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小林あにのブログ一覧

2020年12月29日 イイね!

設楽森林鉄道鰻沢線跡をちょっと歩く(8)・昔の鳴沢橋の橋台

2020年12月27日日曜日、新城市作手守義から北設楽郡設楽町三都橋に残る設楽森林鉄道鰻沢線(森林鉄道段戸山線田峯鰻沢線)の跡を歩いてきました。

今回は未踏査の区間ではなく、「設楽森林鉄道鰻沢線跡をちょっと歩く(4)」で歩いた区間を再訪問です。ここ3週間ほど山の中を歩いていなかったので、ひとまずお気楽に散策したかったのと、同区間の写真の撮り直しが目的です。あとは、新規にレールが発見できればと(笑)。

やって来たのは、国道420号と愛知県道35号鳴沢橋の交差点付近。国道標識が立つ場所から斜面を登っていきます。


森林鉄道跡へ来ました。杉林の中を一直線に跡が残っています。ここから設楽町三都橋方面へと向かい歩いていきます。


国道420号と県道35号の交差点を見下ろします。県道35号はこの先の崖崩れにより長らく通行止めが続いていて、新城市作手と設楽町を最短で往来するルートが使えず、わたくし的にはドライブに支障が出ております。


国道420号の真上に出てきました。以前はコンクリート補強された法面が丸出しの状態でしたが、今年になって落石防護網が設置されました。おかげで、森林鉄道跡は網を支えるワイヤーが縦横無尽に絡んでおります。




沢というほどでもない凹地を通過します。


「谷積み」した石垣の上にもう一列石を並べた石積み擁壁。「谷積み」だけのパターンはいくらでも見かけますが、わざわざもう一列積むパターンはあまり見かけませんね。


宮内省帝室林野管理局の境界標石。この地域の山地は、戦前は宮内省帝室林野管理局が管理する御料林でした。この境界標石はその当時の痕跡の一つで、「宮」の字を図案化したマークが刻まれています。


苔むした石積み擁壁が続いています。


前方の沢に小さな橋が見えてきました。


枕木とレールを乗せるコンクリート製の桁だけを架けたいたって簡素なもの。ここ以外にもう1か所同様の橋が残っています。




3年5か月ぶりに渡ります。分厚い桁なので、私が乗ったところでビクともしません。ただ、平均台歩きが怖くて嫌なだけです(笑)。


対岸へと渡り、幅広で穏やかな区間を歩いていきます。


レールが現れました。前回訪問時に確認済みのレールです。路盤が洗われて、宙に剥き出しになっています。


ご覧のとおり、供用当時の軌道幅を保ったまま残っています。


こちらは反対側。右側のレールは木に取り込まれてしまっています。


この先では木が根元からひっくり返っていますが、なんとか隙間を通り抜けます。


岩壁を削り込んだ区間を通過します。


ふたたび沢に出ました。ここには橋台と2つの橋脚が残されています。




対岸は岩盤の上に石積み擁壁を組んで路盤を築いてあります。


沢の中から橋脚を見上げます。鋭い沢でしたが、たまたまあった残置ロープを手すり代わりにして沢底まで降り、対岸へと横断しました。


渡った対岸側から橋梁跡を眺めています。橋台と橋脚の高さが相当ずれています。橋脚からさらに木組みをして橋桁を支える構造だったそうです。




渡った先も岩壁を削った険しい地形を通り抜けていきます。




またレールがありました。これは前回訪問時にはわからなかった物ですね。確認のため、靴で周囲を掘り返しました。


写真左側に対になるレールがあったはずですが、そちらは見つけられませんでした。


珍しく山側に石積み擁壁があります。ここは山へと登っていく古道が交差しています。


ふたたび沢へ向かい、路盤跡が山へと入り込んでいきます。


橋梁跡です。対岸にカーブを描く橋台が見えています。


前回訪問時はさらにこの先へと進んでいきましたが、ここは先ほどの沢よりもさらに鋭く抉れたV字型の沢。沢の周囲は手掛かりの無い滑らかな岩盤が露出しているので、沢に降りることすらできません。


進むためには大きく迂回する必要があるため、今回はここで引き返すことにしました。「一度歩いたルートだし、もういいや。」というのが本音です(笑)。

先ほどの石積み擁壁の所まで戻ってきました。まだ時間もあるので、ここから交差する古道を山側へと登っていってみます。


想像以上にしっかりとした道跡が残っています。この先に集落があるわけでもなし、なぜでしょうかね。




尾根の上に出てきました。奥に向かってまだまだ道跡が続いています。


細尾根の道になりました。


本来の尾根よりもかさ上げされて道が造られているのがわかります。わざわざこんな道を造る必要があるものがこの奥にあるんですかね?


