る道が何と呼ばれていたのかわかりませんが、江戸時代には峠に石仏が置かれたり、明治時代に入っても石碑が建てられたりしているので、人馬の往来はそれなりにあったのでしょう。

さて、探索を終えて、そのまま道の駅「信州新野千石平」まで移動。ここで昼御飯を食べて一息つきました。



その後の帰り道も、あちらこちら寄り道しながらのんびり帰りました。

根羽村の旧国道153号に残る国道標識。



同じく根羽村の「月瀬の大杉」。







豊田市連谷町「伊世賀美隧道」。





Posted at 2021/04/14 23:11:02 | コメント(0) | トラックバック(0) | 別所街道・国道151号 | 日記
2021年01月19日 イイね!

別所街道 望月峠から車へと戻る

(「東栄町御園と豊根村古真立を結ぶ古道を探索する」からのつづきになります。)

2021年1月16日土曜日、北設楽郡豊根村の別所街道の峠「望月峠」へと至る峠道を登り、引き続き、東栄町御園と豊根村古真立を結ぶ古道を探索してきました。

豊根村古真立への古道を引き返し、尾根を通る林道へと戻ってきました。



ここからは、この林道を西へと進んで望月峠へと出て、そこから峠道を下って駐車場所へと戻ることにします。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

舗装林道を左へと曲がると御園トンネルの前へと下っていってしまうので、右側の砂利道の林道へと入ります。



砂利道の林道を歩き始めた頃から、雨がパラパラと降りだしてきました。

林道らしい強引な急坂を何か所か登り、望月峠へと出てきました。



雨が段々と本降りになってきていますが、せっかくなので峠の名前の由来となった望月右近太夫の祠へと向かうことにします。

歩いてきた方角からすると右側の斜面、笹原の中のきれいに刈り込まれた真っ直ぐな道を進むと祠に突き当たります。



ちょっと長いですが伝承の話を。

望月右近太夫は武田方の一員として織田・徳川連合軍との間で戦われた「長篠の戦い」に参戦しましたが、ご承知のとおり武田軍は敗北。望月氏も領地である信州望月の地へと逃れるため、命からがら東栄町御園の地まで落ち延びてきました。

そして、傷を負い疲れ切った体と空腹を癒すため、見つけた一軒の家を訪ねました。家から老婆が現れ、「炒った大豆ならある。」と差し出され、望月氏はその大豆を丁寧に皮をむいて食べました。

そのような所作を見て老婆は、「身分ある武将に違いない。首を取って恩賞に預かろう。」と思い立ち、望月氏には袋小路となる道を教え、その隙に村人たちへ自分の策略を伝えました。

騙されて袋小路に追い詰められ、村人たちに囲まれた望月氏は観念し、「せめて信州の風を感じられる峠で自分を弔ってほしい。」と言い残して自刃しました。

ところが村人たちは、望月氏から鎧や刀、金目の物を奪った後、願いを聞き届けて弔うどころか、彼の遺骸をそのまま放置して立ち去りました。

その後、御園の地に病がはやり、「望月右近太夫の祟りだ。」ということで、あらためて遺骸を弔い、峠へ祠を建てたとのことです。やがて、この祠は「望月様」と呼ばれ、峠の名も望月峠となりました。

この話がどこまで史実に基づいているものかはわかりませんが、戦国時代の情け容赦のない、食うか食われるかという時代性を垣間見せてくれます。

話によっては、自刃した後、ねんごろに弔われたというものもありますし、夫を追って逃れてきた望月氏の妻が設楽町神田の地で殺されたという話もあります。

今も祠の周りはきれいに刈り込まれ、花立てや酒瓶もあり、それなりに手入れがされて、お参りもされているように感じました。

さて、依然雨は降り続いています。正直、傘もカッパも持参していないので(天気予報は晴れで、降水確率は20~30%だった。ちょっと微妙でしたが。)、だんだん濡れてきています。

