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小林あにのブログ一覧

2020年06月28日 イイね!

新段戸トンネルの南側を越える古い峠道を歩く(2)

2020年6月27日土曜日、国道420号新段戸トンネルの南側を越える古い峠道を歩いてきました。(1)からの続きとなります。

(1)の最後は、峠道から作業道へと合流したところでした。ここからは、作業道を下っていきます。





道幅が拡がりました。平成21年度(2008年度)にここまで工事をしたようです。その際に道幅を拡げたのでしょう。





豪快に岩盤が削られています。



落石が放置されたままです。この作業道は最近は使われていないのでしょう。



当貝津川の橋に出ました。架橋されたのが12年前とするにはあまりに古びているので、それ以前から存在しているのでしょう。



進んでいったら、路肩が派手に崩落していました。



このまま作業道を進んでいっても国道420号に出るだけで、峠道を辿るという目的が達せられないので、ここから崩落斜面を下って、河原へと向かいます。

戦前の地形図だど、峠道は先ほどの橋よりも下流で当貝津川を渡っていたようなので、川の中を歩いて対岸へと戻ります。



対岸に渡って少し進んだところ、道が現れました。峠道のようです。右側の上へと登っていく道は帰りに通るとして、ここは左側の道を進んでいきます。



続いて、作業道に並行していた沢を渡ります。



さらに道跡を辿っていくと、



峠道が当貝津川を渡河していたと思われる場所へ出ました。対岸に道が続いているので、間違いないでしょう。



昔の道なので、橋の代わりに飛び石とか板などを架けるための石材が川の中に並んでいたりしていないかと探してみましたが、それらしいものは見当たりませんでした。



過去に何度もあったであろう濁流に流されてしまったのか、元々そんなものは無くて川の中を歩いて渡ったのか、どうなんでしょうか。

さて、川を渡った先の路傍に石仏がありました。



石仏と石碑でしょうか。石碑の方は、何か彫られているのはわかりますが、文字は読み取れません。石仏は頭上に馬の頭を乗せているので、馬頭観音でしょう。



石仏の光背には、「寛政七卯…」の銘。寛政7年は西暦では1795年ですので、225年前のもの。この峠道で最初に出会った石仏よりも19年古いことになります。



石仏を後にして、川沿いの道を先へと進みます。





そうしたら、すぐに平場へと出てしまいました。木が何本か植えられています。榊か樒でしょうか。



さすがに私有地らしい平場の中を通り抜けるわけにはいかないので、道路へ出ます。ちなみにこの舗装路、地形図には載っていません。



ほんの20~30m歩いたところで、川へと降りられる小径があったので、そこへと入り込みます。



対岸の様子を見つつ、川の中州へと渡っていきます。



川べりに小さな石碑が立っているのを見つけました。



文字を読むと馬頭観世音碑のようです。馬の供養や往来する馬や人の安全祈願のための石碑が、川を向いて立っているのは不自然なので、元々は目の前を峠道が通っていたのでしょう。



しかし、馬頭観音があるということは、当然、馬もこの道を通っていたのでしょうが、あのつづら折りの峠や急坂、何度もある川渡りなど、馬にも厳しい道だったでしょうね(昔の馬は木曽馬みたく小型だったとしてもね。)

中州を歩いていくと対岸に道が現れました。



川べりの低い崖の上を進んでいきます。



小さな沢を跨いでいきます。



二股の分岐に来ました。上の道の先は平場になっているようなので、下の道を歩いていくことにします。



下の道を進んでいってみると、こちらも平場に出てしまいました。かつては、屋敷地だったのか田んぼや畑だったのか。



どうやら、峠道は写真の真ん中の段を通っていたようです。



そこから少し進むと、広場のような所へ出てきました。写真右側に太い杉が並んでいるので、道沿いに植わっているのだろうと見当をつけ、なぞるように歩き進めます。





所々、道が不明確になる所もありますが、踏み跡が付いているので、それを辿って進んでいきます。





また段々地へと出てきました。峠道なのか畦道なのか、道らしいものが幾重もあり迷ってしまいます。最終的には、桑平の集落へ向かい、もう一度当貝津川を渡るはずなので、なるべく川に近い道(らしき所)を進みます。





前の写真にある小屋を過ぎたところで、目の前が草むらに覆われてしまいました。ネットが張られています。



違う所から覗いてみても、手前は護岸された小さな沢があり、渡るのは難しそうです(降りられても登り直せないかも。)。ここで引き返すことを決めました。



当貝津川の対岸はもう桑平集落の入口のはずです。峠道も桑平集落の下辺りで国道420号になった道へと合流していたので、ここまで辿れたのなら十分でしょう。

馬頭観世音碑近くの渡河地点まで戻ってきました。



ここでふと岩崖を見たら、石碑と思しきものが立っていました。台座の上に立っているので、ただの石ではなく、何がしかの文言が彫られていたと思われますが、全く読み取れませんでした。