依然、道跡ははっきりと残っています。




荒れた凹地へと出ました。ここで本来の道跡は消えていましたが、細い踏み跡がさらに先へと続いているので、それを頼りに進みます。


ふたたび道跡が現れました。


この先に炭焼き窯の跡がありました。


そして、炭焼き窯跡があるこの平場で道跡は完全に途絶えてしまったようです。


どうやら、私が登ってきたこの道跡は、この炭焼き窯で焼いた炭を麓へと搬出するための道だったようです。

周囲を見渡していたら、沢沿いに踏み跡があったので、もう少し登ってみることにします。


尾根を登り詰めていったら、巨岩に行く先を塞がれてしまいました。やはり峠道という訳ではなかったようです。




先ほどの平場まで戻ってきました。


この平場の下方は崖になっていて、沢の流れが滝となって落ちていきます。


森林鉄道跡まで戻ってきました。道跡はさらに下へと続いているので、このまま国道420号まで降りていくことにします。


山へと登る側の道とは打って変わって、人一人がようやく歩けるほどの細道です。


もしかしたら、搬出した炭は今の国道まで降ろさずに、森林鉄道に便乗して搬送していたのかもしれません。想像ですけどね。

国道420号へ出ました。落石防護柵で塞がれていたらどうしようかと思っていましたが、ちゃんと切れ込みが造られていて助かりました。やはり昔は人の出入りがあったのでしょう。


やや場所は飛んで、鳴沢橋まで戻ってきました。現橋の真横に残る旧鳴沢橋の橋台です。この橋は1932年(昭和7年)に竣工したようです。




傍らに欄干の柱だけが残っています。


鳴沢橋で対岸に渡り、川沿いにあった細い道へと入り込みます。先ほど居た旧橋の橋台を反対側から見ようと思ったからです。

何と、その細い道に石仏があります。


見てみると馬頭観音です(仏頭に馬の頭が乗っています。)。これがお地蔵様ならさして気にしませんでしたが、馬頭観音となれば話は別です。この道が昔の街道であった可能性があります。


光背に年号が刻まれているようでしたが(誰かがなぞった跡があった。)、はっきりと読み取れませんでした(大正?)。

歩き進めていくとすぐに川べりで道が途絶えました。


これは石積みの橋台ですね。ということは、鳴沢橋の旧旧橋がここにあったということになります。これは想定外でした。




1908年(明治41年)測図・1932年(昭和7年)発行の地形図を見ると、現在の鳴沢橋の場所には橋も道路も記載されておらず、掲載されている前身の橋と道は「鳴沢の滝」を避けるためか、もっと下流にありました(その道は「新城市作手守義字小滝から設楽町三都橋までの古道を探索」ですでに探索済み。こちらでは橋跡を見つけられませんでした。)。

記載が漏れたのは、地図の内容更新がめったにされなかったためでしょうが、類推すれば旧旧橋の架橋は1908年以降ということになるでしょう。図書館へ行って「作手村誌」でも読み返してみないといけません。

こちらは旧鳴沢橋の橋台。昭和戦前物なのでオーソドックスなコンクリート橋台です。


車へと戻ってきました。今回、個人的には一番最後に予想外のものを見られたのが良かったですかね。そして、またモヤモヤが増えましたが…(笑)。
2020年12月13日 イイね!