本来なら一旦峠へと戻って、林道を下っていく方が楽なのですが、林道沿いには雨を避けられるような木々が無くて吹きさらし。もっとずぶ濡れになる確率大です。

ここで思ったのが、「祠の後ろにも道は続いているし、そっち行った方が木々が生い茂っているから、あまり濡れずに済むんじゃないの。」ということ。

あんまりもたもたしていると日が陰って暗くなってしまうので、「山の上でも何でも行ってやるわ!」と山の頂上へ向かって急坂を登っていきます。



途中、2~3回立ち止まりましたが(笑)、頂上へ到着です。ここからは尾根の上を歩いていくようです。



道のように歩きやすい尾根が続きます。





尾根が終わり、急坂を下っていきます。



坂を下りた所に中部電力が設置した電波反射板への案内標識が立っています。自分が行きたい方角にも合っているので、同じ方向へと進みます。



小さなピークへと登り、落ち葉に覆われた小さな岩場を進んでいきます。





左右で林相が全く違っています。左側はなぜ植林しなかったのでしょうか。



尾根の左半分、これは道ですね。もしかしたら容易に山の下へと降りていけるかもしれません。



また電波反射板の案内標識があります。ここまで来たら、電波反射板まで行ってみましょう。



電波反射板に着きました。この道中で最初に見たものよりも大きいですね。



寄り道はこれくらいにして、林道へと下りることにします。幸い、雨も止んできました。





途中からは杉林の中を進みます。作業道が尾根まで伸びてきた道だったようです。林の中はすでに薄暗くなっています(本当は写真よりも暗くなっています。)





林道望月峠線へと出てきました。ここは左へと曲がっていきます。



そして50mほど進んだら、右へと曲がります。これで望月峠の峠道に合流です。



道の分岐点に来ました。左斜めへと行く道が、峠へと登ってきた時に通った道です。あと、わかりづらいですが、真っ直ぐ行く道もあります。帰りは真っ直ぐ行く道へと進んでみます。



今のところは作業道ですが、多分このまま進めば、登ってきた時に分岐していたもう一つの峠道になるはずです。



道が下り始めたところで作業道は終わりましたが、その先にある倒木で見通しが効きません。とりあえず倒木の先へと進みます。



最初の倒木を越えた後も点々と倒木がありますが、地面を削って造った道跡と思しきものも出てきました。



尾根の左側が逆L字に削り取られています。これは峠道で間違いないでしょう。





細尾根の土手道へと出てきました。登りの時に通った峠道が左側から合流してきます。



おそらく、最初に尾根上を通る道があり、後になって、尾根上へと登る坂を通らずに峠へと向かえるように尾根の中腹を登る道ができたのでしょう。

ここから先は分岐はないので、登りに通ったとおりに峠道を下っていくだけです。

麓側から一つ目の細尾根の土手道。



堀割り道が連続で折り返す、つづら折りの道。



ここで尾根から離れて、一気に麓へと下っていきます。



下の方が明るくなってきました。峠道の出入口まであと少しです。



この時点で、両足の親指の爪に荷重がかかると激痛が走り、悲鳴を上げながらの下山になっています…。急な下り坂なので、どうしてもつま先で踏ん張るかたちになり、その時に親指の爪が押されてしまうのです(泣)。

やっと豊根小・中学校前にある峠道の出入口に出ました。



車に到着です。これでやっと腰が下ろせる、体を温められる…。



車をスタートしたのが9時20分、帰ってきたのが15時ということで5時間40分。何度も小休止をはさんでいるので、歩いていた時間はおよそ5時間でしょうか。

今回歩いた全行程のルートです。赤線から青線と進み、青線の終点から引き返して、途中からは緑線へ。緑線から赤線へ合流したら図中上方向へ進んで車へ帰着の順です。歩行距離はおおよそ13km~14kmでした。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

望月峠の峠道については、事前にはこれほど良好に道跡が残っているとは思っていませんでした。明治30年(1897年)まで県道別所街道として使われていながら車道改修を受けていないため、徒歩通行主体の江戸時代の街道の雰囲気をよく残している峠道だと思います。

峠道の距離自体は手頃なものなので、地元自治体などで整備して(適度にね。)ハイキングコースとしてPRすればいいのにと感じましたね。
Posted at 2021/01/19 11:47:20 | コメント(0) | トラックバック(0) | 別所街道・国道151号 | 日記
2021年01月17日 イイね!

