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小林あにのブログ一覧

2025年06月29日 イイね!

旧長野電鉄屋代線 信濃川田駅跡と松代象山地下壕へ立ち寄りました

2025年5月9日金曜日、山形県鶴岡市にある出羽三山神社を訪れ、その帰り道には、新潟県村上市勝木に残る旧国道7号や羽越本線旧線のトンネルを見物しました。

その後は何度も仮眠を繰り返しながら、深夜の新潟県を上信越道新井PAまで移動。ここで5月10日土曜日の夜明けを迎えます。

ここから寄り道を再開。えちごトキめき鉄道の二本木駅と太田切橋梁、旧信越本線の戸草隧道と大廻隧道へ立ち寄りました。

さて、長野県内でもう少し寄り道していこうかということで、まずは長野市松代の「松代大本営跡」へ立ち寄ることを決定。もう1か所、旧長野電鉄屋代線の信濃川田駅跡も訪れることにしました。

まず訪れたのは、旧長野電鉄屋代線の信濃川田駅跡です。こちらを先に訪れたのは、長根県北部からやって来ると信濃川田駅跡の方が手前側になるからです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

地形図を写真表示に切り替えると、駅跡の前後にも線路が存在している状態のものが閲覧できます。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

駅舎の外観は、今見ても現役の駅と間違えそうな状態を維持しています。


駅舎の中へ入ってみます。当時の運賃表や時刻表が掲出されたままになっています。




備え付けの木造の長椅子に懐かしさを感じます。


2000系電車の写真ですね。


駅名板。


線路から駅舎を望みます。


須坂側にある構内踏切。遮断機が残されています。


廃止直後と思われる写真を見ると、駅舎の反対側にあるホームもコンクリート造りになっていますが、現在はコンクリート部分や舗装部分が壊されて土の山になっています。


ホーム下に穴があります。昔々はホーム上に転轍機のレバーがあって、穴から連動ワイヤーが伸びていたんでしょうね。


屋代方面を眺めています。


駅構内の屋代側に残っていた鉄桁。


一直線に線路跡が続いているのが見えます。


さて、信濃川田駅跡の見物はこれくらいにして、長野市松代へと移動します。移動途中に旧屋代線の廃トンネルが見えましたが、ここは我慢してそのまま直行(笑)。

真田氏の城下町であった松代の市街地を通り抜けて、「松代大本営跡」の遺構の一つである「松代象山地下壕」へとやって来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

地下壕の説明板と案内図。見学は無料でできます。地下壕へ入場の際は、貸出されるヘルメットの着用が義務となります。




ところで、実は現地を訪れたタイミングが悪く、同じく見学に訪れた大学生と思しき一団と鉢合わせ。

大学生たちには先に行ってもらって、後ろからのんびり見物しようかなと思っていたら、関係者の方から「どうぞ先に行ってください。」と勧められて、やむなく先に地下壕内へと進入。

集団に追い立てられるような形になり、あまり落ち着いて見物できませんでした…。

入口からしばらくは、頭がぶつかりそうな低くて狭いトンネルを進みます。


削岩機ロッドの説明板。地下壕内には抜けなくなってしまったロッドが数本残っているとありましたが、見つけられませんでした。


入口付近と違い、本坑部分はご覧のとおり大きなトンネルとなっています。地下壕というイメージから、この大きさにはちょっとビックリしました。


見学ルートの屈折地点。およその中間地点になります。


立入禁止区画は落石が放置されたままになっています。まあ、廃トンネルを探索する時はこんな場所ばかりですけどね。


見学ルートですが、補強が入っている箇所もあります。水溜りがあるので、漏水を原因とした落石があるのでしょう。


この坑道は割ときれいですね。


地下壕掘削時のトロッコ枕木の跡。




見学コースの終点です。ここから折り返して入口へと戻ります。




松代象山地下壕を見学後は、すぐ近くにある竹山随護稲荷神社へ。社殿からは松代の街が一望できます。






山寺常山邸。松代藩の寺社奉行、郡奉行を務めた山寺常山の屋敷跡。主屋は大正時代に失われ、現在は江戸末期から明治初期に建てられた長屋門形式の「表門」と、大正末期から昭和初期に建てられた書院「対竹盧」が現存しています。










