サウンドピュアディオの40年史とその前の12年を振り返るこのシリーズも、やっと前回で宇部市厚南区中野開作に山口県初のカーオーディオ専門店を開業する所まで行きました。
現在は美容院が出来ているこの場所も、当時はもう少し建物が大きかったとはいえ、店内にデモカーを置くと随分と狭いお店でした。
ただ最初は効率が良かった店内デモカーのパルサーも、後々お客様が増えて来ると邪魔になって来て、2年ぐらいで県外のお店で欲しいという所が出て来たので、そのお店に売却とまでは行きませんが、運送費を出してもらったら差し上げますという事で運ばれて行きました。
アイデア自体は良かったのですが、資金の少ないのを展示品を減らすという意味で使っていた物も、その後収益が上がる様になって、取り扱い銘柄が増えて行くことで場所が狭くなって来ました。
オープンした時に資金が少なかったのに、徐々に展示品が増やせたのには訳があって、商品が置けない分ほどメーカーの新製品の発表会に行って物を見て触って、それでカタログでお客様に説明しないといけなかったので、まず誰よりも一番先に会場に行って、次に一番前の席に座って、一番真剣に聞くという、3つの一番を心がけていました。
メーカーの説明が終わって現品が触れる時は、隅から隅まで見て、取説無しでもスイスイと動かせる様に覚えて帰りました。
ちなみに当時山口県で地主のボンボンでカーオーディオのビジネスをしている人がいて、その人は遅刻して来て、一番後ろに座って、居眠りをしていたので、それがたった10年で逆転してしまい、最後にはそういう会社が2社無くなったので、いくら祖父の代からの財産があっても、やる気が無ければ収益が上がらず、祖父の代の財産を切り売りするしかなく、やる気という形の無いものの怖さを知りました。
真っ先に会場に行って、一番前の席に座って、一番真剣に話を聞くという習慣は1年ぐらいで直ぐに効果が表れて、それがメーカーの偉い人の目に止まって、「あの若者が誰だ?」という話になって、「宇部市のオーディオボックスという所で、とてもうちの新製品を置けるお金はありません。」と言われていたそうです。
そこであるメーカーの偉い人が、「あの若者の店にうちの商品を置いてもらいなさい。」という話になって、それだけでなくて、「売れても直ぐに付ける商品が無いといけないから、在庫も貸し出しなさい。」という話になって、それで展示品や在庫がメーカーから届いたので、「そんなメーカーに恥をかかす訳にはいかない!」と頑張っていたら、もう2社が同じ様に貸し出しで商品を置かせて欲しいと言って来て、置く商品が無いから店内デモカーで場所を使っていた事が出来なくなって、メーカーの紹介で県外まで取付方を教えに行っていたお店にあげる事にしました。
ただいつまでもメーカーから商品をお借りしている訳にも行かず、そのうちに収益が上がって来ると銀行も融資をしてくれて、全て自分で買い取って商売が出来る様になりました。
ここまでを振り返ると自分は人の話を良く聞くという習慣があって、成功者の話には必ず耳を傾けて、その聞く姿勢が良いから他の人まではなかなか教えない様な話を聞く事が出来て、流行に乗って勢いがあったお店も5年ぐらいで潰れる所が多いのに、40年もやって来れたのだと思います。
今思い起こすと聞く力というか、聞く姿勢は自分が生まれ育ったとんでもない山奥で、なかなか人に合う事も話を聞く事もなく、人から話が聞けるという事が特別な事だという意識が知らないうちに付いていたのと・・
こんな山の麓の家を探せば20軒ぐらいしかない場所で、矢印の空き地に小学校があって、ここが複式授業といって、一人の先生が1年と2年の授業をするという、黒板が半分半分で1学年に半分の時間しか先生が話してくれないので、必死で聞いていないと授業に付いていけなくなるという環境で育ったからかも知れません。
1982年のスタートから順調に進んでいる様に思えたカーオーディオ専門店オーディオボックスも、オープンから1年ちょっとで危機的なピンチを迎える事になりました。