TGRラリーチャレンジ オンライン表彰式に参加しました

2020年12月12日土曜日、TGRラリーチャレンジのシリーズ表彰式がオンラインにより開催されました。

今年度は、ドライバーやすい氏がE-4クラス(トヨタ車1501cc以上)ドライバーズ・ランキングで3位、私がコドライバーズ・ランキングで2位となり、二人揃って表彰対象となりました。

私の方の順位が上なのは、ドライバーズのクラスチャンピオンになったHATANO選手が、今期はコドライバーをたびたび交代していたためです。

私は初め参加はしないで、コメントだけラリー事務局へ提出しようかと思っていましたが、やすい氏から「出たくても出られない人もいるんだから、出なきゃだめだよ。」と言われ、渋々、オンライン参加の申し込みをしました。檜舞台に出るのは苦手なんですよね…。

とは言っても、オンライン参加に適当な場所も思いつかないので、自宅でつなげて参加しようと思っていたら、やすい氏から「原田選手夫妻と一緒に名倉さん(この方もご夫婦でラリーに出場するベテラン選手。)の家でオンラインつないで参加しようという話になったけど来る?」と連絡があり、「それはいいね!」ということで、私も話に相乗りさせていただきました。

ちなみに原田さん(夫)がE-4ドライバーズ2位、原田さん(妻)はE-4コドライバーズチャンピオンです。

一人でよくわからない「ZOOM」をいじってのオンライン参加も寂しいですからね。やはりせっかくなら多少でも賑やかい方がいいに決まっています。

やすい氏から「手土産持参でね。」とのことで、無難に安城市の和菓子屋「北城屋」の最中「安城一番」を用意して、名倉さん宅へと向かいました。

名倉さん宅は、新幹線に乗って向かうとのこと。三河安城駅でやすい氏と待ち合わせて、岐阜羽島駅まで移動です。





岐阜羽島駅で原田さん夫妻の車に乗り合わせて名倉さん宅へ。

名倉さん宅へ着いたら、すでにガレージ内に机・椅子・コンロが用意されていて、食材・お飲み物(缶ビールを筆頭に各種アルコール類。これは事前にわかっていましたが(笑)。)も準備済み。何か軽くつまみながら飲んで、みんなでパソコンでも眺めて参加するのかと思っていた私の想像のさらに上を行く状況でした(笑)。

そして原田さんは、この日のために焼き鳥が焼ける小さいサイズの焚火セットを購入して、各種焼き鳥の具材と一緒に持参。奥さまにあきれられておりました(笑)。

オンライン表彰式参加のために「ZOOM」への接続もして、双方向で映像が確認できたところでみんなで乾杯。私たちのE-4クラスは一番最後の紹介・インタビューになるので、さっそく始めてしまいました(笑)。

この時点で、事務局側でも私たちが飲み会を始めた映像が見られるわけで、映像を見たオフィシャルカメラマンのMさんがこの状況をフェイスブックに上げ、やすい氏が「何かMさんのフェイスブックへのコメントがすごいことになってる。」とみんなに見せて大笑い。

このあとは、飲んで食べて、ほかのクラスのみなさんのインタビューに突っ込みを入れという感じで自分たちの順番を待っていました。インタビューの順番は、コドラ・ドライバーの順で、かつ下位からになるので、一番最初に出るのが私。

まあそんなわけで、私が最初に写ったわけですが、その背後ではやすい氏がこれ見よがしに焼き鳥を焼いていて、ほかのみなさんは後ろでガズーレーシングの手旗を振りまくっているカオス状態(笑)。

MCさんもあらかじめこの状況はわかっているし(笑)、家主の名倉さん夫妻や私たちのような毎戦出場するエントラントのことも知っているので、突っ込みどころ満載だったでしょうねぇ。

なんとか全員のインタビューがつつがなく終わり、表彰式も無事終了。私たち以外の表彰者のみなさんは、普通に自宅のような所から参加していたり、ディーラーチームだと店舗から参加したりといった感じで、私たちが一番砕けた状況で参加してました。

あとは、E-3クラスチャンピオンのHさんが、音声がうまく聞き取れないのか、カメラにひたすら耳たぶが写っていたのがアクシデントといえばアクシデントでしたかね(笑)。