さらに歩き進めて、行きに通らなかった場所まで戻ってきました。今度は右側の道を登っていきます。



河原から低い台地の上へ、ちょっとしたつづら折りの道で登ります。



台地の縁を直線で進みます。



写真上部の草が生えている所は、行きに通った作業道になります。峠道は突き当りで左に曲がっていきます。



やがて作業道の造成時に飲み込まれたのか、道は消えてしまいました。



斜面を何とか登って作業道へと出ました。峠道は、本来はここで作業道から分かれて、当貝津川の下流方向へと向かっていたようです



作業道も登りで歩くとけっこうな急坂で参りました(石がゴロゴロしているし…。)。峠道との分岐でちょっと休憩です。



峠道も、分岐直後は沢沿いに急登していきますので、一歩一歩踏みしめながらゆっくりと登っていきます。



尾根付近の馬頭観音まで戻ってきました。作業道との分岐から40分弱かかりました。



まあ途中、何か所かあった道が不鮮明な場所で枯れ笹を徹底的に折ったり、迷い込みそうな場所へ枯れ枝を積んだりしていましたから(笑)。「そんなことしても誰も通らないでしょ?」というような場所ですがいいんです。単なる自己満足ですから(笑)。

さて、最後のなだらかな尾根を越え、



無事に林道へと合流しました。ここまでくれば一安心でしょう。



さらに歩くこと10分。車に到着しました。今回は約4時間の行程となりました。



先週に下見した時点で、歴史のある峠道であることはわかっていましたが、思った以上に石仏・石碑が点在していて、地元の人々によく使われていた峠道だったんだなと実感しました。

正確にいつ頃まで使われていたのかはわかりませんが、明治時代以降、阿蔵峠の峠道がおそらく荷車道として開通(もしくは改修)した時点で廃れていったのだと思います。裏付けがあるわけではないですが、古い峠道は荷車どころか牛馬に荷を背負わせて往来することすら難しそうな道でしたから。

これで廃道探索の放置案件が一つ解消されました。「阿蔵から桑平までだと踏破するには距離があるなぁ。」と思ってずっと放置していたので、峠から桑平への一番興味があった区間だけでしたが、無事に道跡を辿れて踏破できたのは収穫でした。
Posted at 2020/06/28 11:58:03 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2020年06月27日 イイね!

新段戸トンネルの南側を越える古い峠道を歩く(1)

2020年6月27日土曜日、国道420号新段戸トンネルの南側を越える古い峠道を歩いてきました。

戦前の地形図はこちら。今回歩いたのは赤い線の区間になります。


※5万分の1地形図「足助」(明治24年(1891年)測図、昭和3年(1928年)要部修正測図、昭和6年(1931年)発行。)。

現在の地形図はこちら。青い線はアプローチに使った林道。赤い線が今回歩いた古い峠道のおおよそのルートです。


地理院地図(電子国土Web)に加筆。

地形図によると、豊田市と設楽町の境界にある峠の標高が805m、峠から設楽町側に下っていって最初に当貝津川を渡河した地点が590mなので、峠の標高差は215mとなります。歩いた峠道のうち、約3分の2は現在の地形図には記載されていない道を通ったことになります。

阿蔵峠の存在を知るまでは、今回歩いた道(赤い線)よりもやや南側に記載されている徒歩道(点線表記の道。)が新段戸トンネルの旧旧道であると思っていました(この道は道路地図帳にも載っている。)。

実際には点線の徒歩道は古い地形図には載っておらず、赤い線の道が古くからある峠道の一つであった訳ですが、阿蔵峠の道と並行するように山越えをしていることから、かつてはよく使われた峠道には違いないだろうということで、歩いてみることにしました。

ちなみに、この峠や峠道の名称は不明です。設楽町誌(本編だけでなく、集落ごとの記事をまとめた別冊もあったので、最寄りの集落となる「桑平」や「笠井嶋」の項も含めて。)と下山村誌を読みましたが、この峠や峠道に係わる記事は見当たりませんでした。

まずは豊田市側の旧段戸トンネル跡地へとやって来ました。すっかり埋め立てらてしまって、かつてどうなっていたのかもあまり思い出せません。



ここ旧段戸トンネル跡地の前には林道尾根線がつながっていて、この道を歩いて峠道へと向かいます。



先週、阿蔵峠を歩いた後で下見に来た時は、入口の虎柵が両脇に避けてあったので、直接、車で間近まで行けましたが、今回は道の真ん中に置かれていたので、ここから歩いていくことにしました。

