2020年12月5日土曜日、愛知県新城市細川から巣山にかけての山中にて、秋葉街道鳳来寺道の難所「巣山坂」の街道跡を探索してきました。
秋葉街道鳳来寺道は、静岡県浜松市天竜区にある火除け信仰で知られる「秋葉山」と愛知県新城市の名刹「鳳来寺」を結ぶ街道で、遠江・三河の山中を横断する険しい道でありながら、江戸時代から明治時代初期の最盛期は、一日に数千人もの参詣者が通行していたそうです。
ちなみにここ「巣山坂」へは、大正期に建設されて現在は廃道となっている車道跡を歩くために、すでに2回訪れています。
戦前の地形図はこちら。赤枠内が「巣山坂」です。この地図を見る限り、車道は載っていますが、旧街道とみられる道筋は載っていません。
※5万分の1地形図「三河大野」明治23年(1890年)測図・大正6年(1917年)修正測図・昭和5年(1930年)鉄道補入・昭和7年(1932年)発行。
現在の地形図はこちら。青線が大正期に開削された車道の廃道です。以前は載っていませんでしたが、今回の探索前に見たらそのままのルートで載っていました。ですが、旧街道とみられる道筋はやはり載っていません。
※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
さて、新城市細川地区の愛知県道505号渋川鳳来線の路肩にやって来ました。巣山坂を訪れる時は毎回ここに駐車しています。
駐車場所から坂を下り、県道と巣山坂の旧道(車道跡)が交差する地点へ来ました。奥の林の中へ続く道へと入っていきます。
旧道と林道の分岐点に来ました。巣山坂の旧道は右へと分岐していく道になります。この先は廃道化していきますが目立った分かれ道は無いので、峠まで迷うことなく歩いていくことができます。
さて、正直なところ、旧街道の巣山坂がどのように山を越えていたのかは全くわかりません。まずはこの地点で旧街道の痕跡がないか、周囲の地形をじっくりと観察してみます。
ここは峠方向から流れてくる沢筋があり、昔の峠道(徒歩道)が峠と麓を一直線に結ぶ傾向が多いことを考えると、取り付き場所としては格好です。
巨岩の上部に何となく平場が続いているのが見て取れました。
平場までよじ登ってみます。
これは道跡が続いていますね。まだ正解かはわかりませんが、辿ってみる価値はありそうです。
道跡沿いに石垣がありました。
場所はちょうど道跡が折り返す地点です。石垣は上へと登っていく道の土留め擁壁ですね。
これだけの普請をしているということは、この道跡が旧街道で間違いなさそうです。どんどん跡を追っていくことにします。
2か所目の折り返し。
想像以上にしっかりとした道跡が残っています。往来が多かった街道だけあって、道幅が取れる場所は幅広に造ってあるのでしょう。
3か所目の折り返し。
4か所目の折り返し。使われていない道なので、道跡の真ん中にもお構いなしに植林されています。
大きな岩が転がっています。
道跡の上は岩壁になっているので、そこから転がり落ちてきたものでしょう。
薮で道が塞がれていますが、突き抜けるとふたたび道跡があります。
5か所目の折り返し。路肩は石垣でしっかり維持されています。
先ほど見上げていた岩壁を横断していきます。
今までは尾根の先端部をつづら折りで登ってきましたが、ここから先は尾根の中腹部を進んでいきます。
道跡が崩落して、根っこ(まるで幹のように太いですが。)が宙ぶらりんになっています。ここは左側の岩盤の上をすり抜けていきます。
ちょっとした直線路になりました。
坂を登り切ると旧道に合流しました。「ここへ出るのか。」と独り言ち。
正面の岩場を見上げると石仏がありました。
著名な廃道系サイト「山さ行がねか」で、ここ巣山坂の探索記事が掲載された時に、旧道に石仏があることを初めて知りました。その時は、「探索記事掲載以前に歩いたことがあるのに全然気づかなかった…。」と歯ぎしりしていましたが(笑)、ここだったんですね。
そして、この場所に石仏があることも納得です。ここは旧街道と旧道が重なる場所。石仏が置かれたのは旧街道の時代ということですよ。
石仏をアップで撮ってみます。雰囲気からして明王の類ですかね?