それは自分が趣味で行っていた無線の事で、当時は取付作業が忙しくて無線の交信をする時間はありませんでしたが、短波で海外の音楽放送を聞くために大きなアンテナを付けていて、まだインターネットなど全く無い時代ですから、海外でヒットした楽曲1か月遅れぐらいで日本で流行って来て、短波放送では新曲で出たとたんに知る事が出来て、曲のテンポが変わったり、途中で一瞬ブレイクして止まったりする楽曲を事前に覚えておいて、ディスコに行って輸入盤で初めてダンスフロアーで流れたとたんにリズムに合わせて踊れて、例えばクール&ザ・ギャングのミス・レッドなどは「こんな緩い曲では踊れない・・」みたいに誰もダンスフロアーに出ていないのに、一人で踊っていて、途中で急にアップテンポに変わってそれに合わせて踊っていると、「何であいつこの曲のパターンを覚えているの?」的に注目されるのが嬉しくて短波放送を聴きまくっていました。
ただ大きな無線のアンテナを上げている事で、違法無線をやっている人が集まって来て、「無線機の修理をして欲しい。」とか、「この無線機を取り寄せて欲しい。」と集まる様になりました。
ただそこは違法な無線な訳で、当時は日本では使えないアメリカ規格の無線機を使うのは法律違反だが、販売するのは取り締まる法律が無かったので、違反と知りながらも摘発が無いので扱う店もありました。
儲かるならやればいいと思う方もあるかも知れせんが、違法な無線は当時反社会組織の資金源になっていて、アメリカ規格の周波数を勝手に〇〇会はこのチャンネルを使っていいとかいう許可を出して、月に一人から1万円を徴収するなどという話があって、かなりの資金源になっていた様です。
そこにもって来て某党の国会議員が違法な組織の会合と知りながら、「あなた方は我々が守りますから、我々に投票して下さい!」と言っていたらしく、まるで〇〇教会の様に党が悪い事をしても捕まらない様に守るという、真っ当に難しい試験に合格して免許を取った自分としては、これだけ苦労して取った資格が無線というだけで、『柄の悪い人の趣味』にひとくくりにさせて迷惑していました。
ある日そういう組織の人がアメ車2台で乗り付けて、「アメリア規格の無線機を扱ってもらえませんか?」、「儲かる様にしますから。」と言って来ていて、そこにオーディオメーカーの人がたまたまやって来て、「あの様な人が頻繁に出入りする様なら取引を見直さないといけません。」と言われたので、無線の道具は全て売却して、「無線の事は一切しません!」と、趣味でも無線関係の事とは全く縁を切っていました。
それから37年間無線という物から全く縁を切っていて、知らない間に法律が変わって、違法な無線機は使っても販売して取り締まりの対象となって、世の中から違法な無線はゼロとは言いませんが激減していました。
今年の9月に山口県でDEENさんのコンサートがあった時に、一人だけ無線の仲間の人が一緒だったのですが、池森さんに「ここ方は僕の無線の仲間で・・」と紹介したら「えー、無線の?」と、無線=ガラの悪い人というイメージがあったのでしょう。
ここで話は80年代から現在に移りますが、この80年代に違法な無線の組織をある党が票田にする事で日本の優れた技術者の卵を潰してしまったという事実を最近自分は強く感じています。
それは小学生や中学生になると男の子は電波に興味を持って来て、27メガヘルツの出力0・5ワットのトランシーバーを買って友達と交信して遊んで、そのうち他の校区の学生とも交信するともっと遠くに電波を飛ばしたくなって、それでアマチュア無線の国家試験を受ける様になります。
ところがアメリカ規格の27メガの無線機を日本で使い、更にそこに500ワットだ1000ワットだという出力ブースターを付けると、0・5ワットの電波など簡単に消されてしまいます。
そこである一定の時期にそういう実験をしている学生が極端にいないので、優れた技術者の卵が潰されたという事になります。
最近〇〇教会をある党が守ったり利用したりしているという報道がされていますが、違法な無線はある時期票田として守られていたので、自分の波長をピッタリと合わせるとか、インピーダンスをピッタリ合わせるという感覚が分からない人が多く、自分の今の技術を継承するのに物凄く困っています。
そのため今電波の伝搬実験を行って、学生さんに少しでも興味を持ってもらおうと努力していますが、1980年代は無線の世界から遠ざかっておかなかったら今日のサウンドピュアディオは無かったかも知れません。