さて、表彰式が終わり落ち着いたところで仕切り直し。この後も肉を焼いて、焼き鳥も焼いて、白いご飯も頂いて、ビールも飲んで、みなさん話に花を咲かせていました。

14時30分



16時00分



18時10分



最後は、名倉さんのご自宅に上がらせてもらって、コーヒーとお菓子をいただきながら話の続き。ここではもっぱら原田家のお話を他のみんなで聞くという形でしたが(笑)。

結局、名倉さん宅をお暇したのは21時過ぎ。充実した良い会合となりました。

帰りも新幹線。乗り換えの都合で、やすい氏とは名古屋駅でお別れ。



帰宅したのは22時半頃。岐阜羽島駅から1時間ほどで帰宅できるのだから、2駅くらいならこだま号でも十分便利ですね。



来シーズンはまだわかりませんが、インタビューでやすい氏が「来年も出場します!」と言い切っていたので、出るには出るんでしょうね(笑)。
Posted at 2020/12/13 21:07:40 | コメント(1) | トラックバック(0) | TGRラリーチャレンジ | 日記
2020年12月06日 イイね!

秋葉街道鳳来寺道「巣山坂」を探索しました

2020年12月5日土曜日、愛知県新城市細川から巣山にかけての山中にて、秋葉街道鳳来寺道の難所「巣山坂」の街道跡を探索してきました。

秋葉街道鳳来寺道は、静岡県浜松市天竜区にある火除け信仰で知られる「秋葉山」と愛知県新城市の名刹「鳳来寺」を結ぶ街道で、遠江・三河の山中を横断する険しい道でありながら、江戸時代から明治時代初期の最盛期は、一日に数千人もの参詣者が通行していたそうです。

ちなみにここ「巣山坂」へは、大正期に建設されて現在は廃道となっている車道跡を歩くために、すでに2回訪れています。

戦前の地形図はこちら。赤枠内が「巣山坂」です。この地図を見る限り、車道は載っていますが、旧街道とみられる道筋は載っていません。

※5万分の1地形図「三河大野」明治23年(1890年)測図・大正6年(1917年)修正測図・昭和5年(1930年)鉄道補入・昭和7年(1932年)発行。

現在の地形図はこちら。青線が大正期に開削された車道の廃道です。以前は載っていませんでしたが、今回の探索前に見たらそのままのルートで載っていました。ですが、旧街道とみられる道筋はやはり載っていません。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

さて、新城市細川地区の愛知県道505号渋川鳳来線の路肩にやって来ました。巣山坂を訪れる時は毎回ここに駐車しています。


駐車場所から坂を下り、県道と巣山坂の旧道(車道跡)が交差する地点へ来ました。奥の林の中へ続く道へと入っていきます。




旧道と林道の分岐点に来ました。巣山坂の旧道は右へと分岐していく道になります。この先は廃道化していきますが目立った分かれ道は無いので、峠まで迷うことなく歩いていくことができます。


さて、正直なところ、旧街道の巣山坂がどのように山を越えていたのかは全くわかりません。まずはこの地点で旧街道の痕跡がないか、周囲の地形をじっくりと観察してみます。


ここは峠方向から流れてくる沢筋があり、昔の峠道(徒歩道)が峠と麓を一直線に結ぶ傾向が多いことを考えると、取り付き場所としては格好です。


巨岩の上部に何となく平場が続いているのが見て取れました。


平場までよじ登ってみます。


これは道跡が続いていますね。まだ正解かはわかりませんが、辿ってみる価値はありそうです。




道跡沿いに石垣がありました。


場所はちょうど道跡が折り返す地点です。石垣は上へと登っていく道の土留め擁壁ですね。


これだけの普請をしているということは、この道跡が旧街道で間違いなさそうです。どんどん跡を追っていくことにします。

2か所目の折り返し。


想像以上にしっかりとした道跡が残っています。往来が多かった街道だけあって、道幅が取れる場所は幅広に造ってあるのでしょう。


3か所目の折り返し。


4か所目の折り返し。使われていない道なので、道跡の真ん中にもお構いなしに植林されています。


大きな岩が転がっています。


道跡の上は岩壁になっているので、そこから転がり落ちてきたものでしょう。


薮で道が塞がれていますが、突き抜けるとふたたび道跡があります。




5か所目の折り返し。路肩は石垣でしっかり維持されています。




先ほど見上げていた岩壁を横断していきます。


今までは尾根の先端部をつづら折りで登ってきましたが、ここから先は尾根の中腹部を進んでいきます。


道跡が崩落して、根っこ(まるで幹のように太いですが。)が宙ぶらりんになっています。ここは左側の岩盤の上をすり抜けていきます。


ちょっとした直線路になりました。


坂を登り切ると旧道に合流しました。「ここへ出るのか。」と独り言ち。


正面の岩場を見上げると石仏がありました。


著名な廃道系サイト「山さ行がねか」で、ここ巣山坂の探索記事が掲載された時に、旧道に石仏があることを初めて知りました。その時は、「探索記事掲載以前に歩いたことがあるのに全然気づかなかった…。」と歯ぎしりしていましたが(笑)、ここだったんですね。