10分ほど歩くと沢頭を回るような形の大きなヘアピンカーブに出会います。ここが峠道への入口となります。



ここから入っていきます。



10~20mも歩くとはっきりとした道跡が現れます。これが峠道となります。



まずは、なだらかな地形の尾根を越えていきます。



尾根を越えるとさらに奥へと峠道が続いています。



この辺りの峠道は明瞭なので、迷うようなことはありません。



ここは路面が削れて狭くなっているので、注意して通り抜けていきます。





この辺りから下り坂が始まります。



峠道が左へとカーブすると、



木のたもとに石仏がありました。



頭に馬を乗せているので、馬頭観音だと思います。光背に刻まれている年号は「文化十一年」。西暦では1814年なので、206年前のものということになります。



単純に考えれば、この峠道は少なくとも206年前には存在し、馬頭観音が置かれるほどの往来があったことになります。

峠道は下っていきますが、いまのところはまだ緩やかな坂です。所々、路上に若木が生えていますが、気にせずに進んでいきます。







若木のすき間をそのまま通り抜けていきます。



最初のヘアピンが現れました。ここから相当な数のヘアピンカーブが現れることになります。まさに「つづら折り」です。



ヘアピンカーブの折り返し先の道に若木が生えているので、パッと見ではどこに道が続いているのかわからない状態になっています。



緩く大きなカーブを描いているヘアピンです。道筋をよく見ていれば行き先はわかりますが、こういうパターンも一瞬戸惑ってしまいます。



日がよく当たる南向きの斜面のためか、杉林の真っ只中でも視界を塞ぐように若木が育っていて、進む先を迷わせます。



水が流れる沢へと近づいて湿気が多くなってきたためか、阿蔵峠の時のように枯れ笹が目に付くようになってきました。





しかし、どうして全部枯れているんでしょうかね。この周辺一帯で同じタイミングで寿命を迎えてしまったのでしょうか。

大きな岩が現れました。目を引くので、峠道が岩の下を通っていると思って何の気なしに真っ直ぐ進んでいこうとしました。



が、大岩の先には道はなく、実際は手前でヘアピンカーブになっています。しかもちょっとわかりづらい状態です。



ヘアピンカーブを連続で撮っていますが、あまりにも枯れ笹に埋もれていて、見返した時に「一体何を撮ったんだっけ?」と悩んでしまいました(笑)。







路上に残る枯れ笹については徹底的に踏み均しながら歩いてきたので、だいぶ道筋が見えるようになってきました(帰りに迷ってしまうので…。)。



苔に丸ごと覆われた石を見つけ、その上に何か黄色いものが飛び出ていたので「苔に花?」と思い撮ってみました(いまいちピントが…。)。よく見ると小さなキノコみたいで、花なのかはわかりません。



写真だと道筋が不鮮明ですが、ゆる~く右へとカーブしています。ちなみに右側真下にも平場があって、初めはヘアピンカーブと思ってしまいました。



苔むした倒木を越えて先へと進みます。



今まで沿ってきた沢とは別の沢伝いに進む小径と合流しました。右側の道が現在の地形図に載っている峠へ向かう徒歩道でしょう。



交差点を下側から見上げた写真です。これという特徴や目印はありません。



実際、帰り道で通った時は見過ごしそうになってしまいました。たまたま頭を上げたら道の真ん中の小さい切り株に気が付いて、交差点とわかりました。

ここからは、直線的に沢に沿って下っていきます。





右下に作業道が近づいてきました。



案の定、峠道は作業道に吸収されて無くなってしまいました。



振り返って撮った、峠道と作業道の分岐点です。まあ、ザックリと削り取らずに合流できるように均してあったので、まだ良かったです。



ここから先は峠道を拡幅した作業道を歩いて、この辺りの本流である当貝津川まで下っていきます。

※長くなるので、(2)へ続きます。
Posted at 2020/06/28 03:57:13 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2020年06月24日 イイね!

国道420号の前身道の記録と ある山越え道について

先日、豊田市と北設楽郡設楽町の境、国道420号新段戸トンネル区間の旧旧道にあたる「阿蔵峠」の峠道を歩いてきました。

その絡みで、阿蔵峠を越える道(国道420号の前身の道。)について調べようと図書館で設楽町誌・下山村誌・足助町誌・作手村誌と読んでみたわけですが、せっかくなので、調べてわかったこと・知ったことを書き留めておこうかと思った次第です。

国道420号が通過する旧足助町・旧下山村・設楽町域の「道」については、江戸時代以前については記録に乏しいそうで、それなりに詳しく書かれているのは、やはり明治時代に入ってからです。

最初に確認できるのは、明治9年(1876年)の太政官達第60号「道路ノ等級ヲ廢シ國道縣道里道ヲ定ム」に基づき、明治9年以降に(明確な年は不明。)足助~安実京~葛沢~梨野~阿蔵~宇連野~南設楽郡境の経路を通る道が二等里道「下山街道」に認定されたことです(下山村誌より。認定は東加茂郡内のみの模様。)。

ちなみに、現在の国道420号とは違うルートを経由している区間があり、安実京~梨野の間で東大見ではなく葛沢を経由しているのと、阿蔵から先のルートが阿蔵峠を越えて北設楽郡へと向かうのではなく、宇連野を経由して南設楽郡へと向かっているところです。特に阿蔵から先は、国道420号ルートと全く違うルートになっています。

では、郡境を越えた南設楽郡内の道はどのように指定されていたかというと、郡境~旧作手村菅沼~旧段嶺村~旧鳳来町海老となっていたようで、その内、旧段嶺村内の一部区間だけが国道420号ルートに重なっていたと思われます。ちなみに海老側からは、足助への道なので「足助道」と呼ばれていたようです(作手村誌より。)。

実際、何を読んだのかは忘れてしまいましたが、海老の人が役所への申請のために、足助まで歩いて向かったという話を見たことがありますので(一時、海老の辺りの管轄を足助の役所がしていたためらしいです。)、その時はこの道を歩いていったのでしょう。

続いて、明治22年(1889年)1月から工費を全て沿線の村々(足助、安実京、山ヶ谷、葛沢、東大見などとある。)が村費で賄うとして改修工事に着手したことが書かれています(足助町誌より。)。

この改修工事の間の明治22年10月に沿線の村々(足助は除く。)が合併して金沢村が誕生。この金沢村の区間については、明治24年(1891年)5月に竣工したとあります。が、費用が賄えず、拠点である足助町に援助を仰いだ村(安実京など)や、金沢村になってからは県に陳情したりもしたようです。

