2023年4月9日(日)、三重県尾鷲市賀田町にある弓山林道から国道42号の矢ノ川峠旧道へとつながる古道を探索してきました。
少々長くなりますが、今回この古道を探索することにしたきっかけを記しておきます。ある時、矢ノ川峠旧道を通行した方のブログに、「旧道に接続するように巨大な切り通しがあったが、その先に道は見当たらなかった。」という内容を見つけたからです。
この切り通しの場所はすぐに特定できたので、切り通しに関わる記事が他にもないか検索してみたところ、「切り通しには賀田(尾鷲市賀田町)からの杣道がつながっていた。」という記事がヒットしました。それ以外には、この杣道を歩いたとか切り通しの由来に関するような記事はヒットしませんでした。戦前発行の地形図を見てみると、切り通しから賀田方面へ直線的に徒歩道が表記されてはおり、一応、道が存在したことは間違いないようです。
それから、この古道について何かしらの記述がないかと「尾鷲市史」を調べてみましたが、直接該当しそうなものはありませんでした。
間接的な記事としては、鳥越林道の関係で「尾鷲市史」を調べた際に、南輪内村(現在の尾鷲市賀田町ほか)の記事で「高瀬山・茶ノ又方面からの天然林の伐採により、(木材輸送のため)港がある賀田から茶ノ又へ至る4.6kmの車道(荷車道)が明治31年(1898年)に竣工した。」というものがありました。
「南輪内村誌」にも同様の記事があり、「林産物の搬出の為めに字小濱の附近から、古川の右岸に沿って茶の又に至る四十二町程(約4.58km)の坦々たる車道が拓かれ、其れから飛鳥村大又に至る運搬路の掘鑿によって大に便利になった(以下略)。」とあります。
ここで興味を惹いたのが「飛鳥村大又に至る運搬路」の一文。年代が記されていないため、初めは単純に鳥越林道のことを指すのかと思いましたが、鳥越林道は南輪内村賀田と飛鳥村「小又」とを結ぶ道であり、同じ村内とは言え「大又」とは離れた場所です。巨大な切り通しがある場所は、現在の住所で言うと尾鷲市賀田町と熊野市飛鳥町大又の境。今回探索する古道を指している可能性大です。
さて、茶ノ又は賀田から古川沿いに4.6kmの距離にあるということで、おおよその位置は見当がつきますが、高瀬山は地形図に掲載がなく具体的にどの場所を指すのか不明でした。
そのため、尾鷲市内の山に関することをネット検索してみたところ、尾鷲市賀田町内の「ゲジョ山」への登山記録があり、その中に「タカセ山前峰」というピークを通過してゲジョ山へ向かうことが記されていました。登山記録をアップした方は、「タカセ山前峰」から北方にある847.4mの三角点表示がある無名のピークが「タカセ山」だろうと推測しています。
そこで、この「847.4m」の三角点について国土地理院の基準点成果等閲覧サービスで閲覧してみると、三角点名が「三頭」だとわかりました。残念ながら「タカセ山」もしくは「高瀬山」ではなかったのです。それでも念のため、さらに三角点の戸籍と言える「点の記」を閲覧してみました。すると、「三頭」の所在地が「三重縣紀伊国南牟婁郡飛鳥村大字大又字高瀬山」とあり、ここでようやく「高瀬山」という地名が出てきました。
三角点が設置されている土地の所有者も記されており、南輪内村村長となっていました。高瀬山の山林は南輪内村が所有しており(元和8年(1622年)に当時の賀田村が山林購入した際の売渡証書が残っている。)、三角点「三頭」がある山一帯が「尾鷲市史」にあった高瀬山で相違ないようです。
車道の終点である茶ノ又からは、木材を搬出するための木馬道が周囲の山々へと伸びていたそうなので、当然、高瀬山一帯にも伸びていたでしょう。それらの道の内の一つが整備され、南輪内村賀田と飛鳥村大又との境にある山の尾根を通過していた東紀州の主要街道「三重縣道 熊野街道」(矢ノ川峠旧道)に、木材や物資の運搬路として接続していてもおかしくありません。その接続場所が「巨大な切り通し」だと考えるのが妥当でしょう。
上記の内容に出てくる地名などについて表記した地図を載せておきます。
※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
さて、ようやく本題に入ります。やって来たのは、国道42号と三重県道70号との交差点付近。この辺りに車を停めて、古道探索へと向かいます。
場所はこちら。
※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
交差点付近にある「賀田口」バス停。
バス停の先から道路が分岐していて、「弓山林道」と記された標柱が入口に立っています。まずはこの林道の終点まで進むことにします。
「古道の痕跡がないかなぁ。」と周囲の斜面を探しながら歩いていたところ、さっそく石積み橋台を見つけました。
場所はこちら。
※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