そして、この場所に石仏があることも納得です。ここは旧街道と旧道が重なる場所。石仏が置かれたのは旧街道の時代ということですよ。

石仏をアップで撮ってみます。雰囲気からして明王の類ですかね?


お顔をアップ。頭に見慣れた彫り物が。かわいい顔のお馬さんが乗ってますね。ということは、馬頭観音ということになりますね。


ここからは旧道を歩いていきます。峠は右側の斜面上のはずなので、そちら側を注意しながら歩き進めます。


馬頭観音が置かれている岩場の端にもう1体、隠れるように石仏がありました。僧形なので地蔵菩薩ですかね。


こちらは光背に文字が刻まれています。右列が「文政七申仲冬吉日」、左列は足元に「施主」とあり「菊造 仙吉」と二人の名前が並んで刻まれていました。文政7年は1824年。この年は申年で、「仲冬」は「冬の半ば」の意だそうです。

合流地点から50mほどの所で怪しい場所がありました。右側の斜面上に道跡らしきものが見えています。


上へと登ってみます。幅は狭いですが(多分、旧道建設時に削られたのでしょう。)、道跡ですね。




折れた枝が重なり合っていますが、すっかり枯れ切っているので、体重をかけてへし折り、先へと進みます。


さらに奥へ進んでみると、これは間違いなく道跡です。旧街道の続きでしょう。


道跡を辿っていきます。




折り返しです。




斜面が荒れてきて、道跡がはっきりしなくなってきました。


ここも折り返しですが、かく乱されていて道跡がよくわかりません。周囲の雰囲気を頼りに進みます。


高い石積み擁壁の下へと出てきました。旧道の真下に出たようです。


緩やかな斜面を選んで旧道へと登ります。出た場所には目印になりそうな倒木が横たわっています。


旧道で峠へと向かうならば、倒木のある方向へと進むべきですが、旧街道が進んでいた方向から考えると旧道の坂を下る方向へと進むことにします。


ここ、怪しいですね。




よじ登ってみると旧街道の続きが現れました。


倒木を乗り越えて、はっきりとした道跡を進んでいきます。




真上に石積みが見えます。あそこを道跡の続きが通っているのでしょう。


案の定、折り返しが現れました。


シダの茂みを通り抜けます。


通り抜けたところで、道跡が崩落していました。杉が育っているところから見て、相当前に崩れたようです。


地面が硬いので渡るのに少々難儀しましたが、反対側の道跡の折り返し地点まで登り返しました。


真っ直ぐな道跡を登っていきます。


正面に横方向から光が差し込んでいるのが見えます。峠の切り通しのようです。


峠の切り通しに到着です。県道から入り込んで1時間10分ほど。写真を撮らなければ、もっと速く登ってこられたでしょう。


「愛知県の峠」という本によれば、旧街道の峠には石仏があるとのこと。さっそく観察してみたいと思います。

なんかグシャグシャですね。1体はうつ伏せに倒れているし…。


本来の組み合わせの台座かわかりませんが、枝や杉葉で台座の上をきれいにして、うつ伏せになっていた石仏を起こします。持ち上げられる重さで良かったです(笑)。


あらためて観察です。これは千手観音なのかな?彫刻がきれいに残っていて、手に持つ法具もよくわかります。


引き起こした石仏。お地蔵様でしょうか。光背の右下に「寛政」と年号が読み取れますが、あとは摩滅してわかりません。「寛政」であれば1789年から1801年になります。


