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Yuh_Fazioliのブログ一覧

2025年09月26日 イイね!

別の心療内科へ ここはいい

 今週、今までと異なる別の物忘れ外来に連れて行ったが、なかなかよい先生だった。


これまでの経緯
 母について、2021年から明らかに軽度認知症(MCI)が見えていたので、実家近辺では唯一の物忘れ外来に行くように勧めた。また、亡くなった父は亡くなる前に母に物忘れの傾向が強いことを懸念していて、よろしく頼まれてもいたのだ。

 ところが母は認知症の傾向である物忘れが度重なっていたにもかかわらず、父が亡くなったことでのさまざまな負担増加とストレスのせいで一時的なものだ、私は認知症ではないと受診拒否。
 早めに見つけていれば進行を遅らせることができるからと何度も勧めたが、否認するばかりでどうにもならなかった。
 結局予約を入れたのは半年以上後で、実際の受診は更にその半年後だった。

 当時私は付き添っていないので詳細はわからないが、近隣の脳神経外科の設備でMRIを取り、認知症テスト(おそらく長谷川スケール)を実施し、あとは6ヶ月毎の受診を求められただけだった。その受診時もお話しをするだけで特に何もしていなかったとのこと。その間に物忘れ症状がどんどん進行し、あらゆることへの興味関心が薄くなっていった。身なりへの関心も衰え、同じものを着たきりになったり、フロにも自分で沸かして入ろうとはしなくなった。この頃はまだ私が風呂を沸かすと入っていた。

 昨年6〜7月の入院時にやや認知症症状は進んだが、平常生活に戻ることでその前程度には回復した。また昨年2月から今年1月までの入院時にも認知症症状はやや進んだが、それほど深刻ではない様に見えた。
 ところが入院で上げ膳据え膳の生活を続けた結果、自宅に戻ってきてからは自分では食事を作らない、一切フロに入らない、掃除も洗濯もしない、一切家から出ず歩いたりからだを動かすことを拒否する状態に。希に買い物にすれ出すことはできたが、暑いだのお尻が痛いだのを言い訳に買い物に連れ出すこともかなり困難になってきた。このことで認知症が進み、本格的にやる気が失われ、無気力にただぼーっとテレビを眺めるだけの日々になってしまった。短期記憶の障害も深刻度を増していった。

 これはまずいと地域の担当ケアマネージャーさんを決めてもらい、少しでも体を動かし刺激を与えるために、デイサービスを利用しはじめた(私の希望はリハビリだったのだが)。これで週2回は確実に体を動かしたり他の人との交流機会を持ち、最小限ではあるが体動かす機会を得て、食事と服薬が確実になった。

 認知症の予防には3つの要素があることが知られている。
・頭を使うこと
・体を動かすこと
・他者コミュニケーションの機会があること
 デイサービスではこれらが最低限確保できる。

 しかし、かなり足腰が弱くなってきたことをきっかけに、本来希望していたリハビリを行えるデイケアも利用する様にした。

2つめの物忘れ外来
 ケアマネージャーさんが、別の病院でも物忘れ外来を始めたら行ってみてはどうかとの提案があり、私も時間があるときだったので連れて行ってみた。
 とってつけたような狭い部屋での診察だったが、長谷川スケールで10点台の前半であったようだ。
 医師はもはや薬で症状を遅らせられる段階ではないといい、デイケアを勧めてきた(既に通い始めていた。現状は週ににサービス1日デイケア2日)。
 また、気分の落ち込みが強い事から個人輸入して飲ませていたSSRI抗うつ薬プロザックについて、やはりやる気を出す薬は必要だからということでなんらかの処方の方針を示してもらった。最初の漫然と受診させるだけで何もやらない物忘れ外来の医師とは大違いだ(ケアマネさんもあそこは何もやらないと)。
 ところが通い続けるためには医師がいる金曜日に連れて行かねばならないが、私がつれていけない。そこで、何処かに引き継ぐことになったが、近隣で適当なところがない。かかり付け内科クリニックに依頼をすると手紙を渡すことになった。

3つめの物忘れ外来 ※今回
 内科クリニックに行って見たが介護度を上げるための意見の依頼だけしか受けてないとのこと。抗うつ薬の処方やその他の指示を受けてないとのことなので、別の物忘れ外来を探すことにした。
 車で10分強のところに内科・心療内科クリニックがあり、物忘れ外来もやっていた。