これにて松代市街地での見物は終了。今回は実質「松代大本営跡」だけでしたが、先にもちょっと記したとおり、松代は元和8年(1622年)から幕末まで真田氏が藩主を務めた松代藩の城下町。松代城跡、真田宝物館、真田氏の菩提寺「長國寺」など、いろいろ見どころがあるので、また折を見て訪れてみたいと思います。

時刻も15時を回り、これでようやく帰宅することに。上信越道長野ICから高速に乗り、長野道へと進みますが、疲れが出てきたのか眠気に襲われ(笑)、筑北PAで1時間ほど仮眠。

16時45分頃に筑北PAを出発。中央道駒ヶ岳SAで給油し、18時20分頃神坂PAに到着。ここで晩御飯。ご飯を食べている間に土砂降りが降り出して、止む気配が無くてずぶ濡れで車へと戻る羽目に。


20時45分頃、やっと自宅へと到着。今回の走行距離は1,349Kmでした。


年相応に段々と疲れが抜けにくくなってきているためか、疲れを感じるとすぐ眠くなり、しかも眠気がなかなか抜けません。眠気に対する耐性がホントに落ちてきていますね。安全のために「眠気が来たら無理せずにすぐ仮眠。」で、これからも長距離ドライブへ出かけたいと思います。
Posted at 2025/06/29 23:26:20 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・鉄道・廃線跡 | 日記
2025年06月26日 イイね!

二本木駅・太田切橋梁・戸草隧道・大廻隧道へ立ち寄る

2025年5月9日金曜日、山形県鶴岡市にある出羽三山神社を訪れ、その帰り道には、新潟県村上市勝木に残る旧国道7号や羽越本線旧線のトンネルを見物。この後は同じ村上市内にある道の駅「朝日みどりの里」に18時15分頃到着。晩御飯を食べてから仮眠しました。

21時50分頃、道の駅「朝日みどりの里」を出発。日本海東北道 朝日まほろばICから高速道路に乗り、一路愛知県を目指したわけですが、眠気が出てきてしまい、北陸道へ合流して最初のPAである黒埼PAへ。22時45分頃から翌5月10日2時45分頃まで、またも仮眠のためにストップ…。

目が覚めたところで、ふたたび真夜中の北陸道を走行。上越市からは上信越道へと入りますが、この頃からまたしても眠気が…。最寄りの新井PAまで何とか走行して、ここでまたしても仮眠。4時25分頃から7時05分頃まで停まっていました。

夜が明けた新井PA。このPAからは妙高山を望むことができます。5月初旬ですが、まだまだ多くの雪が残っています。


ようやく眠気も覚めてきて、「次のICで下りて、スイッチバック駅の二本木駅へ行ってみるか。」と寄り道することに。

えちごトキめき鉄道の二本木駅へとやって来ました。「ようこそスイッチバックの二本木駅へ」と書かれたのぼりが駅前に立っています。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

私が駅に到着した直後、続々と駅前に車がやって来て、車から降りてきた学生たちが駅舎へと入っていきます。

混雑を避けるため、ひとまず駅前に展示されている車輪や転轍機、煉瓦造の危険品庫などを見物。






電車が出発したのを見届けてから駅舎へと入っていきます。


駅舎の説明板。


二本木駅の顔ハメ看板。「さとまる」は二本木駅がある上越市中郷区のイメージキャラクターだそうです。


ホームへ上がると乗客は誰もいませんでした。おかげで、駅構内をゆっくりと見物できそうです




駅名板。駅に隣接する企業にちなんで「日本曹達前」の表示もあります。


ホームの先端まで行って、レールが交錯するスイッチバックの構内を眺めます。


赤線が本線、青線が駅構内への線路と、列車の引き上げ線です。


ホームの待合室にあった鉄道模型。


ホームと日本曹達の敷地の間には何本か側線があります。かつては二本木駅から日本曹達へと専用線が延びていて、原材料の搬入と製品の搬出が行われていました。貨物の取扱いは2007年3月に廃止されたそうです。