別所街道 望月峠道を歩いてきました

2021年1月16日土曜日、愛知県北設楽郡豊根村にある別所街道望月峠までの峠道を歩いてきました。

ここ望月峠は、愛知県内の山登りをされる方や自転車乗りの方のブログなどに出てくる峠であり、また昔から東三河と信州を結ぶ街道の峠でもあったことから、峠の名前にまつわる古い伝承もあります。

ただ、この峠を訪れる人は、たいていは北設楽郡東栄町御園側から登るようで、豊根村側から旧街道を登って訪れたという記事は見かけませんでした。

周辺の地形図はこちら。地形図上部の星印からスタートして、地形図下部の望月峠を目指します。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

しかし、ご覧のとおり、現在の地形図では、スタート地点と望月峠を結ぶ道は記載されていません。

次に戦前の地形図です。こちらには赤線で印をしたように、豊根村と望月峠を結ぶ道が里道(聯路)として記載されています(青線は別稿になりますので、今回は無視してください。)。

※5万分の1地形図「本郷」:明治41年(1908年)測図・昭和5年(1930年)鉄道補入・昭和7年(1932年)発行

ちなみに、本稿の表題では「別所街道」望月峠としていますが、この地形図が測図された時点での「別所街道」はルートが変更されており、望月峠を通過しない図中左側の緑線ルートになります。これは現在の国道151号ルートに相当します。

※5万分の1地形図「本郷」:明治41年(1908年)測図・昭和5年(1930年)鉄道補入・昭和7年(1932年)発行

※余談:豊根村から長野県境にかけても、現在の国道151号と違うルートを通っていた時代があり、望月峠の峠道の途中から豊根村下黒川を経由し、小田峠を越えて長野県境の新野峠へ向かうルートだったようです(赤線から右側へと別れて、図中中央上側へと至る黄線。)。

「愛知の歴史街道」によると、新ルートの建設(おそらくは旧来からの道の大規模改修工事。)は明治27年(1894年)に起工され、北設楽郡東栄町本郷を起点に太和金峠を越えて豊根村上黒川までが明治30年(1897年)に開通しました。この新ルートが開通した時点をもって、別所街道は望月峠経由から太和金峠経由へ変更されたわけです。

あらためて現在の地形図上に整理すると以下のようになります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

前置きが長くなりましたが、望月峠への峠道を歩いていくことにします。

やって来たのは、豊根小・中学校前の道路。


ここの路肩に車を停めて峠へと向かうことにします。周囲は思ったよりも雪が残っていたので、雪中やぬかるみでの歩行を想定して、長靴を履いていくことにします。

ここが望月峠への峠道の入口になります。


地形図に記載のない古道の取り付き口というのは、探すのに手間取ることがままありますが、今回は「ここしかないだろう。」というくらい、あっけなくわかりました(笑)。

林の中へ入ると初っ端から急坂です。これでは、明治時代に入って車道(馬車道・荷車道としての車道。)としては使えず、新道が建設されるのも当然です。


いきなり息切れしてしまいますが(笑)、急坂の頂上が見えてきました。


しかし、頂上の先を右へとカーブすると、坂の勾配がさらにきつくなっています…。


山側の斜面を削って、わざと道を蛇行させています。少しでも迂回させて距離を長く取ることで、勾配を緩くするためでしょう。


坂道の勾配が緩くなってきました。


前方に堀割り道が見えてきました。間もなく尾根の上へと出るのでしょう。


すぐに尾根へと出ると思ったら、けっこう奥行きがあります。


尾根へと出たら左へと曲がり進みます。地形図を見ていてわかっていましたが、まだまだ急坂が続くようです…。




ここからは、次の尾根に出るまで堀割り道のつづら折りを登っていきます。急坂の路面には小石や枯れ枝が無数に散らばっていて、着実に足腰へとダメージを与えてくれます(笑)。