 ここは物忘れ外来が予約制で、1時間スタッフを専用に確保して一人だけを丁寧に診るという。
 連れて行って検査を受け、診察を受けた。

 もう圧倒的に認知症への対応に手慣れている。
 わかりやすい例示をしながらの認知症解説、わかりやすい現状の提示、今後の見通しとどうしたらいいかのわかりやすい説明。
(長谷川スケールで15点だったので、前回より若干改善していた。)
 2つめの物忘れ外来ではもう認知症薬の適用の段階ではないとことだったが、こちらではまだ間にあうとして認知症薬として承認されているコリンエステラーゼ阻害剤と、脳梗塞後のやる気の低下に使われる脳の血流改善薬が処方された。
 抗うつ剤プロザックについては、なくなるまではこれまでのペースで使い続けて、その後は日本で使えるSSRIの処方を検討するとのことだった(処方が確実とは言えないが。なお、プロザックは世界的に使われている副作用の少ない抗うつ薬であるが、ジェネリックも多い安価な薬品のためか日本では承認申請されていないので処方ができない。抗うつ薬は新型が次々開発されて投入されている)。

 言っていることは実は私が母に言い続けていることと本質的には同じだが、経験豊富(認知症を2500人ほど診てきたそうだ)で語りかけ方が非常にうまく、内容にもおかしなところがほとんどない。

 この医師を信頼して受診を続けたいが、木曜日のみの診察なので、常に木曜受診は難しい。次回は可能だが、以降は他の医師にも御世話になることになる。

 なお、すばらしい患者への語りかけであったが、残念ながら話した内容を母は全く覚えていない。



 とにかく大切なことは2点。
・何も変わらない生活ではなく、認知機能を使う新しいことをやっていく事。
・体をしっかり動かすこと。
 この2つを続けることで認知症検査の点数が向上しているというのだ。

 そのためにデイサービスではなくリハビリを行うデイケアを当初から希望していたし、今後介護度が上がれば利用回数が増やせるので、回数を増やしていく方針だ。
Posted at 2025/09/26 08:35:44 | コメント(0) | トラックバック(0) | 母の介護 | 日記
2025年09月25日 イイね!

嫌がらせ

 私はマンションの電子掲示板を主催してできたばかりのコミュニティ形成のきっかけを作ったり、そこから自治会を立ち上げる事に関わった、
 管理組合では副理事長を務めたり、その後修繕委員会に手をあげて参加したこともある。
 更にメタル配線ない光ファイバー敷設地域でADSLがつかえず、ISDNを使ってネット速度が64kbpsと言う時代に高速光ファイバー回線を引いてマンションにイーサネット導入するという事業を進めたりもした。


 そのマンションに後から自分の勢力を確保しようとしてきた人物がいる。
 建築業界に関わる人物で、修繕委員会の委員長となって大規模修繕を主導したりしてきた。後に管理組合理事長も務めている。

 しかし、彼にとっては自治会メンバーやコミュニティ形成の実績は邪魔であったようで、嫌がらせを度重ねてやって来ている。

 理事長の際にはその権限を使って嫌がらせをしてきたりもした(その次の理事長が理解のある人だったので嫌がらせのために頓挫していた問題は解決したのだが)。

 特にマンションやコミュニティに関することであるから、仲良く手を組んだ方がよいに決まっているのだが、よほど目障りだったらしく、その否定から彼の活動は始まっているといってもいいぐらいだった。特にいくつもの事に関わってきた自分は目の敵にされてきたようだ。

 こんなこともあった。
 大規模修繕ではその終了時に管理棟に新しくマンションの看板を掛けたのだが、その裏には委員会のメンバーがサインを入れている。
 その最後の顔合わせの会合の場所を私は聞いておらず、メールを通じて問い合わせも回答がなかった。
 他のメンバーに尋ねて時間と場所が分かったので出席したのだが、行ってみるとやや驚いた表情が一瞬見えた。

 まあ、名前を残すことから意図的にはずそうとした可能性があるなあ。

 その彼も今はみかけない。


 地元では、いろいろな人がいて、目立つ実績のある自分はあちこちで称賛される一方で嫌がらせもされてきた。
 SNSなどで正論を述べる目立つ人たち、特に女性や年少者がたびたび嫌がらせをされているのを見ると、同じことなんだなあと思ったりする。

 街で先頭に立ってやって来た人があるとき突然姿を消してしまうようなこともあるが、その中には何らかの嫌がらせを受けた人もいるのではないかと思わざるを得ない。
Posted at 2025/09/25 12:25:18 | コメント(0) | トラックバック(0) | ひとりごと | 日記
2025年09月23日 イイね!