こちらは欠損していて、仏像なのか神像なのかわかりません。


こちらは馬頭観音。頭上に刻まれた馬頭でわかります。先ほどの石仏群とは道を挟んだ反対側に立っています。


最後は、切り通しを通り抜けた場所に立つ石碑。


真ん中には「奉納大乗妙典六十六部日本廻国」と彫られ、右列は「天下和順」、左列は「日月清明」とあります。


「奉納大乗妙典六十六部日本廻国」は、法華経を日本国内旧66か国の聖地に奉納しながら巡礼することで功徳を積む修行のことで、この巡礼を行う修行僧や巡礼者を「六十六部」と呼ぶこともあるようです。

石碑の左側面には「越後蒲原郡國正村 行者 五郎右衛門」。右側面には「文政七(以下不明。) 觀月即到信士」とありました。

行者の五郎右衛門さんが文政7年(1824年)に建てたものと推測できます。五郎右衛門さんは「六十六部」だったのでしょう。満願成ってこの峠に石碑を建てたのか見当はつきませんが、石碑を建てるのは費用を考えても容易ではないので、相応の理由はあったのでしょう。ただ、なぜ故郷の國正村ではなく、遠く離れた三河国の峠に立てたのか…。

それから「觀月即到信士」。「信士」は仏道に入信した人の称号を表す戒名ですが、五郎右衛門さん本人なのか他の者のことなのか、これも関係性を伺い知ることはできません。

事実はわからないことだらけですが、これだけ明瞭に文字情報が残っていると後で調べることができるので、いろいろな想像を掻き立てられます。その場で人の名前や出身地、年号が読み取れれば、今や人の通わぬ峠でも一人立ち尽くして考え込んでいるんですから、なかなか滑稽な話ですよね(笑)。

切り通しからの坂をほんの少し下れば、同じく峠を越えてきた旧道に合流です。左に曲がって進めば、峠の上の集落である巣山集落があります。


巣山集落もかつては峠の出入口の集落として、秋葉山と鳳来寺を行き来する多くの参詣者で賑わっていたそうです。

最後に旧道の峠。


こちらは、今回歩いたルートを地形図に書き込んだものです。赤線が旧街道になります。帰り道は青線の旧道を歩いていきました。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

帰宅してから復習がてら「山さ行がねか」の巣山坂編を読み返していましたが、この旧街道についても記述がありました(サイト主は歩いていませんが。)。初めて読んだ時の内容はすっかり忘れているので、旧街道については事前情報無しのようなものでしたが、なんか答え合わせしたら回答が合っていたような気分ですねぇ…。
Posted at 2020/12/06 11:50:46 | コメント(0) | トラックバック(0) | ドライブ・道路・廃道 | 日記
2020年12月05日 イイね!

TGRラリー豊田戦で壊したベンチの見積書が届いたようです

私たちやすい・小林組は、11月15日に開催されたTGRラリーチャレンジin豊田戦の最終SSである鞍ヶ池公園内のコースでスピンオフし、車にダメージを負いました。

幸い、車のほうは翌々日には直ったわけですが、実は壊れたままになっていた物がありました。スピンオフした際に激突した公園のベンチです…。

実際には私たちの前にすでにぶつかったエントラントがいて、座面部分はその時にぶっ飛び、コンクリートの脚部分が残っていたところへ今度は私たちがぶつかったわけです。

本部へ損壊の届け出をしに行った時、担当のオフィシャルさんはすでに同じ用紙を2~3枚握りしめていました(苦笑)。具体的な場所を伝えようとしたところ、「公園内ならライブ映像が残っているから大丈夫だよ。」とのこと。そう言えばそうでした…。

豊田戦が終了してから早3週間。当初は戦々恐々とお沙汰を待っていましたが、何の連絡もないことに「公園、リニューアル工事中だったから、そのまま撤去だけで済むのかな?」などと二人で話したりもしてました。

ところが12月4日金曜日、ついに「彼方からの手紙」がドライバーやすい氏宅に届いてしまったのです…。中身は作業見積書のコピー。おそらく施工業者から豊田市へ提出されたもののコピーがラリー事務局へ送られて、さらにドライバーやすい氏の元へとやって来たのでしょう。

内容は、破壊されたベンチの撤去費用、再設置する新品のベンチ代金及び各種工賃で、見積額はしめて16万円…。ちなみにベンチだけで9万円するそうです…。

ただ、この金額がそのまま全額私たちへ請求されるわけではないようで(あくまでも作業見積書ですから。)、「内容を確認したらラリー事務局へ折り返し連絡ください。」ということのようです。

当のベンチを壊した当事者は、少なくとも2台はいるわけですから、最大でも折半の8万円。それをやすい氏と折半して4万円の自己負担というところですかねぇ。

ボーナス直前で良かった…。

Posted at 2020/12/05 08:09:29 | コメント(1) | トラックバック(0) | TGRラリーチャレンジ | 日記
2020年12月01日 イイね!