この記事には、改修した橋が地名付きで書かれていて、金沢村大字葛沢と山ヶ谷の間の神尾川橋(国道420号神越橋の場所か。)、大字葛沢字仙戸の美枝橋(現在の字仙ノ戸か。神越橋から現在の豊田市葛沢町の集落までの間の地名。)、大字東大見字市平の川折橋(場所は不明。字名から神越橋のすぐ上流にある大見橋付近か。)が出てきます。

ここに出てくる地名からわかるのは、明治22年の改修工事の時点では、まだ葛沢を経由するルートのままだろうということです。

次の記事は、「下山街道」が明治29年(1896年)に東加茂郡の重要里道に認定(下山村誌より。)。明治30年(1897年)には、「足助道」も南設楽郡の重要里道に認定されます(作手村誌より。)。

明治31年(1898年)に「下山街道」の路線変更及び改修が行われ、足助町から富義村阿蔵までが竣工とあります(足助町誌より。)。変更された区間について何も書かれてはいませんが、この時におそらく安実京~葛沢~梨野の山越えルートから安実京~東大見~梨野の大見川沿いの現国道ルートへ変更されたと思われます。

最後に大正9年(1920年)の旧道路法の施行により、「下山街道」のうち、足助~阿蔵が「県道足助新城線」に認定されます。阿蔵から先の区間は、阿蔵~宇連野~南設楽郡境が県道に認定されず、代わりに阿蔵~阿蔵峠(北設楽郡境)~段嶺村が県道に認定され、ようやく旧足助町~旧段嶺村区間が現国道ルートとなりました。

この後は、県道田口下山足助線から県道設楽下山足助線になり、そして国道420号になるわけです。


ここからは、実際に踏査するかどうかは置いておいて、「下山街道」の安実京~葛沢~梨野の旧ルートについて、ちょっと考えてみます。前述したとおりなら112年前には「街道」を外された道です。

明治時代発行の地形図は手元に無いので、毎度の戦前の地形図です。


※5万分の1地形図「足助」(明治24年(1891年)測図、昭和3年(1928年)要部修正測図、昭和6年(1931年)発行。)。

赤い線が現在の国道420号のルート。青い線が神尾川橋から葛沢へのルートです。神尾川橋から葛沢へのルートは、これ以外にはないでしょう。

問題なのは、葛沢からどのようなルートで山を越えて、現国道ルートである大見川沿いへと繋がっていたのかという点です。

戦前の地形図でも、使われなくなった道は当然抹消されているはずですが、この当時は歩いて山越えをすることはまだまだ普通でした。実際、赤い線で記した県道足助新城線と地図左側の巴川沿いの道以外は、自動車もろくに通行できない道の表記ばかりです。

なので、「街道」から格下げされたとしても、地元の生活の道として使われていたはずで、記載が残っていてもおかしくないと思います(だいたい、大本は明治24年測図なわけですし。)。

そこで想定したのが2つの道。一つは緑の線の道。葛沢から山を横断して短距離で大見川へと下っています。もう一つは黄色の線で、こちらは山の上部を縦断して、より梨野に近いところで谷へと下るルートです。両方とも戦前の地形図には徒歩道として記載されています。

2つのルートを現在の地形図に書き込んでみました。


※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

もっと明確に峠でもあれば予想も立ちますが、この地形では、正直、どちらのルートを通っていたのか判断のしようがありません。まあ、管理上の正解は一本しかないわけですが(本当はさらに違う道かも。)、通行に関しては、人の好みでどちらの道も使われていたというのが事実のような気がします。

あと、現在の地形図に書き込んでみてわかったのは、現在の地形図に記載の道(徒歩道も含めて。)と微妙に違うルートを取っているところ(縮尺の違いや書き込みによるブレはありますが。)。

そして、昔の道は尾根を通っている部分が多い。特に緑線のルートは、葛沢の集落を過ぎると大見川に下るまで、今は道が記載されていない尾根筋をできる限り通っている気がします。

古道は、眺めが良くて危険を察知しやすく、川沿い・沢沿いではないから水害の影響もない尾根道が多いそうです。

実際、尾根道が歩きやすいのは事実なんですよね。岡崎市内にある古道「千万町街道」は里山の尾根をつないでいく典型的な尾根道ですが、今もきれいに道が残っていて、急坂もあまりなく(地形的にどうしようもない場所は別ですが。)、散策気分で歩くことができます。

「実際に踏査するかどうかは置いておいて。」と書きましたし、両方を踏査したところで本当に旧「下山街道」であるのかは全然わからないと思いますが、単に歩いてみたいなと思っているところはあります。何より、こういう事を考えてみるのが面白いわけです。

しかし、事前情報が何もない所なので、草木が繁茂する夏から秋はアタックしないほうがいいですね。そもそも入口を見つけられない可能性も高いですし。冬になって行く気があったら覗いてみますか。


つらつらと「それがどうしたの?」的なことを書いてきましたが、私としては、地理・歴史が好きで、街道も好きで、山をぶらぶら歩くのも割と好きで(登山は体力的にも技術的にも無理ですが(笑)。)、ここ十年来は廃道・廃線探索もやって、特に最近は新旧の地形図を見比べたり、図書館で調べものもするようになったので、実際に探索する時は、マイナーな案件でもより面白味を感じている気がします。

自動車道や荷車道の廃道というと条件的に存在がけっこう限定されるのですが、徒歩道の廃道ははるかに膨大。廃古道まで首を突っ込むと、終わりの無い「沼」に嵌まる可能性が高い…。ほどほどにはしないといけませんね(笑)。
Posted at 2020/06/24 21:23:07 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2020年06月21日 イイね!