ベイタウンの路駐問題

この記事は、せっかくの美しい街並みを台無しにする管理組合らについて書いています。

 この記事の写真を見てわかるように、幕張ベイタウンは欧州の街並みのような景観をルールとして作った住宅都市であり、その美しい景観はたびたび映画、TVドラマ、雑誌(CGやNaviなどの自動車雑誌のみならず多くのジャンル)の撮影にも使われてきた。

 しかし、一方で路上駐車にも悩まされてきた。

 と言うのも、街をデザインした時点で、来街者が気軽に来られる街をデザインしようとした結果、道路をすべて路上駐車可としてしまったのである。このため、ベイタウン内のマンションは住戸と店舗に対して100%の車庫を確保している。

 もちろんある程度の来街者用駐車場を確保しようとは考えたらしいが、欧州でよく見られるような公園の下の駐車場は埋め立て地の水位の高さから実現せず(メッセの地下駐車場は地下水に悩まされてきたし、ベイタウンのマンションも地下水の処理で苦労してきた)。

 街開き後、青空駐車する住民が賃貸街区を中心に増え始めた(特に街の端にある賃貸高層街区は目立った)。
 路上駐車可という事実がだんだん広まり、幕張新都心へ通勤する者がベイタウンで青空駐車の常習者となっていき、メッセのイベント参加者、マリンスタジアムの観戦者などが街の中に車を停めるようになった。おまけにRV・SUVブームで立体駐車場に入れられない車が増え、近隣に駐車場が確保できず路上に停めてしまったりもした(サイズも確かめず車を買うヒトは実は結構多いらしい)。
 その結果、あらゆる道が路上駐車であふれてしまった。

 路線バスが何度も切り返さないと十字路を曲がれなくなったり、路駐車両によって多くのブラインドが作られ子供の飛び出し事故が誘発されるなど危険が増し、また、本来の来街者が車を停める余地がない状態になってしまった。
 当然、消防活動も困難な状態となり、特に高層街区では深刻な問題となっていった。

 事態に頭を痛めた住民(自治会連合会交通委員会)による監視や追跡による現状把握とワイパーへの折り込み活動が行われた。
 企業庁サイドでは公共用地を駐車場に転用するなどの対策が取られ、警察サイドではバスが走るアクセス路(アスファルト舗装の道路)の取り締まりを強化したが、路上駐車不可への反対が商店会を中心にある為、抜本的な解決策が取れず、管理組合としては景観を犠牲にしてでも安全の確保をする方向に舵を取らざるを得なかった。

 根本的には街をデザインした際の理想論が現実と全くマッチングしなかったための問題である。

 何も知らない外部の人間が中傷するようなことを言う例はいくらでもあるが、解決できる問題ならとっくに解決させている。

 美しい景観を維持することで資産価値を維持している街なのだから、管理組合が喜んで資産価値を落とすようなことをするはずがないのはちょっと考えればわかることだ。

 よい解決方法があるのであれば提案してほしい。実現性があれば採用するだろう(ただし大概のアイディアは既に提出されているし、可能なものは実行されている)。




追記:
 外部の人間が撮影目的で来て、車を停められない、撮影ができないことから駐車禁止看板に腹を立てているなら、エゴに過ぎない。それを自ら景観を壊しているなどと中傷するのは単なるすり替え。
 撮影目的で街に来て金を落としていくなら商店会は喜ぶかもしれないが、撮影で路駐されても住民にとっては迷惑なだけ。
 でもまあ、路駐撮影するならせめて飲食店か何か利用してくれ。
Posted at 2025/09/23 09:54:01 | コメント(0) | トラックバック(0) | 都市開発 | 日記
2025年09月21日 イイね!

バレンタイン通りの真実(大量の追記あり)

 バレンタイン通りは千葉県千葉市にある住宅地・幕張ベイタウンのメインストリートの一つで東西方向に街を貫いている。
alt
幕張ベイタウン 景観形成基準
(案 ver1.61)より
右上から左下に抜ける道が富士見通り。

 当初の名称は富士見通りであったが、近隣のマリンスタジアムを本拠とする千葉ロッテ・マリーンズ2005年の優勝をきっかけに、同チームを優勝に導き、住民でもあったバレンタイン監督の名を取り、バレンタイン通りに改称された。
 このことは地元一丸となった熱い要望に基づいてなされたと好意的に取りあげられているが、実際は全くそうではなかった。


富士見通りの由来


 幕張ベイタウンのマスタープランを作成したシーラカンスアンドアソシエイツは、街を格子状の道路でデザインした際、あえて東西方向の道を富士山方向に向けた。このことから東西方向のメインストリートは富士見通りと名付けられた。

改称のきっかけ

 千葉ロッテマリーンズの2005年の快進撃に地元ベイタウンでも住民が熱狂していた。優勝の頃、マリーンズ応援を行う地域小団体の代表者が、スポーツ紙のインタビューで突然団体として通りの改称を市に要望する予定であることを表明。これが当時の千葉市長である鶴岡啓一の目に留まり、地元球団とJリーグチームのダブル優勝に湧く中、地図に残る業績を作りたいと通りの改称に向けた行政対応を指示した。(なお、この市長は後に収賄容疑で逮捕され辞職し、刑が確定している。)