この区間での最後のつづら折りを抜け、尾根へ向かい真っすぐに登っていきます。


細尾根の土手道に出ました。土手道といっても、今までに見たことがある無名の道跡のものとは違い、道幅は十分にとられています。さすが県道に指定されていた道だけのことはありますね。


※「別所街道」は明治9年(1876年)に「三等県道」として指定・命名されたもの。それ以前の街道名はよくわかりませんが、信州側からは遠州街道や金指道(金指は浜松市北区引佐町金指のこと。)と呼ばれていたようで、信州と東三河を結ぶ街道というよりは、遠州とを結ぶ街道だという認識だったのかもしれません。

両脇の路肩に切り株が並んでいます。並木のように見えますが、幹が細いので、街道として利用されていた当時のものではないでしょう。


一息つく間もなく、また急坂が始まります。




この辺りは崩落地形のようで、道跡は残っているとはいえ幅がだいぶ削られてしまい、歩きにくくなっています。




何とか通り抜けたところでまた倒木です。しかも枝打ちされていないので、容易に跨げません…。枝にしがみつき、幹に馬乗りになって乗り越えます。


ふたたび尾根が近づいてきました。


ここも細尾根の土手道になっています。


土手道を渡った先で道が二股に分かれているようです。尾根の上を通る道跡は帰りに通るとして、右側の道跡を辿っていきます。


大きい倒木が重なっていますが、幹を切り取ってくれてあるので、難なく通過します。


直線的な坂を進んでいきます。




唐突に作業道へと出ました。


緩い傾斜地の中を進みます。今まで歩いてきた峠道から真っ直ぐつながっていますし、周囲にほかの道跡も見られないので、これが峠道でしょう。


路上に雪が現れました。ぬかるんでもいるようです。


長靴で来て正解でした。


林道望月峠線へ合流しました。ここからは峠まで林道で歩いていきます。


通行止めの注意看板が立っています。もしかしたら人くらいは通れるかもしれないので、ひとまず進むことにします。


長い急坂の直線です。つらい!(笑)。脇にそれる小道があり、歩きながら上から眺めていましたが、どうやら作業道のようでした。


ここが通行止めの箇所のようですが、道は通れるようになっています。車の轍も続いているので、そのまま通過します。


5cmほどの積雪ですが、ここまで登ってきて疲れた足には大きな負担です。


登り始めてから1時間10分ほど。望月峠に到着しました。標高は837m(地理院地図の標高データより。)。スタート地点が505mなので、標高差332mでした。


峠は開削されて四方向に林道が伸びており、街道の峠という雰囲気は全くなく味気がありません。峠名を知らせる案内板等は無く、峠が北設楽郡豊根村と東栄町の境界になっていますが、町村名を表示する標識もありません。

峠の南側から分岐する林道の路肩、生い茂っている笹の間にすき間が見えます。


覗いてみると道が下っていっています。別所街道でしょう。


本当は峠で引き返すつもりでしたが、見えてしまったものは仕方ありません(笑)。峠下の集落まで辿ることにします。


どんどん下っていきます。帰りが大変そうだ…。




石仏と思しきものがあります。


しかし、正面へと回ってみたら、どうやら自然石のようでした。台座があるので、何らかの理由(損壊か盗難か。)で代わりに据えられたものでしょう。

道はまだまだ下っていきます。




最後の折り返し。


ここに望月峠への道標がありました。「熊注意」もあります。山深いですからね。


簡易水道の施設のようです。


脇を抜けると道路へと出ました。


左側には神社(熊野神社)があります。峠の南側の集落に出たようです。


熊野神社の参道。


神社から少し下ると集落に出ました。地名は「眞地(まっち)」だそうです。


歩いてきた望月峠の峠道のルートがこちらになります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

旧の別所街道はこの先もいくつか峠越えをして、北設楽郡東栄町本郷へと向かっています。そのルートは現在の愛知県道74号が相当しますが、車で走るのもなかなか大変な山道です。