国道420号新段戸トンネルの旧旧道「阿蔵峠」の峠道を歩く

2020年6月20日土曜日、豊田市と北設楽郡設楽町の境、国道420号新段戸トンネルの旧旧道にあたる「阿蔵峠」の峠道を歩いてきました。「阿蔵」は「あぞう」と読みます。

阿蔵峠とその峠道は、現在の地理院地図(地形図)には記載されていませんが、愛知県の峠をまとめた本に阿蔵峠の記載があり、それを踏まえてインターネットで検索してみたところ、旧旧道を通らないルートで峠を訪れた方のブログがありました。峠付近はかつてのまま現存しているようだったので、旧旧道から探索を試みてみることにしました。

今回の探索ルートのうち、旧旧道に相当するのは地図中の手書きの赤い線になります。ちなみに、西側(左側)が豊田市、東側(右側)が北設楽郡設楽町になります。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

戦前の地形図はこちらになります。

※5万分の1地形図「足助」(明治24年(1891年)測図、昭和3年(1928年)要部修正測図、昭和6年(1931年)発行。)。

地形図で見ると阿蔵峠の峠道は縣道(県道)表記になっています。下山村誌から明治時代以降の足助から阿蔵峠までの道路の歴史を抜粋してみました。

まず1876年(明治9年)以降に足助~安実京~葛沢~梨野~阿蔵~宇連野~南設楽郡境のルートが二等里道「下山街道」に認定。この時点では、阿蔵から阿蔵峠を越えるルートは認定されていませんでした。続いて1896年(明治29年)に同街道は東加茂郡の重要里道に認定。

1920年(大正9年)、旧道路法に基づき、足助から阿蔵が愛知県道足助新城線に認定。この時に、阿蔵~宇連野~南設楽郡境のルートは県道認定されず、代わりに阿蔵~阿蔵峠(北設楽郡境)ルートが認定され、これで阿蔵峠の峠道が県道となったわけです。

さて、現地へとやって来ました。新段戸トンネルの豊田市側坑口前の駐車帯です。ここから歩いていきます。


新段戸トンネルです。延長1403m。2001年(平成13年)11月22日の開通です。


現国道と旧国道の分岐へと来ました。まずはここから登っていきます。


新段戸トンネルが開通するまでは、この道を昼・夜ともドライブでよく通ったものですが、あらためて見ると狭い道です。


地図上の赤い線の起点に来ました。左側へ分岐する林道保戸嶋線へ入ります。


続いて、無名の林道へと入る予定でしたが、出入口が山の斜面を切り崩したようになっていたので、もしかしたら旧旧道が違う場所にあるかもしれないと思い、通過してもう少し奥へと歩いてみることにします。

無名林道を通り過ぎてすぐの左側に道跡らしきものがありました。山を下っていく方向ですが、ひとまず跡を追ってみることにします。


入り込んでみると明らかに道跡でした。しかし、旧国道の真上辺りまで来たところで薮がひどくなり、これ以上追うことは止めました。




この道跡は、阿蔵峠の峠道である可能性は捨てきれないので、寒い時期にでも再探索してみたいと思います。

林道保戸嶋線まで戻ってきました。今度は今しがた歩いた道跡と同じ沢の上流側を登ってみることにします。


道跡らしきものはありますが、かなり急傾斜です。それでもひとまず登っていってみることにします。


だいぶ沢を登り詰めた所で道跡が無くなってしまいました。地図を見直して、右側の尾根を越えて、無名林道へと向かうことにします。


何とか無名林道へと出ることが出来ました。




ここからは余計な色気は出さず(笑)、無名林道を歩いていきます。地形図に記載されているルートから見て、この林道は阿蔵峠へと向かう峠道と何らかの接点があるはずです。


しばらく歩いていくと林道は途絶えてしまいましたが、その向こうに細くなった道が続いているのが見えています。


いよいよ本命、阿蔵峠への昔ながらの峠道になったようです。


林間を通り抜ける古道の例に漏れず、大きな倒木があります。ここは根っこ側へと迂回します。


けっこう良い状態で道が残っています。




若木が生えていたり、倒木があったりしますが、この程度なら通行には支障もありません。




視界に入る稜線が低くなってきました。いよいよ峠に近づいてきたようです。


阿蔵峠に着きました。幅広の切通しが埋もれることなくきれいに残っています。




ちゃんとありました。事前に拝見したブログに載っていた境界標石です。左列には「東加茂郡下山村」、右列には「北設楽郡段嶺村」、下に「境界」とあります。


下山村は2005年(平成17年)に豊田市へ編入され、今は存在しません。同じく段嶺村も1956年(昭和31年)に近隣町村との合併により、新たに設楽町となりました。「段嶺」は「だみね」と読みます。