谷京峠への峠道を歩く(3)

2020年11月28日土曜日、長野県下伊那郡天龍村と飯田市の境にある谷京(やきょう)峠への峠道を歩いてきました。「谷京峠への峠道を歩く(2)」からの続きになります。

さて、馬頭観音をひとしきり観察し終えたところで、ふたたび峠へと向かい出発です。


林間を通る比較的歩きやすい道が続きます。




ボロボロの天幕がありました。近寄ってみると「飯伊森林組合」が設置した森林監視用の天幕のようです。マツタケなどの盗掘防止のためのものでしょうが、今は使われている様には見えません。


天幕の下辺りは浅い堀割り道になっていますが、倒木が折り重なっているので、路外へ迂回します。


両側に谷が迫る細い尾根道を通り抜けます。


この辺りの道は、本来の尾根から版築でかさ上げされているようにも見えます。


歩き進めると道が崩れて無くなっていました。正面左側に大きくU字型に地滑りしているのが見えます。


道の左側にある沢頭の周囲が、道を巻き込む形で崩落してしまったようで、切り立った崖になっています。


道の右側の沢は比較的緩やかな地形なので、そちら側に付いている踏み跡を頼りに対岸へと渡ります。

対岸へ渡ってから、先ほど立ち止まっていた道の先端辺りを振り返ります。道が通っていた細尾根がゴッソリと削り取られていますね。


先へと歩を進めます。




嫌な雰囲気の場所に出てきました。道が通っていたルートはつかめますが、全体が傾斜地に戻ってしまっています。それに一面の豊富な落ち葉…。滑ったら一気に沢に向かって落ちてしまいます…。


途中の足場が確保できる所でひと休み。この区間は踏み跡の幅が片足分くらいしかなく、地面も硬いので「ヨイショ、ヨイショ」と摺り足で落ち葉を払いのけながら少しづつ進んでいきました。


ピークとピークの合間にある広い平場へと出ました。ホッと一息ついて小休止です。


谷京峠への方向は見当がついていますが、峠へと向かう道筋が読み取れません。平場を奥へと進みながら斜面をチェックしていきます。


斜面に日光が斜めに一筋入っている所がありました。落葉した朴葉が密集している辺りです。道かどうかはわかりませんが、少なくとも登りやすくはなっているはずです。


淡い期待を込めつつ、斜面を登っていきます。


「道があったぁ!」。安堵しつつも先を急ぎます。


この時点で時刻は14時。為栗駅を出発したのが12時05分頃なので、間もなく2時間になろうとしています。日暮れになる前に余裕をもって車へと戻ることを考えると、リミットは近いと言えます。

ここも嫌らしい場所ですね。先ほどの所よりもまだ歩きやすかったですが、慎重に進みます。


また細尾根を渡っていきます。


道がピークに向かって登り始めました。




登り切ると鳥居が目に入ってきました。やっと谷京峠に到着です。為栗駅からちょうど2時間かかりました。




さっそく峠の様子を見て回ります。

こちらは石碑です。「嘉永五年三月上澣建」とありましたので、1852年に建てられたものだとわかります。


三面に碑文がビッシリと刻まれていて、一面は賛助者の氏名が刻まれています。ここ谷京峠(焼尾峠)の由緒が刻まれているそうです。


こちらは三十三観音の石仏群。光背を眺めると「○○番」と番号が刻まれています。


石仏群の背後から見た峠の全景です。


石仏群の先へと進むと、峠で唯一遠望が利く場所に出ます。一番奥の山々は南アルプスの南端部。うっすらと積雪しています。


遠山谷側へと下っていく峠道の傍らに立つ道標。真ん中には「秋葉大権現」、右列に「右 和田村道」と刻まれています。日付は「嘉永四年亥霜月十五日」とあり、こちらは1851年の建立ということですね。