さて、眞地集落に出たら、もう一度峠道を登り直して帰るつもりでしたが、時間に少々余裕があったので、この付近でもう一つ探索しようと思っていた古道へ足を伸ばしてみることにします。

(次稿へつづく)
Posted at 2021/01/17 12:34:31 | コメント(2) | トラックバック(0) | 別所街道・国道151号 | 日記
2020年10月11日 イイね!

本郷隧道と別所街道与良木峠の峠道

2020年10月11日日曜日、ドライブがてら、北設楽郡東栄町にある元国道151号の廃トンネル「本郷隧道」を見に行き、その足で「本郷隧道」の旧道に当たる旧別所街道与良木峠の峠道を歩いてきました。

今回はドライブメインのつもりなので、直接、東栄町へ向かうことはせず、設楽町→旧津具村→東栄町と回り道して向かうことにしました。

最初に寄り道したのは、新城市副川にある旧豊橋鉄道田口線のトンネル「双瀬隧道」。すでに何度も訪れたことがある場所です。


海老川沿いの岩壁に穿たれた延長60.28mのトンネルで、坑口の形状が特徴的なことで廃線好きには知られています。

内部は、両坑口からコンクリート巻き立てがされていますが、中央部は素掘りのままです。実際には、コンクリート吹き付けがされていますが、これは道路転用後でしょう。


旧海老駅側の坑口は特徴的ですが、旧三河大石駅側の坑門は普通にシンプルな意匠です。


最後にまた旧海老駅側の坑口をもう1枚。


次に訪れたのは、設楽町小松の愛知県道10号に立つ旧道路標識の「徐行」。昭和35年(1960年)12月に制定されたデザインのもののようです。


本来は、焦げ茶色に錆びている部分が白色(「徐」も白色。)で、現在、白色になっている部分が青色でした。「徐」の上部には青字で「徐行」、下部にもこちらも青字で「SLOW」と書かれていました。


このままだと、設楽ダムに水没するか、その前に電柱が撤去される際に処分されてしまいそうです。

さて、県道10号で旧津具村まで進み、そこから県道427号、県道80号を経由。国道151号へと出て、一路、東栄町の中心市街地である本郷地区へと向かいます。

目的地である本郷隧道の入口へとやって来ました。右側の道路が国道151号と現在供用されている新本郷トンネル。左側の道路が本郷隧道がある国道151号の旧道です。


ついでに新本郷トンネルの扁額を撮影。


通常、扁額というものは、坑口の真上に設置されているものですが、新本郷トンネルの奈根側の扁額は、珍しいことに地面に設置されています。まあ、それだけなんですけどね(笑)。ちなみに、「奈根」は東栄町大字三輪の地名で、与良木峠の南側の集落です。

交差点から100mほど歩くと本郷隧道があります。


開通は大正10年(1921年)12月。このトンネルが開通したことにより、それまで東栄町奈根から始まる長い峠道で越えていた与良木峠を、わずか延長310mのトンネルで通過できるようになりました。

さらに本郷隧道の開通は、与良木峠の隘路解消だけでなく、東三河と信州との間の物流ルートの変更も促しました。

トンネルが開通する以前は、別所街道が通る東栄町振草と伊那街道が通る新城市海老を結ぶ赤色の線、海老街道(ふりくさ道)のルートが重用されていました。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

花丸峠・仏坂峠という荷車が通ることができない険しい峠が2つもある街道でしたが、東栄町振草以北の別所街道沿いの村々や信州方面から、当時、山間地と平野部の中継地として栄えていた新城市海老と鉄道の終着駅であった豊川鉄道大海駅へ向かうための短絡路であったからです。