最後に駅舎内の写真を撮って二本木駅の見物を終了します。


二本木駅から国道18号へと出て、高速道路には乗らずにそのまま国道を走行していきます。

次にやって来たのは、国道18号妙高大橋下の国道の旧旧道。現在の妙高大橋と橋桁が撤去された旧妙高大橋の橋脚が望めます。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

ふたたび妙高大橋と旧妙高大橋を見上げます。典型的な田切地形を国道18号とこの背後を通過する上信越道は、高い橋梁で一跨ぎにしていきます。


一方、国道の旧旧道は田切地形の谷底まで下りてから、この谷を流れる大田切川を渡っています。


妙高大橋の下の崖の斜面を国道の旧旧道が横切っています。ガードレールが見えている箇所がそうです。


橋を渡った先にある大田切清水。




大田切清水の脇には、朽ち果てた電光掲示板が草むらに立っています。


「スピードおとせ」とあります。橋梁へ急坂・急カーブで進入していくので、注意喚起のために建てられたのでしょう


ちなみに橋梁を渡って急坂を登っていくと、急カーブの地点にもう一つ同じ内容の電光掲示板が残っています。




ここまで国道の旧旧道の遺物を紹介していますが、そもそも妙高大橋の下へとやって来たのは、えちごトキめき鉄道の太田切橋梁を見物するため。急斜面の雑木林をかき分けて、大田切川のほとりまで下りていきます。

太田切橋梁へとやって来ました。


太田切橋梁は、明治29年(1896年)4月刊行の「鉄道線路各種建造物明細録 第2編」によると明治21年(1888年)8月の竣工。田切地形を流れる大田切川を横断するために建設されました。谷底から線路までの築堤の高さは36m、その築堤を貫く流路のアーチ高は7.8mと、なかなか巨大な建造物です。

そして、その巨大なアーチの天井部の煉瓦には乾いた泥がこびりついています。過去にこの流路を埋め尽くすほどの土石流が発生しているそうで、その名残りなのでしょう。

前回(10年前)訪れた時はアーチ内へと入ることができましたが、前日の雨に雪解け水が合わさったのか、川の流れがなかなかの水量となっていて、間近まで近づくことはできませんでした…。


ふたたび国道18号を走行。途中から国道を逸れて、次にやって来たのは旧信越本線戸草隧道です。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

戸草隧道は、えちごトキめき鉄道の戸草トンネルに隣接して残っていて、現在は道路へと転用されています。


戸草隧道は、「鉄道線路各種建造物明細録 第2編」によると明治20年(1887年)11月の竣工で、延長は145.2m。昭和41年(1966年)8月の信越本線電化により廃止されました。


トンネル内部は、側壁が石積み、アーチ部分が煉瓦積みですね。


道路となっているおかげで、トンネル内には照明が点灯しています。




アーチ部分にはSL時代の煤煙がビッシリとこびりついています。


反対側へと出てきました。


このまま次の廃止トンネルを目指していきます。


廃線跡の下をくぐる用水路に石積みアーチを発見。


このアーチは、「鉄道線路各種建造物明細録 第2編」によると「戸草用水」橋梁だと思われます。竣工は明治20年(1887年)5月。


鉄道のガードをくぐっていくと、上を通る路地に石碑が立っているのを見つけ、路地へと入り込みます。


「三界萬霊等」碑とお地蔵さまかな。本来は「三界萬霊『塔』」だと思うのですが、当て字ですかね。


この先、線路に沿って砂利道があり、そこを進んでいった方が次の廃止トンネルへ向かうには近道でしたが、これが線路保守用道路だったりするとよろしくないので、並行して山すそを流れている用水路に迂回して歩いていくことにします。


廃止トンネルが近づいてきたところで、用水路は急に左へとカーブしてトンネル内へと消えていってしまいました。


この用水路、実は「戸草用水」橋梁の下を流れていた用水路。ネットで検索してみたところ「芋川用水」という名称だそうです。開削されたのは、天正8年(1580年)と慶長8年(1603年)説があるそうですが、どちらにしても400年以上の歴史を誇る古い用水です。