独断による改称希望

 幕張ベイタウンに於いては住民自治の気風が強く、粘り強い合意形成によって様々な住民活動を行ってきた。例としては、住民・千葉県企業庁・千葉市の三者によって設立された中核コミュニティ施設、幕張ベイタウン・コアの計画設計過程では、住民によるニーズ調査から始まり、その内容において幾度も開かれた住民会議を行って意見集約・合意形成を行い、設計を担当する建築家・音響設計家を交えて煮詰められ、施設が実現した経緯が知られる。同様に、開かれた会議を行い合意形成が図られることがこの街における基本ルールとなっていた。

 しかし、通りの改称を表明した者は地域において一切通りの改称を訴えたことがなく、代表を務める団体の中でも話し合われたことがなかったことが分かっている。一方で千葉市路政課と接触していたことが分かっており、知り合いの整理記者を通じたインタビューの設定含め、個人的に計画的を進めていたらしい。

さらなる合意形成の軽視

 千葉市ではそれまで希望がでていた他地域の名称変更が長く放置されていたが、市長の指示をきっかけに千葉市道路愛称名付与要綱を制定し、通りの名称を変更するしくみをととのえた。ところが、要望主体として地元自治会や商店会を設定し、その要望があれば愛称付与が可能であるとするルーズなものであった。

 この要綱に基づき、千葉市は幕張ベイタウン自治会連合会に要望の有無を問い合わせたが、現在合意形成どころか問題提起すら一切ないことは要望できないと保留した。一方、商店会長は商店の活性化につながるとして商店会内での賛成を取り付け、要望を伝える手はずを整えた。

 市の新聞記者へのリークによって、「住民の希望によって商店会から通りの改称要望が出される」旨の記事が書かれ事態が明るみにでた。地元では寝耳に水の話であったことから騒然となった。
(某全国紙千葉支局のこの記者は、市からのリークを「いい話」として、当事者に取材もせず記事を書いているが、その点について「取材方法に問題はない」と言ってのけている)
 その後も他社から球団もバレンタイン通りの名称を使うことを快諾していると伝える記事が出され、住民が知らぬ間に市によって改称が既成事実化されようとしていた。
 地元で混乱が起き始めた頃から当初要望を市に出すとしていた者は全く表舞台に現れなくなったが、事態は彼の望んでいた方向に転がっていった。

 自治会連合会ではその一員である商店会長から事情を聞くなどしたが、商店会長は市からの要請で要望を出した。市には逆らえない。商店会の機関決定に介入するのかと頑なな態度を取るばかりで、街での合意形成など全く気にかける素振りもなかった。このことで更に問題は大きくなった。
 住民間では激しい賛否の意見が交わされたが、反対するものは合意形成がないことを問題視していた一方で、賛成するものの中には合意形成を求めるものを執拗に脅したり、商店会長に事情を聞く場に地域外のマリーンズファンを動員して数で圧倒し改称をごり押ししようとする動きすら見られた。
 商店会側の発案ではなく市側の働きかけによる改称要望提出であることを知った賛成者らは驚きを隠さなかったが、後にバレンタイン解任に際してマリンスタジアムで球団批判を繰り返し、更に球場で子供に見せられない言動を行う応援団に苦言を呈した選手への応援拒否どころか凡退を喜ぶラッパを吹くなどして一般ファンの怒りを買い、退場を求められたほどのバレンタイン崇拝の集団故、その名を通りに冠することへのごり押しの姿勢は変わることがなかった(のちにこの私設応援団M.V.P.は球場出入り禁止を申し渡され解散している。その一員であった住民も街から消えている)。
注:M.V.P.の不祥事の概要はWikipedia マリーンズファンのページの「不祥事」にまとめられている

連合会会長の市への丸投げ

 連合会会長は当初これまで通りの合意形成の道を探ったが、ある新聞社によってあたかも自分の知らないところで勝手なことをされて怒る旧来の地域ボスのような記事を書かれたこと、また巨大企業の球団であり地域との連携を求めていることなどを考慮したのか、次第に球団に近付く態度を取り始め、地域で紛糾したことから千葉市から地域での意見集約を求められたにもかかわらず、市長の命で改称を推進する側の市に「判断を任せる」と伝え、即改称が決定した。

街の変化と禍根

 それまで開かれた場で合意形成を行うことで進められてきた住民自治が大きく傷つくこととなった。ベイタウンで利益を受ける層を中心に、企業の力を背景にする(球団との関わりを強くする)事で街起こしをすればよいという雰囲気が広がった一方、これまで手探りで合意形成をしながら街づくりに関わってきた層においては無力感から虚脱が生じ、住民活動が低迷することとなった。