ところが、本郷隧道が開通したことで別所街道の難所であった与良木峠の隘路が解消。東栄町振草以南も、青色の線で示した別所街道を利用した方が、多少遠回りでも大量の物資を輸送できるルートだとして注目されるようになり、難所を2つも抱える海老街道を通行する荷馬は激減、一気に寂れていきました。

そして大正12年(1923年)、鉄道がさらに奥地である三河川合駅まで延伸されたことで別所街道経由の大回り感も解消され、これにより海老街道は完全に短絡路の地位を失い、中継地として栄えていた新城市海老の街の凋落は決定的なものとなりました。

そんな歴史を隠している本郷隧道ですが、現在はゴミの収集場所として利用されているようです。


トンネル内部は、石積みの側壁にアーチ部分は煉瓦積みというもの。愛知県内の道路用煉瓦トンネルは、ここ本郷隧道とあとは豊橋市の本坂隧道の2つだけのはずです。




フェンスの網目にカメラを差し込んで内部を撮影。大正年間開通のトンネルと考えると大きなサイズと言え、自動車の通行も見据えた設計だったのかもしれません。


次は、反対側の本郷側坑口へと向かいます。

隣にある新本郷トンネルの通り抜けます。新本郷トンネルは昭和63年(1988年)の開通で、延長は413mです。トンネルは両側の坑口付近でカーブがあり、見通しが悪くなっています。


本郷側の坑門です。こちらの扁額は、普通に坑口の上に設置されています。


本郷側は、新旧のトンネルが並ぶ形になっています。


本郷隧道の本郷側坑門です。こちらもフェンスで締め切られています。


奈根側と違い、本郷側の坑門は開通当時のままの石積みです。




ちなみに、奈根側坑門は、斜面の崩壊により破壊され、昭和8年(1933年)にコンクリート造で修復されたものだそうです。

扁額です。ひらがなで「ほんがうずゐだう」とあり、「大正十年十二月開通」と刻まれています。


おそらく奈根側坑門の扁額は、漢字で「本郷隧道」と彫られていたでしょう。

本郷側は奈根側と違い、煉瓦をコンクリート吹き付けで覆っていません。


トンネル内部です。アーチ部などからの落下物なども見られず、きちんと保守管理すれば、今でも使用できそうです。


坑口からしばらくは石積みの側壁で、アーチ部も煉瓦巻き立てですが、奥の方はコンクリートで巻き立てられているようです。元は中央部は素掘りのままだったのかもしれません。




新本郷トンネルの開通記念碑です。




最後に旧別所街道与良木峠の峠道を歩いて、与良木峠まで登ることにします。

新本郷トンネルからすぐの所に分岐点があります。


戦前の地形図がこちら。縦の青い線は本郷隧道です。赤い線は与良木峠までの峠道、緑色の線は奈根までの峠道です。この地形図では、まだ別所街道として表記されています。

※5万分の1地形図「本郷」。明治41年(1908年)測図・昭和5年(1930年)鉄道補入。昭和7年(1932年)発行。

発行年からすると本郷隧道が掲載されていてもおかしくありませんが、昭和5年は鉄道補入だけ(田口鉄道(旧豊橋鉄道田口線)の開通によるもの。)なので、道路トンネルは補入されなかったようです。

現在の地形図はこちら。図中の線は戦前の地形図と同じ意味です。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