トンネルの坑門をアップすると小さな扁額が取り付けられていました。「芋川堰隧道」とあります。延長は1012mだそうです。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

さて、芋川堰隧道へと向かう用水路は、実に不自然に左折しています。そして、正面には何となく平場が続いているように見えます。


2つ目の廃止鉄道トンネルを見にいくという目的からは外れますが、気になってしまうと確認せずにはいられません(笑)。

薮となっている平場へ入り込んでいくと奥に何か見えます。


石積みのトンネルが現れました。思わず「にやっ。」としてしまいます(笑)。


この石積みトンネルはアーチ形状ではありません。明治時代以降の建設であれば、通常は石材でも煉瓦でもアーチ形状に積まれています。用水開削時に隧道も建設したとあるので、もしかすると開削当時に遡る古いトンネルなのかもしれません。


興味深い物件でしたが、見物するのはこれくらいにして、ようやく次の廃止トンネルへとやって来ました。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

大廻隧道です。「鉄道線路各種建造物明細録 第2編」によると明治20年(1887年)11月の竣工。


一般道路として利用されている戸草隧道と違って真っ暗。ある意味、往時の状態を残していると言えるかもしれません。


こちらのトンネルもSL時代の煤煙が天井にこびりついています。


退避坑。当然、煤煙で真っ黒。


反対側の坑門。


それでは車へと戻ることにします。








車へと戻ってきました。さて、次はどこへ立ち寄りますかね。ひとまず国道18号へと出て、長野盆地へと向かいます。
Posted at 2025/06/26 23:22:12 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・鉄道・廃線跡 | 日記
2024年12月30日 イイね!

越前下山駅・旧下荒井隧道・冠山トンネル

2024年7月13日土曜日、岐阜県~福井県~岐阜県と通過するルートでドライブしてきました。

自宅を出発して、新東名の豊田東ICから高速に乗り、東海環状道・東海北陸道と経由。白鳥ICからは中部縦貫道油坂道路を走行し、越美通洞(トンネル)から先は九頭竜湖沿いに国道158号を進みます。

最初に立ち寄ったのは、JR越美北線の越前下山駅。付近の国道158号を走行している時、いつも気になっていたので、今回は立ち寄ってみました。


当駅は、トンネルとトンネルに挟まれた、わずかな「明かり」区間に立地しています。


場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

せっかくなので、駅ホームへと向かいます。


この駅の開業は昭和47年(1972年)12月15日。比較的最近の開業のため(それでも52年前ですが。)、高架化された路線のような簡素な造りのホームです。




旧国鉄駅には付き物の「名所案内」の看板。


しかし、越美北線の末端区間は一日4往復半しか列車が運行されていないので、わざわざ列車で名所案内に記載されている場所へ向かおうとする人は、ほぼいないでしょう。


越前下山駅の駅名板。


ちなみに、名所案内は錆び錆びになった古い駅名板を再利用しています。


越前下山駅の見物はこれくらいにして、移動を再開します。




昼御飯を食べるため、道の駅「越前おおの荒島の郷」へ立ち寄ります。


場所はこちら。


福井名物「ソースカツ丼」をいただきました。


さて、次に立ち寄ったのは、旧京福電鉄越前本線跡に残る旧下荒井隧道。こちらの廃トンネルも、TGRラリー恐竜勝山戦へ出場するために、付近の国道157号下荒井トンネルを通過するたび横目で気にしていた場所です(笑)。


ちなみに、この廃トンネルを含む勝山駅〜京福大野駅間は、昭和49年(1974年)8月12日に廃止されています。

場所はこちら。


トンネル坑門に掲げられている扁額。一文字目はわかりませんが、あとの文字は「〇誠一貫」でしょうか。




この廃トンネルの延長は521.4m。坑口の前にいた時点でわかっていたことですが、トンネル内の靄が濃いです…。


どうやら、内部は全面コンクリート覆工されているようです。トンネルの開通は大正13(1924)年12月20日だそうで(実は2代目トンネル。)、煉瓦造からコンクリート造へと代替わりしていく時期のものですね。