お顔をアップ。頭に見慣れた彫り物が。かわいい顔のお馬さんが乗ってますね。ということは、馬頭観音ということになりますね。
ここからは旧道を歩いていきます。峠は右側の斜面上のはずなので、そちら側を注意しながら歩き進めます。
馬頭観音が置かれている岩場の端にもう1体、隠れるように石仏がありました。僧形なので地蔵菩薩ですかね。
こちらは光背に文字が刻まれています。右列が「文政七申仲冬吉日」、左列は足元に「施主」とあり「菊造 仙吉」と二人の名前が並んで刻まれていました。文政7年は1824年。この年は申年で、「仲冬」は「冬の半ば」の意だそうです。
合流地点から50mほどの所で怪しい場所がありました。右側の斜面上に道跡らしきものが見えています。
上へと登ってみます。幅は狭いですが(多分、旧道建設時に削られたのでしょう。)、道跡ですね。
折れた枝が重なり合っていますが、すっかり枯れ切っているので、体重をかけてへし折り、先へと進みます。
さらに奥へ進んでみると、これは間違いなく道跡です。旧街道の続きでしょう。
道跡を辿っていきます。
折り返しです。
斜面が荒れてきて、道跡がはっきりしなくなってきました。
ここも折り返しですが、かく乱されていて道跡がよくわかりません。周囲の雰囲気を頼りに進みます。
高い石積み擁壁の下へと出てきました。旧道の真下に出たようです。
緩やかな斜面を選んで旧道へと登ります。出た場所には目印になりそうな倒木が横たわっています。
旧道で峠へと向かうならば、倒木のある方向へと進むべきですが、旧街道が進んでいた方向から考えると旧道の坂を下る方向へと進むことにします。
ここ、怪しいですね。
よじ登ってみると旧街道の続きが現れました。
倒木を乗り越えて、はっきりとした道跡を進んでいきます。
真上に石積みが見えます。あそこを道跡の続きが通っているのでしょう。
案の定、折り返しが現れました。
シダの茂みを通り抜けます。
通り抜けたところで、道跡が崩落していました。杉が育っているところから見て、相当前に崩れたようです。
地面が硬いので渡るのに少々難儀しましたが、反対側の道跡の折り返し地点まで登り返しました。
真っ直ぐな道跡を登っていきます。
正面に横方向から光が差し込んでいるのが見えます。峠の切り通しのようです。
峠の切り通しに到着です。県道から入り込んで1時間10分ほど。写真を撮らなければ、もっと速く登ってこられたでしょう。
「愛知県の峠」という本によれば、旧街道の峠には石仏があるとのこと。さっそく観察してみたいと思います。
なんかグシャグシャですね。1体はうつ伏せに倒れているし…。
本来の組み合わせの台座かわかりませんが、枝や杉葉で台座の上をきれいにして、うつ伏せになっていた石仏を起こします。持ち上げられる重さで良かったです(笑)。
あらためて観察です。これは千手観音なのかな?彫刻がきれいに残っていて、手に持つ法具もよくわかります。
引き起こした石仏。お地蔵様でしょうか。光背の右下に「寛政」と年号が読み取れますが、あとは摩滅してわかりません。「寛政」であれば1789年から1801年になります。
こちらは欠損していて、仏像なのか神像なのかわかりません。
こちらは馬頭観音。頭上に刻まれた馬頭でわかります。先ほどの石仏群とは道を挟んだ反対側に立っています。
最後は、切り通しを通り抜けた場所に立つ石碑。
真ん中には「奉納大乗妙典六十六部日本廻国」と彫られ、右列は「天下和順」、左列は「日月清明」とあります。
「奉納大乗妙典六十六部日本廻国」は、法華経を日本国内旧66か国の聖地に奉納しながら巡礼することで功徳を積む修行のことで、この巡礼を行う修行僧や巡礼者を「六十六部」と呼ぶこともあるようです。
石碑の左側面には「越後蒲原郡國正村 行者 五郎右衛門」。右側面には「文政七(以下不明。) 觀月即到信士」とありました。
行者の五郎右衛門さんが文政7年(1824年)に建てたものと推測できます。五郎右衛門さんは「六十六部」だったのでしょう。満願成ってこの峠に石碑を建てたのか見当はつきませんが、石碑を建てるのは費用を考えても容易ではないので、相応の理由はあったのでしょう。ただ、なぜ故郷の國正村ではなく、遠く離れた三河国の峠に立てたのか…。
それから「觀月即到信士」。「信士」は仏道に入信した人の称号を表す戒名ですが、五郎右衛門さん本人なのか他の者のことなのか、これも関係性を伺い知ることはできません。
事実はわからないことだらけですが、これだけ明瞭に文字情報が残っていると後で調べることができるので、いろいろな想像を掻き立てられます。その場で人の名前や出身地、年号が読み取れれば、今や人の通わぬ峠でも一人立ち尽くして考え込んでいるんですから、なかなか滑稽な話ですよね(笑)。
切り通しからの坂をほんの少し下れば、同じく峠を越えてきた旧道に合流です。左に曲がって進めば、峠の上の集落である巣山集落があります。
巣山集落もかつては峠の出入口の集落として、秋葉山と鳳来寺を行き来する多くの参詣者で賑わっていたそうです。
最後に旧道の峠。
こちらは、今回歩いたルートを地形図に書き込んだものです。赤線が旧街道になります。帰り道は青線の旧道を歩いていきました。
※地理院地図(電子国土Web)に加筆。
帰宅してから復習がてら「山さ行がねか」の巣山坂編を読み返していましたが、この旧街道についても記述がありました(サイト主は歩いていませんが。)。初めて読んだ時の内容はすっかり忘れているので、旧街道については事前情報無しのようなものでしたが、なんか答え合わせしたら回答が合っていたような気分ですねぇ…。