最初のヘアピンカーブに向けて、長い直線が続きます。


山側の斜面にある石積み擁壁。粗い積み方からして、明治時代の車道建設時のものでしょう。


ヘアピンカーブに来ました。


荷車道がベースだけあって、きついヘアピンカーブです。自分の車で走ったこともありますが、コース取りがまずいと要切り返しとなります。


しばらくは上下の道が並行しています。


基本、ヘアピン間は長い直線ですが、斜面に合わせて緩いカーブもあります。


石垣が木の根に飲み込まれています。


2つ目のヘアピンカーブです。ここで切り返しをしたことがありますが、ガードレールが無いので、その時は緊張しました。




ちょっとカーブがありますが、長い直線です。


これも明治時代の石積み擁壁のようです。山側の斜面を見ていると、苔や土で隠れていますが、ほとんどの場所に石積み擁壁が設けられています。


急斜面の中を通り抜けていきます。


右カーブを曲がると与良木峠です。峠ではなく単なる切通しにしか見えません。周囲はご覧のとおりなので、眺望も利きません。




峠を通り抜けると、左へと曲がっていく林道と真っ直ぐ下っていく林道があります。


真っ直ぐ下っていく林道が、奈根へと向かう別所街道になります。


2010年1月に与良木峠から奈根の集落まで1時間半かけて歩きましたが、その時点で林道への改修工事が進んでいて、往時の峠道の面影は無くなっていました。

与良木峠にある石仏と石碑です。


「よらき地蔵」と呼ばれる地蔵があるとのことですが、おそらく奥の右側の大きな石仏でしょう。「武田軍が遠州(現在の静岡県西部)での合戦に負けて、与良木峠を越えて帰還する際にお地蔵さんを谷へと蹴落とした。」という江戸時代からの伝承があるそうです。摩滅が進んでおり、頭も首の所で折れている(首部は細いのでどうしても折れやすい。)ので、相応の歴史があるのは間違いないでしょう。

峠の石仏も見ることができたので、これで帰ることにします。

帰り道、峠から本郷側の斜面にあった車道建設以前の峠道が残っていないか眺めながら歩いていると、下の方にずっと平場が続いているのが見えました。

目で追っていくとこの地点で合流。


右側に分岐していく細い道らしい所へ入っていくと、確かに道跡が続いています。


ただ、下りの道跡を追いかけると、車の駐車場所からかけ離れた所へ出てしまうはずなので、跡は追いません。

「それじゃあ、峠へと登っていく道跡もあるかもしれないな。」と山側の斜面を眺めながら歩いていると、分岐していく踏み跡を見つけてしまいました。


地形図中の黄色の丸印の中のオレンジ色の道です。

※5万分の1地形図「本郷」。明治41年(1908年)測図・昭和5年(1930年)鉄道補入。昭和7年(1932年)発行。

「見つけた以上、行って確かめるしかないよなぁ…。」

踏み跡を登ってみるとその先にしっかりとした道跡があります。


「今日は舗装路だけのつもりだったから普段履きの靴で来たけど、このまま行くか。」ということで、奥へと入り込んでいきます。

急坂ですが、幅広の道跡が続いています。


道跡は左へとカーブしているようです。


シダが生えていますが、背は低いので、このまま踏み込んでいきます。


しっかりとした道跡です。


正面で道跡が途絶えています。


「多分、ヘアピンだろう。」と途絶えた辺りを探すと、やはりヘアピンカーブだったようで、さらに急坂な道跡が続いています。




今の峠道へと出てきました。


この写真の奥を右に曲がると与良木峠。どうやら、車道開通前の古い峠道で正解だったようです。


幅が広くて通行しやすい車道ができたとしても、勾配を緩くするために道自体は大回りなルートを取らざるを得ません。歩行者としては、楽でも距離を歩かされるよりは、峠まで一直線に行き来できた方が時間が短縮できて便利なはずなので、古い峠道が残されたのでしょう。

峠道を歩き終えて、新本郷トンネルの前に出る道へと出てきました。


予定外の古い峠道を見つけられたのはちょっとした収穫でした。やはり廃道歩きを始めた頃と違って、目ざとくなってきたのかもしれません(笑)。もちろん、戦前の地形図からの前情報があってのことですけどね。
Posted at 2020/10/11 23:22:31 | コメント(0) | トラックバック(0) | 別所街道・国道151号 | 日記

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