両側の橋台ともしっかり残っています。道幅は荷車道よりは狭く感じますが、牛馬の通行ができるくらいはありそうです。
ご覧のとおり、林道からほんの少しだけ上流側に寄せて残っていました。少しでも川幅の狭い所に橋を渡そうとしたのでしょう。
その後はしばらく痕跡はなく、淡々と林道を歩いていきますが、橋の手前で左側の斜面へと入り込みます。林道の橋が架かっている場所は川面までの高さがけっこうあったので、まだ川を渡らずに進んだのではないかと考えたからです。
凹んだ場所に間伐材が埋もれていて、それが奥へと続いていっているので、道跡のような気がします。
人為的に積まれたものと思われる石積みがありました。
しかし、急流の沢沿いを通っているためか一面に岩や倒木が転がっていて、明確に「道跡だ!」と言えるようなものが見い出せなくなってきました。
これ以上時間を取るのももったいないので、沢を渡り、対岸を通る林道へと戻りました。
無名の橋が現れました。
場所はこちら。
そして、この場所で右側の斜面を見ると石垣が奥へと続いていっています。さすがにこのまま見逃すわけにはいきません。
石垣の上へと登ってみると一定の幅のある平場が続いています。石積み橋台からの古道の続きのようです。
歩き始めてすぐに古道の向きが川へと直交しました。ここに橋があったようです。
対岸にも路肩を石で組まれた道形が続いています。
平らな場所なので、わざわざ道幅分だけ嵩上げする必要もないと思うのですが、なぜでしょう。川の増水を考えるならもっと高くする必要があるでしょうし。
木の根元に祠があります。
祠の中には何もありません。他の場所へと移されたのでしょう。
祠の先で古道は林道に削り取られていました。
弓山林道の終点に着きました。そして、この光景を見て愕然としました…。古道が通っていた谷の木々が皆伐されています。この状態では、古道は破壊されているかもしれません…。
場所はこちら。
コンクリート舗装された作業道が谷の上部へと続いているので、ここは割り切って進めるだけ進むことにします
今度は大きな砂防ダムが見えてきました。新しそうなものが3か所設置されています。近年の豪雨などでこの谷全体が痛めつけられた証拠です。ますます不安になってきます…。
砂防ダムの銘板を見るとやはり新しいものばかりでした。
「こんな大きな砂防ダム、越えていけるかなぁ…。」と心配でしたが、幸い、通路が設けられていたり、堰堤横の斜面が緩やかだったりしたので、割と容易に通過できました。
前方に皆伐地の頂上部が見えてきました。頂上部にある大きな木を目標に、何とかあの場所まで取り付くことにします。
伐採された際に切り落とされて大量に折り重なった枝葉の中を乗り越えて、大きな木の下までやって来ました。
場所はこちら。
ここからは、幅が狭まった沢筋の斜面に残っているであろう古道を探すことになります。岩の間から染み出ていた沢水で汗まみれの顔や汚れた手を洗って、さらに奥へと進んでいきます。
戦前の地形図によると、徒歩道は沢筋の左側の斜面に記されていたので、そのとおりに左側の斜面へと取り付きますが、全然古道が見つけられず、急斜面に行く手を阻まれてしまいます。
取りあえず、足場となる岩が大量に転がる沢の中を進み、古道の痕跡を見つけたら斜面へと取り付くことにします。
程なくして、左側の斜面に一筋に連なる石垣を発見しました。
場所はこちら。
路肩の石垣がしっかりと残っていますね。
所々で崩れてはいたものの、道筋を見失うことなく上流側へと進んでいったところ、突然、古道は切り通しのある尾根とは真逆の方向へと折り返していきます。
「地形図と違う…。でも、真っ直ぐに道跡らしきものは無いし、あるとおりに進むしかないか。」と逆方向となる古道をさらに進んでいきます。
折り返した後も、古道はしっかりとした幅のある道筋が残っていて、路肩には石垣もあります。地形図はどうあれ、この方角が古道の本来のルートのようです。
伐採地の上部へと出てきました。
場所はこちら。
※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
いい眺めです。でも、個人的に急斜面の伐採地は怖いんですよね…。日光を浴びて地面はカリカリに硬く乾いてグリップが悪く、小石や枝葉、切り株など転びやすい材料が一面にあって、危険極まりないのです。
足元に十分注意しながら伐採地を横断していきます。ここを古道が通っていたのだから、嫌であっても仕方がないのです…。
こんな場所にも古道の証拠である路肩の石垣がちょっとづつ残っています。下まで遮るものがないので、高い場所が苦手な私には困ってしまいます…。
ようやく伐採地を横断しました。この先はふたたび林の中を通るようです。まあ、木々が生えているからと言って、道跡が残っているわけではないですが(笑)。
※(2)へ続く。