右側の下っていく道が和田村(現在の飯田市南信濃和田。)への峠道です。


石仏群と反対側の道(和田村への道のほかにもう一本分岐していく道。)の傍らに立つ石碑。「道」の文字以外ははっきりしませんが、おそらく「道祖神」でしょう。


道祖神の石碑の背後を通る尾根を進んでいきます。


ピークに設置されているのが三等三角点「谷京山」です。標高は848.8m。為栗駅が320mなので、標高差530m弱を登ってきたことになりますね。


道祖神の石碑から鳥居方向の眺めです。


さて、日もだいぶ傾いてきたので帰ることにします。峠での滞在時間は20分弱。帰りもこの鳥居をくぐっていきます。


25分程で馬頭観音まで戻ってきました。


馬頭観音の前から始まる難所の急坂です。登りでも落ち葉で滑っていたわけで、下りはさらに慎重に進まないといけません。


本当にこの松葉が厄介です。私の住む安城市のお隣、岡崎市にある某小学校では裏山に落ち葉を敷き詰めて「落ち葉スキー」をやっているそうですが、こんな場所で滑りたくはありません。


何度もずっこけそうになりながらも無事に坂の下の尾根まで降りてこられました。


行きに道を間違えて、強引に尾根道へ合流した地点まで戻ってきました。帰りはそのまま尾根道を進みます。


落ち込んでいく尾根の上をジグザグ道で下っていきます。


こちら側にも天幕が立っていました。両側で監視していたのですね。


「さて、どこへ出るのかな。」と進んでいったら、水田跡の平場へと出てきました。水田跡よりももっと右側へ出ると予想していましたが見当違いでした。


ということは、この場所からの峠道の正解は、村有林の注意看板の真裏の斜面を登っていくことだったわけです。こんなの絶対にわからんわ…。


15時50分、無事に為栗駅まで戻ってこられました。峠からの帰り道は1時間半程。けっこう「徐行」しましたからね。


最後におまけで、JR飯田線の万古川橋梁を見に行きます。


為栗第6トンネル。「81」とありますから、やはり豊橋駅側からのカウントですね。


地形図にも記載がある徒歩道を歩いていきます。もう少しマシな道だと思っていたのですが…。


為栗第6トンネルの反対側に出ました。


トンネルの向かい側が万古川橋梁です。


万古川の河原へ降りるため、徒歩道をさらに進みます。




砂利で埋め尽くされた万古川の河原と万古川橋梁です。


見えている山のさらに奥にある峠まで往復してきたんですねぇ。


ふたたび為栗駅まで戻ってきました。ホームの街灯には明かりが灯っています。


最後に天竜橋を渡り、車へと戻ってきました。




今回歩いたルートはこんな感じです。きちんと地形図と対照しながら歩いたわけではないので、ルートが不正確なのはご勘弁ください。

※地理院地図(電子国土Web)に加筆。

地図でこの峠を見つけて、インターネットで峠の事をチェックしてからもしばらく放置していたのは、歩きやすくなる季節を待つためもありましたが、一番は地図に記載のない道を探して、深い山中で標高差500mを往復する必要があることでした。

廃道・廃線歩きをしていても、山登りをしているわけではないですからね。

それでも11月22日に少し歩くことができて、「行けそうだな。」と判断して再アタック。途中で道迷いもありましたが、峠まで往復できたのは嬉しかったですね。

まあ、それでも峠のさらに奥にある戸倉山まで縦走している方たちのことを思うと「何程の事か。」というものでしょうが(笑)。

この近隣、もう1~2か所、当たってみたい場所があるので(わざわざ万古川橋梁まで行ったのもそれが理由。何もつかめませんでしたが(笑)。)、雪が降る前にはもう一度来たいですね。

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「【豊根村】霧石峠への富山漆島側峠道を下見しました http://cvw.jp/b/1796277/47676277/
何シテル?   04/25 00:05
「小林あに」と申します。よろしくお願いします。 休日はドライブしたり、廃道となった旧道や峠の古道を歩いてみたり(煉瓦製のトンネルや暗渠も好物ですが、最近は...
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2023/12/10 07:32:18

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