市側の問題の要点

 改称を急ぐ市長に路政課が答える形で急ごしらえで改称ルール作りが進んだが、バレンタイン通りへの改称を実現することを目的に、地元の要望があれば(検討の上)改称を認めるという改称ありきのルールとなっており、地域の意見集約という視点が全く欠けていた。このため、地域での自発的な要望ではなかった幕張ベイタウンの改称問題に於いて、地元の意見調整を全く経ないまま(地域の団体の代表を名乗る者による当初の要望が個人によるものでしかなかったことを知らなかった可能性があるが)市側が要望を異なる2つの地域団体に求め、どちらかが要望を出せば即OK、地域を代表する自治会連合会が意見集約をしていないからと保留しても、その自治会連合会の構成メンバーである商店会が要望を出せば即OKという進め方をしたため、地域が混乱した。

 改称ありきの市長の肝いり事案であったことがこのような混乱を引き起こしたと言える。



個人的な想い
 この件には自分もかなり関わっていて、脅しや嫌がらせを受けた当人でもある。
 市の動きに関する情報は、当時の市議会議員の協力によって得ている。
 もう20年も昔の話だ。
 ただ、一部の住人らが、商店会長が千葉市の要請で要望を提出したことをあたかも住民の多くの要望の結果であるかのように装ったり、情報の断片を使って反対派は「俺は聞いていなかった、許せない」と言っているかのように事実をねじ曲げたり、反対派も情報をつかめていないなどと断定した情報を発信しこれは今も残されている。尻馬に乗るだけの賛成派のデマばかりがネットに残り、身を粉にして活動してきた合意形成を求める者が中傷され、裏のとれている真実の情報のほとんどは住民用掲示板の閉鎖と共に消えてしまっている。現在、このブログが唯一だろう。
 また、合意形成の必要性を説く者に対して執拗に嫌がらせを行っていた。当時地域の活動をするものの中で年少でありながら大きな実績を残していた自分が彼らに妬まれていたのは確実で、叩く対象にされやすかった。

 それまで開かれた住民自治が行われていたのに、表面的にはよいことばかり言っていた連中が、エゴが絡むとここまでひどいことを行うのかと本当にショックでならなかった。もっとも、言動不一致と手前勝手な行動、圧力でごり押ししようという行動は以前から見られ、それが先鋭化したの過ぎなかったのだが。
 ここに書くのが憚られるのでこれ以上はやめておくが、地域で多くの活動をしてきたが、多くの者が地域という手をあげれば簡単に長になれる場を利用してエゴ丸出しの行動を採るのを見てきた。本当に献身的に地域活動を行っている人たちがいる一方で、地域活動にかこつけて個人的利益を目論む人間がそれなりにいた。そういう者が地域を混乱させたり、街の中心に計画されていたコミュニティの中核施設の計画を失うという取り返しの付かない損失を引き起こしたりした。
 ボランティアをする人に対して「陰で利益を得ている」と断定したり、邪魔なものを陰で脅すなどを繰り返すものもまた多かった。
 自分はこの件以外にもいろいろな追い打ちを受け、この街で経験した人生で最高の山から一転最低の谷に転落し、今もそこから這い上がれずに苦しんでいる。


追記:
 マリーンズの優勝という地元としても喜ばしい事態が事件へと発展したのは、地元小団体の代表であったS氏による独断専行が行われたためである。
 どの時点からかは確認できていないが、S氏は単独で千葉市路政課と話し合いをしていたことが分かっている。また、その事実がないのに自分の団体として要望を提出するとした。
 おそらく、路政課との事前の話し合いの中で、個人の要望は受け付けられず、地元団体としての要望が最低線だという話を聞かされていたのだろう。しかし当時、存在しなくなった施設の名称が冠されている通りの改称要望などが2件あり放置されていたので、改称はなかなか難しい状況にあった。
 一方、自身の地域団体で話し合いをしても、いつ結論が出るかどうか。
 そこで、打開の一策として野球を通じて知りあっていた地元某スポーツ紙整理記者にマリーンズ優勝に絡んで地元への取材を働きかけ、スポーツ紙の地元の様子の取材での宣言にかけたのであろう。
 優勝直前には全国紙やスポーツ紙の記者が球場のファンに取材するなどする様子がよく見られ(自分も取材を受けている)、地元の取材も当然あった。地元で応援をしている団体に取材をするのも不自然ではなかった。

 そこで、全国に向かって、単なる個人の想いでしかなかった通りの一つに「バレンタイン」の名を冠することを、大きく盛って自分の団体として要望することを宣言した。つまり、あらゆる事を吹っ飛ばし言ったモン勝ちを目指したわけだ。