入ってきた坑口を見返しています。今は壊れてしまっていますが、元々は木製の扉を造り付けて封鎖してあったようです。


退避坑。


奥へと進むにつれて靄は薄くなってきましたが、懐中電灯で照らすとまだまだ真っ白になってしまいます。


ふたたび退避坑。


反対側の坑口付近までやって来ました。こちら側には金網が設置されていました。試しに扉を動かしてみましたが、鍵が掛かっているようで、トンネル内を引き返すことが決定しました。


進入した側の坑口に近づいてきました。坑口付近は浅く水没しています。そして、天井アーチ部分にはコンクリート打設時の型枠の跡が無数に付いています。




天井アーチ部に大きな亀裂が入り、そこから水滴がボタボタと滴っています。水没しているのは、この雨のように滴る漏水が原因でしょう。


旧下荒井隧道の探索はこれにて終了。


また機会があれば、今度は初代トンネルを探索してみたいものです。

さて、旧下荒井隧道から走行すること約44km。今回の目的地である国道417号冠山トンネルにようやく到着しました。




場所はこちら。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

冠山トンネルを含む峠区間は国道417号「冠山峠道路」と呼ばれ、令和5年(2023年)11月19日に開通しました。開通したことを知ってから訪れたいと思っていましたが、岐阜県側からも福井県側からも高速道路からのアプローチ距離が長く、何となく今まで行きそびれていました。


ちなみにトンネル延長は4,834m。


冠山峠道路の開通により、国道417号の岐阜・福井県境の未開通区間が直結され、冬期通行も可能になりましたが、冠山峠道路や徳山ダム建設による新規開通区間以外では、まだまだ狭小区間や線形不良区間も残っているので、大型車の通行には厳しい部分が残されています。

この後は国道417号を南下して国道303号へと合流。東海環状道大垣神戸ICから高速道路に乗って帰宅しました。
Posted at 2024/12/30 02:02:16 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・鉄道・廃線跡 | 日記
2022年05月10日 イイね!

野尻森林鉄道「木曽川橋梁」を見に行ってきました

2022年3月19日土曜日、長野県木曽郡大桑村野尻に残る野尻森林鉄道の木曽川橋梁を見に行ってきました。木曽川橋梁は大正10年(1921年)の架橋(大正12年(1923年)という記事もある。)。同森林鉄道が廃止された昭和40年(1965年)までの44年間供用されました。

場所はこちらになります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

中央本線野尻駅の駅前広場へとやって来ました。ここに車を駐車して、徒歩で現地へと向かいます。


駅前に立つ長野県道261号「野尻停車場線」の標識。


野尻駅の北側にある石積みのガードをくぐっていきます。中央本線の木曽谷区間には、多くの石積みアーチが存在しています。


坂を下り、木曽川へと向かっていきます。


小さな鉄橋が見えてきました。野尻森林鉄道の廃線跡です。






橋の下をくぐり、さらに先へと進みます。


木曽川のほとりへと出てきました。対岸につり橋の主塔跡が残っています。


さらに上流へと向かい歩いていくと、また橋の跡がありました。


対岸には橋台跡も見えています。


現在供用中の道路橋をくぐって進むと目的地が見えてきました。


野尻森林鉄道 木曽川橋梁です。森林鉄道廃止後も撤去されることなく現存しています。


土木学会の「歴史的鋼橋調査台帳」によると、橋長は134.6m、橋梁の形式は「単線上路ワーレントラス」、「単線下路曲弦プラットトラス」、「単線上路プレートガーダー」の3種類が用いられています。