ここから設楽町域へと入り、峠を下っていきます。


切通しが終わった所で左へと曲がっていきます。


ここからは道なりです。所々、道が削れて細くなってしまっている所があるので、注意して通り抜けます。


この峠道、戦前の地形図では特に「荷車ヲ通セサル部」とはなっていないので、もともと道幅はそれなりに確保されていたと思われます(それでも3mくらいまででしょう。)。

この沢を渡ったところで、一旦、昔ながらの峠道は無くなってしまいます。


ここからは、作業道を歩いていきます。おそらくは、昔の峠道を基に拡幅したものでしょう。




この作業道が旧国道へと合流する手前に立っていた表示板です。「経営道 藤立環状線」と読み取れますかね。


旧国道へと合流しました。ここは左折し、坂を下っていきます。右折すると埋め立てられた旧段戸トンネルがありますが、そちらへは行きませんでした。


国道用のキロポストが残ったままです。


段戸山への林道の分岐です。道路に付いている轍を見ると、林道へ向かう方が交通量は多そうな感じです。


ここまで旧国道を歩いてきましたが、このガードレールが途切れた地点から、今度は右側の斜面へと下っていきます。




戦前の地形図と現在の地形図を見比べると、昔の峠道は先程の段戸山への林道との分岐を過ぎると、川沿いに高度を下げていっているように見えるので、道跡がその通りに残っているか確認します。

斜面を下っていくと平場が続いていました。上流側は大きく抉れてしまっていたので、下流側へと辿ってみることにします。この時点ではまだ峠道の続きであると確信はしていません。


川沿いで湿気が多いためかひどい薮です。そこに倒木も重なって、なかなか進むことができません。


薮をかき分けて20~30m進んだ所にあった沢で、道跡と思しき平場は途絶えてしまいました。


しかし、先の方を睨んでみると、この先にも何となく平場が続いているのが見えます。慎重に沢を渡って対岸へと進みます。

対岸へと登り直したところ、平場が続いていました。これは峠道の続きとなる道跡と見ていいでしょう。


しかし、この先の道跡も倒木が次々と現れたり、枯れた笹と思われるものが密生したままになっていたりして、最近歩いた廃道の中では劣悪な部類の状況を進んでいくことになります。




ようやく石積み擁壁を見つけました。これで間違いないでしょう。


完全に進退窮まるほどには酷い状況でないことが、ある意味厄介です(笑)。




無数の倒木が折り重なる沢。げんなりしながらも、上流側へと迂回していきます。




なかなか「優しい」廃道になってはくれません…。






また沢を渡っていきます。


少し一息つける状況になってきました。


また沢を渡ります。奥へと道跡が続いているように見えますが、自然の斜面なので、右へと曲がっていきます。


逆方向から見た同じ沢渡りの部分です。渡った先にまた密生した枯れ笹があるのが見えています…。


斜面から浸み出した水でドロドロにぬかるんでいます。


「ああっ、もう!!」という感じで、枯れ笹を踏んで踏んで踏んで踏み倒して進んでいきます。こんな状況なので全然ペースが上がりません。


今までの中で一番大きな川へと出てきました。多分、当貝津川(鰻沢)だと思います。道跡の先端に石積み橋台が見えています。


対岸に橋台は見えません。見えづらいですが、写真中央部に人工の水路があるので、建設の際に取り壊されたのかもしれません。


ここでは河原までちょっと高さがあるので、もう少し渡りやすい場所がないか上流へと進んでみます。


上流へと進んでみましたが、岸の高さは変わらず、道跡も崩れていたので、これ以上進むことは止めました。


結局、橋台の横の斜面に動物が付けたと思われる踏み跡があったので、木を頼りにその踏み跡を使って河原へと降りました。

河原から見た橋台です。積み方はよく見かける「谷積み」という手法ですが、使っている石が長方形に整形されていて、何とも言えない違った印象を与えてくれます。




では、川を渡って対岸へと進むことにします。が、ここである問題が発生しました。長靴が沈まない程度の流れの深い所へ足を置いたところ、いきなり長靴の中に水が侵入してきたのです。

うっかり流れにはまり込んだわけでもないので、ちょっとパニックになりながらも足早に対岸へと渡りました。

長靴を確認すると脛の辺りの場所が裂けていました。


長靴のゴムが裂けてしまうほどの衝撃や感触は憶えがありませんが、知らないうちに鋭い枝か細い木の切り株で裂いてしまったのかもしれません。

この先はもう川はないはずなので、気にせず進むことにしました(もちろん、この場ではどうしようもない事なので。)。

渡った先も全然気を抜かさせてはくれません…。






「ああ、もう辿るのは止めだぁ!」と隣の斜面へと転がり出ました。


斜面の一番下の端を歩いていきましたが、けっこう小石がゴロゴロしていたり埋まっていたりして、何か排土場のようでした。


これ以上進む理由もなくなったので、斜面を直登して旧国道へと出てみたら、ちょうど国道420号の豊邦大橋のたもと付近でした。


これでやっと車へと戻ることができます…。


あの山の斜面の中で悪戦苦闘していたわけですね…。


新段戸トンネルの設楽町側坑口です。


これから1403mの直線トンネルを歩いていきます。




本来ならほぼ平坦の(本当は若干勾配が付いてるとは思いますが。)舗装路で、さっきまで歩いてきた廃道に比べれば何倍も歩きやすいはずですが、すっかり疲れていたことと、トンネル内があまりに単調で、何度も何度も立ち止まってしまいました。

トンネル内にあった市町境の表示。阿蔵峠の標石に比べると味も素っ気もないです。


25分程かけて、ようやく豊田市側の坑口へと出てきました。正直、ホッとしました。廃トンネルなら長さ2kmのものを一人で潜ったことがありますが、こんな疲れは感じませんでした。やはり対象物に興味や関心が無いとダメですね(笑)。