 ジェフ市原とマリーンズのダブル優勝で有頂天になっていた市長は、地図に自分の実績を残せると喜び、路政課に要望実現の指示をしたそうだ(市議談)。
 しかし、地元ならどんな団体でも要望を出せるというのはさすがに無理がある。
 通りに愛称がある多くのケースでは道沿いに商店街が発達するケースであるから、商店会の要望のケースと、街に関することであるから地域自治会の要望のケースの2通りを想定したのだろう。どちらも地域を代表する組織であるから妥当とも考えたはずだ。
 S氏の地域団体は当然要望主体要件から外れる。

 そこで市は極めて奇妙な話であるが、要望主体となり得るベイタウン自治会連合会の会長の元を訪れた。しかし、自治会連合会としては議題にも上がっていないことから商店会会長の元へと足を運び、寝耳に水の話であるが市からの要請であることや商店会の活性化につながるだろう事から要望したいとしたことで、要望主体を確保したのだ。
 この時点で完全に市長の肝いりで市が進める事業に変貌していたのである。

 かくして、地元では誰も全く考えてもいなかった、誰かが記者に喋っただけの夢の話が、突然商店会の要望によって市が愛称制定要綱を作りベイタウン通りの愛称が制定が行われるという全国紙の記事となり、地元は大混乱となったのである。

 事情を知らぬにわかのファンは「いい話だね」ぐらいの反応であった。
 一方で過激な賛成派が跋扈した。
 それまで何も知らず活動もしていなかった商店会とつながるWEB活動が盛んなバンド団体(物品販売など商行為もあり)は、商店会と市の暴走の尻馬に乗って、合意形成を求める者をを中傷し始めた。また、地元にもいた、素行が悪いことで知られていたロッテファン集団M.V.P.の介入による会議ジャックや恐喝行為などが行われ、かなり騒然とした状態になった。
 一時的な熱気の中でしか事が進まないと賛成派は考えていたので、商店会が自主的に要望したものでないなどの一切の事情は無視して、バレンタインの名を地図に刻むために強引に短期決戦に持ちこむことしか考えていなかったようだ。
 当然一部のファンによる一時的な熱気を半永久的に街の中に刻むことの軽薄さを気にするものも多くいた。

 この混乱の中、S氏は一切表舞台に出ることがなかった。
 市も、S氏からの事前の申し入れに地元がある程度固まっているものと思っていた様子が有り大混乱となるとは全くの予想外だったようで、合意形成が行われていないことで頭を痛め、商店会からの要望を一時保留とし、商店会も一員である自治会連合会に意見集約を求めたのである。
 連合会会長は当初こそ強硬であったが日和り始め、要望を求めても求めなくても街に分断が起こり責任を問われる事を怖れたか、街区代表に簡単に様子を聞くことはしたが、明確な住民への意見調査をせず、看板を設置する場合の注意点などを付けて結論を市に丸投げして逃げてしまったのである。市が事業を進めていた以上即決定が分かっていたにも関わらずにだ。この時点で千葉市や反対派を敵に回さず球団との関係を利用したいとの思惑を固めつつあったのかも知れない。

 この件の後、会長はどんどん球団との関係を深めようとし、連合会が関わるイベントに積極的に球団のチアリーディングチームや選手を出演させ始めた。
 その後、連合会関係者やシニアクラブメンバーなどをバックに市議会議員選挙に挑戦しているが、全く票が集められず落選している。

Posted at 2025/09/21 20:36:07 | コメント(0) | トラックバック(0) | 都市開発 | 日記
2025年09月21日 イイね!

幕張新都心に早稲田大学が来なかったわけ

 私の居住地である千葉市の幕張新都心は、昭和40年代に埋め立てられた湾岸地区のうち、幕張エリア(海浜ニュータウン幕張A地区)が住宅地から商業地区を含む副都心としての開発に変更されていった中で造成された住宅地区である。

 幕張新都心は商業地区と住宅地区の他に、文教地区が設定され、県立幕張三校を皮切りに、放送大学などいくつかの学校が開校・開学していった。

1980 幕張三校③
1981 衛生短大②
1983 渋谷幕張高等学校・昭和学院秀英高等学校①
1984 若葉看護②
1985 放送大学②
1987 神田外語大①
1996 幕張総合高校③
(丸文字の数字はそれぞれ若葉地区の丁目に対応)

 この文教地区に、早稲田大学を誘致していたという話を聞いていたが、結局それは実現せず、バブル崩壊と都心回帰志向、少子化などの条件もあり、文教地区としての整備が困難となり、住宅用地への転換を図ったのだ。

alt

 それが現在の若葉住宅地区で、次々とタワマンが建ち、私が住む幕張ベイタウンの高さ規制を超える高さであるため、京葉線の線路を挟んで幕張ベイタウンを見下ろす状況になっている。足下には幕張ベイタウンのテナント群では実現できない商業施設があり、併せて整備されている商業区画にはスーパーや外食店、100均なども入っている為、ベイタウン住民も利用している。
 だが、この地区に限らずタワマンは将来の修繕が充分行い続けられるかに疑問があり、やがてスラム化する怖れもある。その点では、中層を中心とし、景観でブランドを形成している幕張ベイタウンとは異なる。