「単線上路ワーレントラス」部分の写真。




橋梁の支承部の写真。と言っても知識があるわけではありませんが、「平面支承」というタイプと思われます。


上流側からの眺め。


橋台の上へと登って橋を眺めます。レールは撤去されていますが、枕木が残置されたままになっています。長年風雨にさらされているため、すっかりやせ細っています。




それでは対岸側へと移動します。


木曽川橋梁の下流側に架かる道路橋を渡っていきます。橋の名前は「野尻向橋」とあります。


野尻向橋からの下流の眺め。手前が先代橋、奥が先々代橋の跡ということになりますね。


木曽川橋梁の対岸側へとやって来ました。こちら側は鬱蒼とした竹林で眺めがよくありません。






「単線上路プレートガーダー」の上に残っているボロボロの枕木。


右岸側からの眺めです。


「単線上路プレートガーダー」の側面に取り付けられている銘板。「大正十年四月 日本橋梁株式会社 製作 大阪」とあります。


ついでに野尻向橋の先代橋を見てみることにします。

間近で見ると変わった構造をしています。橋の下のホームのような構造物は何のためのものなのでしょうか。


川べりの構造物には階段が設けられています。元は堰堤か取水口で、橋も併設されていたというところでしょうか。


橋の上からの眺め。


最後に中央本線野尻駅に隣接する木曽森林管理署南木曽支署野尻土場の眺め。


かつては周辺の山々から大量に伐採された材木が森林鉄道でこの土場へと搬入され、野尻駅で中央本線の貨物列車へと積み替えられ発送されていたのでしょうね。

Posted at 2022/05/10 22:42:28 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・鉄道・廃線跡 | 日記
2022年05月01日 イイね!

野尻森林鉄道 柿其線跡を歩く(1)

2022年3月12日土曜日、長野県木曽郡南木曽町に残る野尻森林鉄道柿其線跡を歩いてきました。

ここを探索しようと思ったのは、3月6日日曜日に木曽谷へドライブへと行った際、立ち寄った柿其水路橋付近で弟が森林鉄道跡にトンネルがあるのを発見しながらも、その日は現地へと近づくことができないまま帰ることになったからです。

南木曽町の木曽川に架かる柿其橋のたもとへとやって来ました。


柿其橋の上から森林鉄道跡がある方向を眺めています。黄色の枠で囲った辺りに森林鉄道跡があります。


柿其橋のたもとにある神社の脇から木曽川の河原へと下ります。


そのまま河原を歩いて、支流の柿其川に架かる橋の下に来ました。


本当はこの橋を渡ることができれば森林鉄道跡が残る対岸へと楽に進めるのですが、この橋は付近にある採石場の私有橋のようで、関係者以外立ち入り禁止となっていました。そのため、河原を歩いて対岸へと渡ることにしたわけです。

河原を石伝いに渡り、採石場の敷地内に入らないように注意しながら急斜面を登って、森林鉄道跡へとやって来ました。登ってきた場所のちょうど目の前にトンネルがありました。


このトンネルは第6号隧道と呼ばれているようです。ご覧のとおり、森林鉄道のトンネルとは思えない立派な石積みの坑門を持つトンネルです。


内部は緩くカーブしています。


通信線用のものか、碍子が残ったままになっています。


内部は側壁が石積み、アーチ部はコンクリートで覆工されています。森林鉄道だと内部は素掘りのままというのがよくあるパターンですが、このトンネルは全面が覆工されています。