やっと車に到着。全行程3時間20分ほどでした。


最後に、行きの時点で通らなかった無名林道の出入口付近を歩いてみました。


無名林道へと合流するような道跡がないか探しながら進みましたが、何も見つからないまま、山越えして合流した地点に着いてしまいました。

とにかくこれでまた一つ、古い峠道とその峠を踏破することができました。

ここ2~3か月、県外への移動が自粛となっていたために、県内の廃道探しに重点を置いた活動になっていますが、自分なりに地元の埋もれてしまった古道を掘り返す良い機会になっています。図書館で地誌を読んで、下調べや後付け確認したりするのも楽しいですしね。

この先、さらにマイナーな古道を探していく方向性になりそうですが、飽きが来るまではもうしばらく追っていってみたいと思います。
Posted at 2020/06/21 20:59:38 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2020年06月16日 イイね!

豊田市栃立町内の古道をさまよう

2020年6月16日火曜日、今日は仕事がお休みだったので、豊田市栃立町へと出かけてきました。

昨晩、何気に戦前の地形図と今の地形図を見比べて、廃道になっていそうな道を探していましたが、たまたま豊田市栃立町を通る愛知県道477号のルートを見比べていたところ、現在の県道はこの町内にある寺院の山側を通っていますが、昔の道は寺院の谷側を通っていることに気が付きました。

地図内の赤丸がその寺院です。

現在の地形図。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

戦前の地形図。

※5万分の1地形図「足助」(明治24年(1891年)測図、昭和3年(1928年)要部修正測図、昭和6年(1931年)発行。)。

しかも、昔の道は現在の地形図には徒歩道表示ですら記載されていません。豊田市内の山間部と言っても旧下山村なので自宅からはそんなには遠くない。小ネタ探しのつもりで出かけてきました。

どのあたりから古道に入れるのか一応予想を立てて、豊田市栃立町と田平沢町の境付近の県道477号の路肩に車を駐車。


車の後方に県道から下へと降りる小道があったので、入り込んでみます。


「なぜこんな所に?」という場所に出入口やスロープ、ガードなどが設けられている場合がありますが、それは里道(道路法の適用を受けない法定外「公共物」である道路。)が接続・交差しているため、利用する者の有無にかかわらず出入りできるようにしてあるわけです(当然、違う理由の場合もありますが。)。かつての街道や里道だった場所は、現在も里道のままになっていることがあるので、そこに期待してみたわけです。

ということで、期待して入ってみたわけですが、道があったのは最初だけで、しばらく歩き回ってみましたが、どうも単なる杉林だったようです。


引き返すのも何なので、けもの道を辿って奥へと進んでみます。これも毎度のことですが、進むうちに古道と交差するだろうと思っているからです。

杉林の中のけもの道を進んでいたところ、斜面の下方にU字型の窪みを発見。

とりあえず古道を見つけました。


自分が期待している県道477号の前身にあたる古道なのかはまだ分かりませんが、どこから登ってきた道なのか突き止めるため、一旦、道を下っていきます。

5分ほど下ると県道337号へ出てきました。


県道477号は山の中腹にある集落を縫っていく道ですが、県道337号は県道477号に並行しつつ巴川沿いを行く道になります。ちなみに県道337号ルートの道は、戦前の地形図にはありません。

場所を確認したところで、あらためて古道へと戻ります。後で戦前の地形図を見直してみたら、古道はこの辺りから山へと取り付いていたようです。しかし、この状態では県道337号側から調べていたら絶対に分かりませんね(笑)。


さて、山の斜面をどんどんと登っていきます。さすがに県道477号まで出られると目的の古道ではなくなってしまうのですが…。




苔むした倒木が折り重なる沢…。古道はこれ以上は登らずに対岸へとつながっているようで、まずは一安心。ですが、この倒木群は渡れませんねぇ…。山側に大きく迂回します。


何とか沢を渡り、引き続き古道を辿っていきます。




U字型の道。古い街道などの特徴ですね(私はそう思っています。)。


二股の分岐が見えてきました。しかも真ん中に大きな石碑が立っています!


「やったぁ、何か立ってる!」と駆け寄って見てみたら道標でした。「從是左高福寺道」とあります。


道標にある「高福寺」は、ここ栃立町にある古寺で創建は1490年。今回の古道探索の目印にした寺院でもあります。この道標がこの古道に向けて立っているということは、この道が戦前の地形図に記載されている、寺院の谷側を通る古道で間違いがないということでしょう。

それにしても、古い時代の旧・廃道を辿っていてテンションが上がる時は、何といっても石造物を見つけた時ですよ(他には何も無いとも言える(笑)。)。石積み擁壁、石積み橋台、石仏・石碑、道標といったものですね。

特に、地域間を結ぶ街道ではなく、今回のような生活道路的な古道ではほとんど見かけることがありませんからね。

気持ちを落ち着けて、引き続き古道を辿っていきます。


が、前方に笹が現れました。道跡もはっきりしません。これは崩落地になっているようですね…。


完全に笹薮に視界を塞がれました…。とりあえずは、古道と同じ高さの場所を進んでみるしかありません。


笹薮を抜けたところで周囲を確認したところ、山側の一段上の平場にピンクテープを見つけました。


ピンクテープは、土地の調査に関連して付けられているようです。枝などにぶら下げて点々と連続するように各所へ付けてある場合は、道跡や鉄道跡、用水路跡を示してることが多いので、こういう時は頼りになります。まあ信用し過ぎても痛い目を見ますが(笑)。