***

 話を戻し早稲田大学の誘致だが、失敗した跡地に渋谷幕張高等学校と昭和秀英高等学校(共に若葉1丁目)ができたという説が一部では唱えられていた。この説は主に同校出身者の間で語り継がれている様子がある。

 一方、住宅地に転用された若葉三丁目が早稲田大学を誘致していた場所だとベイタウン住民は聞いている。上の地図が掲載されている日経の記事にもそのような記述がある。

 誘致失敗前からある幕張三校が同じ地区の別区画に幕張総合高校として統合されたためその跡地がアジア経済研究所、インターナショナルスクールになり、同じ区画の南側は何故か学校でも研究施設でもないちょっと経路の違うJA共済研修施設(共済の事業内容に関する研修をしているらしい)が建っている。バブル崩壊後購入希望が少ない中、手をあげてもらえただけでもありがたかったのだろう。研究施設らしくアジ研図書館は一般に公開されているがJA施設は一般と接点がない。
 私も、これら以外の若葉三丁目の空き地が早稲田大学誘致を目指していた土地と考えていた。

***

 現在ネットにある資料を紐解くと、いくらかのことが分かってくる。

① 神田外語大学の記事 

 この記事中では元々幕張の地に神田外語学院が外国語大学の開設を目指してたが、千葉県が早稲田大学を誘致していたため相手にされず、誘致失敗後の83年に購入に至った経緯が書かれている。
 この記事では若葉1丁目に誘致していたかのような書かれようになっていて、81年に渋谷教育学園幕張高等学校が若葉1丁目の高等学校用地の募集に応じたことが知られており、それ以前から1丁目には進学校を誘致する計画があったと考えられるので、この地が早稲田大誘致の対象だったとは考えにくい。
 また、神田外語大学の敷地(約138,000 m2)は渋幕秀英をあわせた程度の大きさであるが、早稲田大学の拡張に使うにしてはやや狭いとも考えられる。
 参考までに、早稲田大学の所沢キャンパスは367,634 m2である。

② 早稲田側の動きに関する論文

存在しない大学史
-早稲田大学における幻の学部構想-
山 本 一 生
 これによれば、早稲田大学村井総長時代にキャンパス拡張が計画された。候補地はいくつかあったが最有力として海浜ニュータウン幕張A地区(現在の幕張新都心)が想定され、海洋学部と生涯学習関連施設、医学部関係施設を展開する計画が立てられていたらしい。
 しかし、理事会を経た成案ではなかったため、村井が2期目を終えた後に計画が大幅に書き換えられ、80年11月には所沢に新たなキャンパスを作る計画が発表された。この中で本庄に予定していた農学部と幕張に予定していた海洋学部の計画は消え、これでそれまで進行していた千葉県の早稲田誘致が正式に失敗したわけである。計画の大幅変更に異を唱えようとも相手にされずにいた村井は、所沢の決定を報道で知ったという。

 幕張ではなく所沢になった理由には「都の西北」であるからという冗談みたいなものも聞かれるが、関係者の本音としても一段下にみている東京の東側に行くぐらいなら既に関係がある埼玉で都の西北の所沢の方がいいと言うことはあったかもしれない。

 実質の理由としては、西武グループから所有の土地の提供を申し出られたためらしい。永続的に鉄道収入が期待できる西武グループとしてのメリットは大きなものがあるのだろう。村井以降の理事会が計画を大幅変更し突如それまでになかった所沢に決めているので、何らかの裏の動きが理事会と西武グループの間にあったのは想像に難くない。それは県企業庁+JR東日本からは得えられないメリットを含んでいたかも知れない。こうして所沢での反対運動を乗り越えてまで、積極的誘致をしていた幕張を蹴ったのである。

 同論文の中では、幕張地区のその後として、海洋学部候補地に渋幕・秀英が開校したと書かれている。神田外語大学が候補地に建てられたとは書かれておらず、別の扱いとなっている。これは神田外語大学側の記述と整合しない。
 わざわざ渋幕開校を取りあげたのは渋幕はその後シンガポール校を設立し2002年に早稲田の係属校になったことから、早稲田と幕張つながりのネタとして取りあげたに過ぎないようだ。このため、私学2校の土地=海洋学部候補地と捉えるのは早計だろう。

 そもそも、著者は千葉県企業庁の資料は一切見ておらず、早稲田側の資料のみ参照している。2019年に書かれた論文であるのに、80年の幕張三校、95年の幕張総合高校、99年のアジア経済研究所、09年の幕張インターナショナルスクールの存在には一切触れていない。おそらく若葉3丁目の存在を知らなかったのだろう。文教地区で誘致できる空き地は1丁目だけと思いこんでいた可能性がある。