反対側へと出てきました。


路盤の上には多くの落石が転がっています。そして左側遠方には関西電力読書発電所の柿其水路橋が見えています。


反対側の坑門です。


3月6日日曜日に訪れた際に引き返した崩落斜面の反対側へと来ました。


行けそうな感じではありますが、もう向こう側へと渡る意味がないですし、やはり滑落が怖いので素直に引き返しました。


引き返した地点からの第6号隧道の眺め。柿其川へと落ち込む右側の急斜面を見てもわかるとおり、険しい場所に造られています。


第6号隧道はこれくらいにして、木曽川の上流方向へと進んでいくことにします。




少々うっとおしい薮を通り抜けていきます。


植林地の中にも森林鉄道の跡が一直線に残っています。


幅の広い場所に出ました。この場所で列車交換でも行っていたのでしょうか。


盛土状の路盤がはっきりとわかります。


谷積みで高く積まれた立派な石積み擁壁です。




同じように石を高く積まれた擁壁が続きます。


右側の落ち込んでいくような急斜面にも、路盤を維持するための石積み擁壁が設けられています。


路盤の上に行く手を塞ぐような大きな落石が転がっています。


ここは落石の上に登って迂回します。




落石がある場所を振り返っての眺め。


また背の高い石積み擁壁です。


露出している岩を避けるように石垣が組まれています。




依然、険しい地形が奥へと続いているのを見て、この先に路盤が残っているのか不安になってきます。




路肩に残っていた境界標石。戦前の宮内省帝室林野局のものです。


玉石積みの擁壁です。この場所のものは、目地にコンクリートなどの「つなぎ」を何も使わずに積み重ねる「空積み」だと思われますが、これだけの規模のものは初めて見ます。


玉石積みでよく見かけるのは、目地をコンクリートなどで埋める「玉石練積み」と呼ばれる手法で造られたもの。玉石の空積みだとイメージ的に土留めとしての機能が弱い気もしますが、今もこのように維持されているということは、これで十分だということなのでしょう。

こちらは下部が玉石の空積み、上部は平らに加工した石を斜面に敷いてあります。上部のような斜面の補強の仕方も見かけません。しかも、石のサイズがバラバラで敷き方に規則性もありません。


擁壁から剥がれ落ちていた玉石。さすがに大きい石です。


ようやく次のトンネルが見えてきました。


第5号隧道です。


坑門の上部は石材が斜めに積まれています。落石や土砂崩れを受け流すためでしょうか。


トンネル坑口からすぐの場所の天井には大穴が開いています。


このトンネルも全面覆工されています。側壁が石積みなのは明らかですが、アーチ部も煉瓦状に加工した石材で巻かれているようです。第6号隧道と違う方法で覆工した理由はわかりませんが。


出口が見えてきました。すでに次のトンネルが見えています。


これは良いですねぇ。とても絵になります(笑)。


先に振り返って、第5号隧道の反対側の坑門。トンネルの前が落石や倒木で物々しいです。


第4号隧道になります。


こちらはご覧のとおりの短いトンネル。それでもしっかり全面覆工してあります。


第4号隧道の反対側の坑門です。トンネル上部の土被り部分が少なく、ロックシェッドといった感じです。


倒木が絡んでいたり、斜面が土砂崩れを起こしたりと、また荒れだしてきました。




橋梁跡が現れました。この深さだと迂回して沢まで下りるしかありません。


一応、写真にある斜面が下りていけそうでしたが、この周辺は真砂土なのか土質がボロボロ・サラサラで踏ん張りが効きません。


実際、写真で見るよりも急斜面なので、踏ん張りが効かなくてそのまま滑り落ちることもあり得ます。今回は大事を取って、ここで引き返すことにしました。

実は夜に知人と飲む約束があったので、これ以上時間を費やすことができないという理由もありましたが(笑)、あくまでも「これは無理したくない。」というのが引き返す理由です。

この先は次回に出直すとして、車へと戻ることにします。しかし、いい風景です(笑)。


第6号隧道まで戻ってきました。ここから左側の斜面を柿其川まで下っていきます。


柿其川の河原です。帰りもこの河原を通って対岸へと渡ります。


柿其橋が見えてきました。あとは神社の境内へと登って、柿其橋を渡っていくだけです。


さて実際のところ、今回は第6号隧道を確認する程度の偵察気分でこの場所へ来たので、距離的には大したことはなかったですが、時間的には足を伸ばし過ぎてしまいました。トンネルがあるのに懐中電灯も持ってきていなかったくらいですからね。

これを書いている時点ではまだ続きの区間を探索してはいませんが、自宅から2時間程度で行けるので、探索ネタが思いつかなくなった時にでも再訪してみたいと思います。なので題名には(1)を付けました。

まあ、橋梁跡の先はさらに困難な状況らしいですが…。
Posted at 2022/05/01 22:21:16 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・鉄道・廃線跡 | 日記

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何シテル?   07/03 00:16
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