古道へと登り直します。来た方向を見ていますが、これではどこが道だったのか分かりません。


そして、道が復活したのもつかの間…、


さらに規模の大きい崩落地に出ました…。ただの斜面にしか見えません。


最初の小さな沢を渡って振り返ってみました。巨岩の下まではちゃんと道があったのですが…。


とにかく進まないとこの先に古道が残っているのかわからないので、古道が通っていた高さに注意しながら、少しづつ進んでいきます。

何とか渡り切った先に、ピンクテープがありました。


これは、どうやら交差する別の古道に対して付けられているようです。


しばらく周囲を見渡し、特に前方に道跡らしきものがないか確認します。

何となく道跡らしいものを見つけました。ただ、地形が道らしく見えることはよくあるので、間違っていたら素直に引き返すつもりで進みます。


堀割りの道ですね。枯竹が折り重なっているので、ここは迂回します。


一気に登っていますが、跡を辿っていきます。


短く切られた丸太と敷き詰められた枯れ枝で、非常に歩きにくいです。


県道477号へと出てきました。しかし、ここは自分が想定していた合流場所と違います。どうも手前に出てしまったようです。


どうやら、崩落地を渡った後でルートを間違えたようです。

崩落地を渡った後にあったピンクテープの所まで戻ってきました。今度は、ここから下へと向かう古道を進んでみることにします。


道跡は不鮮明ですが、何となく窪みが続いているので、辿ることはできます。


道がX字に交差するところへ出ました。


私が辿ろうとしている古道は、地図上では山の中腹を上下しながら通っているので、ここは左へと曲がります。


曲がってからしばらく進んだところで、左側の路肩にある物に目が行きました。


「石仏だっ!こんな所にあるなんて!」。峠でも集落でも交差点でもない、ただの林の中にあるとは意表を突かれました。


間近で見ると穏やかなにこやかなお顔をしています。光背部に刻まれている「明治」という年号がかろうじて読めます。


この古道は、先ほどの寺院への道標にこの石仏と、日常の生活道路以上の交通も担っていたのかもしれません。

この先は、現道につながるまで古道が残っていることを期待して進んでいきます。


堀割りが残っています。これも古道の証ですよ。


「これは大丈夫そうだなぁ。」と思って堀割りを通り抜けたら、すぐに古道がザックリと抉り取られていました…。


作業道に潰されてしまったようです…。


そして、その作業道もすぐに無くなってしまいました。


ここからは先は、全く道跡がわからなくなってしまいました。




古道とだいたい同じ高さを進んでいったところ、目の前に緑色に染まる大きな斜面が現れました。


戦前の地形図だとあの斜面を下から上へと斜めに横断していたようです。予定では、あの斜面の上に出て終了とするつもりでした。ただ、地形図を見ると、斜面には三本の沢があるようですし、上半分は畑になっているようなので、そのまま通り抜けられるのか分かりません。

まずは何とか緑の斜面へと近づこうとしましたが、手前に深い沢があり、対岸へと渡るのは難しそうでした。


斜面を眺めても、道らしきものがはっきりしなかったので、これ以上進むのは止めて引き返すことにしました。

帰りは、さらに下にあった細道を辿っていきます。




沢でまたしても道がわからなくなってしまったので、斜面を上へとよじ登っていったら廃作業道にでました。


ひとまず、X字交差点まで戻っていきます。






ここから登り返して元来た道を戻っても、崩落地を越えるのが難儀なため、直進して帰ることにします。


一応、道跡は続いています。


巨岩の下まで来たところで、また道跡が行方不明になってしまいました(笑)。


幸い、巨岩の下をチョロチョロと流れる沢の下流にピンクテープを見つけることができたので、ふたたび道跡を追っていきます。






まともな古道らしくなってきました。


と思ったら、県道337号に抉られていました…。




山側に高巻きして何とか先へと進みます。


いよいよ県道337号が近づいてきたので、県道へと降り立ちました。




少し歩いたら茶畑に出ました。正面右側の杉木立が行きに古道へと入り込んだ場所ですね。しかし、さすが狭小県道、狭い!でもインプレッサでもギリギリ走れますよ(笑)。


この後さらに20分程歩いて車に到着しました。最後は登り坂だったので堪えました…。結局、そんなに広い範囲を歩いたわけでもなかったのに、栃立町の山の中を3時間以上さまようことになりました…。

まあ、思ってもみなかった道標や石仏を見つけることができたので、その点は良かったですけどね。

※後日、別件の探しもので下山村誌を読んでいたら、この栃立町を通る古道は、どうやら明治29年(1896年)に東加茂郡が重要里道に認定した「大沼街道」という道の一部のようでした。

東大沼(下山村の中心地。)~梶~平瀬~栃立~立岩~大林~高野~阿蔵(足助と新城を結ぶ重要里道「下山街道」との結節点。)という経路の道で、東大沼~大林が現在の愛知県道477号に概ね相当します。

「大沼街道」は繰り返し改修・補修工事がされていたようで、私が考えていた以上にこの地域にとっては大切な道だったようです。
Posted at 2020/06/16 21:43:48 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記

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