③ 誘致は若葉のどこだったのか

 若葉2丁目は衛生短大、若葉看護、放送大学が誘致失敗に先行しているので候補ではない。
 残る1丁目と3丁目だが、正式失敗の80年の翌年に県は2校分の敷地を私立高等学校誘致をして渋幕(81年4月)・秀英が応じているが、開校が83年である。たったの2年で設計・建築を終え学校としての体面をととのえ開校することができるのだろうか。ヒラの専任教員の募集に1年はかかる。それ以前に学校としてのシステム作りをスタートしていないとならない。実務だけなら開校発表から2年で開校できるらしいが、それは事前の準備あってこそだ。水面下では81年より以前に計画は始まっていたものと考えた方が自然だ。

 一方、県は海浜幕張駅前を通るメインストリート、国際大通り沿いから整備を進めていた様子が有り、先行して始まった文教地区では前述の通り若葉2丁目の衛生短大等から開学・開校が進んでいる。放送大学の予算通過は78年なので、2丁目は明確に早稲田誘致とは別に進んでいたのは間違いない。それに並行する形で早稲田大誘致も1丁目から進めていた可能性が充分あり、既に私立高校の計画を進めていたなら神田外語の地が海洋学部の誘致地であった可能性は否定できない。
 しかし、県立の幕張高校を公園をはさんだ3丁目に既に開校しており、こちらには広大な土地があったため、県としてはどちらでもよかったはずだ。
 幕張に医学部設置と関連して病院を作り、生涯学習施設をととのえる計画であったので、1丁目と3丁目のどちらかと言うことであれば3丁目であった可能性が高くなる。
 両方にまたがる可能性もあるが、一つにまとめるのが普通だろう。

 これ以上の資料がないのではっきりしないのだが、おそらく70年代から始まっていた早稲田誘致を最優先し、場所については若葉の何処かというざっくりしたものであったのかも知れない。
 神田外語が購入希望を出しても認めなかったのは、早稲田の件が決着していなかったためらしいが、渋幕・秀英開校の83年にずれ込んだのは、誘致失敗後に即1丁目の計画を大幅変更したにしてはずいぶん遅い。このことからも、私立高校2校の計画は事前に進んでいたのではないかと考えられ、早稲田のためにリザーブしていたいくつかの土地の売却先については改めて計画を練り直したのではないかと考えられる。早稲田決定前に神田外語に好きな土地を取らせるわけには行かなかっただろうことは想像に難くない。

 なお、渋谷教育学園の本家に当たる学校法人は、規模は大きいが上位進学校を擁するものではない。昭和学院も歴史はあるが千葉の中堅に過ぎない。
有力な進学校が千葉市周辺にはあまりない中、国際都市を目指す幕張の地に国際性のある確実な進学校を作りたかったはずだ。県学事課と密接な昭和学院はともかく、経営実態のない他地域の学校法人の人間が手をあげて即決定にはなるとも思えない。80年以前から私立高校を設置する計画を進めていたとしか思えない。

 現神田外語の土地が海洋学部候補地だったとして、誘致失敗後公式に募集を始めたかもしれないが、以前から手をあげていた法人に売却するまでに2〜3年かかっているのはいかにも遅い。
 専門学校の神田外語学院が外語大学を作るという一種の冒険に、県はすぐに応じかねたため時間がかかった可能性はある。他の候補をみてからと考えた可能性は否定できない。
 しかし、高校設置にも慎重であるはずであるので、高校は事前に話が進んでいたし、神田外語の土地が海洋学部誘致対象で、失敗後方向転換したと考えた方が不自然ではない。

 
 千葉県の資料を探してみないと分からないのではあるが、その後の記事や状況から考えると、早稲田を誘致していたのは若葉1丁目と3丁目のどこかであり、具体的にはここと決められる状況ではなかったのではないかと思われる。
 と言うのは、住宅地区に転用されるにあたり早稲田誘致がうまく行かなかったことが取りあげられ、日経の記事にすらなっていることで、3丁目も候補だったことが疑われるのだ。
 もし、明確に場所が決まっていたのであれば、県企業庁は神田外語にもっと早く売っていたはずなのだ。早稲田誘致がかなり有力になっていたものの、具体的な段階になく、規模も決まらない中で、切り売りができない状態にあったのだろうと推察される。

 そんなことで、私は、既に計画が進んでいた若葉2丁目以外の文教地区で、県立幕張三校(幕張東・北・西)と私立2校分の用地以外の土地が対象になっていたのだろうと考えている。


 
Posted at 2025/09/21 16:32:09 | コメント(0) | トラックバック(0) | 都市開発 | 日記

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